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七月、又はプール開き
一
誰も信じやしないだろうが、ミュータントパワーは身体能力である。持久的能力や筋力に並ぶ力である。走ることも走り続けることも、暗示をかけることもかけ続けることも、何も変わらない行為である。私にとっては。かつてアルファコンプレックスで生まれ、そして死んだときから、ずっと。
この時代この地上都市よりはるかな未来の地下都市で、死んだ、否、〈致命的なできごと〉に襲われたことがある。数えること六度。そのたびに〈クローン〉を用いて生き永らえてきた。地下都市アルファコンプレックスの市民には〈バックアップ〉が存在するのだ。常に活動を〈再開〉できるように、常に〈最新の状態〉を保存されている。運営者たるザ・コンピューターの慈悲がもたらした完全な制度である。
〈よって私もこの記憶について差し挟むべき疑問を持たない〉。かつて〈五体〉のクローンと共に出生した。
〈しかし他者はそうではないのだ〉と確かめるには、この地上都市の赤子として覚醒してからの十四、五年はあまりに長く、短かった。記憶を引き継ぎ、ミュータントパワーをも備え、現に活動を再開した——。はたして私だけだろうか。
否。誰もが私の密告者だ。
したがって、梅雨が明けようとも、鮮烈な日差しに襲われようとも、ミュータントパワーの発動は愚行である。せめて人目につかない廃墟などで誰もが余裕を失っているべきで、誰もが知性を失っているべきで、しかしながら今現在の旧校舎は、夏服がその場しのぎだろうとも、そよ風が熱風に変わろうとも、とうとうプール開きを迎えようとも、まったく一切そのような者を抱えてはいないのだった。
嫌な朝ではあったけれど。クラスの大半は、その取り返しのつかない事実を覆そうと躍起になっていた。違うものといえば、たとえば隣の席のクラスメイトの第一声。
「鷹岡が辞めたんだってね」
挨拶の次にはこれだった。プールとは一切関係ない、とうにE組には昔の話、昨晩のうちに烏間先生から一斉送信された連絡だ。とはいえ私は親切にも答えてやった。
「最初の授業でクビになったよ」
昨日、一昨日のただの二日間、鷹岡明なる体育教師が存在した。暗殺素人のための暗殺訓練のために、防衛省から訪れたのだ。同じく本来は防衛省の職員である烏間教官に、より重要な仕事に専念させるために。烏間教官の訓練もとい授業は好評で、生徒との関係も決して悪くはなかったけれど、人類の存続に代えられる事実ではなかっただろう。三年E組の暗殺教室はおそらくまるで期待されていない。
ところが〈鷹岡先生〉の寿命は授業時間に直して一時間もなかった。
赤羽は白々しくも質問してくれた。「大丈夫だった」
この私は気にせず回答してくれる。「大丈夫だったよ。烏間先生と渚くんのおかげ」
鷹岡は暴力教師だった。隣の席のクラスメイトは、転校生暗殺者の到来からしばらく、なぜか遅刻欠席だけはしなくなったのだが、昨日は久々に欠席を決め込んだ。新しい教官のすばらしい人格とそれによる訓練模様とを、前日から肌で感じてしまって高熱でも記録したのだろう。だからと言って私の説明に、目を見張って反応することもないだろうに。彼は僅か斜めへ頭を動かした。
疑問が口をついて出た。「誰にも聞かなかったんだ」
赤羽は別の方向を気にかけながらも答えた。「教室に来ればわかるでしょ」
「律が話しそうなものだけど」
「律、ね」
そこで赤羽がこちらに視線をくれた。「どうしたの」と尋ねてみるも、彼は「なんでも」とかわして、さらに私の手元を見た。机の上の、会話のために閉じた本が一冊、書店のブックカバーに覆われている。彼は勝手にとり上げるような真似をしなかったが、そうするまでもなく分類を推測してみせた。
「ミステリ、SF——」
「——よく見てるね」
「ごめん、さっき見えてさ」
「気にしないで。隠してたわけじゃないし、最近はSF小説ばかりだったし」
「好きなんだ」
「ちょっと前に読んだ小説がおもしろくって、つい」
「SFはおもしろいよね。俺も映画は割とチェックしてる」
「たしかに渚くんとよく話してるよね」
「まあね」と返事がある頃には、もう気はそれていたか。赤羽は「渚くん」の名前を出して、話題を一つ前に戻した。
私はまた親切にも答えてやる。「そうだね、これぞ暗殺って感じだった」
——鷹岡は暴力教師だった。
烏間先生とはまるで異なる過重の準備運動に加え、体罰をいとわない、現代の中学生には不相応な教育理念を掲げていた。生徒も先生も当然反発するが、鷹岡も当然反発を知っている。
鷹岡は、抵抗する生徒には体罰を、先生には相応の建前を並べ、一度は全員を〈説き伏せた〉。けれども忍耐には限界がある。だから鷹岡も二度目は自身の進退を懸けた。すなわち烏間先生の進退を懸けて、そして二人の教育の正当性を証明するために、〈対戦〉を申し出たのだ。
一対一の勝負の相手は当然に鷹岡だ。一方であくまで〈教育〉の証明だとして、烏間先生はその成果——生徒——の供出を余儀なくされた。かわりに鷹岡も言った。俺は素手だが、生徒には武器を使わせてやる。生徒たちは暗殺者であるからして、当然に人間を殺害できる凶器を使わせてやる。寸止めでも当たったことにしてやるよと、暴力教師は笑って告げた。
鷹岡は当然反応を知っていた。おそらくは常套手段だった。彼は素手で凶器を相手どる訓練を施す立場にあって、一方たとえアルファコンプレックス市民であっても——たとえ処刑目的であっても——殺害に足る武器の所持を躊躇し、あまつさえ扱いきれない新人はごまんといる。
それでも勝者は渚くんだった。
「渚くんが選ばれたときは驚いたけど、選んだ烏間先生も結果には驚いたみたいだったな」
これは赤羽には教えてやらないけれど、一応、烏間先生は熟慮のすえ、とはいえ長考することなく半ば確信の下で渚くんを選んだ。渚くんはクラスで最も小柄な部類で、併せて身体能力も低い。近接戦闘の訓練でも目立ったところはまるでなかった。戦闘という領域において一目で見下せる弱小者。だから烏間先生は渚くんを選んだ。まさかそれほどまでとは疑うこともしていなかっただろうが。
渚くんの才能が。まさか元精鋭部隊の首筋に峰を当て、それから何事もなかったかのようにクラスに溶け込んで戻れるまでだとは。
それとも赤羽なら違和感の一つでも抱いていただろうか。だから友人関係を築いておいて〈自然消滅的に遠ざかった〉のだろうか。——赤羽にもある種の才能が備わっている。今朝ずっと気にかけている方向には渚くんの席がある。
いずれにせよこの私の親切は、それらに言及するまでのものではない。まんまと殺されてくれたところで、私の負う責などありはしないのだ。
「赤羽くんは、プールの用意はしたの」
「まあね。面倒だったけど〈一応〉」
二
中学生の流行は、ちょうど夏の雨のように過ぎ去る。鷹岡の前は衣替え、衣替えの前は球技大会、球技大会の前は梅雨明け、梅雨明けの前は転校生暗殺者。いやもう一つ教員関連の事件があったか、とにかく衣替えは定期的なもので、球技大会は終わりがよかった、梅雨明けは行事の前にはちりに等しく、第二の転校生暗殺者の到来と〈休学〉も——中学生には遠い過去だ。
今はプール、プールまたプール。プール開きの憂鬱はまったくなかったことになった。理由は割愛。重要な事実だけ述べると、裏山にE組のプールがある。温暖湿潤気候の夏の午後は、このプール開きによって誰からも等しく待たれる時間となった。ただ一人を除いてのことだが。
「俺がこいつを水のなかにたたき落としてやっからよ」
殺す、殺せなかった、次こそ殺す。物騒な宣言も日常茶飯事の教室でただ今、寺坂くんが水殺 を提案した。当然にプールが舞台である。今日の放課後、寺坂くんは標的をそこに「たたき落とす」という。だから「てめーらも全員、手伝え」と。
当然のように反発が起きた。誘い文句というよりは寺坂くんその人に。暗殺計画にクラスメイトを誘うことはもう四月の頃から繰り返されている。共に暗殺を計画したり、計画に人手を求めたり。だが寺坂くんは今回このような誘いをかけてきた割に、皆の暗殺に協力したことがない。
断言できよう。寺坂くんは今となってはクラスで一番それこそ人工知能よりも非協力的で協調性がない。暗殺に限った話ではない。訓練、行事、試験、授業、ありとあらゆる場面においてだ。
「どうやって『たたき落とす』んでしょう」
昼休み、寺坂くんの去った教室で奥田さんが疑問を呈した。全クラスメイトの代弁といって差しつかえないようなそれは一応生徒数名によって質問された事柄だったが、寺坂くんは「たたき落とす」の一点張りだ。彼は短絡的なE組生徒の代表格だが、それゆえの考えの至らなさであるとするにも、あまりに浅慮が過ぎるのではないか。
「もったいぶることないのにね」
赤羽が教室の出口を見る。「失敗したらもう使えないんだし」
先生は三月から今日まで約四か月、ただ超人的最高速度のみをもって生き永らえたわけではない。彼は非凡な思考能力と学習能力とを備えている。一度でも経験した暗殺は必ず回避できるほどの。同様の暗殺は二度と通用しないのだ。
すでに実行されたいくつかの計画は、いずれもまず「たたき落とす」段階まで至れなかった。仮に、寺坂くんの計画がそこまで確かに「たたき落とす」なら、それは無二の好機である。プールを舞台とする場合、「たたき落とす」自体は妥当な暗殺計画なのだ。マッハ二十の触手生物は実は泳ぐことができないらしい。
プール開きによって判明した最大級の弱点だった。触手の体は水を含むとほとんど動けなくなるそうだ。
だからといっても溺死はしない。
「それに『たたき落とす』ことができても、ヒトからしたら多少はスピードが出るって話だったよね」
最高速度マッハ二十が〈愚鈍〉になったところで依然として、容易にとらえること能 わず。だからこの夏、クラスメイトはプールもとい水殺の虜囚となった。いかに標的をたたき落として、いかに標的を刺し貫くか。結局そこが肝要なのだ。プール開き前から何ら変わらない。二度と通用しない暗殺を成功させるために、計画を立てて人員を集めて実行する。
いくら寺坂くんだろうとわかろうものだが。あるいは話せなかったのだろうか。寺坂くんの言葉では。
寺坂くんは劣等生である。成績不振によるE組落ちを誰より確実視されていた。同学年の生徒の一部は、だからE組に落ちたくなかった。一年生の頃からの、学年一の乱暴者にして嫌われ者。——その落伍者に、それほどの暗殺計画が、一片の想像に過ぎなかったとしても抱けるとは考えられなかった。
先生に水が〈かかる〉方法ならある、と思う。
そして非難囂囂の昼休み、E組生徒一同は計画への協力が決まっている。
まさか標的が担任教師として、これまで消極的な態度を貫いてきた寺坂くんによる自発的な協調姿勢に感服して、感動、感涙、乗り気になった。生徒は半ば強制され、ついに放課後、プールに水着の身体を沈める。一方で発起人はただの夏服で、アカデミックドレスの標的とプールサイドで向かい合った。
「ピストル一丁では先生を一歩すら動かせませんよ」
担任教師が顔に緑色の横じまを浮かべる。
「ナメやがって」
いくら寺坂くんだろうと当然に知っているような、超生物の表情の一つだ。大抵の暗殺は彼にはとるに足らない内容であるからして、当然の感情の発露だった。
それでも寺坂くんは銃口を突きつけた。事ここに至ってもなお、彼は余裕を崩さなかった。あれから何も聞かされなかったクラスメイトが、それでも暗殺する以上はと勝手に一応の作戦を立てたことを、きっと思いつきもしないのだ。
どうか当たってくれるな、いや、いっそ当たってくれよ。私は凶器の行方を見詰める。
「覚悟はできたか、モンスター」
「もちろん、できてます」
ところで裏山のこのプールは、先生が沢をせき止めて造ったものだ。仮にそれが決壊したときは、たまった水が勢いよく流れ出し、仮にそこに利用者がいたときは、彼らはやがて岩場に打ちつけられるだろう。——先生が生徒を助けなければ。
寺坂くんに〈授けられた〉引き金は、どん、とただ表すにも生易しい衝撃を呼んだ。ざぶりと、次第にごうごうと水が流れ、体が言うことを聞かなくなる。横で奥田さんが悲鳴をあげた。ばたばたと両手でもがこうとしている。しかし彼女たちがわからずとも、当然に寺坂くんが知らずとも、そして〈首謀者〉にその気がなかったとしても、私たちの体は死地に向かって押し流される。
声をかけて安心させるには、ありきたりな生徒では力不足だ。青い顔で声をあげるか、ただ慌てようにも焦るか、ぞっとするにもじっともできないか、流れていく景色におびえるか、やがては手足を動かせなくなるか。他人を気にかける余裕などないだろう。先生の触手にすくわれるまでは。
しかし、それこそは首謀者の思惑だ。おそらく彼の計算では、これでも死者が出ないことになっている。実際に生徒は次々と体を浮かせていった。目の前で奥田さんも触手に絡めとられた。膨れあがって頼りない触手が、そして私の体も巻きとって、水を吸いながらも優しく地面に投げ出す。
「これって」と呼吸を整えながら奥田さんが。
「爆弾だろうけど」と私は答えてすぐに付け足す。「どうやって」
それが頭上からの声に遮られた。私たちを心配するような声。唯一〈寺坂くんに協力しないことを選べた〉クラスメイトだった。だが遠くないところにはいたらしい。あるいは爆音がよほど響いたか。水着はおろか水滴の一つも身につけていないけれど、いつもの軽薄な表情が鳴りを潜めている。
横で奥田さんがうなずいたから、私も彼女にならって首肯した。現にかすり傷の一つもない。先生の自己犠牲の賜物である。彼は今、機能の多くを、生徒の心配のために割いている。後に待ち受けているものを、予期できなかった道理はないのに。
赤羽も息をついて、プールだった所を指した。「あそこ」
横で奥田さんが声をあげた。「イトナくん」
シロだった。探せばすぐに見つかった。梅雨時の転校生の過保護な〈暗殺者〉が距離をとりつつ、見晴らしのよい高台に一人たたずんでいる。全身白装束の眼下には触手で切り結ぶ子供と教師。
「寺坂くん、利用されちゃったんだ」
シロには他にも手駒が数あって、当然に堀部イトナの触手なら、動きが鈍った触手生物を単騎でも制圧できるだろう。そして、それほどの改造人間を手配できるなら、爆弾の用意など造作もあるまい。
赤羽は低い声で言った。「バカだよね」
先生の劣勢は、誰の目にも明らかだった。己が身を弱点にさらしながら、生徒二十名強を救出し、間断なく触手の改造人間と戦闘だ。その水浸しの触手生物の対戦相手は、彼が加害できない生徒の一人であって、さらに数名の生徒を人質にとっている。
シロの計算のとおりに先生は全員を溺死からすくったが、中でも不安定な足場に置かれた生徒たちが安全を確保できる前に、そこを暗殺の舞台にされてしまった。先生は彼らをかばうように間に入ったが、堀部イトナの触手の射程から逃がすことはできなかったようだ。だから生徒の安全を第一に優先する先生は、まず必ず彼らを触手の攻撃から守り抜かねばならない。
かように防戦一方とならざるを得ない先生に対して、また彼の生徒である転校生暗殺者は存分に触手を振るった。幾らも調整が入ったらしい。前回の転校初日よりも洗練された動作である。彼は保護者の巡らせた奸計の下で、順調に担任教師を追い詰めていた。
「あんたなら、どうする」
隣で赤羽の声がした。振り向いたら目が合った。私は見詰め返して答えた。
「できるなら、あの二人の注意を引けたら、とは思うけど」
返事はなかった。かわりに足音がした。赤羽は無言で立ち去ったようだ。私は奥田さんと二人、残されて、奥田さんがおろおろと視線をさ迷わせる。私と赤羽とを交互に見ているようだ。だから、この私の口はあっさりと冷静な言葉を発した。
「何か考えがあるみたいだね」
朝だか昼だか夜だか、いや深夜だったか、黄色の上司が話し出した。トラブルシューター諸君の献身的な奉仕によってミッションが更新された、と。大脳コアテックを通じて私たちの眼球内 ディスプレイに新たなミッションが表示される。確実な件名、簡潔な本文。さすがは上位セキュリティクリアランス市民ひいてはザ・コンピューターであると、私たちは我先に口を開く。
「してやられたな」
二度目の暗殺は失敗した。暗殺者の口はあっさりと冷静な言葉を発する。「ここは引こう」
そしてプールだった水場を忌々しくも見下ろすと、「触手の制御細胞は感情に大きく左右される危険な代物。この子らを皆殺しにでもしようものなら反物質臓がどう暴走するかわからん」
一
誰も信じやしないだろうが、ミュータントパワーは身体能力である。持久的能力や筋力に並ぶ力である。走ることも走り続けることも、暗示をかけることもかけ続けることも、何も変わらない行為である。私にとっては。かつてアルファコンプレックスで生まれ、そして死んだときから、ずっと。
この時代この地上都市よりはるかな未来の地下都市で、死んだ、否、〈致命的なできごと〉に襲われたことがある。数えること六度。そのたびに〈クローン〉を用いて生き永らえてきた。地下都市アルファコンプレックスの市民には〈バックアップ〉が存在するのだ。常に活動を〈再開〉できるように、常に〈最新の状態〉を保存されている。運営者たるザ・コンピューターの慈悲がもたらした完全な制度である。
〈よって私もこの記憶について差し挟むべき疑問を持たない〉。かつて〈五体〉のクローンと共に出生した。
〈しかし他者はそうではないのだ〉と確かめるには、この地上都市の赤子として覚醒してからの十四、五年はあまりに長く、短かった。記憶を引き継ぎ、ミュータントパワーをも備え、現に活動を再開した——。はたして私だけだろうか。
否。誰もが私の密告者だ。
したがって、梅雨が明けようとも、鮮烈な日差しに襲われようとも、ミュータントパワーの発動は愚行である。せめて人目につかない廃墟などで誰もが余裕を失っているべきで、誰もが知性を失っているべきで、しかしながら今現在の旧校舎は、夏服がその場しのぎだろうとも、そよ風が熱風に変わろうとも、とうとうプール開きを迎えようとも、まったく一切そのような者を抱えてはいないのだった。
嫌な朝ではあったけれど。クラスの大半は、その取り返しのつかない事実を覆そうと躍起になっていた。違うものといえば、たとえば隣の席のクラスメイトの第一声。
「鷹岡が辞めたんだってね」
挨拶の次にはこれだった。プールとは一切関係ない、とうにE組には昔の話、昨晩のうちに烏間先生から一斉送信された連絡だ。とはいえ私は親切にも答えてやった。
「最初の授業でクビになったよ」
昨日、一昨日のただの二日間、鷹岡明なる体育教師が存在した。暗殺素人のための暗殺訓練のために、防衛省から訪れたのだ。同じく本来は防衛省の職員である烏間教官に、より重要な仕事に専念させるために。烏間教官の訓練もとい授業は好評で、生徒との関係も決して悪くはなかったけれど、人類の存続に代えられる事実ではなかっただろう。三年E組の暗殺教室はおそらくまるで期待されていない。
ところが〈鷹岡先生〉の寿命は授業時間に直して一時間もなかった。
赤羽は白々しくも質問してくれた。「大丈夫だった」
この私は気にせず回答してくれる。「大丈夫だったよ。烏間先生と渚くんのおかげ」
鷹岡は暴力教師だった。隣の席のクラスメイトは、転校生暗殺者の到来からしばらく、なぜか遅刻欠席だけはしなくなったのだが、昨日は久々に欠席を決め込んだ。新しい教官のすばらしい人格とそれによる訓練模様とを、前日から肌で感じてしまって高熱でも記録したのだろう。だからと言って私の説明に、目を見張って反応することもないだろうに。彼は僅か斜めへ頭を動かした。
疑問が口をついて出た。「誰にも聞かなかったんだ」
赤羽は別の方向を気にかけながらも答えた。「教室に来ればわかるでしょ」
「律が話しそうなものだけど」
「律、ね」
そこで赤羽がこちらに視線をくれた。「どうしたの」と尋ねてみるも、彼は「なんでも」とかわして、さらに私の手元を見た。机の上の、会話のために閉じた本が一冊、書店のブックカバーに覆われている。彼は勝手にとり上げるような真似をしなかったが、そうするまでもなく分類を推測してみせた。
「ミステリ、SF——」
「——よく見てるね」
「ごめん、さっき見えてさ」
「気にしないで。隠してたわけじゃないし、最近はSF小説ばかりだったし」
「好きなんだ」
「ちょっと前に読んだ小説がおもしろくって、つい」
「SFはおもしろいよね。俺も映画は割とチェックしてる」
「たしかに渚くんとよく話してるよね」
「まあね」と返事がある頃には、もう気はそれていたか。赤羽は「渚くん」の名前を出して、話題を一つ前に戻した。
私はまた親切にも答えてやる。「そうだね、これぞ暗殺って感じだった」
——鷹岡は暴力教師だった。
烏間先生とはまるで異なる過重の準備運動に加え、体罰をいとわない、現代の中学生には不相応な教育理念を掲げていた。生徒も先生も当然反発するが、鷹岡も当然反発を知っている。
鷹岡は、抵抗する生徒には体罰を、先生には相応の建前を並べ、一度は全員を〈説き伏せた〉。けれども忍耐には限界がある。だから鷹岡も二度目は自身の進退を懸けた。すなわち烏間先生の進退を懸けて、そして二人の教育の正当性を証明するために、〈対戦〉を申し出たのだ。
一対一の勝負の相手は当然に鷹岡だ。一方であくまで〈教育〉の証明だとして、烏間先生はその成果——生徒——の供出を余儀なくされた。かわりに鷹岡も言った。俺は素手だが、生徒には武器を使わせてやる。生徒たちは暗殺者であるからして、当然に人間を殺害できる凶器を使わせてやる。寸止めでも当たったことにしてやるよと、暴力教師は笑って告げた。
鷹岡は当然反応を知っていた。おそらくは常套手段だった。彼は素手で凶器を相手どる訓練を施す立場にあって、一方たとえアルファコンプレックス市民であっても——たとえ処刑目的であっても——殺害に足る武器の所持を躊躇し、あまつさえ扱いきれない新人はごまんといる。
それでも勝者は渚くんだった。
「渚くんが選ばれたときは驚いたけど、選んだ烏間先生も結果には驚いたみたいだったな」
これは赤羽には教えてやらないけれど、一応、烏間先生は熟慮のすえ、とはいえ長考することなく半ば確信の下で渚くんを選んだ。渚くんはクラスで最も小柄な部類で、併せて身体能力も低い。近接戦闘の訓練でも目立ったところはまるでなかった。戦闘という領域において一目で見下せる弱小者。だから烏間先生は渚くんを選んだ。まさかそれほどまでとは疑うこともしていなかっただろうが。
渚くんの才能が。まさか元精鋭部隊の首筋に峰を当て、それから何事もなかったかのようにクラスに溶け込んで戻れるまでだとは。
それとも赤羽なら違和感の一つでも抱いていただろうか。だから友人関係を築いておいて〈自然消滅的に遠ざかった〉のだろうか。——赤羽にもある種の才能が備わっている。今朝ずっと気にかけている方向には渚くんの席がある。
いずれにせよこの私の親切は、それらに言及するまでのものではない。まんまと殺されてくれたところで、私の負う責などありはしないのだ。
「赤羽くんは、プールの用意はしたの」
「まあね。面倒だったけど〈一応〉」
二
中学生の流行は、ちょうど夏の雨のように過ぎ去る。鷹岡の前は衣替え、衣替えの前は球技大会、球技大会の前は梅雨明け、梅雨明けの前は転校生暗殺者。いやもう一つ教員関連の事件があったか、とにかく衣替えは定期的なもので、球技大会は終わりがよかった、梅雨明けは行事の前にはちりに等しく、第二の転校生暗殺者の到来と〈休学〉も——中学生には遠い過去だ。
今はプール、プールまたプール。プール開きの憂鬱はまったくなかったことになった。理由は割愛。重要な事実だけ述べると、裏山にE組のプールがある。温暖湿潤気候の夏の午後は、このプール開きによって誰からも等しく待たれる時間となった。ただ一人を除いてのことだが。
「俺がこいつを水のなかにたたき落としてやっからよ」
殺す、殺せなかった、次こそ殺す。物騒な宣言も日常茶飯事の教室でただ今、寺坂くんが
当然のように反発が起きた。誘い文句というよりは寺坂くんその人に。暗殺計画にクラスメイトを誘うことはもう四月の頃から繰り返されている。共に暗殺を計画したり、計画に人手を求めたり。だが寺坂くんは今回このような誘いをかけてきた割に、皆の暗殺に協力したことがない。
断言できよう。寺坂くんは今となってはクラスで一番それこそ人工知能よりも非協力的で協調性がない。暗殺に限った話ではない。訓練、行事、試験、授業、ありとあらゆる場面においてだ。
「どうやって『たたき落とす』んでしょう」
昼休み、寺坂くんの去った教室で奥田さんが疑問を呈した。全クラスメイトの代弁といって差しつかえないようなそれは一応生徒数名によって質問された事柄だったが、寺坂くんは「たたき落とす」の一点張りだ。彼は短絡的なE組生徒の代表格だが、それゆえの考えの至らなさであるとするにも、あまりに浅慮が過ぎるのではないか。
「もったいぶることないのにね」
赤羽が教室の出口を見る。「失敗したらもう使えないんだし」
先生は三月から今日まで約四か月、ただ超人的最高速度のみをもって生き永らえたわけではない。彼は非凡な思考能力と学習能力とを備えている。一度でも経験した暗殺は必ず回避できるほどの。同様の暗殺は二度と通用しないのだ。
すでに実行されたいくつかの計画は、いずれもまず「たたき落とす」段階まで至れなかった。仮に、寺坂くんの計画がそこまで確かに「たたき落とす」なら、それは無二の好機である。プールを舞台とする場合、「たたき落とす」自体は妥当な暗殺計画なのだ。マッハ二十の触手生物は実は泳ぐことができないらしい。
プール開きによって判明した最大級の弱点だった。触手の体は水を含むとほとんど動けなくなるそうだ。
だからといっても溺死はしない。
「それに『たたき落とす』ことができても、ヒトからしたら多少はスピードが出るって話だったよね」
最高速度マッハ二十が〈愚鈍〉になったところで依然として、容易にとらえること
いくら寺坂くんだろうとわかろうものだが。あるいは話せなかったのだろうか。寺坂くんの言葉では。
寺坂くんは劣等生である。成績不振によるE組落ちを誰より確実視されていた。同学年の生徒の一部は、だからE組に落ちたくなかった。一年生の頃からの、学年一の乱暴者にして嫌われ者。——その落伍者に、それほどの暗殺計画が、一片の想像に過ぎなかったとしても抱けるとは考えられなかった。
先生に水が〈かかる〉方法ならある、と思う。
そして非難囂囂の昼休み、E組生徒一同は計画への協力が決まっている。
まさか標的が担任教師として、これまで消極的な態度を貫いてきた寺坂くんによる自発的な協調姿勢に感服して、感動、感涙、乗り気になった。生徒は半ば強制され、ついに放課後、プールに水着の身体を沈める。一方で発起人はただの夏服で、アカデミックドレスの標的とプールサイドで向かい合った。
「ピストル一丁では先生を一歩すら動かせませんよ」
担任教師が顔に緑色の横じまを浮かべる。
「ナメやがって」
いくら寺坂くんだろうと当然に知っているような、超生物の表情の一つだ。大抵の暗殺は彼にはとるに足らない内容であるからして、当然の感情の発露だった。
それでも寺坂くんは銃口を突きつけた。事ここに至ってもなお、彼は余裕を崩さなかった。あれから何も聞かされなかったクラスメイトが、それでも暗殺する以上はと勝手に一応の作戦を立てたことを、きっと思いつきもしないのだ。
どうか当たってくれるな、いや、いっそ当たってくれよ。私は凶器の行方を見詰める。
「覚悟はできたか、モンスター」
「もちろん、できてます」
ところで裏山のこのプールは、先生が沢をせき止めて造ったものだ。仮にそれが決壊したときは、たまった水が勢いよく流れ出し、仮にそこに利用者がいたときは、彼らはやがて岩場に打ちつけられるだろう。——先生が生徒を助けなければ。
寺坂くんに〈授けられた〉引き金は、どん、とただ表すにも生易しい衝撃を呼んだ。ざぶりと、次第にごうごうと水が流れ、体が言うことを聞かなくなる。横で奥田さんが悲鳴をあげた。ばたばたと両手でもがこうとしている。しかし彼女たちがわからずとも、当然に寺坂くんが知らずとも、そして〈首謀者〉にその気がなかったとしても、私たちの体は死地に向かって押し流される。
声をかけて安心させるには、ありきたりな生徒では力不足だ。青い顔で声をあげるか、ただ慌てようにも焦るか、ぞっとするにもじっともできないか、流れていく景色におびえるか、やがては手足を動かせなくなるか。他人を気にかける余裕などないだろう。先生の触手にすくわれるまでは。
しかし、それこそは首謀者の思惑だ。おそらく彼の計算では、これでも死者が出ないことになっている。実際に生徒は次々と体を浮かせていった。目の前で奥田さんも触手に絡めとられた。膨れあがって頼りない触手が、そして私の体も巻きとって、水を吸いながらも優しく地面に投げ出す。
「これって」と呼吸を整えながら奥田さんが。
「爆弾だろうけど」と私は答えてすぐに付け足す。「どうやって」
それが頭上からの声に遮られた。私たちを心配するような声。唯一〈寺坂くんに協力しないことを選べた〉クラスメイトだった。だが遠くないところにはいたらしい。あるいは爆音がよほど響いたか。水着はおろか水滴の一つも身につけていないけれど、いつもの軽薄な表情が鳴りを潜めている。
横で奥田さんがうなずいたから、私も彼女にならって首肯した。現にかすり傷の一つもない。先生の自己犠牲の賜物である。彼は今、機能の多くを、生徒の心配のために割いている。後に待ち受けているものを、予期できなかった道理はないのに。
赤羽も息をついて、プールだった所を指した。「あそこ」
横で奥田さんが声をあげた。「イトナくん」
シロだった。探せばすぐに見つかった。梅雨時の転校生の過保護な〈暗殺者〉が距離をとりつつ、見晴らしのよい高台に一人たたずんでいる。全身白装束の眼下には触手で切り結ぶ子供と教師。
「寺坂くん、利用されちゃったんだ」
シロには他にも手駒が数あって、当然に堀部イトナの触手なら、動きが鈍った触手生物を単騎でも制圧できるだろう。そして、それほどの改造人間を手配できるなら、爆弾の用意など造作もあるまい。
赤羽は低い声で言った。「バカだよね」
先生の劣勢は、誰の目にも明らかだった。己が身を弱点にさらしながら、生徒二十名強を救出し、間断なく触手の改造人間と戦闘だ。その水浸しの触手生物の対戦相手は、彼が加害できない生徒の一人であって、さらに数名の生徒を人質にとっている。
シロの計算のとおりに先生は全員を溺死からすくったが、中でも不安定な足場に置かれた生徒たちが安全を確保できる前に、そこを暗殺の舞台にされてしまった。先生は彼らをかばうように間に入ったが、堀部イトナの触手の射程から逃がすことはできなかったようだ。だから生徒の安全を第一に優先する先生は、まず必ず彼らを触手の攻撃から守り抜かねばならない。
かように防戦一方とならざるを得ない先生に対して、また彼の生徒である転校生暗殺者は存分に触手を振るった。幾らも調整が入ったらしい。前回の転校初日よりも洗練された動作である。彼は保護者の巡らせた奸計の下で、順調に担任教師を追い詰めていた。
「あんたなら、どうする」
隣で赤羽の声がした。振り向いたら目が合った。私は見詰め返して答えた。
「できるなら、あの二人の注意を引けたら、とは思うけど」
返事はなかった。かわりに足音がした。赤羽は無言で立ち去ったようだ。私は奥田さんと二人、残されて、奥田さんがおろおろと視線をさ迷わせる。私と赤羽とを交互に見ているようだ。だから、この私の口はあっさりと冷静な言葉を発した。
「何か考えがあるみたいだね」
朝だか昼だか夜だか、いや深夜だったか、黄色の上司が話し出した。トラブルシューター諸君の献身的な奉仕によってミッションが更新された、と。大脳コアテックを通じて私たちの
「してやられたな」
二度目の暗殺は失敗した。暗殺者の口はあっさりと冷静な言葉を発する。「ここは引こう」
そしてプールだった水場を忌々しくも見下ろすと、「触手の制御細胞は感情に大きく左右される危険な代物。この子らを皆殺しにでもしようものなら反物質臓がどう暴走するかわからん」