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五月、さらに修学旅行
一
高校生が手数を期待した修学旅行の、およそ一か月前の朝、手数の多いクラス担任に出会った。
信号のごとく黄色の皮膚に、球のごとくに丸い頭、まるでわざとらしいアカデミックドレス。ただ衣装だけがその職業を保証するようで、袖から裾から触手、触手また触手。〈腕〉が二本、〈脚〉が六本、だがタコと認めるわけにはいかない。それどころか、この世に知られる生物とはまるで一線を画している。それら超人的とも表現し難い特徴を余さず操る、体長が三メートル弱。
「おはようございます。はじめまして。月を壊して地球も壊す、百億円の賞金首です。いつでも殺しにきてください」
出会ったばかりのクラスメイトが横でかすかに苦笑した。私は啞然として怪物を見あげた。決して冗談だからではない。決して冗談ではないからだ。
つい三月、月は本当に爆発した。その四月、私たちのクラスは国から武器を支給された。翌三月、地球を爆破される前に暗殺せよと依頼された。しかし極秘といえども世界から命を狙われ、一か月以上も死なずにいる。——殺せないから、殺せんせー。
卒業までに殺せなければ。地球が爆発し、人類は滅亡する。
国家機密にして有言実行の担任教師はこの五月、修学旅行で起こった事件を瞬く間に解決してみせた。彼の手書きの修学旅行のしおりの付録百三十四に〈拉致実行犯潜伏対策マップ〉がある。彼は生徒を最も近い拠点に向かわせて、自身は他の拠点を虱潰しに確かめたそうだ。並のヒトには不可能だが、彼の最高速度はマッハ二十。元より触手の超生物だ。
私たちは〈瞬く間に〉拘束を解かれた。同時に服装も〈直され〉る。制服のボタンはすべて閉じられ、カーディガンの汚れはすべて洗われ、くわえて、すり傷を消毒され、最後は顔まで拭われる。
「ちょっと大袈裟じゃないですか」
「いいえ、ちっとも」
即答だった。そして黄色の触手生物は二本〈腕〉を顔から離すと、そのまま目の前でうつむく。「先生のスピードが至らないせいで」
担任教師として反省しているらしい。マッハ二十で至れなければ、それは仕方のないことにも思えるが、
「いいえ、もっと速くなります」
超生物はマッハで決意した。
「『もっと』」
「『もっと』。超生物たるもの志は常に高く、マッハ四十です」
「それは、すごく速いんでしょうね」
「それは、もちろん二倍ですから」
国家機密は「ヌルフフフ」と言った。それが笑い声であることをクラス一同は心得ている。実際、大きな三日月を描く口元に歯が見えて、小さな目も細められている。彼はやがて目の形を丸く戻すと、最後の確認をとってきた。
「頭痛や吐き気はありませんか」
「実は目の数が二倍に見えてます」
「ヌルフフフ。二分の一は、鼻の穴です」
五月も半ば、しかし解体されない担任教師は、自ら〈私たちのクラス〉を望んだそうだ。マッハ二十の賞金首を世界が共謀しても殺せない、その程度の暗殺が退屈だから、ハンディキャップをくらってやるのだと。そして実際に彼はクラス担任を務め、教師として学校生活に拘束され、さらには〈特等席〉から命を狙われ続けている——。
黄色の頭部が私を見下ろした。「大丈夫ですか」
黄色の頭部を私も見あげる。「はい、ありがとうございます」
「——あなたの先生ですから」
「——先生の生徒でよかった」
二
椚ヶ丘中学校三年E組の生徒は、即席の暗殺者に仕立てあげられた。当然期待されてはいないが、標的がクラス担任なら、生徒には数多の〈機会〉が予想される。くわえて教室の〈立地〉もよい。政府は賞金首には教職を認め、生徒には賞金を示した。クラスメイトも成功報酬百億円のために、万が一の可能性にかけているということだ。
他に人類存亡もかかっているが、クラスメイトにとって暗殺は一大事ではないようだ。暗殺を挨拶に代えたり、授業中の暗殺が𠮟られたり、放課後に暗殺で遊んだり、五月も半ば、すでに暗殺は学校生活の一部だ。あの奥田さんも、暗殺は得意の理科の分野だとして、毎週のように標的を殺す毒を探求している。
とはいえ修学旅行は政府にとって絶好の機会だったらしい。彼らは京都に本職を配備した。班別行動に標的も同行する時間があったので、そこで班ごとに殺し屋と協力して暗殺しようという計画である。——人通りがないから、見通しは悪くてよい。神崎さんの提案は、殺し屋が狙撃手であることを考慮したものだったのだ。もっとも共同暗殺は私たちの事件で一時中断となった。
私たちの班は、そのままクラス担任との行動に移った。せっかく〈下見〉までしたところだが、共同暗殺は再開せず。しかし他三班とはすでに済ませたというから、いずれにせよ暗殺はできなかったのだろう。たかが修学旅行のしおりを辞書にするほど、京都を調査した賞金首だ。彼はあらゆる狙撃地点を把握し、警戒できている。
その担任教師とも、日の傾く頃に別れた。かと言って、そのまま最後の予定に移ったわけでもない。私たちはしばらく歩いたところで見慣れた金髪と遭遇する。
「ビッチ先生」と呼びかけた私たちに、
「あんたたち、ちょうどいいところに来たじゃないの」
椚ヶ丘中学校三年E組英語教師イリーナ・イェラ〈ヴィッチ〉は、誰が〈ビッチ〉よとは返さなかった。誰も直しやしないからだ。彼女は正真正銘の痴女 なので。かわりに英語の授業では正確な発音も重視して、彼女自身も外国生まれ外国育ちの外国人ながら自然な日本語を身に着けている。おまけにクラスの担任教師を、自身の巨乳で夢中にさせた。
当然一般人ではない。頭の天辺から足の爪先まで、非の打ちどころのない美形で標的に接近する、いわゆる色仕掛けを得意とする潜入暗殺者である。実績もあるらしい。だが人類を救済するには至らず、彼女は引き続き教師としてとどまり、虎視眈々と機会をうかがっている。
ところでビッチ先生は私たち——とりわけ渚くんたちを手で招いた。彼らの中から独りのこのこ向かって足元に目をくれ「げっ」とうめいた杉野くん。三十秒後、紙袋を両手に持たされた中学生は引率教師の後ろをどかどか歩き、
「こんな引率教師がいてたまるか」
「それがいるんだなー、杉野の前に」
私たちは最後は殺し屋と、最後の最後まで道を共にすることとなった。その間、杉野くんはさらに手荷物を増やしたが、潜入暗殺者の会話術が神崎さんから「さすがね、杉野くん」「すごいな、杉野くん」を引き出し、事なきを得る。
杉野くんは旅館の戸も開けてくれた。
「美女の帰りよ、出迎えなさい」
先にビッチ先生が入ったけれど、後に続いた神崎さんが礼とともにほほ笑みかけたことで、杉野くんは満足したようだ。あるいは気にする暇がなかったか。玄関にはすでに人影があった。黒服の体育教師兼副担任、兼、表向きの担任教師、烏間惟臣である。
これには呼び立てた「美女」も瞠目した。彼女のある種の我がままは、この相手には通じないことが常であった。ので、烏間先生はいつものように彼女をあしらい、一方で生徒七名とは目を合わせて、
「おかえり」
当然一般人ではなく、体育の授業も風変わりな内容で、実は授業とも呼ばれていない。専門は戦闘、特技も戦闘、正体は防衛省の工作員だ。暗殺の監督のために派遣され、教員としては生徒に〈訓練〉をつけている。体育教師というよりは、訓練教官といったところか。だが今はそれよりも〈現場〉の責任者の顔をして、「早速で悪いが」と切り出した。「幾つか聞きたいことがある」
荷物を置いて十分後に部屋に来るようにと言うので、私たちは怒り心頭のビッチ先生を背に、三人と四人で各大部屋に向かった。無人の和室が待っていた。私たちの班が最初に帰り着いたのだろう。とはいえ時間の問題だ。実際五分程度で他の班が一つ帰ってきて、挨拶がてら今日の感想を交換する。事件のことを伏せても話題は多く、すぐ約束の時間になった。
さて客室の割り当ては性別ごと、さらに距離をとったので、男性教諭である烏間先生の部屋に行くには、引き返すように廊下を歩かねばならなかった。しかし教員だからかその最も手前に部屋があって、ちょうど、ふすまが開いて人が出てきた。なんと渚くんである。いや渚くんに続いて、さらに二人。そして三人共が荷物を持ったままだった。
私たちに対して、幾ばくかの配慮が働いたようだった。教師陣は個室を与えられたはずが、室内には担任教師も英語教師もそろっていて、私たちはまず体調を尋ねられた。全員が首を横に振った。黄色のクラス担任と一瞬ばかり視線が交差する。
「わかった」
烏間先生はただうなずいた。もしものときは教師を頼れと、定型的な確認を幾らか。それも終わると、彼はいっそう現場責任者の顔をして、国家機密を指し示した。「こいつのことだが」
いつの間にか黒子がいた。私たちは生徒同士で顔を見合わせる。いやマッハ二十の早替わりであることはわかっていた。賞金首の超生物には扮装癖がある。当然のように人間の速度で京都を見物した彼には一応、国家機密の自覚がある。ので、部外者の前に姿を現すときは一応、人間に擬態するのだ。当然部外者の高校生の前でも、扮装を披露したわけだ。ちょうど、この黒子の恰好を。
しかし烏間先生の表情は苦い。「相手が正体を怪しんだ様子はなかったか」
茅野さんは笑顔で答えた。「殺せんせーの変装、今日のはいいできだと思うけどな」
たしかに〈定番の扮装〉と比較すると、黒子の衣装は〈素肌〉を覆い隠せるから、妙な部分が目につかなかったかもしれない。だが烏間先生は眉間にしわを刻み込んだ。比較対象が論外らしい。「大丈夫ですよ」と国家機密だけが得意げだった。
「この顔が暴力教師と覚えられないよう、万全を期して駆けつけました」
いずれにせよ高校生たちは〈超生物〉を記憶してはいないだろう。当時の心理状態は、平生のものではなかったはずだ。せいぜいが怪物のような強者と認識したかどうか。元より、皮膚を変色させても、服装を工夫しても、隠せないものもある。最たる例が体長だ。もっとも、それを否定の材料にされたら彼は、二度と生徒とは歩けない。烏間先生も「いずれにせよ」と話を進めた。
「彼らにはしばらく監視がつくことになる」
標的への文句はのみ込めたようだ。顔つきも変わった。烏間先生はまっすぐに生徒を見た。「君たちにも頼まなければいけないことがある」
三
狙撃手が辞退した。消灯前の談話室で聞かされた。共同暗殺は失敗らしい。しかし即席の暗殺者たちは、今夜も支給品の武器を手に手に、旅館の廊下を駆け抜けた。貸し切りだから苦情は来ない。「捕らえて吐かせて殺すのよ」とは男子禁制恋愛話をマッハで聴かれた女子一同。同時になぜかやはり殺気立った男子一同。あの先生が両大部屋で同時に盗み聞きを働いていても、驚くには値しないが。
挟撃、狙撃、斬撃、連撃。支給品の玩具はすっかり両手に馴染んでしまった。思い立って後ろへ下がり己の腹を刺そうとしても〈刃先〉は決して布を裂かない。ぐにゃりと刀身を曲げ、力が緩むと元の形に戻ってしまう。そして銃の引き金に力を込めたところで、飛び出したるはBB弾で、〈蒸発〉どころか怪我もできない。しかし先生はその玩具から身をかわさねばならないのだった。
通称、対先生武器。床を転がるBB弾を、摘まみあげても潰そうとしても、私の指は溶けださないが、先生の触手は崩れ落ちる。だから政府は素人の中学生に武器を支給できた。
とはいえ、特製の武器もたちどころには致命傷を与えない。腕や脚の先端といった部位を攻撃できた者はいるが、いずれも致命的な損傷にはつながらなかった。結局、他の多くの生物と同じように殺害することになるだろう。攻撃を浴びせ、急所を突き、心臓を破壊するのだ。マッハ二十の標的を相手に。
——もしも先生が死ぬときは。
ふと後退すると裸足が敷居を踏んでしまった。それで下がったら畳の上だ。今は空の客室だが、立ち入りは許可されていたので、もう中へ進んでしまう。窓の前に立って、構えた拳銃を外に向けて、照準を合わせて、引き金に指をかけてみる。
——もしも地球が爆発するときは。
月のない星空に見下ろされて、撃つ振りをして数秒、数十秒たつか、たたないか、クラスメイトが私のように独り輪を離れ、まっすぐにこの部屋を訪れた。敷き詰められた畳の上を一歩、二歩と近づいてくる。私はさも足音で気づいたように構えを解いた。振り向くと二、三人ほどの感覚の先に、クラスメイトの顔が見える。
「何してるの」
クラスメイトは二、三人ほどの間隔で隣に並ぶと、緩慢な動作で窓に指を向けた。まもなくぬるい空気が入り込んで、彼は素直な感想をつぶやく。それから私より十センチ高いところについた目で星空を見あげると、再び問いを投げてきた。
「空なんか見てたんだ」
「そんなところかな」
私が普通のクラスメイトの距離感で答えてみると、クラスメイトは相槌で返事した。昼間の喧嘩がうそのような、さも退屈な表情だ。そして沈黙した。当然有意義な時間を求めるならば、私たち二人で話すよりも、夜空の星を数えるべきだ。彼は私に用事があるのだろうけれど。無言の時間は、この私には多少なりとも居心地が悪い。このクラスメイトと私は、その程度の関係だから。
——もしも今日が先週だったら。もしも誘いを断っていたら。もしも六人班だったら。もしも、同じ班にならなかったら。
先週の午後だった。渚くんが茅野さんと杉野くんを誘って、茅野さんが奥田さんを、杉野くんが神崎さんを、そして奥田さんが私を誘って、七人班に六人が集まった。最後七人目は班長の渚くんがまた自ら声をかけた。渚くんだけが誘った。赤羽業。彼が最後に選ぶ相手は赤羽以外ではありえなかった。二人は一年の頃からのクラスメイトで、親しい間柄だったのだ。
——もしも。
私は結局〈無難〉に暗殺大会の結果を尋ねた。赤羽は軽い調子で答えた。「全然」だと。驚くような結果ではない。
「明日も暗殺しなきゃだね」
「そこで千葉と速水さんを駆り出そうって話が——」
「二人とも狙撃成績がいいもんね」
「——磯貝と片岡さんに却下されてた」
「二人にも修学旅行があるもんね」
私たちは徐々に話を広げた。今日午後に立ち寄った神社で先生が大吉を引けず落ち込んだ。まんまと破魔矢を買わされて、明日は木刀までつかまされる。それから「東京でも買えそうな京都土産を買わそうぜ」と赤羽。
「しおりに『京都で買ったおみやげが東京のデパートで売っていたときのショックからの立ち直り方』ってのがあって」
「それを言ったら破魔矢だって『家で置き場に困る』って、書いてた、けど、買っちゃったんだ」
「そ」
赤羽は悪戯っぽく笑った。「絶対、後から落ち込むから。木刀も買わせて、あと大凶も引かせたい。——落ち込んでるときが狙い目だと思うんだよね」
話は尽きない。今日はただでさえ修学旅行で、私たちは同じ班になり、観光も食事も新幹線も一緒だった。この日のために一週間以上も共に準備した。そして何より〈暗殺教室〉だ。生徒が担任を殺すクラスは、他に類を見ない、そのものが話の種である。
暗殺する生徒、爆破する担任、爆破される地球、爆破された月。窓の外に浮かぶ三日月。それを見あげるばかりであっても、言葉の形を選びさえすれば、ウンもアーもエットも要らない。だから。
赤羽はなかなか本題に入らなかった。
控えめなクラスメイトではない。気も声も主張も体格も、少しも控えたところがなく、しかし消極的ではあった。
赤羽の積極性はことさら関心事にのみ強く発揮された。おかげで今やクラスには彼の得意分野を知らない者などいない。よって〈喧嘩〉の用件ではない、とは消去法だが、赤羽が部屋に訪れてかれこれ五分は経過している。もはや予想は無駄である。だが私は一度も尋ねなかった。五月も締め、しかし今すでに私たちは、ただのクラスメイトではありえない。
暗殺ではない、旅行でもない。だが関係はあった。一週間以上前から、一か月以上前から、三年生が始まる前から。
「俺に言いたいこと、ないの」
「まあ一つくらいは」
二年生の冬だった。その頃すでに私たちは三年次のクラスを同じくすることを確固たる事実として知っていた。三年目のクラスメイトになることを。
驚くような偶然ではない。国家機密の賞金首がクラス担任を務める前から、椚ヶ丘中学校三年E組は特別だった。特別なクラスだった。この学校では劣等生は末路を用意されている。〈特別〉強化クラス、通称、エンドのE組。劣等のまま二年生を終えた中学生は、三年E組に〈落ちる〉ことを当校の規則で定められている。
四
見殺しにされた。
一週間以上前、一か月以上前、三年生が始まる前の冬、当時二年生だった私の前で、三年生がそう言った。A組の生徒だった。よって成績優秀者だった。進学校にはよくある制度、特別進学クラスである。〈だから〉私は巻き込まれたとも言えなかった。
ちょうど前日、少し外れた帰り道に、喧嘩を制した中学生が得意げな顔で立っていた。当時クラスメイトだった二年生が。
劣等生の条件は様々だ。成績不振はその最たる例だが、判断は二年次学年末テストで下される。総合順位が下位だったとか、主要五教科で赤点をとったとか。〈E組落ち〉の基準は、公然の秘密だ。——成績の維持そして向上に努めよ。それだけでよかった。それだけで。椚ヶ丘に通うような生徒の多くは素行不良など犯さないのだから。
とはいえ中には素行不良者もいる。出席日数が足りない、授業態度が悪い、校則を守らない。実際今年のE組の一人は、校則違反のアルバイトが露見した途端に転級通知を受けとった。そして赤羽も二年の冬、喧嘩の翌日に受けとった。誰も驚きやしなかった。あるいは誰かは驚いた。彼は一年の頃から有名だった。物事には例外がある。
必ずしも不良がE組に落ちるとは限らない。無断で遅刻して早退して欠席して、喧嘩して、暴力沙汰を起こして、それでも、たとえ常習犯でもE組に落ちないことはある。必ず定期テストを受けて、常に成績上位を記録され、それがA組入りを確実視されるほどならば、担任教師は喜んで問題児をかばうだろう。受け持ちの生徒をA組に入れた功績が、雇用者としての評価につながるのだ。
校則違反のアルバイトが露見した生徒も、頭抜けた成績を残せていれば、やはりA組に進級しただろう。この学校の根幹には実力主義が存在する。
赤羽もだから見逃され続けた。だから赤羽は見とがめられた。あの日、彼が勝利を誇った相手は三年A組の模範的優等生だった。
「こいつです」
朝のホームルームに現れなかったクラス担任が放送で私を呼び出した。一時間目の最中のことだ。廊下で赤羽とすれ違って、訪ねた教員室は荒れ果て、待ち構えていた担任教師はかろうじて己の席を整えていた。そして一人の生徒が隣で〈つえ〉をついていた。包帯に巻かれていた。一目瞭然の容体だった。〈そいつ〉が言った。その瞬間すべてが決定づけられた。
担任は何事をもわめいた。こちらにおわす上級生がいかに優秀な先輩で、あろうことか三年A組でいらっしゃって、さらなる成績上位者であらせられて、季節は冬、冬の、三年A組の、模範生でいらっしゃるのだと、怒声をもって繰り返した。冬の二年生は学年末テストが心配だろうが、冬の三年生は受験が心配だろう。椚ヶ丘学園は中高一貫校だが、外部進学や、実績づくりの受験というものもある。
「どうして赤羽の肩を持つ」
一方的にわめいたクラス担任は尋ねる体で言葉を続けた。「彼の実績に傷がついたら、俺の評価まで下がるんだぞ」
同じ言葉を先の一人も聞いただろう。同じ言葉をそれから私も聞いただろう。
「おまえの〈転級〉も申し出ておいた。停学の届け出もしなくちゃあな。おまえはもう少し賢いと思っていたよ。それが赤羽なんぞと一緒になって、こんな問題を引き起こすとは。——三年生になるまで登校しなくていいようにしてやる。二度と俺の前に現れないでくれ」
三年E組の教室だけは、本校舎の先、さらに山の上、特別校舎——旧校舎——に位置する。当校の規則で、そう定められている。
「ごめん」
浴衣のクラスメイトが腰を折っていた。「そんな」と私は口では言った。彼は頭をあげなかった。「あげて」と言ってみたけれど、
「俺は今でも正しかったと思ってる」
腰は曲げられたままだ。
「赤羽くん」
「けど、だからあんたがE組に落ちてよかったとは思わない」
「私はいいクラスに来たと思ってるよ」
「もっといい修学旅行だった」
「暗殺旅行はすごく充実してたけどな」
「あんたが——あんな目にあうこともなかった」
浴衣のクラスメイトは再び言った。「ごめん」
私はこう言うことに、なっていた。「いいよ」
「何もよくない」
クラスメイトはようやく頭をあげた。滑稽な表情を浮かべていた。「たしかに」と私は返事した。
「よくないことはあった、けど、いいよ、そんな。もう済んだことだから」
白い顔が繰り返す。
「『済んだ』」
「うん。『済んだ』——まだ男子とは話せてなかったんだっけ。先に大部屋で考えたんだけど、女子は協力してもいいって方向でまとまったの。もちろん返事は七人全員で話してから。ほら殴られたり蹴られたりしたわけだから」
私は浴衣と、その首から上とを順に見る。どうやら目立たない程度の傷で済んだようだが、日中の事件では、拉致された私たちの一方で彼ら三人が暴力被害にあった。私たちもあわや性被害というところだったけれど、烏間先生の立場では、併せて国家機密を考慮しなくてはならなかった。
烏間先生の立場では、事件が表沙汰になることは避けねばならなかった。かわりに犯人たちにはすでに監視をつけたと言われて、私たち四人は、七人全員で話し合って決めると答えたのだ。
「そんなの最初から決まってた」
もう三人が、私たち四人と話すまで返事はできないと告げたそうなので。
「烏間先生は頼んでくれたよ」
赤羽が言い出したのだろう。
「その『頼み』を断るって選択肢、あんたらにあったの」
思うに〈それ〉が赤羽のクラス随一の戦闘能力を支えていた。
「なかった、かな」
絶えない喧嘩で培われ、そして誰より早く高校生の襲撃を知らせた部分。
「済んでないよ」
まるで獣のような、それが、——ただの真剣な表情を、物珍しく奇妙な振る舞いだと錯覚させる。
「済んだことだよ」
私は答えた。「たしかにE組落ちって言われたときは、この世の終わりみたいだった。ずっと自宅謹慎で、学年末テストも受けられなくて、三年生が始まって、そのうち月が爆発して、いざ学校に行けるようになったら、地球も爆発するんだって。そんな先生が私を待ってた。今日みたいに生徒を危機から救ってくれる先生が。会えてよかった。本当だよ。私、暗殺者になれてよかった」
「赤羽くん」と呼びかけて、「いいことが、たくさんあったよ。私は今が一番幸福なんだ」
返事はなかった。それだけで室外の様子を思い知らされることとなった。暗殺が落ち着いたのだろうか、消灯には時間があるけれど、すっかり喧噪がやんでいる。私は再び窓の外を見た。隣の赤羽も鈍い動作で夜空を見あげ、沈黙のままに窓を閉めた。私はそれでも視線を外さなかった。相変わらず月は見えないが、数多の星が輝いている。だが長続きはしない。
まもなく開け放しの部屋の外に、奥田さんと杉野くんが足音をさせて現れた。
「なんだ、二人一緒だったんだな。あっちで明日の計画を見直そうぜって話しててさ」
「邪魔しちゃいましたね」
対して私たちはそれぞれ振り返る。
「いや、べつに」
「ちょうど、そっちに行くところだったから」
赤羽は言葉の終わりも待たなかった。杉野くんが制止の声をあげたけれど、赤羽は通り過ぎて部屋を出て行く。杉野くんは慌てて背中を追いかけ、奥田さんも視線をせわしなく移した。そうしながら一歩、彼女も引き返すように爪先を向ける。
「私たちも」
私は最後に部屋を出た。明かりは奥田さんが消してくれて、ふすまは私が閉めようとして、ピストルが持ちあがった。指が引き金に触れている。横で奥田さんがうかがうように私を見た。私は〈笑み〉を打ち消して、首を横に振って、表情をつくり直す。
一
高校生が手数を期待した修学旅行の、およそ一か月前の朝、手数の多いクラス担任に出会った。
信号のごとく黄色の皮膚に、球のごとくに丸い頭、まるでわざとらしいアカデミックドレス。ただ衣装だけがその職業を保証するようで、袖から裾から触手、触手また触手。〈腕〉が二本、〈脚〉が六本、だがタコと認めるわけにはいかない。それどころか、この世に知られる生物とはまるで一線を画している。それら超人的とも表現し難い特徴を余さず操る、体長が三メートル弱。
「おはようございます。はじめまして。月を壊して地球も壊す、百億円の賞金首です。いつでも殺しにきてください」
出会ったばかりのクラスメイトが横でかすかに苦笑した。私は啞然として怪物を見あげた。決して冗談だからではない。決して冗談ではないからだ。
つい三月、月は本当に爆発した。その四月、私たちのクラスは国から武器を支給された。翌三月、地球を爆破される前に暗殺せよと依頼された。しかし極秘といえども世界から命を狙われ、一か月以上も死なずにいる。——殺せないから、殺せんせー。
卒業までに殺せなければ。地球が爆発し、人類は滅亡する。
国家機密にして有言実行の担任教師はこの五月、修学旅行で起こった事件を瞬く間に解決してみせた。彼の手書きの修学旅行のしおりの付録百三十四に〈拉致実行犯潜伏対策マップ〉がある。彼は生徒を最も近い拠点に向かわせて、自身は他の拠点を虱潰しに確かめたそうだ。並のヒトには不可能だが、彼の最高速度はマッハ二十。元より触手の超生物だ。
私たちは〈瞬く間に〉拘束を解かれた。同時に服装も〈直され〉る。制服のボタンはすべて閉じられ、カーディガンの汚れはすべて洗われ、くわえて、すり傷を消毒され、最後は顔まで拭われる。
「ちょっと大袈裟じゃないですか」
「いいえ、ちっとも」
即答だった。そして黄色の触手生物は二本〈腕〉を顔から離すと、そのまま目の前でうつむく。「先生のスピードが至らないせいで」
担任教師として反省しているらしい。マッハ二十で至れなければ、それは仕方のないことにも思えるが、
「いいえ、もっと速くなります」
超生物はマッハで決意した。
「『もっと』」
「『もっと』。超生物たるもの志は常に高く、マッハ四十です」
「それは、すごく速いんでしょうね」
「それは、もちろん二倍ですから」
国家機密は「ヌルフフフ」と言った。それが笑い声であることをクラス一同は心得ている。実際、大きな三日月を描く口元に歯が見えて、小さな目も細められている。彼はやがて目の形を丸く戻すと、最後の確認をとってきた。
「頭痛や吐き気はありませんか」
「実は目の数が二倍に見えてます」
「ヌルフフフ。二分の一は、鼻の穴です」
五月も半ば、しかし解体されない担任教師は、自ら〈私たちのクラス〉を望んだそうだ。マッハ二十の賞金首を世界が共謀しても殺せない、その程度の暗殺が退屈だから、ハンディキャップをくらってやるのだと。そして実際に彼はクラス担任を務め、教師として学校生活に拘束され、さらには〈特等席〉から命を狙われ続けている——。
黄色の頭部が私を見下ろした。「大丈夫ですか」
黄色の頭部を私も見あげる。「はい、ありがとうございます」
「——あなたの先生ですから」
「——先生の生徒でよかった」
二
椚ヶ丘中学校三年E組の生徒は、即席の暗殺者に仕立てあげられた。当然期待されてはいないが、標的がクラス担任なら、生徒には数多の〈機会〉が予想される。くわえて教室の〈立地〉もよい。政府は賞金首には教職を認め、生徒には賞金を示した。クラスメイトも成功報酬百億円のために、万が一の可能性にかけているということだ。
他に人類存亡もかかっているが、クラスメイトにとって暗殺は一大事ではないようだ。暗殺を挨拶に代えたり、授業中の暗殺が𠮟られたり、放課後に暗殺で遊んだり、五月も半ば、すでに暗殺は学校生活の一部だ。あの奥田さんも、暗殺は得意の理科の分野だとして、毎週のように標的を殺す毒を探求している。
とはいえ修学旅行は政府にとって絶好の機会だったらしい。彼らは京都に本職を配備した。班別行動に標的も同行する時間があったので、そこで班ごとに殺し屋と協力して暗殺しようという計画である。——人通りがないから、見通しは悪くてよい。神崎さんの提案は、殺し屋が狙撃手であることを考慮したものだったのだ。もっとも共同暗殺は私たちの事件で一時中断となった。
私たちの班は、そのままクラス担任との行動に移った。せっかく〈下見〉までしたところだが、共同暗殺は再開せず。しかし他三班とはすでに済ませたというから、いずれにせよ暗殺はできなかったのだろう。たかが修学旅行のしおりを辞書にするほど、京都を調査した賞金首だ。彼はあらゆる狙撃地点を把握し、警戒できている。
その担任教師とも、日の傾く頃に別れた。かと言って、そのまま最後の予定に移ったわけでもない。私たちはしばらく歩いたところで見慣れた金髪と遭遇する。
「ビッチ先生」と呼びかけた私たちに、
「あんたたち、ちょうどいいところに来たじゃないの」
椚ヶ丘中学校三年E組英語教師イリーナ・イェラ〈ヴィッチ〉は、誰が〈ビッチ〉よとは返さなかった。誰も直しやしないからだ。彼女は正真正銘の
当然一般人ではない。頭の天辺から足の爪先まで、非の打ちどころのない美形で標的に接近する、いわゆる色仕掛けを得意とする潜入暗殺者である。実績もあるらしい。だが人類を救済するには至らず、彼女は引き続き教師としてとどまり、虎視眈々と機会をうかがっている。
ところでビッチ先生は私たち——とりわけ渚くんたちを手で招いた。彼らの中から独りのこのこ向かって足元に目をくれ「げっ」とうめいた杉野くん。三十秒後、紙袋を両手に持たされた中学生は引率教師の後ろをどかどか歩き、
「こんな引率教師がいてたまるか」
「それがいるんだなー、杉野の前に」
私たちは最後は殺し屋と、最後の最後まで道を共にすることとなった。その間、杉野くんはさらに手荷物を増やしたが、潜入暗殺者の会話術が神崎さんから「さすがね、杉野くん」「すごいな、杉野くん」を引き出し、事なきを得る。
杉野くんは旅館の戸も開けてくれた。
「美女の帰りよ、出迎えなさい」
先にビッチ先生が入ったけれど、後に続いた神崎さんが礼とともにほほ笑みかけたことで、杉野くんは満足したようだ。あるいは気にする暇がなかったか。玄関にはすでに人影があった。黒服の体育教師兼副担任、兼、表向きの担任教師、烏間惟臣である。
これには呼び立てた「美女」も瞠目した。彼女のある種の我がままは、この相手には通じないことが常であった。ので、烏間先生はいつものように彼女をあしらい、一方で生徒七名とは目を合わせて、
「おかえり」
当然一般人ではなく、体育の授業も風変わりな内容で、実は授業とも呼ばれていない。専門は戦闘、特技も戦闘、正体は防衛省の工作員だ。暗殺の監督のために派遣され、教員としては生徒に〈訓練〉をつけている。体育教師というよりは、訓練教官といったところか。だが今はそれよりも〈現場〉の責任者の顔をして、「早速で悪いが」と切り出した。「幾つか聞きたいことがある」
荷物を置いて十分後に部屋に来るようにと言うので、私たちは怒り心頭のビッチ先生を背に、三人と四人で各大部屋に向かった。無人の和室が待っていた。私たちの班が最初に帰り着いたのだろう。とはいえ時間の問題だ。実際五分程度で他の班が一つ帰ってきて、挨拶がてら今日の感想を交換する。事件のことを伏せても話題は多く、すぐ約束の時間になった。
さて客室の割り当ては性別ごと、さらに距離をとったので、男性教諭である烏間先生の部屋に行くには、引き返すように廊下を歩かねばならなかった。しかし教員だからかその最も手前に部屋があって、ちょうど、ふすまが開いて人が出てきた。なんと渚くんである。いや渚くんに続いて、さらに二人。そして三人共が荷物を持ったままだった。
私たちに対して、幾ばくかの配慮が働いたようだった。教師陣は個室を与えられたはずが、室内には担任教師も英語教師もそろっていて、私たちはまず体調を尋ねられた。全員が首を横に振った。黄色のクラス担任と一瞬ばかり視線が交差する。
「わかった」
烏間先生はただうなずいた。もしものときは教師を頼れと、定型的な確認を幾らか。それも終わると、彼はいっそう現場責任者の顔をして、国家機密を指し示した。「こいつのことだが」
いつの間にか黒子がいた。私たちは生徒同士で顔を見合わせる。いやマッハ二十の早替わりであることはわかっていた。賞金首の超生物には扮装癖がある。当然のように人間の速度で京都を見物した彼には一応、国家機密の自覚がある。ので、部外者の前に姿を現すときは一応、人間に擬態するのだ。当然部外者の高校生の前でも、扮装を披露したわけだ。ちょうど、この黒子の恰好を。
しかし烏間先生の表情は苦い。「相手が正体を怪しんだ様子はなかったか」
茅野さんは笑顔で答えた。「殺せんせーの変装、今日のはいいできだと思うけどな」
たしかに〈定番の扮装〉と比較すると、黒子の衣装は〈素肌〉を覆い隠せるから、妙な部分が目につかなかったかもしれない。だが烏間先生は眉間にしわを刻み込んだ。比較対象が論外らしい。「大丈夫ですよ」と国家機密だけが得意げだった。
「この顔が暴力教師と覚えられないよう、万全を期して駆けつけました」
いずれにせよ高校生たちは〈超生物〉を記憶してはいないだろう。当時の心理状態は、平生のものではなかったはずだ。せいぜいが怪物のような強者と認識したかどうか。元より、皮膚を変色させても、服装を工夫しても、隠せないものもある。最たる例が体長だ。もっとも、それを否定の材料にされたら彼は、二度と生徒とは歩けない。烏間先生も「いずれにせよ」と話を進めた。
「彼らにはしばらく監視がつくことになる」
標的への文句はのみ込めたようだ。顔つきも変わった。烏間先生はまっすぐに生徒を見た。「君たちにも頼まなければいけないことがある」
三
狙撃手が辞退した。消灯前の談話室で聞かされた。共同暗殺は失敗らしい。しかし即席の暗殺者たちは、今夜も支給品の武器を手に手に、旅館の廊下を駆け抜けた。貸し切りだから苦情は来ない。「捕らえて吐かせて殺すのよ」とは男子禁制恋愛話をマッハで聴かれた女子一同。同時になぜかやはり殺気立った男子一同。あの先生が両大部屋で同時に盗み聞きを働いていても、驚くには値しないが。
挟撃、狙撃、斬撃、連撃。支給品の玩具はすっかり両手に馴染んでしまった。思い立って後ろへ下がり己の腹を刺そうとしても〈刃先〉は決して布を裂かない。ぐにゃりと刀身を曲げ、力が緩むと元の形に戻ってしまう。そして銃の引き金に力を込めたところで、飛び出したるはBB弾で、〈蒸発〉どころか怪我もできない。しかし先生はその玩具から身をかわさねばならないのだった。
通称、対先生武器。床を転がるBB弾を、摘まみあげても潰そうとしても、私の指は溶けださないが、先生の触手は崩れ落ちる。だから政府は素人の中学生に武器を支給できた。
とはいえ、特製の武器もたちどころには致命傷を与えない。腕や脚の先端といった部位を攻撃できた者はいるが、いずれも致命的な損傷にはつながらなかった。結局、他の多くの生物と同じように殺害することになるだろう。攻撃を浴びせ、急所を突き、心臓を破壊するのだ。マッハ二十の標的を相手に。
——もしも先生が死ぬときは。
ふと後退すると裸足が敷居を踏んでしまった。それで下がったら畳の上だ。今は空の客室だが、立ち入りは許可されていたので、もう中へ進んでしまう。窓の前に立って、構えた拳銃を外に向けて、照準を合わせて、引き金に指をかけてみる。
——もしも地球が爆発するときは。
月のない星空に見下ろされて、撃つ振りをして数秒、数十秒たつか、たたないか、クラスメイトが私のように独り輪を離れ、まっすぐにこの部屋を訪れた。敷き詰められた畳の上を一歩、二歩と近づいてくる。私はさも足音で気づいたように構えを解いた。振り向くと二、三人ほどの感覚の先に、クラスメイトの顔が見える。
「何してるの」
クラスメイトは二、三人ほどの間隔で隣に並ぶと、緩慢な動作で窓に指を向けた。まもなくぬるい空気が入り込んで、彼は素直な感想をつぶやく。それから私より十センチ高いところについた目で星空を見あげると、再び問いを投げてきた。
「空なんか見てたんだ」
「そんなところかな」
私が普通のクラスメイトの距離感で答えてみると、クラスメイトは相槌で返事した。昼間の喧嘩がうそのような、さも退屈な表情だ。そして沈黙した。当然有意義な時間を求めるならば、私たち二人で話すよりも、夜空の星を数えるべきだ。彼は私に用事があるのだろうけれど。無言の時間は、この私には多少なりとも居心地が悪い。このクラスメイトと私は、その程度の関係だから。
——もしも今日が先週だったら。もしも誘いを断っていたら。もしも六人班だったら。もしも、同じ班にならなかったら。
先週の午後だった。渚くんが茅野さんと杉野くんを誘って、茅野さんが奥田さんを、杉野くんが神崎さんを、そして奥田さんが私を誘って、七人班に六人が集まった。最後七人目は班長の渚くんがまた自ら声をかけた。渚くんだけが誘った。赤羽業。彼が最後に選ぶ相手は赤羽以外ではありえなかった。二人は一年の頃からのクラスメイトで、親しい間柄だったのだ。
——もしも。
私は結局〈無難〉に暗殺大会の結果を尋ねた。赤羽は軽い調子で答えた。「全然」だと。驚くような結果ではない。
「明日も暗殺しなきゃだね」
「そこで千葉と速水さんを駆り出そうって話が——」
「二人とも狙撃成績がいいもんね」
「——磯貝と片岡さんに却下されてた」
「二人にも修学旅行があるもんね」
私たちは徐々に話を広げた。今日午後に立ち寄った神社で先生が大吉を引けず落ち込んだ。まんまと破魔矢を買わされて、明日は木刀までつかまされる。それから「東京でも買えそうな京都土産を買わそうぜ」と赤羽。
「しおりに『京都で買ったおみやげが東京のデパートで売っていたときのショックからの立ち直り方』ってのがあって」
「それを言ったら破魔矢だって『家で置き場に困る』って、書いてた、けど、買っちゃったんだ」
「そ」
赤羽は悪戯っぽく笑った。「絶対、後から落ち込むから。木刀も買わせて、あと大凶も引かせたい。——落ち込んでるときが狙い目だと思うんだよね」
話は尽きない。今日はただでさえ修学旅行で、私たちは同じ班になり、観光も食事も新幹線も一緒だった。この日のために一週間以上も共に準備した。そして何より〈暗殺教室〉だ。生徒が担任を殺すクラスは、他に類を見ない、そのものが話の種である。
暗殺する生徒、爆破する担任、爆破される地球、爆破された月。窓の外に浮かぶ三日月。それを見あげるばかりであっても、言葉の形を選びさえすれば、ウンもアーもエットも要らない。だから。
赤羽はなかなか本題に入らなかった。
控えめなクラスメイトではない。気も声も主張も体格も、少しも控えたところがなく、しかし消極的ではあった。
赤羽の積極性はことさら関心事にのみ強く発揮された。おかげで今やクラスには彼の得意分野を知らない者などいない。よって〈喧嘩〉の用件ではない、とは消去法だが、赤羽が部屋に訪れてかれこれ五分は経過している。もはや予想は無駄である。だが私は一度も尋ねなかった。五月も締め、しかし今すでに私たちは、ただのクラスメイトではありえない。
暗殺ではない、旅行でもない。だが関係はあった。一週間以上前から、一か月以上前から、三年生が始まる前から。
「俺に言いたいこと、ないの」
「まあ一つくらいは」
二年生の冬だった。その頃すでに私たちは三年次のクラスを同じくすることを確固たる事実として知っていた。三年目のクラスメイトになることを。
驚くような偶然ではない。国家機密の賞金首がクラス担任を務める前から、椚ヶ丘中学校三年E組は特別だった。特別なクラスだった。この学校では劣等生は末路を用意されている。〈特別〉強化クラス、通称、エンドのE組。劣等のまま二年生を終えた中学生は、三年E組に〈落ちる〉ことを当校の規則で定められている。
四
見殺しにされた。
一週間以上前、一か月以上前、三年生が始まる前の冬、当時二年生だった私の前で、三年生がそう言った。A組の生徒だった。よって成績優秀者だった。進学校にはよくある制度、特別進学クラスである。〈だから〉私は巻き込まれたとも言えなかった。
ちょうど前日、少し外れた帰り道に、喧嘩を制した中学生が得意げな顔で立っていた。当時クラスメイトだった二年生が。
劣等生の条件は様々だ。成績不振はその最たる例だが、判断は二年次学年末テストで下される。総合順位が下位だったとか、主要五教科で赤点をとったとか。〈E組落ち〉の基準は、公然の秘密だ。——成績の維持そして向上に努めよ。それだけでよかった。それだけで。椚ヶ丘に通うような生徒の多くは素行不良など犯さないのだから。
とはいえ中には素行不良者もいる。出席日数が足りない、授業態度が悪い、校則を守らない。実際今年のE組の一人は、校則違反のアルバイトが露見した途端に転級通知を受けとった。そして赤羽も二年の冬、喧嘩の翌日に受けとった。誰も驚きやしなかった。あるいは誰かは驚いた。彼は一年の頃から有名だった。物事には例外がある。
必ずしも不良がE組に落ちるとは限らない。無断で遅刻して早退して欠席して、喧嘩して、暴力沙汰を起こして、それでも、たとえ常習犯でもE組に落ちないことはある。必ず定期テストを受けて、常に成績上位を記録され、それがA組入りを確実視されるほどならば、担任教師は喜んで問題児をかばうだろう。受け持ちの生徒をA組に入れた功績が、雇用者としての評価につながるのだ。
校則違反のアルバイトが露見した生徒も、頭抜けた成績を残せていれば、やはりA組に進級しただろう。この学校の根幹には実力主義が存在する。
赤羽もだから見逃され続けた。だから赤羽は見とがめられた。あの日、彼が勝利を誇った相手は三年A組の模範的優等生だった。
「こいつです」
朝のホームルームに現れなかったクラス担任が放送で私を呼び出した。一時間目の最中のことだ。廊下で赤羽とすれ違って、訪ねた教員室は荒れ果て、待ち構えていた担任教師はかろうじて己の席を整えていた。そして一人の生徒が隣で〈つえ〉をついていた。包帯に巻かれていた。一目瞭然の容体だった。〈そいつ〉が言った。その瞬間すべてが決定づけられた。
担任は何事をもわめいた。こちらにおわす上級生がいかに優秀な先輩で、あろうことか三年A組でいらっしゃって、さらなる成績上位者であらせられて、季節は冬、冬の、三年A組の、模範生でいらっしゃるのだと、怒声をもって繰り返した。冬の二年生は学年末テストが心配だろうが、冬の三年生は受験が心配だろう。椚ヶ丘学園は中高一貫校だが、外部進学や、実績づくりの受験というものもある。
「どうして赤羽の肩を持つ」
一方的にわめいたクラス担任は尋ねる体で言葉を続けた。「彼の実績に傷がついたら、俺の評価まで下がるんだぞ」
同じ言葉を先の一人も聞いただろう。同じ言葉をそれから私も聞いただろう。
「おまえの〈転級〉も申し出ておいた。停学の届け出もしなくちゃあな。おまえはもう少し賢いと思っていたよ。それが赤羽なんぞと一緒になって、こんな問題を引き起こすとは。——三年生になるまで登校しなくていいようにしてやる。二度と俺の前に現れないでくれ」
三年E組の教室だけは、本校舎の先、さらに山の上、特別校舎——旧校舎——に位置する。当校の規則で、そう定められている。
「ごめん」
浴衣のクラスメイトが腰を折っていた。「そんな」と私は口では言った。彼は頭をあげなかった。「あげて」と言ってみたけれど、
「俺は今でも正しかったと思ってる」
腰は曲げられたままだ。
「赤羽くん」
「けど、だからあんたがE組に落ちてよかったとは思わない」
「私はいいクラスに来たと思ってるよ」
「もっといい修学旅行だった」
「暗殺旅行はすごく充実してたけどな」
「あんたが——あんな目にあうこともなかった」
浴衣のクラスメイトは再び言った。「ごめん」
私はこう言うことに、なっていた。「いいよ」
「何もよくない」
クラスメイトはようやく頭をあげた。滑稽な表情を浮かべていた。「たしかに」と私は返事した。
「よくないことはあった、けど、いいよ、そんな。もう済んだことだから」
白い顔が繰り返す。
「『済んだ』」
「うん。『済んだ』——まだ男子とは話せてなかったんだっけ。先に大部屋で考えたんだけど、女子は協力してもいいって方向でまとまったの。もちろん返事は七人全員で話してから。ほら殴られたり蹴られたりしたわけだから」
私は浴衣と、その首から上とを順に見る。どうやら目立たない程度の傷で済んだようだが、日中の事件では、拉致された私たちの一方で彼ら三人が暴力被害にあった。私たちもあわや性被害というところだったけれど、烏間先生の立場では、併せて国家機密を考慮しなくてはならなかった。
烏間先生の立場では、事件が表沙汰になることは避けねばならなかった。かわりに犯人たちにはすでに監視をつけたと言われて、私たち四人は、七人全員で話し合って決めると答えたのだ。
「そんなの最初から決まってた」
もう三人が、私たち四人と話すまで返事はできないと告げたそうなので。
「烏間先生は頼んでくれたよ」
赤羽が言い出したのだろう。
「その『頼み』を断るって選択肢、あんたらにあったの」
思うに〈それ〉が赤羽のクラス随一の戦闘能力を支えていた。
「なかった、かな」
絶えない喧嘩で培われ、そして誰より早く高校生の襲撃を知らせた部分。
「済んでないよ」
まるで獣のような、それが、——ただの真剣な表情を、物珍しく奇妙な振る舞いだと錯覚させる。
「済んだことだよ」
私は答えた。「たしかにE組落ちって言われたときは、この世の終わりみたいだった。ずっと自宅謹慎で、学年末テストも受けられなくて、三年生が始まって、そのうち月が爆発して、いざ学校に行けるようになったら、地球も爆発するんだって。そんな先生が私を待ってた。今日みたいに生徒を危機から救ってくれる先生が。会えてよかった。本当だよ。私、暗殺者になれてよかった」
「赤羽くん」と呼びかけて、「いいことが、たくさんあったよ。私は今が一番幸福なんだ」
返事はなかった。それだけで室外の様子を思い知らされることとなった。暗殺が落ち着いたのだろうか、消灯には時間があるけれど、すっかり喧噪がやんでいる。私は再び窓の外を見た。隣の赤羽も鈍い動作で夜空を見あげ、沈黙のままに窓を閉めた。私はそれでも視線を外さなかった。相変わらず月は見えないが、数多の星が輝いている。だが長続きはしない。
まもなく開け放しの部屋の外に、奥田さんと杉野くんが足音をさせて現れた。
「なんだ、二人一緒だったんだな。あっちで明日の計画を見直そうぜって話しててさ」
「邪魔しちゃいましたね」
対して私たちはそれぞれ振り返る。
「いや、べつに」
「ちょうど、そっちに行くところだったから」
赤羽は言葉の終わりも待たなかった。杉野くんが制止の声をあげたけれど、赤羽は通り過ぎて部屋を出て行く。杉野くんは慌てて背中を追いかけ、奥田さんも視線をせわしなく移した。そうしながら一歩、彼女も引き返すように爪先を向ける。
「私たちも」
私は最後に部屋を出た。明かりは奥田さんが消してくれて、ふすまは私が閉めようとして、ピストルが持ちあがった。指が引き金に触れている。横で奥田さんがうかがうように私を見た。私は〈笑み〉を打ち消して、首を横に振って、表情をつくり直す。