冠は余らない

    冬

 火神くん、お久しぶりです。年始のあいさつ以来ですね。アメリカでの生活はどうですか。日本はみんな元気です。バスケ部はすっかり変わりましたが、部活は毎日楽しいです。いい変化にしていきたいです。それから、今日で二月が終わるそうです。ボクには少し信じられません。東京はまだ冬の寒さです。四日前には雪も積もりました。今夜は雨です。桜は咲く気配もありません。でも明日は三月一日です。先輩方が卒業します。

 ———雨が降っていたから傘を差した。

 黒子は椅子に座ったまま、キャスターを使って後ろに下がった。両手の携帯端末は送信前の文章を表示している。雨の音を聞きながら、すばやくメッセージを推敲する。文字を減らしたり、増やしたり。誰もが送りかねない文面だったが、大枠は変えないでおく。「ボクはまだ六人目シックスマンですよ」とも付け足さない。もちろん最後の二文も消さない。べつに、火神は忘れていないだろう。きっと送信もするだろう。先輩方に「卒業おめでとうございます」って、アメリカから。
 相棒の火神は渡米した。夏の終わりのことである。アメリカのとある学校が、日本の高校バスケを見て、火神に目をつけたらしい。
 昨夏はたいへん忙しなく過ぎた。火神の渡米ばかりではない。インターハイに出場した。アメリカのチームとも試合をした。ストリート最強と名高いチームが来日したのだ。いろいろあって、黒子は彼らと戦った。キセキの世代が再集結して、そこに火神も加わって。——火神の渡米は一番最後だ。
 火神がいなくなってもバスケ部は続く。夏が過ぎたら秋、秋が過ぎたら冬。新人戦もあった。ウィンターカップもあった。思い返すうちにメッセージが完成する。結局、新たに書くことはなかった。新人戦もウィンターカップも、火神にはそのときに結果を伝えた。新しい主将、新しい監督、新しいチーム。誠凛高校バスケ部は十八人と一匹になった。
 黒子は一度だけ顔を上げると、躊躇なく送信ボタンを押す。そして同時に二つの事象に襲われた。まず窓の外が白く光って、次に端末が着信を知らせた。知らない電話番号だった。少し遅れて雷鳴がとどろく。

 ———水の飛び散った音はするけれど、世界はザアザアうるさいから、どれがどれだかわからなかった。

 雨脚が激しくなっていた。電話に出たら関西弁が聞こえてきた。「もしもし黒子くん、今吉やけど」って。
「花宮と家が近いんやってな」
 都内の大学生、今吉翔一、花宮先輩の先輩である。付け加えると、黒子の友人の先輩で、対戦経験もあるバスケットプレーヤー。だから、どうして僕の番号を、とは大して疑問に思わなかった。大方、高校の後輩——青峰——にでも聞いたのだろう。桃井は承諾を取ってくれそうだし、中学の後輩——花宮——はそもそも取り合わないような気がするし。今吉も三言目にあっさり明かした。桃井が〈収集〉したライバル校のデータの中に、花宮と黒子の些末な関係が含まれていたこと。電話番号は青峰から、急ぎの用事だと言って聞き出したこと。
 そう。黒子の疑問はそこなのだ。誰がどうして、ではなくて、どうして僕が、今夜いきなり。たしかに黒子は「花宮と家が近い」が、互いの部屋の照明の様子がわかるような距離でも位置関係でもない。ましてや今夜は雷雨なのだ。一番想像しやすい用件に関しては、あいにく力になれそうもない。だから理由がわからない。
「もちろんワシも、祝卒業なんかの言伝を頼みたいわけやない」
 今吉も言った。
「今、おとんおかんは一緒か?」
「いえ」
「じいさんばあさんは?」
「それは、僕ではなく——」
 そこで言葉は遮られた。地面を揺らすような音が、窓の外から、電話の向こうから。
「落ちたな」
「落ちましたね」
 続け様にまた一閃。黒子は思わずカーテンに触れ、外を見る。嵐のような天候である。天気予報が明日は晴れると言っていたけれど、はいそうですかと信じられない空模様だ。とはいえ、これも黒子にはどうもできない問題だ。てるてる坊主を作ってもよいが、今は電話の途中である。気を取り直して、直前の問いに答えるとする。
「祖父母のことですが、うちは四人ともいないので」
 僕は一人で部屋にいます、と。
 今吉は声を多少低くして黒子に謝罪の言葉を向けた。黒子は首を横に振って、気にしていないと口で伝える。最初に今吉の意図をくみ取れなかった問題があり、また実際に最後に祖母が亡くなってからもう一年以上も経過している。だからよいというものでもないだろうと、今吉はなおも言ってくれたが、黒子も本当に大丈夫なので。
「ただ、みんなと——部員と——一緒にいるときには、あまり言わないでほしいですが」
「ワシもそこまで悪趣味やない」
「すみません」
 黒子が謝罪すると、言い切るか言い切らないかのところで、また雷が落ち、どちらからともなく口を閉じる。その間に黒子の元には父が訪れ、互いに姿を認めると引き返していく。今吉は黙っていた。通話相手の状況を察してくれたのかもしれない。責任を取って黒子から会話を再開する。
「今吉さんはお一人なんですか?」
 今吉はうなずいた。
「寮からかけてる。一人部屋や」
「先ほどから人数を聞かれるということは、人がいる所では話しづらい内容なのでしょうか」
「あー、んん、せやな。それもある」
 今吉の答えは曖昧だ。しかしようやく本題に入った。
「黒子——自分、怖い話はいける口か?」

 ———バケツをひっくり返したような雨だった。

〈はい〉か〈いいえ〉なら「はい」である。本意はともかく黒子は脅かす側でもある。何しろ影が薄いので。部で「怖い話」になった後、半分は黒子の〈出現〉におびえた。なかでも「いいえ」と即答するような面々の反応はおもしろく、伊月に依頼されて日向主将に話しかけたこともしばしば。伊月は「はい」で日向は「いいえ」だ。肝心の黒子は、
「小説ならわりと」
 ちょうど最近、学校図書館でラヴクラフトを借りて完読した。
「黒子は文学少年やったな」
 今吉は思い出したような口ぶりで返事をする。桃井に聞いたことがあったのだろう。それがどうしたと黒子の疑問符は増えたけれど。
「そんな顔せんといてや」
 顔も見ていないのに今吉はこのように続けた。
「ワシらの中学の——花宮の中学時代の話、聞いたことあるか?」
「まあ、はい。一昨年の夏、初めて桐皇学園と試合をする前に、あなたのプレースタイルについて——駆け引きが得意だと伺いました」
 黒子はオブラートに包んで答えた。
「妖怪やサトリやって?」
「——花宮先輩はあまり自分のことを話さない人ですから、試合がなければ何も知らないままだったとも思います。花宮先輩でなくとも特段、中学の話題にはなりませんし」
 何より黒子が中学の話を避けていた。バスケ部で黒子が中学のことを話すとなると、どうしてもキセキの世代に触れることになる。半年前こそ再集結してアメリカのチームと試合もしたようなキセキの世代だが、一年の間、ウィンターカップ以前ならどうだっただろう。中学校生活は楽しかった。キセキの世代とのバスケは楽しかった。しかし幕引きは、ひどく苦々しいものだった。
 ある時を境にと明白に区切れることではないが、きっかけは二年目の全中だった。主将の交代、チームメイトの追放、全中の圧勝、監督の病気、監督の交代、才能の開花。チームはぎくしゃくとしていって、最後の全中では、まるで攻め守るゴールが一緒というだけの五人の選手がコートに立っているようだった。やがて五人の天才は、そして黒子は、雌雄を決するべく異なる高校に進学した。
 というのが、昨年度、誠凛がウィンターカップで優勝をつかみ取るまでの話。いろいろあったが、今ではすっかり健全に友人かつライバルである。閑話休題。
「花宮先輩は『いける口』ではありましたね。何冊かは先輩のおすすめで読みましたし、僕は映画は全然ですが、先輩は映画にも詳しかったです」
 これは口には出さないけれど、花宮がいると雰囲気も出た。今吉はうなずいた。
「中学の頃から不気味なやつやった」
 黒子は弁明しなかった。すると今吉は、根暗だの陰気だのと後輩について言葉をつなげる。黒子は同意もしなかったが。
「最初から最後まであいつは一人やった。独りになりたがってた。まあいろいろ言われることもあってな。〈ミサキ〉とは真逆の人間やーって」
 今吉が知らない名前を出した。二人の共通の知人だろうと、黒子は聞き流そうとした。ところが今吉はこのように続けた。
「その様子やと、ミサキのことは知らんようやな」
 質問というより確認だった。今吉は黒子の返事を待たず、次に「学校の七不思議」と口にする。「学校の怪談」と。
「まだ誠凛にはないか」
「そうですね」
 黒子は努めて反応を抑えた。
「帝光の話は桃井がしよったな、〈誠凛にはまだないやろうけど〉、桐皇にはもうある。ワシらの中学——夜見北——にもあった。有名な話が一つ」
「それがミサキさんですか」
「せや。三年三組の人間は毎月、誰かしら死ぬっちゅう話や」

 ———土砂降りが体をザアザア流していく。

 何かあったんですか。一般的な七不思議ではありませんよね。どうして三年三組なんですか。毎月、人が死ぬんですか。どうして毎月なんですか。何か、あったんですか。
 想像と違ったから、突飛な話だったから、先輩の母校の話だから、先輩の先輩の言葉だから、瞬時に疑問が渦を巻いても、同じだけの速度で返事をすることはできなかった。結局、最初の一つを尋ねた。今吉は「昔々」と返事をした。直後、雷鳴がまた一つとどろいた。
 昔々、何百年ではなく何十年か前、夜見北中——夜見山北中学——にはミサキという男子生徒がいた。勉強ができて運動もできて人間もできていて顔もできていて、いつもクラスの中心にいて、一年の頃から学校中の人気者だった。そんなミサキが三年生に上がった五月、とある火事で亡くなってしまう。家が全焼したのである。ミサキも含めて一家四人、全員の焼死体が焼け跡から見つかった。ところが同級生たちは人気者の突然の訃報を受け入れなかった。
「受け入れなかった?」
 黒子はそこが要点だと直感した。今吉は答えた。
「たとえば花瓶、亡うなったクラスメイトの席に置いたやろ、あれを降ろした」
 朝はミサキにも挨拶をして、点呼のときにはミサキも呼び、配布物はミサキの席にまで回す。だってミサキはここにいる、ミサキはまだ生きている、ミサキは死んでなどいない。クラスの誰かが言い出した。同級生は次々と追従した。学校側も理解を示した。そうして一年間、同級生を中心に、ミサキが死ななかったことにした。
「——ミサキを〈おる者〉として扱った」
 聞いた限りでは〈よい話〉だが、いかんせんこの話は「怖い話」の文脈の上にある。ので、
「卒業写真が心霊写真になったそうや」
〈いない〉はずのミサキの姿が集合写真に写っていたのだという。
 ここまできたら、もはや明白な事実だったが、ミサキのクラスは三年三組だったらしい。
「三年三組の夜見山ミサキ。探せば名簿に名前が載ってる」
「心霊写真もあるんですか?」
 今吉は電話の向こうで首を横に振った。名簿は学校に保管されていた。名簿を探したときに、一緒に心霊写真も探したが、こちらは失われていた。心霊写真を見せてくれるような当事者に伝手があるわけでもなかった。〈心霊写真を見せてもらえるような動機〉もありはしなかった。だから今吉は心霊写真を確認できていない。
「自分が黒子でよかったわ」
 黒子は首をかしげた。無論、今吉には見えやしない。しかし今吉は答えるかのように言葉を続けた。
「ワシの話、信じたか?」
 黒子は、まさかとは言わなかった。信じたとも言えなかったが。今吉は満足げにうなずいた。
 まあ、だって、頭ごなしに否定するようなことではない。黒子にとっては。
 件の「心霊写真」自体は、現像に失敗した部分があったとか、写りの悪い部分があったとか、光の加減でどう見えたとか、元をたどればそのような事実があるのかもしれない。一方で、偶然にしろ必然にしろ、事実も積み重なれば理由を気にする向きは出てくる。ましてや当時の三組は容易に心霊現象を信じただろう。彼らはともすれば幽霊と学校生活を送っていたのだ。そして、そういうことがあったから後の生徒たちも「三年三組」を理由にする。たとえば三年三組で〈不幸〉が多発したときに。
「——一番有名なのは心霊写真や。三年の初めに亡うなったミサキが集合写真に写ってた。時々〈原因〉を知ってるやつがおる。ミサキを〈おる者〉として扱ってたっちゅう部分や。けど、その次の年に起きたことを知ってるのは、毎年、三、四十人」
 黒子は人数の多寡を感じるより先に、身近な概念と〈比較〉してしまう。
「ミサキが卒業した次の月、新しい三年三組の生徒が死んだ」

 ———飛び散った液体が視界を延々邪魔していく。

 再び白い光が見えた瞬間、黒子の心臓が僅かに跳ねた。今吉は淡々と数字を重ねた。「まずは四月」
「四月の次は五月、五月の次は六月、六月の次は七月。三月に卒業するまで毎月、三年三組の関係者が死んだ。死因はいろいろやったけど、みんな一年前のことは覚えてる。黒子が考えたとおりや。そら呪いやーって思った。卒業した後は死なんくなったのもデカいやろうな。三年三組やなくなったら、死なんくなる。つまり人間やなくてクラスが呪われてる——」
 視界の端に光がよぎる。
「——そういうことが、たびたび起きた」
 耳元では今吉の話す声だけがする。
「五月も六月も七月も、進級してから卒業するまで三年三組の関係者が毎月死ぬ。そういう〈現象〉が——〈ある年〉がある」
〈ない年〉があった。しかし「ある年」もあった。
「ない年」が多かったことは、これこそ不幸中の幸いだ。だが、ある年に当たってしまったら、関係者が最低でも十二人は死ぬ。共通点は三年三組。やがて学校も無視できなくなり、できるかぎりのことを試した。二組の次を四組にしてみたり、教室を移してみたり、新校舎を建ててみたり。そうして、三年生の三番目の学級が呪われていることが判明した。
「要するに、お手上げや」
 三年三組になってしまったら四月いっぱい、関係者が誰も死なないことを祈って過ごさなければならないのだ。
 黒子は慎重に言葉を選んだ。
「三年三組の『関係者』にも何か規則があるんですか」
「ホンマに話が早くて助かるわ」
 今吉はあっさりうなずいた。「三年三組とその家族や」
「厳密には三年生の三番目のクラスの生徒と担任と、その人らの二親等以内の親族。父母、祖父母、兄弟姉妹。基本的にそういう人間が、夜見山市内におるときに死ぬ。単なる経験則やけど。——この『現象』には〈ルール〉がある」
 三年三組にも「ルール」がある。
 聞かされる前からわかっていた。三、四十人。その人数は、つまりクラス一つ分だ。

 ———額に前髪がはりついて、ぼたぼた雨が垂れていく。

 強いて言えば手遅れだった。三年三組のことではない。通話相手のことでもない。黒子自身のことである。
 今吉は言った。
「二年のとき——花宮が入学してきた年——バスケ部の二年とコーチが死んだ。二人は親子で、三年三組に姉がおって、娘がおった。二親等以内の親族や。五月に起きた〈事故〉やった。けど、四月には一人、三組の生徒が一家心中に巻き込まれてた」
 ある年だった。バスケ部の二人は、ある年の五月の犠牲者だった。以後も例によって三月まで毎月、誰かしらが死んだ。
 年度末のクラス発表は阿鼻叫喚の惨状だった。二年生の次は三年生。三組とはつまり三年三組。おおむね対岸の火事とはいえども、ある年の三年三組と同じ校舎で一年間を過ごせば、さすがに大半が多少なりともいわくを知る。三年三組に選ばれた生徒は生きた心地がしなかっただろう。ある年はない年より少ない。さらに言えば、実は連続したことはめったにない。けれども可能性がないわけではない。
 今吉は三年一組だった。そして、その年はない年だった。
「四月の間、クラスの前を通るのも嫌やった三組が、五月、六月、徐々に〈普通〉になって、まあ晴れ晴れと卒業しよったもんや。結局ホンマに安心したかったら、卒業式を迎えるしかない」
 知らないうちに関係者が死んでいるかもしれない。知らない「親族」がいるかもしれない。場合によっては三親等も死ぬかもしれない。場合によっては市外でも死ぬかもしれない。現状のルールはすべて経験則である。
 黒子は夏休みを思い出していた。今吉が誠凛に来た日のことだ。インターハイの後だった。花宮に用事があると言って、二人で妙な応酬をしていた。どちらかといえば、もめていた。しかし花宮は急遽、帰省することを決めた。今でも道理はわからないが、多少のことは察しがついた。花宮は母子家庭の育ちで、父親を知らないという。だから——。
「今吉さん、僕に何の用ですか」
 稲妻が光った。今吉は鳴りやんだ後で答えた。

 ———足りないと思った。

 通話が終わると送信画面が現れて、黒子は直前の操作を思い出した。ボタンを押したつもりだったが、僅差で着信が勝ったらしい。火神へのメッセージはまだ加筆修正が間に合うのだ。考えたときには、一文字目を入力していた。二文字、三文字、指が止まらない。雨の音が聞こえない。降っていないのか、落ち着いたのか。もう雷も鳴らないのか。明日はきっと晴れるのだろう。三月一日、卒業式。先輩方が卒業する。体育館で名前を呼ばれる。先輩の。
 名前を入力することができて、黒子は知らず息を吐いた。文字を増やす、そのたびに一々理由を思い出した。思い出せた。そのたびに安心した。最後にそれを疑問符で締める。
 大した長さにはならなかった。一文、それも一行以内だ。一目見て返事ができる。——おまえ何言ってんだ?
 黒子は書き足した文字を一気に消した。すべて戻した。そして二度と確かめずに送信した。エラーは返ってこなかった。電話もかかってこなかった。まもなく火神から返事がきた。その間、黒子は何もできなくて、読み終えた後は消灯した。布団をかぶった。
 目を閉じた。

 ———だから、もう一度、傘を差した。

「花宮は三年三組やった。ある年の。そして一人も欠けずに卒業した。
 お手上げっちゅうのはホンマのことや。現に今年——今年度——もある年やった。ワシには四つくらい下の妹がおって、いや、生きてるで。三組やけど。妹のクラスも、まだ犠牲者はゼロや。
 いつやったか、有効な対策が見つかったんよ。花宮や妹は〈おまじない〉やって言うてる。
 実は現象には、もうひとつ特徴があって、クラスの人数が増えるんや。過去の犠牲者が生き返って、一年間クラスにおって、生きてるみたいに、死んでへんように、普通に過ごす。記憶や記録は改変、改竄される。本人に〈死者〉の自覚はない。みんな卒業してから気づく。『そういえば、もうひとりクラスにおったような——』
 いきなり聞かされてもわからんわな。とにかく一年間だけ幽霊が違和感なく紛れ込んで、その分、クラスの人数がひとり増える。
『おまじない』はこのことを逆手に取った。ひとり増えて人が死ぬんなら、ひとり減らしたらどうやろか。
〈おらん者〉が〈おる者〉になってる分、〈おる者〉を〈おらん者〉として扱おう。
 夜見北中は三月末に新しいクラスを発表する。そこで新しい三年三組は密かに集められて、卒業した三組の生徒から引き継ぎを受ける。かつて三組に起きたこと、これから三組に起きるかもしれんこと。何やいろいろ決めるらしいけど、一緒に『おらん者』も決めておく。四月になって、ある年やったらクラス全員で『おらん者』を無視して、ない年やったらやめればええ。
 この対策がうまくいった年もあれば、うまくいかんかった年もある。花宮の年はうまくいったっちゅうわけや」

 ———うつ伏せに倒れたから、仰向けになおして差した。

「ああ、ある年の三年三組は、新学期の朝、教室の席が足りないらしいで」

 ———もう一度。もう一度。もう一度。もう一度。

「もちろん忘れてへんよ」

 ———差して、差して、差して、差す。

「ちゃんと黒子に用があって」

 ———傘を差す。

「今夜しか、おまえにしか聞けんことがある」

 ———もう一度。

「木吉のことやねん」

 ———傘を刺す。


    卒業式

 目を開けた。布団を脱いだ。朝日が部屋に差し込んでいた。食卓にはいつもの朝食が並んでいた。家族が外を見て喜んでいた。黒子は決まりきって両手を合わせ、何ともなしに顔を上げた。両目に写真が飛び込んできた。黒子は言葉も食事ものみ込んだ。家族も何も言わなかった。だって、あれは親戚が集まった時の写真で、今日は先輩の卒業式だ。
 黒子は家を出る前に携帯端末を拾い上げ、荷物に含めた。直後、振動を感じたけれど、そのまま靴を履いて、家を出た。少し道路を歩いただけで卒業生に遭遇した。
「花宮先輩」
 朝がかぶることも、よくあった。
「おまえ、いるならいるって言え」
 この一、二週間は行きも帰りもご無沙汰だったが。
「〈もうひとり〉なら殺してましたか」
 よりにもよって今朝かぶるなんて。
「ふうん」
 卒業生が歩みを緩めた。
「今吉さんと電話でもした?」
 黒子は無言で横に並んだ。
「聞かされたな。三年三組のミサキの話」
 黒子はまだ覚えていた。
「先輩とはまるで真逆の人だったと」
 今吉が話していた。ミサキはなんでもできて人気者だった。比べると花宮は不気味で根暗で陰気で、どこにいても独りで、そして、
「〈いないもの〉だったんですね」
 ミサキを失った三年三組は、ミサキに挨拶をして、名前を呼んで、話しかけ、話しかけられた。ミサキを〈いるもの〉として扱った。現象で増えるもうひとり——死者——はいわば彼らの一年の具現化である。だからある年の「いないもの」は挨拶をされない、名前を呼ばれない、話しかけられない、話しかけない。
「いいもんだぜ。遅刻しても早退しても、登校しなくても皆勤賞。模試は免除、行事も免除、むしろいなければいないほうがいい。無視されることはストレスだが、無視することもストレスだ。失敗した年の半分は、いないものの扱いに失敗してる」
 しかし花宮の年は成功した。今吉の言うには、そういう人選だったらしいが。本人の性格、校内での立ち位置、家庭の状況。友人が多い人間は向いていない。急な単独行動が不自然に映るから。部活のエースも向いていない。単純にチームが困るから。学年一位も向いていない。かといって最下位には教員の支援が欠かせない。校内には兄弟がいるべきではない。家族が熱心だと都合が悪い。消去法だ。——ワシの知っとる花宮は勉強も運動も平凡な成績やった。
「先輩が〈二号を嫌っている〉のも三年三組が理由ですか」
「おまえが考えてるのとはたぶん違うぞ」
 花宮は黒子を見ずに答えた。
「三組に転校生が来た年がある。なんでって思うだろ。学校としても入れたかなかったろうが、三組にだけ入れない判断もできなかったって話だ。——まあ問題が起きた。ある年かない年かわからなかった。いないものの説明ができなかった」
「『誰それがいないものの役を担っている』と説明することで、その人をいるものとして扱ったことになりうる——?」
 結局、当時の三組は転校生に事情の一切を伝えなかった。うまくいけば、いないもののことは幽霊だとして通してしまえる。が、諸事情により転校生は幽霊でないことを確信しており、折に触れて話しかけ、名前を呼んだ。その月のうちに生徒が死んだ。実は転校生のせいではなかったのだけれど、それはまた別の話。いろいろ特別な年だったのだ。
「だから、途中で部員の数が増えるから」
「そういう苦手意識は俺の中にもあったらしい」
 黒子は花宮の顔を見た。
 ——ある年の三年三組は、新学期の朝、教室の席が足りないらしいで。
 今吉の声が脳裏によみがえる。
「おまえマジで全部聞かされたんだな。悪趣味。からかわれてるって思わなかった?」
 黒子は口をつぐんだ。
「俺はべつに平気だぜ。元からこういう性格だし、俺らの年はうまくいった。先輩みたいに目の前で死なれたこともない。何よりここは夜見山じゃない」
 三年三組の経験則。たとえ三組の関係者だとしても、夜見山の外にいれば現象では死なない。
「だからこそ恐ろしくはありませんか」
 ところで、黒子が入部してすぐのゴールデンウィーク明け、降旗が練習に来なかった。後から忌引きだったと聞いた。冬の大会が始まる前には学校の前で交通事故が起きた。部員のクラスメイトだった。大会が終わったら病気がちだったクラスメイトが亡くなった。——祖父母は二月に亡くなった。子供と孫に会いに来る途中で。
「コガの家は四月だったな。六月の水戸部も忌引きだった。七月は土田、八月は相田、九月は日向。十一月にまた水戸部。伊月の家も年明けだったっけ」
 三月には木吉の祖父が亡くなった。黒子は胸中で付け足して、
「今年も毎月、誠凛の〈関係者〉が亡くなっています」
「忘れちゃいねーよ。秋には降旗の友達が死んでる。覚えてる。——だが、偶然だよ」
 花宮も黒子を見た。僅かだけ。
「夜見北というか夜見山って土地が、そもそもよくないんじゃねえかって説がある」
「〈黄泉〉だから、ですか」
「そういうこと。誠凛はそんな場所じゃないだろ」
「でも——」
 黒子は反射的に口を開いたが、続く言葉は失われていた。
「俺らは木吉を〈いるもの〉として扱ったことはない」

 バスケ部の部室には一つ、不自然に使われていないロッカーがある。先輩のロッカーの並びに一つ。一年の夏、青峰に負けた直後だったか、誰かが気づいて教えてもらった。誠凛高校バスケ部を創った人間、木吉鉄平のことをである。
 一年前、一年生だけの学校でバスケ部を創るために奔走したこと、日向の勧誘に多少の時間をかけたこと、屋上で全国進出を宣誓したこと、花宮が木吉に誘われたこと、最後に土田が入ったこと。夏の予選の快進撃。木吉が膝を壊して、そして、子供を助けて溺死した。
 戦線離脱を余儀なくされた木吉は、入院したり通院したりと膝の回復に専念していた。亡くなったときも、病院の帰りだったらしい。その日は夏特有の豪雨だった。——足を滑らせて川に引き込まれた。死を覚悟した。だが、誰かに助けてもらった。それが、その子供の証言だ。

 黒子はまだ覚えていた。
 先輩方はいつも、いつでも、このチームでのプレーが最後である可能性を覚悟していた。三年生の有無は関係ない。知っていたのだ。経験していたのだ。木吉と二度とプレーできなくなった、あの夏に。いつも、いつでも、優勝してもできなくても先輩方は悔やんでいた。どうして忘れていたのだろう。黒子も立ったコートの上に、いつも木吉はいなかった。木吉はもう生きていない。だって木吉は亡くなっている。
「いいか黒子、今吉さんの話は忘れろ。あれは人の混乱を楽しんでるだけだ。写真を見てみろ。部室にあるだろ、ウィンターカップで優勝したときの、十三人と一匹で写ったやつが——」
 黒子はまだ覚えていた。
 木吉の顔を覚えていた。はっきり思い出すことができた。先輩方が写真を見せてくれたのだ。創部当時の集合写真を。そこには、まだ黒子と出会う前の、一年生だった頃の先輩方が写っていた。その中でひとりだけ、わからなかった。後で思い出したんだっけ。中学バスケの有名選手、無冠の四将、鉄心の木吉。
 いつしか地面の水たまりを数えていた。
 謝らないと。思考することができたときには、学校に着いていた。
「またな、黒子」
 花宮が涼しい顔で黒子を見る。校舎に背を向け、足元に水たまりが見えて、あたりまえに桜の木は薄ら寒い。
「ご卒業おめでとうございます」
 伝えた黒子に、先輩は「ありがとう」と口元を緩める。「二年前の俺に伝えてくれよ」

「殺した、って」

 教室を目指す廊下の途中でクラスメイトとすれ違った。人手を探していたので名乗り出たが、案の定、驚かれた。「いるならいるって言ってよ」って、先輩にも言われたけれど難しい話だ。
「それで、僕でよければ力になりますが」
「うん、全然お願いしたい!」
 椅子が余ってしまったのだと、クラスメイトは困り顔だ。大急ぎで卒業生の席を数えなおしているらしい。黒子は二つ返事で承諾して、その場で行先を変更する。何か忘れているような気もしたが、体育館に着く頃には気にすることもなくなっていた。
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