冠は余らない

  ある年(三)
    春

 初めての春の始業式。学校の桜は散っていた。桜が咲いている卒業式がいい。自然と考えて、ふと立ち止まる。通り過ぎた桜の木。見下ろした靴の下に桜の花弁。いつなら咲いていただろう。思い出すことはできなかった。見上げた空は、嗚呼、なんて外周日和。
 春の始業式といえば、もちろんクラス替えの発表だ。うっすらと寒い桜の木の向こうに、人だかりができている。誠凛高校のクラス替えは外の張り紙で告知されるらしい。知った顔、知らないわけではない顔、知らなかった顔、それぞれが歓声を上げるばかりか、躍り上がったり、飛び上がったり。これではクラスを知ることもできない。はあ。ため息が横から聞こえてきた。まるで知らない顔だったが、後で一緒に名前を見つけた。チームメイトはいなかった。
 まるで知らない顔だったが、新しいクラスメイトには顔も名前も知られていた。だって日本一のバスケ部でしょ、などと言われて、うっかり納得してしまう。ウィンターカップで優勝してから、新聞にも雑誌にも載り、学校でも表彰された。写真を撮られた。補欠も補欠のベンチの俺まで、優勝旗と一緒に十三人と一匹で。いや、それだと武田先生が入ってないから——。
 さておき知り合ったばかりのクラスメイトとは、教室に入ったら席も前後で、余計に長々と話し込んだ。おかげで先生が入ってきたことに気づけず、早々におしかりをくらってしまう。もしかして新学期最初の反省文は俺たちなのか。戦慄していると、先生が笑いだす。おまえたちで四番目だって。もうそんなに!? 思わず大きな声が出て、また笑われて、なぜか反省文は免除された。
 朝のホームルームは出欠確認だけで、すぐに始業式が開かれた。そこで初めて知ったのだけれど、思いきり笑って始業式の引率までをしてくれた先生は、まったく担任ではなかった。きっと反省文もその関係で免除されたのだろう。初めから冗談だった可能性まである。もてあそばれた。あの先生が挨拶するとき、ついにらむように見てしまった。目が合ったような感覚は、もう気のせいだと信じていたい。
 始業式は退屈しなかった。まずは新しい気の合うクラスメイトのおかげ。次にバスケ部のカントクのおかげ。カントクは生徒会役員なのだ。しかも副会長。学校行事に際して部員の態度をつぶさに監視していることは、バスケ部の中ではあまりに有名。だって練習内容が変わるから。——退屈しないって、つまり緊張しきりというわけ。
 そんなこんなで始業式が終わる。教室に戻る道すがら、クラスメイトと新しい担任の話をする。きっと楽しい一年になる。
 席についたら、正しい担任が入ってきた。廊下から徐々に足音が失われる。かわりに隣のクラスで椅子を引く音、座る音。先生の声。そして、また足音。何やら重たげな足取りに、廊下を見たら主将がいた。バスケ部主将が机と椅子を運んでいた。でも、どこに?

「席が足りなくてな」

 バスケ部主将は答えてくれた。
 新学期といえども放課後の部活動はいつもと変わらず。四月も数日、強豪バスケ部は何度も練習に集まっているのだ。強いて言えば、休憩時間は新しいクラスの話になった。何組だったとか、〈二年〉はバラバラだったとか、〈三年〉は結構かぶったとか、担任がどうとか、ホームルームがどうとか、そういえばホームルーム中に二年の廊下を主将が通ったとか。
 席が足りなかった。主将の答えはこうだった。
 へえ席が、そんなこともあるものだなあ。二年生たちは、それぞれ思った。短くない学校生活を振り返ってみた。高校二年、義務教育九年、春うらら、入学して進級して新しい教室で席を探したら、自分の机と椅子がない。そんな経験は今までにない。と、うんうんうなずいた幻の六人目シックスマンだけは、多少の注目を集めることになった。失礼ですよと言う黒子に、注目した連中はそそくさと謝る。
 しかし、そんなことって、あるものらしい。
「へえ〈また〉席が」
 伊月が話を聞きつけた。三年部員はクラスが結構かぶったが、日向と伊月はかぶらなかった。
「たしか去年も席が足りないクラスがあって——」
 首をかしげた二年生たちに伊月が教えてやろうとしたら、三年生も半分は覚えていなかった。まあ、わざわざ覚えておくことでもない。伊月もたまたま思い出しただけだ。
 ちなみに当時の二年何組は足りない席を空き教室から補充した。新設校ゆえ机と椅子の組み合わせは、校舎のどこにでも余りがあった。今日の日向の足りない席も、空き教室から適当に拝借。
「あとは新入生のクラスをつくったときに、三次チェック四次チェック五次チェック」
 ——させられた記憶がある。だから伊月は覚えていたのだろう。
「たしかに入学してすぐ席がなかったら落ち込んだかも」
「キャプテンだって落ち込んだよな」
「そーだそーだ!」
「花宮とコガは黙ってろ」
「だいたい花宮だって——」
 三年生の思い出話に花が咲く。四月の始業式がどうだった、入学式がどうだった。
 二年生も二年生で入学当時の話をした。決め手にならなかった部活動紹介、いきなり脱がされた体験入部、人前で声を張って入部宣言、初めての練習試合でキセキの世代と対戦し、個性的な先輩方と親交を深め。もう一年前の思い出か。並べ立てて、思いをはせた。一年生が二年生になり、二年生が三年生になった。実感はなかった。
「インターハイ」
 誰かが言った。
「優勝しようぜ」
「おう」
 誰からともなく返事をした。
「まずは新入部員だけど」
 この数日後、無事に入学式が執り行われた。新入生のクラスをつくる役に選ばれた降旗は、六次チェックも七次チェックも経験した。さらに数日後には入部希望者が三十名ほど名乗りを上げ、数々の試練を経ておよそ半数が入部したのだ。


    夏

 誠凛高校バスケ部にはかつて十三人と〈一匹〉がいた。カントクが一人、選手が十二人、〈犬〉が一匹。十三人と一匹。
「〈テツヤ〉二号です」
 いきなり脱がされた新入部員は、二年生からは小型犬を紹介され、破顔し、反芻し、——見比べる。
「黒子〈テツヤ〉先輩」

「二号先輩が!」
 トイレから戻ったら同じ一年のバスケ部員が、こぞって俺を振り向いた。二号先輩が。体育館の入口から、口々に必死に言ってくる。何かあったかと走ってみたが、二号先輩に何かがあったなら俺より先輩方を呼ぶべきでは? 喉元まで出てきた言葉は、駆けつけたところで引っ込んだ。輪の中央には二年がいて、その先輩は小さな犬を抱きかかえていた。
 どうしたんですか。先輩がいたことで一応敬語を使ったけれど、真っ先に一年がかみついてくる。
「どうしたもこうしたも!」
 ただ首を振る先輩の前で、同じ一年の彼は訴えた。いわく二号先輩が、やたらひっついて離れないのだ。
「そうなんですか、二号先輩」
 黒子先輩の腕の中で〈二号先輩〉はクウンと鳴いた。
 一年より入部が先だったから、二号先輩。二年三年がただ「二号」と呼ぶところ、一年は明確な線引きの下で「先輩」を付ける。実際に二号がどれくらいの先輩かというと、ちょうど先日、インターハイの打ち上げと同時に彼の一周年をお祝いした。二号先輩は昨年この時期に拾われたのだ。黒子先輩に。
 だから「テツヤ二号」というわけでもないけれど。もちろん「黒子テツヤ」の「テツヤ」らしいが、由来は拾ったエピソードでなく、一人と一匹の顔だそうな。黒子先輩と二号先輩は目元がとてもよく似ているのだ。さらに言えば、顔にかぎらず性格も似ている。インターハイも終わった八月、思うに、彼らは多少頑固であった。
 今回もそれが発揮されたのだろう。理由まではわからないが。
「いやもう休憩入ったらすぐよ、すぐ。水取りに来たら二号先輩が走ってきて、俺の周り回りだすの。もう危ないのなんのって」
 おちおち歩いてもいられなくなり、黒子先輩を呼んだそうだ。拾われた恩か、二号は黒子に懐いている(黒子以外に懐いていないわけではない)。案の定、二号は、黒子にはおとなしく捕まったのだ。とはいえ原因は先輩にもわからず、やがてトイレから彼が戻ってきたということだ。
「いや俺だって、黒子先輩がわからないならお手上げ——ですよ」
「そうですか」
 黒子先輩は困ったように腕の中を見下ろした。どうやら解放しようものなら、再びつきまといを開始するだろう確信があるらしい。二号先輩もこたえるようにワンとほえた。
 解決が見込まれないまま、時間だけが過ぎていく。途中で火神先輩も来たが、なぜか「バッシュ」と一単語つぶやいて去っていった。いよいよ三年に相談する時か。横目でステージを見てみたら、ステージでもちらちらこちらを見ていた。中には火神先輩もいる。先輩たちにも状況は伝わっているのだ。そのうち二人がまっすぐ入口に向かってきた。
「バッシュ」
 黒子先輩がつぶやいたのと、ほとんど同時の到着だった。
「カントクが呼んでる。歩いて行け」
 三年の先輩は一年のたった一人を見つめた。黒子先輩が顔を上げる。あいつは大量の疑問符を浮かべたが、呼ばれたと聞けばただちに向かう。歩けと言われれば歩いて急ぐ。同じく疑問符を浮かべた他の一年を残して、あいつはたちまち背中を向けた。離れていくあいつに、別の声が飛ぶ。
「後で二号に礼を言うんだぞ!」
 いったい何だというのだろう。しかし二号先輩は飛び出さず、逆に黒子先輩は解放し、輪を離れた。ステージ前で火神先輩が黒子先輩を呼んでいる。
 バッシュがどうかしたんですか。木吉先輩にも花宮先輩にも聞けなかった答えは、その日のうちに返ってきた。

「二号大明神様!」
 怪我をするところだった、らしい。ステージ前でそのように診断したカントクは、あいつに別のメニューを厳命すると、二号先輩をたいそう褒めた。二号があいつの体について予兆を感じ伝えてくれたのだと、カントクは信じているようだった。カントクだけではない。他の先輩も二号は本当に賢いと言った。火神先輩などはバッシュの損耗具合を警告されたそうだ。半年未満の付き合いとはいえ、一年にも二号の賢さを否定する気はないが。張本人ともなれば、
「ああっ二号大明神さまっ」
 こうなった。再度休憩に入るや否や、二号先輩にやたらひっつき、離れなくなった。小型犬はキャンと鳴いて逃げ出した。立場が逆転してしまっている。
 付き合っていられないな、と、彼はカントクの元を目指した。元々、先の休憩で聞いておきたかったことがあるのだ。休憩時間に申し訳ないと思いつつステージ前を訪れると、カントクは一人でバインダーをにらんでいた。
「あら」
 まもなく顔が上がる。
「何か用?」
「まずは、あいつの足のことで、ありがとうございました」
「いいのよ。それも仕事のうちだわ。あのバカが二号追いかけるのをやめてくれればベストだけど、まあ、日向くんか鉄平が止めるでしょう」
 すると向こうで三年二人が立ち上がった。おお。感嘆が音になる。それでとカントクは彼を見た。
「別の用事があったんでしょ」
「実はお盆休みのことなんですけど」
 やっぱり練習したいなー、って。
 返事はすぐにはやってこない。体育館には怒声が響く。主将の声だ。それから木吉先輩がなだめる声。一年生が謝る声。二号先輩がワンと鳴く声。再び主将が何かを言って、ようやくカントクは口を開けた。
「一応言っておくけれど、意地悪したいわけじゃないのよ」
 二度目だった。彼は以前もこのことについて話した。お盆もバスケを練習したいと。夏休み前、練習日を渡された日だった。カントクはそのときも首を横に振った。お盆は休み、そのかわり明けたらまた嫌というほど練習をすると。実際、お盆行こうのカレンダーはバスケの練習で埋められており、休養も鍛錬のうちとまで言われれば納得して引き下がらないわけにはいかない。それに食い下がる理由もなかった。ただ、習慣だった。お盆休みは三年ぶりだったのだ。
 彼の中学は歴史的かつ伝統的で、男子バスケ部は強豪だった。キセキの世代の帝光中学ほどではなかったが、それだけのことだ。明くる日も明くる日も練習三昧。お盆も正月も関係ない。そういうものだと思っていた。
「あの、わかってます。でも、あんな試合を見せられたら、なんか——。インターハイ、すごかった」
「その結果が〈あのバカ〉なんだけど?」
 カントクが再び喧噪に横目をくれる。「二号大明神様」をあがめる声。不調の(前兆の)原因はオーバーワーク。そこを突かれると少しだけ痛い。ああはならないようにしますから。たやすく言えるはずだったのに、なぜか喉から出ていかない。カントクがため息をこぼした。
「十五日」
「え?」
「うちが体育館を使える日」
 ワン! 二号先輩の鳴き声が響く。またあのバカが何かやらかしたのか。しかしあきれる暇などなかった。
「えっと、えっ、——なんで?」
「さあね。理由はいろいろあったはずよ。もちろん。でも今ここで重要なのは、十五日にうちが体育館を使えるってこと。その日に部員が集まらないこと。
 意地悪したいわけじゃないのよ。
 ただ、その日は〈集まれない〉の。三年は全員いないし、二年も一人か二人じゃない? だから去年も一昨年もお盆に練習はやってない。
 納得してもらえたかしら?」
 返事はすぐにはできなかった。かわりとばかりに二号先輩がほえた。当然、関係はないだろうが。またあのバカがやらかしたのだろう。もう一度、先輩がほえる。それを聞き届けて、ようやく彼はうなずいた。自分でわかるくらい、ぎこちなかった。カントクの顔も見れなかった。
 ワン! 二号先輩がまたほえた。
 気づいてしかるべきだった。いや、考えなければなかったのだ。バカは俺だ。こんな〈わかりきったこと〉をよりにもよってカントクに言わせてしまった。
 ワン! またまた二号先輩がほえて、
「休憩はもうすぐ終わりよ。あんたは顔を洗ってきなさい。私はあのバカを仕留めに——」
 ワン!
 二人は顔を見合わせた。
「——なんか二号先輩」
「——よくほえる日ね」
 ワン!
 どちらからともなく二号を探す。居場所は当然わかりきっている。部員の背中、背中、その向こう。体育館の入口の一つ。そこに立ちはだかるように、二号がいた。私服の男を阻んでいた。
 有り体に言って運動部らしく、同年代のようだった。しかし制服でも運動着でもなく、誠凛生かもわからなかった。特徴らしい特徴もない。強いて言えば眼鏡をしているが、ありふれた特徴である。バスケ部だけでも三人はいる。ということは、やはり他校生なのだろうか。
 彼は瞬時に推理した。カントクは違った。
「今吉、翔一」

「おっ、花宮」
 所変わって入口付近。ワンワンほえる犬を挟んで、その場の半数が彼の名前を知っていた。特に名指しをされた一人は渋々ながらも前に出て、犬を抱えて部員に渡す。犬はたちまち口を閉じた。たまたま黒子が引き取ったのだ。押しつけた花宮はこれまた渋々、今吉を見た。
「今日の部活は十九時までです」
「あと二時間、半、っちゅーとこやな」
 今吉は見上げるように顔を動かした。体育館の時計を見たのだ。その隙に花宮は背を向けた。「では」
 ちょうどそのとき、ステージ前から三年と一年が到着する。つかつか歩いた三年生は最初に花宮を呼ぶことにした。
「いいの?」
「ああ」
 彼女は次に今吉を見た。全然よくない目と目が合った。
「花宮くん」
「何?」
 こちらもこちらで全然よくない声を響かせる。
 一年生はこっそり一年の輪に加わった。みんなが首の動きで彼を見る。彼らも来客の正体はわかっているらしい。彼の横でカントクがこぼしたように、彼らの横でも先輩方が口にしたのだろう。何なら来客本人が自ら名乗った可能性もある。桐皇OBの、と最初に付けたかまではわからないが。
 あの桐皇学園の〈元〉主将だった。あのキセキの世代の青峰が入った年のバスケ部で、ポイントガードを務めていた。今吉翔一の試合映像を彼らはこの夏に何度も見た。遠目には思い出せなかったが、近くで見たら、なるほどビデオに映っていた。ビデオで見るより何倍も穏やかな顔をしていた。いっそ柔和とまで言い表せそうだ。あの青峰をチームに招き、主将を務めきった人物なのに。そして中学時代の花宮先輩の、先輩だった——。
 一年同士そうこう目配せするうちにカントクが花宮と立ち位置を替えた。
「おめでとうございます」
「せやったな。そちらさんも」
 今吉もひとまずカントクと話すことにしたらしい。
 インターハイ、ストリート、大会、スターキー、アメリカ、ジャバウォック。覚えのある単語ばかりが飛び交い、徐々に声が増えていく。主将、木吉、小金井、そして二年から火神。
「マジで待つつもりなんですか?」
「え? まー久々に後輩のバスケ見るのも悪い選択肢やないな」
「木吉おまえアイマスクは?」
 花宮も口を挟んだ。
「部室だな。ヘッドホンも。——まさか今吉さんに使わせるつもりか?」
「べつにいいだろ。後で消毒でもしてやれば」
「まあ俺は構わんが」
 木吉は答えつつ今吉を見る。ライバル校OBの大学生の顔には、はっきりと疑問符が浮かんでいた。
「いや、なんや〈ええ話〉してるなーってことは」
 今吉はカントクを見る。
「すまんな。突然押しかけたのはこっちや。時間取らせて悪かった。いろいろ疑うところもあるやろうけど、ワシが用があるのは花宮や。花宮だけちょっと借りることはできんやろか。三十分も一時間もかかりはせん。ワシにとっても貴重な時間や」
「だそうよ、花宮くん。私としても、今吉さんみたいな人を真夏の炎天下に放って置くわけにはいかないわ」
 カントクは花宮を振り返った。心底嫌そうな目と目が合った。ハァ、と心底嫌そうに息を吐く花宮。
「すぐ終わる話なら今ここでしてください。それができないなら二時間後に。あなたももう大学生です。時間くらいどうにでも潰せるはずだ。それもできないなら、幸いうちにはアイマスクとヘッドホンとオーディオプレイヤーがありますが」
「八日」
 今吉は間髪入れずにそう答えた。今度は誠凛生が首をかしげる番だった。「八月八日」と言い直した花宮を除いては。あと何日もない日付である。特に何もない日であって、つまり練習の予定がある日で。
「わかるな、花宮」
「まったく意味がないということくらいは」
 今吉は今ここで話すことを選んだのだ。
「〈あいつ〉もわかっとる」
 外野にはとんとわからない話だが。花宮はうなずいた。
「そうか。あいつももう中三か」
「意外やろ。おまえが卒業してから三年たった」
「意外な事実です」
「いっぺんも帰ってへんのやってな」
「うちは母親しかいないんで」
「なあ、夜見山に帰ってくれんか」
「あなたと一緒に?」
「そうしたいのは山々やけど、ワシの予定は知ってのとおりや」
 それだけは外野にもわかった。もちろん花宮にも。花宮はまた一つため息をつくと、
「仕方ないですね。久々にド田舎の空気を吸っておくのも悪くない——なんて言うわけねえだろバァカ!」
 と言った。
 外野はぎょっとして花宮を見た。三年から一年まで皆、花宮の言動は知っていた。が、今回は仮にも大学生が相手である。チームメイトの動揺を知ってか知らずか、花宮は冷たい声で言葉を続ける。
「ゼロ点です」
「手厳しいな」
 しかし今吉も柔和な表情を浮かべている。
「なんなら禁忌肢だ。俺は〈母親似〉なんです。冗談じゃない。あなたもルールはご存じでしょう」
「せやったら、大会優勝おめでとう、いうのはどうや?」
「ああ、いいですね。大会優勝おめでとうございます。次の試合も頑張ってくださいね。応援してます」
「キッショ。五十点」
「わかってるじゃないですか」
 ではこれで。花宮は今吉に背を向ける。ついでにカントクを呼んだ。
「もういいの?」
「ああ。悪かったな」
「うちはいいのよ。みんなオーバーワーク気味だった。ただ、あの人は全然よくないって顔だけど」
 背を向けた花宮にはわからないことである。
「花宮」
 それでも声は届いたが。
「大会優勝おめでとう、いうのはどうや」
 花宮はぴたりと動きを止めた。
「ふうん。あんた本気なんだな」
 花宮の顔は部員からも見ることができない。そして、
「そんなん初めっから本気や」
 この瞬間の今吉の表情も、誰も見てはいなかった。
「〈始まってはいない〉んですね」
「ああ」
「けど〈足りなかった〉」
「そうらしい」
「百点です」
 次に見たとき、今吉は元より、花宮も笑みを浮かべていた。
「カントク、後で話がある」
「もう今ここでしなさいな」
「なら八日から十日まで帰省するかも」
「いや『かも』じゃないだろ」
 横から主将が口を挟む。
 ワン! 久しぶりに二号もほえた。
「じゃあ、その埋め合わせと言っちゃあ何だが十五日——」
 鼻歌でも歌いそうな返事。花宮は主将と並んで遠ざかり、
「——あ、花宮、ちょお待て」
 行ってしまった。
 一年はそろりと他校のOBを見た。なんと、ぴったり目が合った。
「あっ——あの、俺でよければ伝えましょうか」
「なら頼むわ」
 今吉はほとんど即答した。もうひとつ言いたいことがあったのだと高校生の目を見て——顎に手を当てた。
 一年生はいつでも聞き逃さないよう、聴覚に神経を集中させる。一方で今吉は眉根を寄せて、天を仰いだ。
「あかん、忘れた」
 大丈夫ですか? 高校生は尋ねたが、大学生は最終的にはうなずいた。大事な用事は済ませたからと。それなら高校生にできることはない。大学生もくるりと背を向けただけで帰り支度を終えてしまった。
「ええと、親善試合、応援してます」
「どーも、おおきに。そちらさんもウィンターカップがんばってや」


    秋

 誠凛高校バスケ部にはかつて〈二十七人〉と一匹がいた。カントクが一人、〈選手〉が二十六人、犬が一匹。二十七人と一匹。
 もちろん瀬戸健太郎のことではない。今日も一週間ぶりに顔を出すなり「瀬戸さん今週もいらしたんですね」と他人行儀に扱われた瀬戸は、それもそのはず他校生である。毎週毎週、来るたび来るたび、違う制服とすれ違い、異物を見る目で振り向かれる。愛校精神など考えたこともなかったけれど、ここに通い続けていると、制服を懐かしむことにもなる。
 とはいえ今日も制服を隠さず身につけ、瀬戸は堂々と他校の体育館に座り込んだ。数秒遅れて、瀬戸の正面で犬がほえた。テツヤ二号である。が、瀬戸はこの犬の名前を覚えていなかった。いや覚えなかった。犬に会うためにわざわざ通っているわけではないのだ。だから、いくら聞かされても聞く耳を持たない。困ったことはない。ただし二号はしっかり瀬戸を覚え、瀬戸が来るたび彼の胡坐に乗り込んだ。
 他校生がここに座り込む条件の一つである。
 それから、
「瀬戸さん」
 一年生。手にアイマスクとヘッドホン。瀬戸は黙ってそれらを受け取り、それぞれ目と耳に当ててしまう。もたつくと足の間の犬がキャンキャン鳴いてうるさいのだ。ヘッドホンは有線で瀬戸の所持品に接続。たちまち音が流れ込んできて、体育館の喧噪が遠ざかっていく。やがては安らかな眠りに包まれ——。
「あの人もう寝たぞ」
「何しに来てるんだ?」
 ——べつに、寝に来たわけでもないのである。しかし耳にヘッドホン、目にアイマスク、足の間に小型犬。この犬が一番厄介で、瀬戸が拘束を逃れる素振りでも見せようものなら、キャンキャン鳴いてうるさいのなんの。瀬戸は警戒されているのだ。当然といえば当然に。瀬戸はただの他校生ではない。〈霧崎第一高校〉はまがりなりにも強豪バスケ部を抱えている。どれくらい強豪かって、冬の大会の予選決勝で誠凛高校と当たったくらい。
 その試合がきっかけだった。
 十二月のいつか、移動教室で廊下に出たら、前のやつらが横に広がりちんたらちんたら歩いていた。ながら歩きというやつだった。遅刻は恐れることでもないが、邪魔なものは邪魔なのだ。かといって面倒ごとは御免被りたい。事実を伝える程度が無難かと近づいた、そのときだ。〈歩きながら〉の続きがわかった。携帯端末で動画を視聴していたのだ。男子四人で横に広がって? ——それは疑問にもならなかった。四人組がバスケ部だったから、ではなくて。
 瀬戸はその瞬間から肩を小突かれる直前までのできごとを、まったく何も覚えていない。というか。気づいたら別のクラスの教室にいた。四人組は二人組に。〈彼らの試合映像〉はすでに再生終了。授業の用意を始めている。瀬戸は若干の注目を集め、教室前方の戸が開き、ふと手に持った道具を見下ろす。次の授業は化学らしい。鐘の鳴る音に背を向け、瀬戸は歩いて教室を出た。バスケ部のクラスを頭に刻みつけて。
 その日それから瀬戸は一度も寝なかった。授業中も、休憩中も。バスケ部の試合が繰り返し繰り返し脳裏に再生されるのだ。ウィンターカップ予選決勝最終日、対誠凛戦。有り体に言ってひどい試合だった。ティップオフ早々、繰り出されるラフプレー。間抜けな審判。負傷するどころか逆にファウルをもらう誠凛高校。度重なる選手交代。得点はわずかに自校が優勢。インターバル。挟んでなおもラフプレーは続く。しかし花宮真が、指を鳴らした。
「おはよう、瀬戸くん」
 瀬戸はゆっくり覚醒する。
「あー、もう休憩?」
「外しなよ、それ」
 聞きながら、とっくに瀬戸は外していた。まぶしい視界に、入り込んだ花宮の影。足元が急に軽くなる。小型犬が降りたのだ。それを、どうやら花宮が抱えた。持ち上げ、診察するように体を見ていく。
「ひっでーな。俺のこと何だと思ってんの?」
「君はうちの部員じゃないから」
「俺に動物虐待の趣味はないよ」
「そうだろうね」
 花宮は素っ気なく、犬の〈診察〉と解放を優先する。いやまあ瀬戸も気にしてはいないが。何せ初日からして「犬を殺したいと思う前に遠慮なく申し出て」だ。犬を傷つける許可ではない。警告である。体育館を追い出すぞという。そのときも瀬戸は否定したが、そのときも花宮はうなずかなかった。「君はうちの部員じゃないから」
 さて犬を放すと花宮は、
「それで瀬戸くん——」
「おまえとゲームメイクの話がしたい」
「——バスケ部でもないのに?」
「花宮の頭脳に興味がある」
「だってさ、カントク!」
 ステージに向かって呼びかけた。
「ダメに決まってるでしょうが!」
 即座に女子生徒の声が返る。
「だってさ、瀬戸くん」
 何度来ても同じだよ。花宮は再び瀬戸を見た。瀬戸は今日も食い下がらなかった。やがて違う三年生が来る。
「あっ瀬戸くん今週も来たんだ」
 小金井である。人間の名前も大して覚えなかった瀬戸だが、小金井の名前は覚えることになった。
「うちの闇宮がお世話になってます」
 こういうわけだ。毎週どんな話をするか、瀬戸はまったく覚えていない。小金井との会話は、生産的ではない。こいつは花宮とは違う。
 花宮はこいつらとは違う。
 あの試合で花宮が何をしたか。何をしていたか。絶対に小金井にはわからないだろう。自校のバスケ部の人間も、実際のところは何もわかっていなかった。おまえらの監督がかわいく見えてくる。瀬戸がそれを説明したとき、バスケ部の連中には鼻で笑われた。
 霧崎第一高校バスケ部監督は諸々の罪で逮捕、解雇されている。生徒への体罰、違法薬物の所持、後ろ暗い連中との交際、エトセトラ。やっぱり瀬戸は関心がなかった。ただ学校は大事件として扱って、数度の集会も発生したから、さすがに時期は記憶している。秋の終わり、冬の初め、バスケ部のカレンダーに合わせるならば、ウィンターカップ予選終了直後のことだ。
 あの試合の花宮はポイントガードのポジションだった。そして、その役割以上に、緻密に〈伏線〉の糸を張り巡らせていた。あたかも蜘蛛が巣を構築するように。花宮はあの監督のやることなすこと、その罪状まで織り込み済みでコートに立っていた。
「瀬戸くんって、やっぱ頭いいんだね」
「うん、いいよ」
 何の話をしていたのだったか、アッと言って小金井がいなくなった。休憩が終わったらしい。小型犬が戻ってくる。キャンキャン鳴かれる前に、ヘッドホンを耳に当て、アイマスクを下ろす。犬は乗り込んでこなかった。
 いつまでたっても。
 重量を感じられないことの違和感で、瀬戸はアイマスクを再び上げる。犬は体育館を出て行ってしまった。小型犬は戻ってこない。かわりにキャンキャン鳴く声が聞こえる。ふと静かなコートを見ると、誠凛生の視線が突き刺さった。ここは無罪を訴えるべきか。とりあえずヘッドホンも下ろし、立ち上がっておく。ゆっくり両手の平も見せると、見事な無抵抗宣言。あとは、あちらが銃を向けてきて、ゆっくり地面に伏せなさいなどと言ってくれれば完璧だが。
 小型犬は戻ってきた。当然だけれども五体満足で。二年か一年が犬に駆け寄る。
「二号、何があったんですか」
 犬はワンともキャンともほえない。かわりに、
「あっ、ワンちゃん!」
 見知らぬ女子生徒が駆け込んできた。当然だけれども誠凛生で、十中八九、泣いていた。彼女は瞬間的に状況を把握し、泣きはらした顔を慌てて隠す。呆然となるバスケ部の中から、しかし一人が彼女を呼んだ。その声に、彼女は肩を震わせた。
 尋常ならざる事態である。瀬戸は気づかれる前にと場所を移した。気づかれなかった。女子生徒が嗚咽を漏らす。先の部員が走って彼女の前に立つ。
「えっ、あの、何かあった?」
 女子生徒は一段と大きな嗚咽で答える。
「体育館は今、男バスが使ってて」
 大きく首を縦に振って返事。
「お、俺に用事——ってこと?」
 再度、首が縦に振られる。
「降旗、だけど」
「わ、わっ、わかって、る」
「もしかして、あいつと喧嘩にでもなった?」
 女子生徒は再び黙りこくった。ただ大きくしゃくり上げる。いや。
「ち、ちが、ううぅうぅうううううぅ。ふ、ふり、はたくん。違うの。違う。違うの。あのね。降旗くん。あのね、あの、ひと、——死んだって」
 おっと。これは急展開。
 練習再開は遅れに遅れた。そのことをとやかく言う者は、このバスケ部にはいなかった。
「う——、だって、風邪で休みって」
 降旗は体育館を出て行った。誠凛の監督はとがめなかった。彼女自身、女子生徒に付き添って外に出た。
 瀬戸の元には花宮が来た。花宮が来て「瀬戸」と呼ばれた。瀬戸は思わず瞬いた。「瀬戸くん」ではなかったから。
「——わかってる。今日は帰るよ」
「『今日は』じゃない」
 花宮は言った。
「二度と来るな」

 かくして瀬戸は体育館を追い出された。走り去ったバスケ部員、泣きじゃくる女子生徒、それらと同じ出口を通った。他校の敷地を悠々と歩いた。校門の向こう、さらに横断歩道の向こう側に「交通事故がありました」の看板。
「なに最後にノスタルジー出してんの」
「言うほどノスタルジーあったか?」
「いや何か言い忘れたと思って」
「事故の看板に?」
 茶化された。瀬戸は返事をしなかった。この場で特に重要視されるような問題ではない。案の定、〈連中〉は早々に興味を失って、退屈げに本題に戻っていく。そして責めるような視線を瀬戸に向けた。
「だって、そうでしょ。なんにも収穫がないってことじゃん?」
「当然。誠凛の監督はバカじゃない。〈気づいてた〉よ」
 ハァ。連中はため息をついた。何を今さら。瀬戸は無視した。人選からして無理があったのだ。口で何を取り繕っても、瀬戸の身長は百九十センチ。これで青瓢箪ならよかったが、残念ながら火神と大差ない体形である。つまり。
「じゃあ火神が——」
「〈火神を失った〉誠凛でも、霧崎第一には勝てるだろうね」
「——かぶせんなって」
 まあこの場で最低身長を見たところで、百八十前後の〈正センター〉が出てくるわけだが。そのセンターは不満ぶってこう言った。
「せっかく〈体罰〉我慢したってのに」
「まったくだ」
 バスケ部レギュラーその二が続いた。
「またやるか?」
「暴力監督探し?」
「いやラフプレー」
 瀬戸は何も言わなかったのに、注目は瀬戸に集まった。瀬戸は感慨なく告げた。
「通用しない」
「IQ160はどうした、IQ160は」
 関係ないね。とは返事をしない。知能指数の何たるかも、もう説明などしてやらない。バカにつける薬はない。
 結論は夏とほとんど同じまま。誠凛に勝つためには無冠かキセキが必要だ。バスケという競技には才能が必要で、誠凛は火神を失ったところで相変わらずそれほどのチームである。そこに頭脳で立ち向かおうったって、べつに悪くない着眼点だが、それには最低でももうひとり瀬戸が必要だった。
「瀬戸ちゃん今から双子になーれ」
「無理、いない、諦めて」
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