冠は余らない

  ある年(二)
    春

 入ったばかりのバスケ部に知らない後ろ姿が二つ。その片方が〈ぎょろり〉と振り返った瞬間、隣の新入部員も硬直した。黒子テツヤは、はっとする。決して表情には出なかったけれど、うれしくなって隣のチームメイトを見上げる。かつてのチームメイトと同様、強者はやはり強者を知る。火神大我は本物だ。そして黒子も改めて振り返った顔を観察した。後ろ姿は知らなかったが、二人のことは知っていた。このバスケ部の二年生だ。
「ご挨拶だな」
 まず振り返った彼が口を開いた。バスケ部らしい運動着、体育館を歩く足取り、身長は黒子より十センチ以上も大きく、バスケも十倍以上うまい。黒子は知識を持っていたが、横の火神は肌で感じた。闘争心が急速に燃え、拳を握る。バスケしようぜ。ンだとコラ。黒子は火神の推移をいち早く算出し、そのどちらもが飛び出す前にと声を出した。
「火神くん」
 見上げた顔が、すると今度はぎょっとした。黒子のことを思い出したのだ。ずっと黒子に立っていたのに、何なら教室から一緒だったのに。そう黒子が内心でむっとしたときには、二年生のもうひとりも振り返っていて、
「出た!」
 ウワッと叫んで、のけ反った。声量より何より体格が彼の反応を大げさに見せる。校内でも高身長の部類だろう隣の二年生を優に上回る身長百九十センチ超。
「おい木吉」
「はっ、花宮!」
「二人は新入部員だ、バァカ」
「そうか、幽霊部員が二人も」
 彼は木吉。木吉鉄平。中高バスケの有名選手だ。そして隣で花宮真が剣吞な目つきをくれている。
「木吉、幽霊部員は幽霊じゃない」
「たしかに——ってことは、おまえたち、まさか」
 ハァ。花宮がため息をついた。
「すまないな、黒子くん」
「構いません」
 黒子は答えた。実は中学時代、幽霊部員にされたことがある。黒子は皆勤賞のつもりだったが、夏前に突然「最近、黒子を見てないよな」と。さすがに慌てて自己主張をして、部誌や名簿を確認してもらった。思ったとおりデータ上も黒子は皆勤賞だったので、幽霊部員騒動は事なきを得た。
「いや、それは構えよ」
「皆勤賞も取りましたから。あれは風邪で休んだ翌日——」
 あと一日で皆勤賞。肩を落として登校したのに、いざ発表された皆勤賞には黒子の名前も連なっていた。後で正直に申告したのに、賞は取り下げられなかった。黒子は絶対に出席していた、とは当時の担任の曲がらぬ主張だ。
 正直に言って慣れっこなのだ。こういうことは。この現象は。黒子は生来、影が薄い、らしかった。欠席も早退も遅刻もバレない。かわりに本当にはぐれたときに、なかなか見つけてもらえない。中学時代、体育館に幽霊が出るとうわさが立った。クラスメイトが〈出る〉とささやくので、部活終わりの自主練の際には多少なりとも身構えていたのに、うわさの正体は黒子だった。
「慣れればこっちのものですよ」
「なるほど、悪いことばかりじゃないらしい」
 花宮が一度、火神を見た。
「けど、いいことばかりというわけでもない」
 黒子から目をそらしたのだ。

「もうひとりなら殺してた」

 花宮は記憶力がいいんだ、という謎の言葉に見送られ、火神と黒子は二年生と別れた。すると、すぐに火神がささやいた。
「なんだよ、あいつ、ヤバいんじゃねえの」
「先輩ですよ」
 黒子はたしなめたが、二十センチも高い所で「けどよ」と火神がまだ言った。たしかに物騒な言葉だった。
「もしかすると怖がりなのかもしれません」
「そんなふうに見えたかよ——?」
「いいえ、ちっとも。火神くんは?」
「——やる、やつだ。って」
「実際、強い選手ですからね」
 誠凛高校バスケ部を全国に導いたプレーヤーだ。
「全国?」
「全国です。誠凛高校はインターハイとウィンターカップで全国に進出したチームですよ」
「でもここ、去年は一年だけじゃ」
 それでも新設校の新設部は一年生だけで激戦区東京を制し、全国大会に出場した。ウィンターカップはベスト8。調べたら簡単にわかることだが、火神は日本のバスケ事情に疎いらしい。
 疑わしい気持ちも理解はできた。誠凛高校には有名な監督がいない。体験入部でカントクを名乗って出てきた人物は、なんと一学年上の女子生徒だった。結局、バスケ部目当ての新入部員は皆無に等しい。黒子でさえ彼らの実績に重きを置いて学校を選んだわけではない。
 しかし入ってみたら、彼らの実績は、まぐれではないことを期待できた。カントクも期待以上の能力を伴っており、何より火神と出会うことができた。火神には才能があった。今はまだ〈かつてのチームメイト〉には遠く及ばない。だが、きっと火神は紛れもなく本物のバスケの天才なのだ。最大の、うれしい誤算だ。
 黒子は、ちらりと「誤算」を見上げる。百九十センチは、それほどの身長で、身体能力も人並み外れて優れている。おまけにプレースタイルが、黒子のそれと相性がよい。プレースタイルに関していえば、黒子のプレーは特殊だった。
 うれしい誤算は脇で、へえ、と気が抜けたような返事をして、慌てて首を横に振る。
「いや、この学校がどうとかじゃ」
「何か気になることでもありましたか」
「——あっちの花宮、先輩っていったか。ええと、ほら、どうして、おまえが黒子だってわかったんだろうな」
「それは——」
 黒子は体育館前方に目を向けた。二年生が舞台の前に集まっている。僕らも急いで行かないと。思いつつも、木吉を見つけた。木吉の横に花宮もいた。そして、そのとき花宮が、ぎょろりと、こちらを振り向いた。黒子は〈またも〉呼吸を止める。さっき話したときも、そうだった。花宮に見られた気がしたのだ。
 気のせいだ。さっきの黒子は、そう片づけた。彼はプレースタイルを磨く過程で〈光〉を意識するようになった。生来より薄い彼の影は「光」によって、より薄まる。黒子が注目されないことは、他者が注目されることだ。他者が注目されることは、黒子が注目されないことだ。たとえばバスケの試合なら、高身長、高得点、実力者、バスケットボール。中学以来、黒子の影は意図して薄められている。
 気のせいだ。再び言い聞かせたとき、火神が同じところを見た。黒子も改めて前を見た。二年生たちが変わらず、いた。花宮とは目が会わなかった。俺らも行こうぜ。火神が走る。遅れまいと黒子も続く。——黒子は影を薄めるために、たいてい「光」を利用する。注目を集める人物は、黒子の存在感を奪ってくれる。だから仮に誰かが黒子を見るような行動を取っても、実際には「光」を、隣の火神を見ただけなのだ。
 火神が走ったことに気づいて、主将が新入部員を集めた。集まった一年は、体験入部から随分と減った。主将も数えていたけれど言及しようともしなかった。かわりに花宮と木吉を呼んだ。
「一年は初めてだろうから紹介しとく。うちの二年の木吉と花宮だ。どっちも強化選手で結構うまいから、それなりに頼れ。次!」


    夏

 次の土曜の練習のことで花宮が話しかけてきた。珍しいこともあるものだった。奇妙だとさえ感じられた。この先輩に呼ばれるとき、火神は大抵、テストで悪い点を取ったり、言葉遣いを謝ったり、どちらかといえば学業面においてやらかしていたのだが。それがバスケにかかわるとしたら、もしや補習の通達だろうか。いやまさか。それなら花宮より適任の部員がいる。同じクラスの黒子である。だからといって火神は安心できなかった。花宮の顔色は火神には読み解けない。その花宮が火神を体育館の壁まで連れ出した。
 練習を抜け出した。カントクと主将は訳知り顔で見逃した。火神はますます見当がつかない。補習などの通達でないとすれば、やはり部活動に関する内容であるはずで、しかし並大抵のことならば休憩時間に話せばいい。そして、それほどの内容であるならば、ここには花宮ではなく、カントクか主将がいるはずだ。
 チームメイトの声と足音、ボールが床をたたく音。まだ三十秒もたたないというのに、バスケットボールに責められている気がしてならない。理由がわからないことも、その気持ちに拍車をかけた。バスケットボールに触りたい。ふと中の先輩と目が合う。木吉だった。彼は火神に笑みだけ向けると、何事もなかったように練習に戻っていく。その奥に見えた相棒は、逆に気づく余裕もないらしい。元より腹を立てることではないが、まあ今の火神にも余裕はなかった。ボール触りてえ、バスケしてえ、次は、次こそ——勝つ。勝つのだ。
「なあ火神」
 誠凛高校バスケ部は桐皇学園高校に負けた。インターハイ予選決勝で〈キセキの世代〉の青峰大輝に敗北した。完全に。以後も誠凛は桐皇戦の結果を引きずり、一方の桐皇はまもなくインターハイに出場する。優勝候補の一角である。一度でも戦えば、そこに疑いを挟む余地がないことは明白だ。青峰は第二クォーターの終わりに現れ、ウォーミングアップだと言って火神を抜き去り、桐皇の選手さえ置き去りにした。誠凛はコートの五人で束になっても圧倒された。青峰ひとりに。
 青峰ひとりに、かなわなかった。
 桐皇学園のバスケ部は紛れもない強豪だ。新しい学校ゆえ実績は少ないが、監督を迎え、選手を集めた。そして各分野の実力者がそれぞれ個人技を優先した。チームプレーが重要な五対五の球技で、まったく異色と言えるまでに。しかし各人の高い能力が異色のチームを成立させた。青峰がいなくても機能していた。けれども青峰を獲得した。桐皇にあっても青峰は一人、抜きん出て強かった。
 わかっていた、つもりだった。「キセキの世代」がそういうものだと。
 ——声出し、バッシュ、バスケットボール。一度抜け出すと、火神を誘ってやまない心地のよい騒音。一方で、花宮の声はよく聞こえた。
 先輩は、
「おまえカレーつくれるよな。ルーで」
 と尋ねてきた。
 火神は、
「はい」
 と答えた。
 はい、つくれます。Yes, I can. イエス、火神はカレーライスをつくれる。カレールーをたくさん使うと、後でたくさん食べられる。特に独り暮らしを始めてからは、全部が火神の分である。はたしてバスケと関係あるのかって、何もないように思われるけれど、火神だけ呼ばれた理由はわかった。花宮が呼びに来た理由も、おそらくは。
 花宮と火神は独り暮らしだ。部で二人だけの共通点で、二人の多くない共通項だ。火神は父親の仕事の都合で、花宮も母親の仕事の都合で。そのために二人は自炊をしている。
 話のきっかけは黒子だった。家が近所だったんですと、まだ新入部員だったころに報告された。帰り道が一緒になって、と。それを横で聞いていた小金井先輩が、独り暮らし宮は料理上手、なんて話し始める。火神は思わず本人に確認した。花宮はただ同じだなと言って多少のことを教えてくれた。母親が地元で店をやっていること。彼ひとり東京に出てきたこと。
 だから自炊をしている。だからルーでカレーライスをつくれる。その連想はよしとして。だからバスケ部の練習のことで呼ばれただって? まさかカレーをつくりながら走り込みをやれとでも?
「そんなバカなことがあってたまるか——です」
 火神は思わず大声を出しかけた。うっかり、いろいろ付け足した。
「危険、ですよ、だって、そんなの」
 おそるおそる花宮の顔をうかがう。いつもなら即座に「敬語」と一言、厳しい表情をつくる先輩が、今は「ふはっ」と後輩を笑っていた。
「ンなこと、さすがにカントクもわかってる。——カレーつくるときの動作だよ」
「動作」
「ああ。具材を切る、カレーを混ぜる、そういう動作が実はバスケと同じっていう。判断力も鍛えられる。時間感覚も養われる」
「マジ、ですか」
 火神は少し納得しかけた。時間は調理のすべてではないが、
「ううん」
「『ううん』?」
「カレーづくりでからだづくり——なわけねえだろバァカ」
 火神は先輩を見下ろすことしかできなかった。火神は部では木吉の次に数えられるほど背が高い。そうして大体において見下ろす形になる花宮を今日も見下ろし、見下されていることを確信した。小金井の言うには、花宮には誰も彼もがバカに見えるのだということだが。
「部員に料理を教えてほしい」
 マジかよ。花宮の目より高いところで火神はまた声に出す。うっかり今度は英語だった。火神は帰国子女なので、たびたびこういうことがある。同様の理由で日本語も怪しい。会話はできるが、学業成績には影響が出ている。また敬語の扱いも苦手としていた。火神の取って付けたような「です」「ます」を矯正してくれる花宮だが、口をついて出た英語をとがめることはしなかった。だから火神も訂正しなかった。単純にその暇もなかった。花宮がすぐに言葉を続けたからだ。
「合宿の計画がある。夏休みにな。去年もやった。施設を借りて、泊まりがけでバスケの練習。費用はあらかた部費から出るが、予算の都合で飯が出ない。去年は部員でカレーをつくった。今年の飯も、そうなる予定だ」
「ってことは」
 火神はたちどころに理解した。
「それが人にものを頼む態度だと——!?」
 思わず「マジかよ」の続きも出ちゃった。さすがに日本語だったけれど。
「うん」
 花宮は簡単にうなずいた。
 おそらくは、こういうことだ。合宿では晩飯にカレーライスをつくる。ぶっつけ本番には不安があるから、事前に——次の土曜日に——カレーづくりの練習をする。そこでの指導を火神も一緒に引き受けてくれないか。ぶっつけ本番を避けた理由は、調理に不慣れな部員がいること。だから逆に日々の自炊で慣れている火神は指導を担う側であると。
「だから断りたければ断ればいい」
「そりゃそうだけど——?」
「粉からつくるってんならまだしも、ルーだぜ。ンなもん合宿でギャーギャー喚いてつくればいいって思うだろ。ウゼェけど。五月の一年合宿でもそうだったんだ。だってのに俺は自炊してるからなんつーアホみてえな理由で料理教室の先生様だ。一生出てくる飯だけ食ってろ、バァカ、俺は毎日練習の後でもつくってんだよ」
 それこそ断ればよかったのでは。花宮は火神が返事をする前に見透かしたように遮った。
「それでも練習は必要だという結論に至った」
「ナンデ!?」
 驚く後輩に、一転、真顔を形づくる先輩。
「俺らは今年も練習をしなくちゃならない」
「いや、だから」
「俺は引き続き先生をやることになる。今年は一年が入ったから、おまえと分担できればとも考えたが、俺ひとりでも監督は可能だろう。家庭科室を借りる都合上、土曜は顧問の武田先生もいてくれる。自分の面倒だけ見ていられるなら、他にもカレー程度つくれるやつはいる。死傷者は出ないはずだ。そもそも合宿で実際に飯をつくるのは、——カントク主体の予定だからな」
 火神は眉を上げた。てっきり花宮と二人で引き受ける羽目になる予想だった。しかし、よかったと胸をなで下ろすより、カントクに対する申し訳のない思いが先立つ。昨年から単純に一学年が増えたのだ。具体的には火神ら後輩が計五名。自分でつくるときは一人も八人も十三人も大差ないと考えるけれど、バスケ部で過ごした三か月と花宮の口ぶりから察するに、カントクは「不慣れ」な部員であある。
 すると花宮は、また見透かして、
「そのカントクが合宿だからって張り切ってキッツい練習を組むから、俺らはおそらく台所に立つことすらままならないだろう、っつー予定」
 やはり終始、真顔である。
「まあカントクも、俺らと差はあっても疲れることは間違いない。万が一ということもある。だから全員がカレーをつくれそうになっておくことには意味がある。とかなんとか理由をつけて練習に持ち込んだから、今年も当然するものだとカントクが考えての、次の土曜だ」
 火神はどこか不安な気持ちになってきた。花宮の顔も今日は特に陰気に見える。妙な言い回しのせいだろうか。死傷者が出ないはずなどという言葉選びは、物騒そのものの先輩の言い回しとしても、かなり大げさな部類である。もちろん台所には命の危険がありふれているけれども、だ。
 ぐるぐる渦巻くような思考に、身に起こったわけでもないのに目を回しかけていると、ふはっと笑う声がした。それで火神はなぜか途端に落ち着いた。花宮は安心を与えようとしたわけでもないだろうに。絶対に。しかし火神は穏やかな思考を取り戻せたので、答えを待たれていることも思い出した。
「どうして先輩が来たんですか」
 それでも火神は答えなかったが。先輩は答えた。
「おまえカントクとキャプテンに頼まれて断れるか? 家庭科の教科書を読んでこいって言えるか? ただでさえ先輩の〈監督〉と〈主将〉だぞ? ——俺は言えた。そのうえで面倒を見てやった経験から、あと一人でも八人でも十三人でも増えたところで大差ないと結論を出した。先に、もう一度言っておく。俺ひとりで十分だ」
 花宮先輩。火神は思わず呼んでいた。先輩は火神の名前のかわりに、それに、と続けた。
「おまえが今ここで何と答えようが、どうせ一年は二年よりまず同じ一年を頼るだろうしな」
「花宮——先輩」
 花宮に、じっとにらまれる。指摘される前に言いなおす。ハァとため息を返される。
「どうなるにせよ、おまえには話を通しておくべきだった。一年も二年も全員おまえの自炊は知ってるからな。一年にも自分の面倒くらい見れるやつはいるだろ。去年は水戸部とコガが安定してた」
「へー。水戸部先輩は納得、ですけど」
「コガはいろいろ器用なやつだ」
「勉強とか?」
「バスケもな」
 答えた花宮は練習風景に目をくれた。火神が追いかけた視線の先には小金井がいた。このバスケでも器用な先輩は、昨年は誠凛のシックスマンだったという。その練習の手が急に止まった。時を同じくしてカントクの声が体育館に響く。休憩にしましょう。火神は、そろりと花宮を見た。先輩はこれで終わりだと言わんばかりの顔をしていて、
「悪かったな」
「べつに謝られるようなことじゃ」
 火神は即座に否定する。練習に戻りたかった気持ちは否定できないけれど、話を聞く前に想像していた内容より、ずっとバスケ部に関係していた。他の一年に先んじて合宿開催を知れた優越感もある。何より、これは先輩からの配慮だった。
 ボールの音は、ぱたぱたやんだ。やんだところからチームメイトがコートを出ていく。それの最初を小金井が飾り、最後を黒子の死に体が飾った。
 黒子は火神の相棒で、部の誰よりも体力がない。今も、歩けていることが不思議なくらいだ。最上級生が二年生とはいえ先輩を差し置いてまでスターティングメンバーとして数えられるような選手なのに、黒子はバスケの技術も基本的に高くない。この事実は誠凛の選手の実力不足を意味しない。ただただ黒子が特殊なのだ。彼はこうも呼ばれている——。
「でも桐皇の話じゃなかったろ」
 ——幻の六人目シックスマン
 キセキの世代のシックスマンだった。黒子はかつて青峰と同じチームにいた。
 桐皇との対戦に当たって、黒子は青峰のことをチームメイトに話した。特に火神はよく聞いた。相棒の過去であることは理由になったが、元より青峰は火神にとってマッチアップの相手だった。プレーの共通点も多い。フォワードでエースで、火神は黒子の相棒で、青峰も黒子の相棒〈だった〉。黒子は青峰をよく知っている。同じことは対する青峰にも言えたのだが。
 さて黒子が青峰のことを話したように、花宮も桐皇の主将の話をした。今吉というポイントガードだ。中学時代の花宮の先輩だったそうだ。二年生はもちろん、一年生も皆が知っている。例によって最初は小金井に教えてもらった記憶もあるが、先の決勝での対戦前には花宮本人から説明された。あれがすべてだと、今、目の前の先輩が振り向く。
「聞きたきゃ何度でもコガに聞け。俺がうんざりして見えるなら、おまえらのせいじゃない、あいつのせいだ。それだって、どうせ中学の間の話だが。こっち来たとき機種変ついでにデータが消えたんで、今の先輩の連絡先も知らねえよ。桐皇の内部事情なんざ知るわけもない。何なら新情報は去年の冬の予選の試合だし、こないだの予選だ。——あの妖怪、性格悪かったろ」
「まあ素直って感じじゃあ、なかった、かもしれないです」
 花宮はたびたび今吉を妖怪と呼んだが、正直なところ印象は薄い。顔を見ればわかる、声を聞けば気づく。あの桐皇で正ポイントガードをやっているだけのことはある。バスケの技術は高かった。桐皇は青峰がいなくても手強かった。だが、すべてが覆るほど、ただ青峰が強かった。青峰がすべてを上塗りした。誠凛は負けた。ダブルスコアがつかなかった、それだけの圧倒的な敗北だった。
「勝てば官軍」
「なんすか」
「今吉さんの、好きな言葉だ。あの人、勝つために桐皇に入ったんだぜ。キセキのエースを獲得できるって」
「——あの人、三年ですよね」
「おまえや青峰の二つ上だな」
「青峰がどこ選ぶかなんて、わかります?」
「だがキセキの世代のエースは桐皇学園にいる」
「そうっすね——?」
「——ま、桐皇のことが知りたきゃ黒子に聞け。青峰もそうだが、桐皇にはキセキのマネージャーもいるだろ」
 火神と花宮はその休憩時間を共に過ごして、終わると二人で練習に戻った。合宿の話は、その翌日にカントクの口から発表された。夏休みの最初と最後に二回やると。一年生は驚いた。火神も一緒に驚いた。一回きりの想定だった。ただし大いに納得できた。予算が問題視されるわけだった。

「前に渡した練習日のどこかが合宿に変わる予定よ。まだ調整できるから、相談にくるなら早めにね。あとは、そうね、お盆の時期にはかぶせないわ。安心してて」

 土曜日までには、合宿の日程は決まらなかった。決定は月曜日になるだろうと言われた。カレーライスは昼食になった。小腹がすくころ、空の調理室に、制服とエプロンのバスケ部が入った。部員の他は、部屋の隅に顧問がひとり。そこで生徒の調理を見守る役だ。カレーライスは一年生がつくったものを食べたいと、先生は自ら主張した。二年生のものは昨年に食べたから、と言っていた。
 だからというわけでもないが、生徒は学年で分かれ、さらに二年生は二班に分かれた。花宮はカントクと主将と伊月と一緒だ。事情を知る火神は、つまりあの中に料理の苦手な先輩が、と目で追ってしまったけれど、すぐに自分たちのことで忙しくなった。花宮の言ったとおりである。一年の四人は、まず火神を頼りにきた。班分けも理由の一つだろう。とはいえ特別に注意が必要な者がいるでもなく。
 バスケ部は無事にカレーづくりを終えた。火神の素直な感想だ。小さな問題も起きなかった。カレーライスはうまかった。先輩たちもカレーライスをおいしそうに食べていた。その後の片づけまで含めても怪我人ひとり出ていない。先日の花宮はやはり大げさだったのだ。強いて挙げるとするならば、黒子の影が台所でまで薄かったので、ひやりとした。それくらいだ。顧問が、おいしかったですと、火神にほほ笑んだ。
「去年は花宮先輩のを食ったんですか」
「まさか。去年は水戸部くんたちにもらいました」
 何が「まさか」だろうと火神は首をかしげたけれど、その答えは聞けなかった。


    秋

「まさか」
 何事もなかったバスケ部の練習の帰り道、一年生一同は誰一人として信じなかった。〈まるごと〉なんて食べにくいだけで、そのうえ、つまり、〈まるごと漬けた〉ということだ。通常の工程では二日も漬ければ十二分でさえあるが、はたしてまるごと漬けるとなると、何日かけて味を浸透させればよいのやら。
 ところが食べにくいと言えば、
「でも食べられました」
 味が浸透しないと言えば、
「時間をかけたそうですよ」
 さらに片手で空気をつかんでみせて、かじってみせて。
 一同は幻視する。片手でつかめる大きさの黄色の皮の柑橘類。まるごとレモンのはちみつ漬けだ。
 というと、蜂蜜に漬けたレモンである。すぐ食べられて、疲れもとれる。バスケの合間におすすめの一品。誠凛高校バスケ部定番の差し入れ。カントクや水戸部、そして花宮がよく持ってくるけれど、ここにいる全員が味も食べ方も知っており、つくって持参したこともある。レモンと蜂蜜を用意して、切ったレモンを容器に詰めて——。
「どうして切らなかったんだ?」
 当然の疑問。何個目だっけ。
 黒子は答えた。
「そのほうがおとこらしいから——と言っていました」
「誰が!?」
「誰って、さて誰でしょう」
 一同は再び幻視した。今日も花宮が持ってきてくれた差し入れのタッパー。最初に花宮に〈もや〉がかかる。誰でもない指先が蓋を開ける。タッパーになみなみ注がれた蜂蜜が、もがれたままのレモンを沈めようとしている。輪切りのレモンが思い出せなくなる。そんなことってある? 四人は黒子の顔を見た。黒子の表情はいつもどおりで、何を考えているかも読めやしない。
「はい、これでおしまいです」
 その言葉にも脈絡がないように感じられた。
「ひどいですよ。マルバツクイズ。最初に始めたのは降旗くんです」
「そうだっけ」
「次が火神くん」
「あー、そうだった」
 かも。と、降旗光樹は頭をかいた。往生際が悪いとまでは、黒子は追及しなかった。
 たしかに降旗が最初だった。ちょっと唐突に感じられるくらいの「そういえば!」を切り出して、何も考えていなかったことを実感させるくらい間をとって、やっと話した内容がこちら。主将の部室ロッカーはジオラマになっているらしい。
 夏休みに花宮に聞かされた。たまたま二人で帰った日、たぶん先輩が気を利かせてくれた。それとも日頃の仕返しか。花宮が自分のことを語らない分といえばそうだが、他の二年生が勝手に花宮のことを話すから。もっぱら小金井の所業だが、小金井以外がまったく話さないわけではない。そのときは、たまたま主将のロッカーの話になったのだ。話の流れは覚えている。元々、部室ロッカーの話をしていた。
 とにかく主将はロッカーをジオラマにしたらしい。「ロッカーを?」と聞けば「底をそのまま地面にしてる」と返ってきた。目撃したことがないと疑えば、鍵を開けてから一年やカントクが来るまでに進めているのだと。「それ時間なくないですか」「だから最近は昼休みにやってんだ」
 終盤そこはかとなくヤバそうだったから、降旗はそこまでは話さなかった。そのことがよくなかったのか、現実的でないと考えられたのか、一年生四名には信じてもらえなかった。正直ほっとしている部分もある。話してしまった後になって、話してよかったのか思い出せなくなったせいだ。夏休みの話なんて、もう月単位の時間の向こうなんだから、仕方のないことだけれど。
 それに続いた火神も問題だった。そこはかとなく疑われた降旗が黙りこくったら、火神が思いついたような顔をして「花宮先輩は——犬が嫌い」「ダウト」
 火神はめいっぱい詰められた。犬が嫌いなのはおまえだろって。
 たしかに火神は苦手だった。犬にかまれたことがある。あれがめっぽう怖かった。時間がたっても忘れられない。子犬だろうとかわいく見えない。体格差など関係ないのだ。理屈は問題にならないのだ。時の流れは幾らかの耐性も与えてくれたが。たとえば遠目に犬が映っても、泣いてわめきはしないということだ。そして速やかに道を変更するなどの対処法も身につけた。それで支障なく生きてこられたのだ。今年の夏休みの途中までは。
「そういえば明日は俺が〈二号〉の当番だった」
「ぜってー一緒に帰らねえ」
「ほらな」
 火神は誰にも信じてもらえず、その弁明の最中にもまた一人が「じゃあこれはどっちだ」と話の真偽を問いにいく。伊月家はダジャレ一家である、マルかバツか。完全にクイズの流れだった。ちなみに一同はかなり悩んだ。伊月という先輩はバスケにおいて冷静な司令塔だが、実もクソもなく筋金入りのダジャレ好きなのだ。残念というか部での受けはよろしくないが、家族間では好評らしい。——可能性としては十分にありえた。
 そして四人目が「花宮先輩は霊感がある」で絶妙に周囲をぎょっとさせ、しかし同時に一段落ついたような錯覚も与えたところに、黒子がぬっと顔を上げたのだ。直前の話題が話題だったので、一同はもっとぎょっとした。理解していても忘れてしまう、幻の六人目シックスマンの希薄な存在感である。言っちゃ悪いが幽霊のようで、心臓によくない気さえした。実際、声も出せずに硬直してしまったやつらがいる。
 べつに彼らのためにその手の話が避けられたわけではなかったけれど。だから怖い話が続いたことは、彼らにとっての不幸である。花宮先輩は除霊ができる、いや伊月先輩のダジャレで悪霊が逃げていく、誠凛にはすでに七不思議がある、トイレの太郎くん、生物室の人体模型、図書室の幽霊、体育館の幽霊、グラウンドの幽霊、屋上の幽霊、売店の幽霊。苦手な者を怖がらせたり、チームメイトを元気づけたり、黒子が釈然としない気持ちになったり。
 その日はそんな帰り道だった。
 四人と道が分かれてから、黒子はまっすぐ帰路をたどった。のに、気づいたら前を見知った後ろ姿が歩いていた。いるはずがない、わけではないが、多少驚くには値する。
「花宮先輩」
「よう黒子」
「僕たちより後だと思ってました」
「たしかに後から学校を出たが、おまえらがちんたら歩いてたんだろ」
 黒子は駆け寄って横に並び、先輩の姿をじっと見た。立ち止まってくれた先輩は、黒子が並ぶと歩き始める。見たところ息は整っていた。しかし走った様子もみられた。練習帰りに走るなんて、黒子の体力には厳しいが、花宮の身体能力なら可能だろう。目撃したこともある。そして走れば、黒子より先んじることも不可能ではない。黒子に気づかせずに先回りする道も、この地点ならまだ複数ある。黒子はよく知っている。帰り道が一緒だから。でもどうして。
「犬に追われた」
 尋ねなかったのに先輩は答えた。
「聞いていたんですね」
 黒子もすぐに正解した。「どっちだと思う?」と〈意地悪宮〉先輩は質問で返したが、いったい何のクイズだろう。正解の〈選択肢〉はやはり目に見えている。

 僕はバツだと思います。

 黒子は歩いた。先輩も歩いた。口を閉じて、一言も発さず、黙りこくって前進した。ただ歩いた。帰り道が一緒になるといつもこうだ。ながら歩きの気配もない。実は居心地は悪くない。悪くない空気が流れている。かといって、よい空気は流れない。居心地よくもなりはしない。慣れたのかもしれない。慣れることなどないかもしれない。確かなことは、黒子には一つしかわからない。
「では、僕はここで」
 黒子の曲がり角に差しかかるまで、二人は沈黙を貫いた。いつもと同じ帰り道だった。お疲れさまでした。別れを告げる黒子の前で、足を止めた先輩が軽く手を上げる。
「おー、お疲れ。車には気をつけろ」
「——先輩は犬にもお気をつけて」
「そーだな、お互い、また明日」
「また明日」


    冬

 またかと二年生がつぶやいた。場所は学校体育館。視線の先にはウィンターカップ予選の現状。誠凛高校を含め、決勝を戦う四校が出そろったのだ。対戦相手は泉真館高校、秀徳高校、そして霧崎第一高校。
 二校は一年にも覚えがある。泉真館と秀徳はインターハイ予選の対戦相手で、激戦区東京の〈三大王者〉だ。特に秀徳はキセキの世代を獲得し、優勝候補に名乗りを上げている。夏の結果にかかわらず、油断のできる相手ではない。霧崎第一は三大王者でもないが、
「霧崎第一もね、前に戦った」
 もちろん二年は覚えていた。昨年のインターハイ予選の対戦相手だ。
「ああ。手強かったよな」
「いや木吉は初めてだろ」
「霧崎第一戦もビデオは見た」
 木吉が初めて欠場した試合である。ベンチにも座らなかった。膝の治療を優先したのだ。当時、木吉は自身の体調について吞気に振る舞ったが、その実、高校三年間を治療にささげるかどうかの瀬戸際にまで追いやられていた。と、日向と相田、それから花宮だけが聞かされ、他の部員はそれぞれ察した。
 木吉の治療は長引いた。夏が終わっても試合に出られなかった。しかし誠凛高校は勝ち進み、結果を出した。やがて木吉も復帰した。一年が入部したときには、強化選手の木吉だった。
「俺も次は初心に返るぜ」
「ダァホ、初日が霧崎第一じゃなかったらどうすんだ」
「〈二心〉に返るぜ」
「——何だって?」
「——三日目だったら?」
「〈三心〉に返るぜ」
 はい、そこまで。カントクが手をたたく。
「緊張感を持つのは悪くないけどね。強敵は秀徳だけじゃない。どこも油断なんてしてくれないわよ。去年にしろ今年にしろ、みんな誠凛に負けたことがあるんだから」

 敵は本当に油断してくれなかった。あたりまえだった。誠凛だって警戒した。霧崎第一戦に至ってはむしろ厳戒態勢で試合に臨んだ。
 初日、泉真館は強かった。しかし誠凛の敵ではなかった。
 三大王者は長きにわたって激戦区東京の上位三位を独占し続けたが、今は昔の栄光である。彼らはキセキの世代を獲得できなかったのだ。一方、誠凛には粗削りながら〈キセキ級の天才〉の火神がいる。キセキの世代に勝てずに〈無冠〉と呼ばれた〈逸材〉もいる。才能だけがバスケではなかろう。とはいえ競技の世界では、才能は重要な因子だった。インターハイ上位三位はキセキの世代の獲得校だ。
 キセキの世代とは、それほどの才能である。中学バスケ界に現れた十年に一人の天才たちを、わずか一年で〈上書き〉した。十年に一人の〈本物の〉天才たち。くしくも一つの学校の一つの学年に出現した彼らは、かの中学校に圧倒的三連覇をもたらすと、別の高校に進学し、高校バスケをも塗り変えた。高校バスケ界の人間は選手だろうと監督だろうと皆一様に言う。今後三年、高校バスケはキセキの世代だけが勝ち続ける。
 もちろん誠凛の目標は日本一、つまりキセキの世代の打倒だ。火神が入部してくる前から、黒子がキセキの世代の六人目シックスマンと判明する前から、バスケ部創部時点から。
 二日目、獲得校の秀徳にも当然、打倒キセキの精神で挑んだ。実は彼らには勝ったことがあった。夏のインターハイ予選、桐皇学園——青峰大輝——と当たる直前のことだ。しかし、だからこそ今回も気の抜けない試合になった。キセキの世代——緑間真太郎——を獲得した三大王者の強豪は、それでも負けた相手を前に、もはや一分の隙も見せなかった。そして試合は熾烈を極める。緑間は〈あらゆる距離〉から〈絶対に入る〉シュートを打ち続け、それを火神だけが妨害できて、——結果は引き分けだ。
 秀徳と誠凛はこれで互いに一勝一分け。ウィンターカップ出場をかけて、誠凛は次の試合も勝たねばならない。秀徳の次の相手は泉真館。言っては悪いが、秀徳は万に一つも彼らに負けない。同じことは誠凛の対戦相手にも言えるのだけれど。最終三日目の霧崎第一はごくごく普通の強豪である。
 三大王者でなく、キセキはおらず、無冠もおらず、名監督もいない。何なら誠凛は昨年時点で差をつけて勝ち、言わずもがな今年までに経験を積み、キセキ級の新入部員を獲得し、今年またキセキの世代とも数度対戦し、あの秀徳と引き分けた直後だった。もちろん控室でカントク直々に「油断禁物」を厳命されたが、いくら自らを戒めようとしたところで、多少はプレーに出ることもあるだろう、そういう程度の相手だった。
「それじゃ駄目だ」
 ——都内の高校の制服姿が、控室を出てすぐの廊下で待ち伏せていた。
「今日から集団下校するくらいじゃないと」
 思い詰めた声でうつむいた。
「先輩が——もう二度とバスケできないって」
 全部の話が終わった後、他校生がいなくなった後、花宮の心底からの退屈を、偶然にも黒子だけが見抜いた。

「絶対に一人で帰らないで」
「先輩は休日練の後に〈襲われました〉」
「犯人は同年代であることしかわかりませんでした」
「〈でも霧崎第一だった〉」
「あいつらが言ったんだ」
「『先輩のお見舞いに行けなくてごめんね』」
「僕は、花宮には、もう——あんな目に遭ってほしくない」
「頼むから試合が終わるまでは絶対に荷物から目を離さないでくれよ」

 ウィンターカップ東京予選最終日、誠凛対霧崎第一。
 インターハイ準優勝の桐皇学園バスケ部はその試合を観戦していた。言うまでもなく目的の一つは、ウィンターカップ出場校を見定めること。緑間を擁する秀徳が〈泉真館など〉に負けるはずがない。桐皇学園はインターハイ準優勝の成績によってシード権を得た。他の〈獲得校〉も確実に出場権を得る。誠凛の勝敗が肝心だった。もしこの最終日、誠凛が勝てば、誠凛も出場権を獲得したら——。
 まだ、わからないのだけれども。
 誠凛にはキセキ級と無冠がおり、あの秀徳とも引き分けた。それでも試合の行方はわからなかった。誠凛自身、理解しているのだろう。
「やけに殺伐としてやがんな」
「仕方ないよ。相手は〈あの霧崎第一〉だもん」
 一年の一人が、あっという間に一冊のノートを出して開く。
「今大会の霧崎第一の対戦記録。ほとんどの試合で対戦相手が〈本来のエースを使えなくなっている〉」
「ラフプレーで何人も怪我させてるって——」
「うん。それに、それだけじゃないの。試合前日に怪我したり、直前になってトイレから出てこなくなったり」
「マジかよ」
 と、前の席から二年生。霧崎第一のラフプレーのうわさは彼の耳にも届いていた。聞いたときは、セコい真似をしやがってと憤ったものである。しかし後の二つは初耳だった。彼はこの一年の情報収集能力に一定の信を置いている。とはいえ、だ。まさか闇討ちだの下剤だのを仕かけたとでもいうのか。バスケの試合で勝つために?
 彼女はノートを閉じた。
「荷物から全員が目を離した時間があった、みたいですよ」
 そして目を伏せる。
 昨年まで霧崎第一はこのようなチームではなかった。本当に普通の強豪だった。だが、変わってしまったのだ。チームが。方針が。監督が。
 試合はまもなく始まった。珍しく花宮のワンガードだが、伊月はユニフォーム姿でベンチにおり、怪我や体調不良はなさそうだ。ウォーミングアップにも参加していた。単に戦略上の理由だろう。伊月の持ち味は視野の広さと、それによる正確なゲームメイク。今回はそれがかえってあだとなるとの判断か、警戒の表れか、その両方か。
 何にせよ、まずは誠凛ボール。さらに、まっすぐ日向のスリーポイント。シュートは成功。多少気負った様子はあるが、どうやら調子はよさそうだ。きっと誠凛は無事に今日の試合を迎えた。よかった。敵ながら彼女は安堵する。しかし、つかの間のことだった。こちらも早速、始まったのだ。霧崎第一のラフプレーが。
 テツくん!
 頭はたちまち想い人に占領されそうだ。テツくん、テツくん、誠凛の、同じ中学の同じバスケ部の黒子テツヤくん! 彼を目で追えたなら、もっと安心していられたのに。彼女は黒子の性質を、とても、ものすごく、よく知っている。コートで黒子を見つけることは、それでも至難の業である。——霧崎第一の〈プレースタイル〉を教えるべきだった、とは決して、可能性さえ想定したこともないけれど。
 想い人でも他校の選手。桐皇学園がすでに敗退したならともかく、この試合次第では大会で戦うかもしれない相手。バスケで知り合い、互いにバスケを愛しているからこそ、バスケでは絶対に手を抜かない。
 だから彼女の頭は結局、黒子で埋め尽くされはしない。彼女にはまっとうすべき役目があるのだ。テツくんは心配だけど!
「心配することないで、桃井」
「——へ?」
 ずっとコートに注目していた前の席から声がかかって、変な返事をしてしまった。慌てて声の主を確認するが、やはり彼はずっとコートに注目しており、彼女のことを見てもいない。
「誠凛はちゃんと霧崎第一の手口を知ってるはずや」
 たしかに霧崎第一の対戦校のなかには、誠凛の選手と中学を同じくした選手がいる。彼らのチームは例によってエースを欠き敗退。そのエースも選手生命を危ぶまれるなど、現状最大の被害を受けた学校だった。彼ら、いや彼が中学時代の知人に警告した可能性は、彼女も考慮の上である。しかし、この主将の口ぶり。どうも彼女よりさらに精密に彼の行動を予測したとみえる。
 まあ、それもそのはずか。桃井は驚くより納得した。彼らの中学が同じだったというなら当然、今吉翔一は二人を知っているはずなのだ。
 今吉はコートを見下ろしている。
「こんなしょーもない〈小細工〉が〈あいつ〉に通用するかいな」
 ——今吉の目蓋の裏に中学時代がよみがえる。
 二年生の新学期、放課後のバスケ部、監督の交代、破壊と非合理。別離と喪失。新入生。——不慮の事故。
 今吉は知らなかった。
 それを疑っていたことを。
 それを信じていたことを。
 それを畏れていたことを。
 今吉は知っていた。
「あいつは天才やからな」
 第一クォーター終了のブザーが鳴った。誠凛は〈まだ軽傷〉だが、火神がすでにファウルを二つ。日向も一つ。女子高生監督が、ねぎらいつつも、たしなめる。無理はない。始まったばかりの試合なのだ。得点源がこの様子では、当分、息もつけないだろう。
 一方、霧崎第一も何やら穏やかならざる様子。彼らの監督はもちろん大人だが、選手二人と衝突している。霧崎第一は監督の交代に合わせてレギュラーメンバーも一新したようだったから、てっきり監督の新方針に従える者が残ったと考えたのだけれども、安直が過ぎたか。うーん。ま、ええか。もう霧崎第一とは当たらんやろうし。
 やがて第二クォーターが始まる。今吉の後輩は最後にコートに入っていって、不意にゴールポストを見上げた。
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