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冠は余らない

  高校一年
    春

 校長が上級生に関してを言わなかった。新入生代表も先輩の存在に触れなかった。そして在校生代表の挨拶は式次に存在しなかった。千人を優に収容する体育館に、新入生三百名と教職員、来賓、そして新入生の親類縁者、他。在校生は元よりいない。存在しない。するはずもない。私立誠凛高校は、その日、初めて生徒を迎える。新設の学校の入学式だ。
 皆が知った話題だった。志望動機の大半がこれだ。そうでないなら家が近いのだ。たいした特徴のない学校だった。担任が自己紹介をさせるまでに、とうに使い古された話題だった。
「出席番号三十三番、花宮真です。夜見山市というところから来ました。得意科目は化学で、部活は、高校ではやりたいと思っています。新設校なので、——心機一転、したいです。三年間よろしく」
 それでも、話題を見つけられなかったやつは何番目になっても言った。彼らの何人かは、それから人間関係を広げたが、片手の指くらいの人数は早々に孤立した。よくある春、よくある四月、よくある高校一年の教室。ただ新しいだけの学校で、花宮真は後者だった。
 レクリエーションにしろ班分けにしろ新設校の新学期の新入生の人間関係構築の機会を、花宮はことごとくふいにした。委員会にも入らなかった。かわりに、得意科目を覚えていてくれたクラスメイトのおかげで化学係に当たった。化学の授業のために担当教師とのやり取りをする、雑用係の一種である。また同じく得意科目を覚えていてくれたクラスメイトから化学部などに誘われたが、
「せっかくだけど、部活は運動部を考えてる」
 花宮は二度と誘われなくなった。
 教室には次第に友人グループが生まれ、花宮を取り込むことなく、形を決めていく。花宮は教室の片隅の席で独りで、弁当を食べて本を読んだ。クラスメイトとの会話は、とっくに大半が事務的だ。ゴールデンウィークを待たずして、せいぜい人間のよくできた数名に〈声をかけてもらう〉、そういう存在になっていた。
 だから、そいつは久方ぶりの勧誘だった。
「なあ花宮、バスケやろうぜ」
 せいぜい人間のよくできたクラスメイトが一人、隣の席の大男、木吉鉄平である。

 新設の校舎の真新しい屋上で、バスケ部(仮)五名が指導を受けた。
 ちょうど今朝のできごとだ。全校集会の時間に合わせて、宣誓、したのである。

「いや、それはね! このC組の日向順平くんが! ——勝手に言っただけでねえ」
「まァだ、そんなこと言ってんのか」
 木吉のクラスの席の周りに立って、小金井慎二は釈明する。その日の放課後のことだった。
「マネージャー、とは違うかもだけど、誘った子が、本気で一番目指すくらいじゃなきゃ引き受けないって」
「全校生徒の前での宣誓が条件だった?」
「いや、そこは俺らで。本気だって態度で示そうって。木吉が言ったでしょ。日本一目指して、今年必ず全国出場!」
「全裸で告る、なんでもやる! って、その後で日向くんも叫んだよな」
「だから、それが! あの後先生たちにしかられて、絶対やるなって——」
「——だからこそ、だろうが」
 日向順平が、かぶせるように反論した。
「先生の言い分は、たぶん正しいよ。新設校で一年しかいないし、スポーツに力を入れてる学校でもない。けど相手は二年も三年もいて、勝ち進めばそれだけ強豪ってことだ。でもなあ、だから目指しちゃいけないなんてこたァねえだろ。
 俺は本気だ。もし、もしもできなかったとしても、そのときは俺が、俺ひとりでも、本気だったってことを証明してやる」
 言い終わると、他の部員まで口を閉じた。教室も、しんと静まり返ってしまった。
 放課後とはいえ多くの生徒が残っている。新設だけが取り柄の新設校、運動部も文化部も、生徒が申請するまで存在しない。創部を望まれているものは、バスケ部だけではない。
 他の生徒がささやき合っても、日向は撤回しなかった。小金井も口を結んで、花宮を見た。席の木吉は、ひとりだけで笑っている。伊月俊は、その隣の席の花宮を、じっと見下ろして口を開けた。こういうこと、と。
「俺らは本気でやるって決めた。マネがどうっていうんじゃなくて、やるからには本気でやって、日本一を目指す。——でも」
 そして言葉を切った。
 花宮が伊月を見上げた。
「俺も覚悟のうえだよ。本気なことはわかってた。木吉、自分で誘ったくせに、教えてくれたんだぜ。バスケ同好会をつくろうってやつらがいるんだと。——全裸で告るのはごめんだが、やる前から負けたときのことを考えるのもバカな話だろ」
「隣の席だもんな、花宮」
「そうだね、木吉」
「じゃあ」
「やるからには本気で、したい。と思うよ、俺も。これからよろしく。伊月くん、日向くん、小金井くん、水戸部くん」
 木吉も。花宮は最後に、それを付け足した。
 教室の友人グループは花宮を取り込むことなく、形を決めた。花宮は教室の片隅の席で独りで、弁当を食べて本を読む。クラスメイトとの会話の大半を事務的に済ませ、そして放課後にはバスケ部の練習のために体育館へ走るのだ。ゴールデンウィークを待たずして花宮は、それになる。
 思い出して、伊月は形式的に質問する。
「確認までに、経験者?」
 なぜか木吉が先に答えようとして、

「あっ、いた! あなたたち、放課後、暇よね?」

 男子高校生六名が女子高校生の家で上半身を披露するのは、それから一時間ほど後の話。


    夏

 知り合ったばかりの女子高生の実家に上がって、彼女の前で(上半身だけ)裸になった。それも今は昔の話。誠凛高校バスケ部は無事成立、さらに一名も部員を増やし、なおかつインターハイ予選出場申請は受理された。
 誠凛高校の一年七名いや八名は懸命に戦った。容赦などしなかった。相手が二年だろうと三年だろうと、そして差をつけて勝ち、着実に駒を進めている。
「みんな、よくやったわ」
 相田リコは選手たちをねぎらった。控室の選手たちは、それより一休みをさせてほしいと、態度より表情で示している。もちろん、その日も勝ったのだ。決して、たやすかったとは、彼女は言わない。だが圧倒的な結果だった。大差をつけられたと、今日の相手も感じたはずだ。相手は一年だったのに、と。それも新設校であることを思えば、意外な結果だっただろうか。
 正直なところ相田は、その半々の気持ちで、ここに立っている。監督なのに。
 相田はバスケ部の監督である。そして生徒でもある。対戦校からはマネージャーとも見られただろうが、彼女は校内の各運動部からはトレーナーとして勧誘された。スポーツジムの娘なのだ。その環境は、彼女の幾つか特別な能力を伸ばしてくれた。たとえば、スポーツジムを利用しにきた運動部員に、的確に助言する、とかだ。
 相田の中学からは、そして多数の同級生が誠凛高校に進学した。バスケ部にも二人いる。日向と伊月だ。バスケ部が相田を誘いにきた原因のひとつは、この伊月である。
 同じ中学の出身であるため、相田は二人をよく知っている。それぞれ、よいシューターで、よいガードだ。特に日向は。彼らの中学のバスケ部は、はっきりと言って弱小の部類だったが、シューターの日向だけは頭ひとつ抜けていた。他校と比較しても実力のある選手だった。つまり仲間の力不足が敗因だったと、伊月は自ら認めている。
 とはいえ伊月も優秀なガードだ。常に冷静で的確な司令塔である。特に視野が広い。ポイントガードというポジションに求められる能力のひとつだが、このポジションで優秀と評される選手であっても、彼ほどの水準に達した者はそうはいない。誠凛高校の予選成績は確実に彼に支えられている。
 誠凛高校は勝ち進んだ。限られた時間で最大限に練習して、対戦校を研究して、戦略を練った。そのなかで導き出されたラン&ガンのオフェンス重視は、あるいは、それしか道がなかった、ともいえる。まず圧倒的な部員不足。事情を鑑みては、八人という数は集まった部類だが、経験者は内四人。おおむねバスケは五対五の球技である。しかし彼らは、まもなく決勝リーグに進出する。
 経験者四人のひとり、水戸部凛之助は堅実なパワーフォワードだ。過度に——創部からこの予選まで誰も一度も声を聞いたことがないほどに——寡黙な人物で、派手なプレーも見せはしないが、役目は果たした。体格もある。百八十五センチ以上の身長は、部では上から二番目だ。オフェンスのみならずディフェンスもこなせるところからいって、センターにコンバートしてもうまく機能するだろう。
 しかし。
 相田は手前のロッカーを見た。百九十センチを越す大男が、タオルを頭にかぶせている。部内最大、木吉である。その並外れた体格は、しかし彼の才能の一部に過ぎない。優秀なセンターだ。いや、その実力は、ほとんど最強そのものなのだ。この東京予選に、木吉を越える〈選手〉は、おそらく現れないだろう。全国大会に進出したところで、やはり彼以上の〈センター〉は登場しない。
 無冠の四将、鉄心。
 木吉は中学バスケの有名選手だ。優秀などというものではない。十年に一人の逸材である。天才と呼ばれたことさえあった。身体能力の高さと、バスケの才能と。それは木吉の身長のことでもあって、またバスケットボールを片手で容易につかむほどの手のことでもある。中学バスケで、やがて木吉は渾名された。それが「鉄心」で、後の「無冠の四将」だ。
 まるで奇跡のような学年だった。その年、中学バスケに現れた逸材は、木吉だけではなかった。十年に一人の、ほとんど最強そのもののようなバスケの才能。それが四つも現れた。身体能力と体格はもちろん、四人それぞれが異なる分野に秀でていた。センター、シューター、パワーフォワード、スモールフォワード。だが彼らの中学最後の全中は、そのうちの誰の優勝をも許さなかった。
 本当の奇跡は、彼らのわずか一年後、一学年下に訪れる。
 ——とまれ今の問題は、目の前のインターハイ予選だが。
「わかってるだろうけど、おさらいよ。次の試合に勝てば、予選決勝リーグ進出が確定するわ。決勝リーグでは、私たちと同じように各ブロックから勝ち上がったチームと当たることになる。つまり次の相手も、それほどの強敵よ。霧崎第一高校。三大王者ではないけど、強豪で実績がある」
 霧崎第一と比べてしまえば、直前の対戦相手だって、弱かったことになる。かの高校は事実として、これまでの対戦校と一線を画する。誠凛高校も、もう圧倒的には勝てないだろう。誠凛高校には東京予選最強の木吉がいた。しかし圧勝の原因は、それだけではない。直前の対戦校ですら新設校の一年生に油断していた。はたして強豪の油断を誘えるかは、五分と五分といったところだ。
 相田は木吉から少し目線を下ろして、日向と伊月を見る。その隣に水戸部と小金井。喋らない水戸部を相手に、小金井は相槌を打ったり笑ったり、話しかけて返事を待ったり。小金井には水戸部の言葉がわかるそうだ。中学が同じで、仲がよかったらしい。彼がバスケ部に入った理由は、水戸部が楽しそうだったから。
 まるきりの初心者だった。三歩歩けばサイクリング。中学の授業も受けていない。だってテニス部だったから、体育の授業でも選択種目はテニスをやった。小金井の言い分は、彼だけにルールも用語も教え込まない理由にはならなかったが、その身体能力は本物だ。飲み込みも早い。くわえて立派な体力が、小金井を誠凛高校のシックスマンにした。
 その小金井の隣で、同じくまるきりの初心者だった土田聡史が相槌を打っている。もちろん彼には水戸部の言葉がわからないので、そのときは小金井が通訳をする。土田は一番最後に入部届を出してくれて、徐々に力を伸ばしてきた。リバウンドが得意で、相田も防御を固めたいときには小金井より土田を投入する。
 そして相田は、
「カントク」
「どうしたの、花宮くん」
 木吉の元まで視線を戻して、その少しだけ下を見た。未経験組の真ん中にしてスターティングメンバーの、スモールフォワードの花宮だ。相田は考えごとをしながらも、話を聞ける姿勢を取った。考えごとをしていたから、少し彼を疑っていた。疑心暗鬼というほどではない。ただ、高校生になるまで花宮がバスケに取り組んだことがなかったという事実を、部員の多くが疑っている。
 それは最大の嬉しい誤算だった。花宮は、百八十センチはないけれど、部内では水戸部に次ぐ身長だった。まるきりの初心者でもなかった。彼は入部時点ですでに、現役選手と同等の知識とバスケの基礎を身につけていた。本人の言うには、体育の授業で覚えた、あるいは中学時代に接点のあった先輩がバスケ部だったので多少教わった。そうは言っても、それだけでもなかった。
 期待以上の選手だった。異常な吸収速度、異常な伸びしろ、並外れて高い身体能力、体格もあって、——それはバスケの才能だった。
 花宮にはバスケの才能があった。もし花宮が中学バスケの選手だったら。日の目を見る機会など、彼自身が生み出しただろう。もし花宮が中学バスケの選手だったら。そのときは、もしかして、学生バスケには〈無冠の五将〉がいたかもしれない。花宮にはポイントガードの資質がある。
 その花宮がバスケ部に入った理由は、隣の席のクラスメイトに誘われたから。つまり「無冠の四将」の木吉のことだが。
「木吉のことで話がある」
「逸材」同士で通じるところがあったというのかと尋ねられて、あのとき木吉は何と返したのだったか。
「花宮」
 花宮の頭上から、とどめるような声が落ちた。相田は、おや、と思って顔を上げた。直前、木吉が花宮を組み伏せることを躊躇した。躊躇した。それだけでも木吉という人物の行動としては、十二分に乱暴な所作であった。木吉は、基本的には温厚だ。というよりは腹が黒いのだと言ったのは、おそらく日向だったはずだが。その日向も今は呆気に取られていた。
 花宮だけが微動だにもしなかった。
 相田は初めに木吉を、それから部員全員を制止して、同じく視線だけで花宮を促した。
 木吉は、ぎこちなく固まった。
 花宮は躊躇もしなかった。
「木吉が膝を痛めてる」

 最大の嬉しい誤算は、それを、よしとした。
 誠凛高校は霧崎第一を破った。木吉が戦線に戻ることはなかった。それでも準優勝の成績と同時に、本選出場権を獲得した。


    秋

 夏休み明け、登校したら、クラスメイトがじっと見てきて、おめでとうと口々に言った。もてはやされた。ちやほやされた。先生たちも、居心地の悪そうな部分を見せながらも、誇らしげな様子でバスケ部に言葉をかけた。一方、当のバスケ部は、とっくに、いつもの練習三昧だ。新入部員数名は誰も定着しなかった。いつのまにか秋になった。いつか周囲の関心も薄れていた。
 それでも誠凛高校バスケ部は、目まぐるしくもバスケットボールをついている。
 バスケ部の一年は、夏では終わらない。秋も大会。冬も大会。高校バスケは、もうまもなくウィンターカップに突入する。
「インハイと国体に並ぶ最重要大会——だっけ」
 そらんじるような言葉であったと、小金井は否定しない。今日も今日とてバスケットボールにもてあそばれた、未経験組のひとりである。いや練習は重ねてきた。ルールも基礎も体に刻んだ。もはや夏とは比べるべくもないだろう。絶対に、確実に。それでも時々いやしょっちゅう、未知の学生バスケ事情が小金井の前にやってくる。
 ウィンターカップが高校バスケの最重要大会のひとつである、とかのことだ。名前くらいは知っていた。季節もわかった。冬の大会だ。秋の終わりの予選に勝ったら、冬の初めの本選に進める。最近の練習は、この大会を念頭に置いた内容だった。ウィンターカップまでに、と言われない日は皆無に等しい。ただ、このことを小金井は、単に次の大会だと認識していたのだけれども。
「知ってた? カントク、ウィンターカップに向けて調整してくれてたんだって」
 次の大会に向けて、ではない。秋の前から、夏の前から、創部からこの方。敵は一年をかけて、このウィンターカップに向けてステータスを仕上げてくると、考えておく必要があると。今日の練習の合間に、話の流れで聞かされた。もちろん私たちもね、と。小金井は飛び上がって声まで上げた。
 のに。部活帰り、隣を歩く花宮は反応が薄い。
「そりゃ、まあ高校バスケだし」
 それどころか当然のごとし肯定である。
「上目指してりゃ、どこもそうなる」
 小金井は目を見開いた。まったく同じ言葉を、これまた例の話の続きに聞かされたところであった。逆隣を見ると、水戸部が花宮と目を合わせて、困ったようにうなずいていた。どうせ花宮が俺をバカにしてるんだ。小金井は構わず水戸部に泣きつく。
「花宮との断絶を感じる!」
 水戸部は今度、小金井を見下ろして困ってくれた。大変だなと、背中から聞こえた。小金井は振り返って指を差した。
「花宮、本当はバスケ部出身!」
「帰宅部だったが」
「うっそだあ」
「ンなわけねえだろ、指差すな」
 花宮、にらむ。小金井、腕を下ろす。水戸部、困り続ける。花宮が、小金井よりうんと高いところに目線を上げる。そして、わかったと言って、小金井のところまで目線を下ろす。
「いいか、最後だ。コガは耳の穴かっぽじって、よーく聞いてろ」
「えっ待って」
 小金井は手を突き出して制止した。花宮は待ってくれた。小金井は息を吸った。吸って、吐いた。吐いて、吸った。耳の穴もかっぽじった。創部から半年以上、つまり花宮との付き合いも半年以上。その半年で学んだことのひとつだが、花宮の「最後だ」は、それで本当の「最後」を意味する。花宮は待ってくれた。小金井は軽く伸びをして、やっと「いいよ」と手を下ろした。
「中学でバスケ部に入ってた先輩に、バスケを教わったり遊んだり、学生バスケ事情も散々聞かされました。終わり」
「終わり?」
「終わり。っつーか、初めてじゃねえだろうが。何度も言わすな。これで最後だ」
「だって!」
「——水戸部も大変だな」
 花宮が、また小金井より高いところを見上げた。水戸部が頭を振る気配がした。なんだよと、あくまで花宮をにらむと、花宮が、また小金井を見下ろす。
「水戸部とコガは中学からの付き合いなんだろ」
「だから?」
「だから」
 花宮が口元だけで笑ってみせた。水戸部を見ていた。水戸部は首を横に振った。
「俺にもわかるように話してよ、バカ宮!」
「いつも言ってるけど、それ頭悪そうだよ」
「ムキーッ!」
 花宮なんか!
 バカにされていることは知っていた。花宮は、よくバカにした。そういうときの花宮のことが、苦手だった。バカにされることは嫌なことだ。出場する大会に向けて練習を重ねることと同じように当然に、バカにされたくはないのである。花宮なんか嫌いだと、口に出して伝えもした。しかし、それで距離が遠ざかることにはならなかった。むしろ近づいた。小金井は、バカではない。けれども。
 きっと張り合う気になれないだけだった。
「花宮は違うんだ」
 花宮と小金井の間には明白な断絶がある。
「ううん、つっちーとも違う。水戸部とも、日向とも伊月とも違う。カントクとも違う。みんな言ってる。なあ花宮、おまえ才能あるよ。バスケットボールの、才能」
「そうかもな」
 花宮は否定しなかった。小金井は驚いた顔をしたのだろうか、すぐに次の言葉が訪れた。
「先輩に、かなり言われたから」
 初耳である。が、意外な事実というわけでもない。花宮の才能は、もはや六か月目の小金井の目にも明らかな事実だ。まがりなりにもバスケ部で、なおかつ直接に教えたという「先輩」なら、もっと早くに気づけたはずだ。そうと知れたとき、どんな気持ちがしたのだろうか。小金井は水戸部との会話を思い返した。夏の大会の最中だった。あのとき水戸部は珍しいことに、たかぶっていて、
「『才能はあるけど天才やない』」
 逆に小金井が秋の大会の終わりに、花宮は天才だと気づいたとき、水戸部はどんな顔でこたえてくれたんだっけ。
「言われたの?」
「たしかに俺は、他人のプレーをひと目で完璧にモノにすることはない。スリーポイントは入らないことがある。姿勢が崩れたら得点はできない。ゴールポストを触りたければ、助走をつけて跳ばなきゃならない」
「それは——」
 木吉にだってできなかった。
「——どういう先輩だったのさ」
「想像と違った?」
「違った! もっと、こう、アットホームな先輩だと思ってた!」
「それこそ、どんなだ」
「じめじめ気難しくて近寄りたくない友達ゼロ宮のことを、見兼ねて嫌がらないで構って遊んでくれるような、——優しくて憧れられる先輩! ザ・学年の垣根を越えた心温まる友情!」
「おお」
「実は闇宮は、憧れの先輩とバスケで戦いたくって、誠凛高校バスケ部に入ったのである!」
「不正解だ」
 不正解なんだ。意気を落とした小金井に、花宮が呆れた目を向ける。
「正解は?」
「苛々してた上級生が、つい握れた新入生の弱みをネタに、鬱憤を晴らしたり、暇を潰したり」
「弱み」
 小金井が復唱する。もう無効だと、あっけらかんと返ってくる。うーん本当に一から十まで想像と違う。
「その先輩は今もバスケ部?」
「あの人の進学先も知らねえよと言いたいとこだが、たぶんウィンターカップに出てくるな」
「えっ」
「俺の『憧れの先輩』に予選で会えるってことだ」
「しかも都内!」
「インハイでも予選にいた」
「強いの?」
「性格悪ィんだよ」
 花宮より? そう聞く前に、自動販売機が目に入った。小金井は急に喉が渇いて、声をかけて買いに駆け寄る。幾つかの操作の末に購入を終え、振り返ると、背後に待たせた二人がそびえ立っていた。長い影が伸びていた。先に背の高いほうがボタンを押して、背の低いほうは後に手を伸ばす。そうは見えても、どちらもやすやすと小金井の頭上を過ぎる。水戸部はもちろん、花宮だって背が高い。
 三人が三人、立ち止まって、思い思いに飲み干した。再び歩き始めるまで、誰も一言も口をきかなかった。
「花宮、才能あるからってバスケ始めた?」
「その影響は否定できない」
 最初の疑問は、曖昧な肯定に迎えられた。じゃあ、と小金井は別の名前を出してみた。花宮の入部の経緯は、一応は部員全員が知るところである。木吉である。木吉が誘ったのだ。木吉に誘われたのだ。そして花宮は、これも否定はしなかった。じゃあ。小金井は再び理由を探そうとした。それを遮るように花宮が言った。
「特別な理由がなきゃ、俺はバスケやっちゃいけないのか」
「そんなこと!」
 思わず大きな声が出る。そのことに小金井は自分で驚いて、花宮と水戸部の顔を見て、ほっとして言い直す。
「そんなことは、もちろん、ない。けど」
 それでも言葉尻は、こうなった。
「ふはっ」
 花宮が嘲笑した。
「コガのわりには上出来だったぜ」

「とんでもないやつを拾ってきたもんだ」
 日没の歩道で、日向はこぼした。
 返事はなかった。
「天才には天才がわかるってのか?」
 以前にも聞いたことを、再び口にした。あのときの「天才」は、やるやつだと思って、などと答えやがってくれたのだが。
 日向は、たぶん絶対確実に、よい気持ちがしなかった。だって木吉は、日向のときは、携帯の背景画像がきっかけだった。日向の携帯の背景の、バスケの選手の写真がだ。日向は経験者だったのに。花宮のことは未経験だったにもかかわらず、ひと目見てわかったという。花宮は花宮で、接点があった先輩が、などとほざきやがるし。
 ——これだから俺は木吉が嫌いだ。
 日向は、たびたび、そういった。そのたび木吉は笑ってこたえた。日向は、ますます嫌いだと思った。
 だが、木吉には笑顔が似合った。今日はウィンターカップに向けて新しい連携を練習した。それが一度うまくいって、嬉しくて声を上げて、ハイタッチまでしようとして、目の前にあった顔を見た。そのときになって気づいたのだ。木吉の朗らかな表情が、チームに安心をもたらしていたのだ。木吉とやるバスケットボールは、とても楽しかった。
 ——無理してリバウンドしくじって大怪我になって、インハイそこそこで俺らとのバスケを終わらせたいってんなら、話は別だが。俺は、おまえがいないバスケ部なんか、ごめんだぜ。とっとと診察と治療を受けて、新人戦かウィンターカップか、来年にでも戻ってこい。出場権くらい、おまえがいなくてももぎ取れる。
「やっぱり、とんでもないやつだったよ」
 全部あいつの言うとおりになっちまった。
「おかえり、木吉」
 日向は言った。普段の彼なら、決して口にできなかった言葉を。木吉は笑って受け止めた。
 三年間バスケをやろう。一緒に日本一になろう。なあ木吉。

 なあ花宮。
 小金井は最後に尋ねた。
「いいの?」
「何が?」
 質問は、質問で返された。
 小金井は花宮の顔を見て、水戸部の顔を見て、そして言い直した。
「木吉、日向に取られちゃった」
「それを言うならカントクじゃねえの」
 花宮は、ただ事実を述べるだけの顔で、小金井に答えた。
 うーん。小金井は一度うなって、もう一度尋ねる。
「花宮はいいの?」
 すると今度は、すぐには返事がやってこない。おっ、と思って目を見ると、花宮の目と目が合った。
「いいも何も、木吉はクラスの人気者だぜ」
「だぜ?」
「『いい』ってこと。なあ水戸部。おまえらだって同じだろ?」


    冬

 創部一年未満と表すから短いように感じられるのであって、もう半年もなく二年生になると言い換えたらどうだろう。高校一年生が高校二年生になる。それだけの月日が流れた。いや流れようとしている。短いようで長く、長いようでまだ短い。それでも木吉が創った誠凛高校バスケ部は、ついにウィンターカップ予選に出場した。
 いろいろなことが、あった。
 相田が〈カントク〉になった。創部に際して誘いをかけたトレーナーは、他に部員もない運動部ではマネージャーらしい役目を多く引き受けてくれたが、トレーナーとして練習を一から組み立ててくれて、試合に当たっては分析し、なし崩しに〈監督〉のように働いた。妥協ではない。彼女に、そうして采配を取る能力があったということだ。新設校の新設部にとって、うれしい誤算のひとつである。
 それでインターハイ予選の初日の朝か夕方か、小金井が呼んだ。「カントク」と、おもしろ半分に。すぐに花宮も乗っかったが、他の部員にも異論はなく、本選のころには土田もカントクと呼んでいた。小金井の言葉を信じるなら、水戸部ももう少し早くに相田をカントクとして扱っていて、今や伊月自身も例外ではない。
 相田には元々、選手を育てる能力があった。日向や伊月のように同じ中学で運動部だった者は実体験として知っている。伊月はこのことを単にスポーツジムの娘の出自で納得していたのだけれども、彼女が相手の〈ステータス〉をひと目で数値化できることは高校生になって初めて知った。現在の能力値のみならず、その伸びしろまで見えるようで、中学時代の助言もそれら「ステータス」に則っていたのだという。
 目に見えるというステータスは、誠凛高校の戦略にも生かされた。相田は対戦相手のステータスも見抜いた。見抜いたステータスを加味して分析し、その独自の分析に基づいて戦略を立てた。そして彼女の戦略が、おおむねチームの戦略だ。初めての練習試合から、ウィンターカップ予選まで。ずっと相田が監督だった。
 伊月は、相田とはよく話した。初めて練習試合をするときから、彼女は戦術を話し合う相手だった。伊月のポジションは引退後よく指導者に転じるというポイントガードで、チームでは司令塔として機能することを求められている。視野の広さは、はっきり彼の強みである。これだけは部員の誰にも負けない。彼にはポイントガードの適性がある。しかし、それは花宮のことだった。
 花宮がポイントフォワードになった。この冬のことだ。ウィンターカップでの彼は、フォワードの位置で、ポイントガードの仕事もする。彼には、はっきり才能があった。秋の終わりには、相田と戦術を話し合う姿も珍しくなかった。小金井は時々「監督宮」と呼んでいる。ポイントガードの選手は引退後よく指導者に転じる。そして伊月が相田に提案した。
 花宮はポイントフォワードになった。指導者の適正も強く示した。だが、ポイントガードが伊月である以上に、監督も相田である。選手の微細な伸びしろも、本人にとってさえ違和感未満の不調でも、相田は余さず管理する。彼女も、さらに成長したのだ。インターハイ以降。木吉の一件、それ以降。
 すべては木吉の一件以降。相田がカントクになり、花宮がポイントフォワードになり、三歩歩けばトラベリング、一本外せば真っ二つ。木吉の一件はチームメイトの誰をも変えた。誠凛高校バスケ部は誰もが変化を余儀なくされた。伊月も日向も例外ではない。
 日向は主将としてシューターとして、シュートを二度と外さない誓いを立てた。以来一度も日向が——シュートを外さなかった試合はない。当然だ。彼は数えられても秀才であって、天才ではない。釈明などしなかったけれど。かわりに彼は特訓し、己を罰した。
 シュートを外した試合のたびに、つまりは毎試合後、趣味の収集品を破壊した。家で壊したと言えばよいのに、いつも必ず部員の前で真っ二つにした。この予選でも、試合の数だけの残骸を積み上げている。
「どうした伊月」
「ううん、なんでも」
 伊月は答えて、その場所から目を背ける。疲労のせいだと思われただろうか。日向は、そうかと言って黙った。疲労が、にじんだ声だった。冷たい風が頰を、なでる。冬だ。小金井が、わかりきった愚痴をこぼす。寒い、帰ろう、今日も疲れた。今日も疲れた。明日も日向は趣味の収集品を破壊する。今朝ちょうど、ここの右手に集合して、皆の前で二つに折った。残骸の前で、ずびずび泣いた。そして今日も勝ち進んだ。
 なんともはや成果は出た。思わず小金井が続こうとして止められた。小金井は食い下がらなかったけれど、日向は明日も続けるだろう。
「それにしても、頭が変になりそうだ」
 ずびずび号令をかけた日向は、コートではしかし高確率でスリーポイントを獲得する。いや、それよりは、長くないながらも一定時間すべてのシュートを成功させる、というべきか。
「キャプテン、頼むから気だけは確かにな」
 そういう時間が時々あって、そのたび時間を伸ばしている。最初に言及した部員は花宮だった。
「ダァホ、変な心配してんじゃねえぞ。縁起でもない」
「でも実際さ、日向、今日もキレてたんでしょ」
「キレちゃいねえよ」
「いやキレてたろ」
「顔怖かった」
「声怖かった」
 小金井と花宮が口々に言う。キレちゃいねえよ。日向が再び否定する。かかわらないで、伊月も、いいやと内心で首を横に振る。日向の〈時間〉の引き金は、本人がどれだけ否定したって、きっと「キレる」ことだった。
 ウィンターカップ予選ともなると、対戦相手の気迫たるや、あたかも呪詛のごとしであった。
 ウィンターカップはインターハイより門戸が狭い。東京予選の出場権は、インターハイ東京予選の上位校に与えられる。激戦区東京。全員が強敵なのだ。そのうえ彼らは、この大会のために調整、仕上げ、またさらに、ほとんどの三年生が、この最後のゲームに賭けてくる。三年生の最後の大会、三年生との最後の大会。誠凛高校にありえない動機は、時に声に出して伊月らを呪った。——おまえたちには次がある。
 それでも日向はスリーポイントを取り続けた。その時間は大抵、戦況が悪いときに訪れた。決まって彼は別人のように険しくなり、表情も、声色も、しかしまずは彼自身に向けられる。シューターは得点を期待されるポジションだ。そのうえ彼は主将だった。もちろん敗北は日向だけの責任ではない。だが、誰もが訴えたとしても、日向は首を横に振るだろう。木吉と、バスケ部全員で日本一になれなかった。
 日向と同じ後悔を部員の誰もが抱えている。
 次などない。
 一年生たちは勝ち続けた。いつでも三年生は彼らを前にして破れ、最後の試合を終える側だった。日向は明日も収集品を破壊する。誠凛はついに予選決勝に進出した。誠凛の他には、泉真館、秀徳、桐皇学園。
「桐皇学園って?」
 準決勝の終わり、更衣室を出る頃の話題は決勝の対戦相手だった。特に桐皇学園高校。泉真館と秀徳とは異なり、桐皇学園とは対戦経験がない。
「うちほどじゃないにしろ新しい学校だけど、泉真館、秀徳ほどじゃないにしろ実力はあるって話は聞くな」
 聞いた話だが、近年、優秀な監督を迎えたり、選手のスカウトに力を入れたりしているらしい。誠凛の成績がそうであるように、桐皇学園の成績も決してまぐれではないということだ。
「強いんだ」
 小金井が質問とも確認とも取れぬ語調でつぶやいて、一同は廊下の終端に差し掛かる。
 急に先頭の日向が足を止めた。
「すみません」
 人に衝突しかけたらしい。日向の前に見知らぬ高校生が立っていた。顔と服装から学校の名前を探る間に、
「強いよ、桐皇は」
 見知らぬ男子が〈返事〉をした。そして伊月は彼のジャージから正体を突き止める。学校の名前には覚えがあった。今日の対戦相手である。うちは新設校じゃないからと、相手は自虐的に切り出した。
「試合には出られなかったんだ。あんたらと同じ一年だよ。——なあ、花宮」
「ああ」
 花宮が小金井の横から一歩、前に出る。
「なあ、おまえ花宮だよな」
「うん、久しぶり。卒業式、以来だね」
 猫宮だ。口の動きで小金井がささやく。配慮したというより、声が出なかっただけだろう。伊月もそうだ。
 驚くチームメイトに気づいてか気づかずか、花宮が振り返って紹介する。「同じ中学だった——」と。紹介された人物は「同じクラスだった」と訂正した。
「だって、そうだろ。なあ花宮、クラス全員で卒業したよな」
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