なかなかどーしてややこしい

    六

 花宮は車のそばに立っていた。黒色のSUVが停車していた。オフロード性能を買ったのだろう。狩りで車に乗れば、いずれ悪路を走ることになる。日が沈むころ、今吉と黛とを見つけると、二人の乗れと促して、花宮も運転席に乗り込んだ。まるでアウトドアの大学生だった。助手席の扉を、今吉が開ける。
 黛が後部座席に乗り込むと、運転手は形式ばって、汚さないでくださいよと二人をにらんだ。整然とした車内である。食べかすのひとつもなく、嫌な臭いもしやしない。
「花宮、曲かけんの」
「聞きたきゃテメェのスマホでどうぞ」
 アイドルが歌い始めた。おそらくだが。若い女性の声が重なり合う、かわいらしい曲である。そのくらいのことしか黛にはわからなかったが、選曲した今吉とて多くはわかっていなかっただろう。花宮には不似合いな曲調だと思えば、もう嫌がらせに他ならない。
 花宮は、ちらりとも表情を変えなかったが、今吉の話に応じることもやめてしまった。今吉は、わかりきったことのように黛と話した。黛もたまに応じたくらいだけれど。
「サブスクは使うてる?」
「俺はCDを買いたい」
 学食でもそうだった。
 たぶんスプーンを手に取ったのだ。銀製でなくとも銀色の、返却の必要なスプーンだ。料理は覚えていない。カレーライスだったのかもしれない。だが、そのときの黛にとって重要だったことは、今吉が同じ品を注文していたことで、同じく返却の必要なスプーンをつかんでいたことだった。見つめたつもりもなかったけれど、何をじっと見ているのかと笑った意地の悪い顔を覚えている。
 きっと、きっかけは、それだった。
 だから今吉は、月ごとに機会をつくって、黛の隣で昼食を取ったのだ。いつかハンバーグを注文した今吉は、切ってみせようかと、黛の隣でナイフを握った。返却の必要な銀色のナイフだった。黛は無視して、ハンバーグにナイフを入れた。
 学食での時間と同じように、黛が相槌さえ打ったり打たなかったり。学食での時間とは異なって、背景音はアイドルの歌声だったが。そして、そうした時間は、長続きはしなかった。時間が進めば、車が進む。車が進めば、吸血鬼の巣が近くなる。
 地区の北側は山になっていた。地区内にあるものは森と田畑と公園だったが、大部分は一般には開かれない。その奥に吸血鬼がすみついたのだと、今吉は新情報をもたらした。行く手に森が見えている。
 まず音楽がやんだ。今吉がスマートフォンを回収する。音は消せよと、花宮が言った。それから一分とたたずに、車が立入禁止の札を過ぎた。
 花宮は、札を二つ過ぎたところで、車を止めた。そしてシートベルトを外す二人に、こんなことを言う。
「右手を」
 黛は素直に、そちらを見た。なるほど、少し離れたところに、車が止まっている。先客だった。花宮の車と同じくSUVのようだが、これよりやや大きいだろうか。色は黒、周囲に人の姿はない。舌打ちをして、前を見た。すると今吉が振り返った。今吉の奥で、時計が十八時を示している。運転手は背を向けたまま今吉に尋ねた。
「心当たりは?」
「ワシはもう少し手前から入った。北にしばらく歩いたら、使われてへんプレハブが見えてくるんや」
 にもかかわらず、今吉のたゆまない調査の結果、人の出入りがあるらしいことが判明した。今朝は血のにおいもしたという。昨晩また家畜が盗まれたことを踏まえると、無視のできない痕跡である。
「バレてないでしょうね」
「誰にも会うてへんよ」
「一応、俺も指導した」
 そうですか。花宮の返事は冷たい。黛は何も言えずに、また右手を見た。車の様子は変わらない。
「ひとまず降りましょう。俺は荷物を下ろします。黛さんは——」
「——見てくる」
「援護します」
「ワシは?」
「いつでも殺せるようにしといてください」
 花宮は扉に手をかけた。そして、もう一度だけ今吉を見た。
「言い残したことは?」
「親玉はワシが殺す」
 即答した今吉に、花宮は背を向けた。できるものなら。その言葉を最後に、花宮は外に出た。
 枯れ葉を残した高木が、寒々しくそびえ立つ。
 黛はリュックサックをつかみ、右手の車に向かって歩いた。近づけども近づけども、異変は起きない。風の音と、風に吹かれた物音と、その他には音も立たない。エンジンの音もしない。車内は無人だった。荒らされた形跡はない。長く放置されているわけではない、とはいえ、人が降りたばかりというわけでもない。ありうるな。黛は舌打ちをこらえ、さらに一周。
 回ったところに二人もやってきたので、黛は首を横に振った。
「死体が増えるかもな」
「そいつは結構」
 二人もリュックサックを背負っており、さらに花宮は弓矢と紙袋をつかんでいた。黛の前に立つと、その弓矢を、ずいっと突き出してくる。
「矢尻に死人の血を塗ってあります」
「そいつは結構」
 黛は空を見上げた。逢魔時は訪れた。揺れる高木の向こうで、半月ほどの輝きがぽっかり日曜日を照らしている。あたりまえに新月でなくて、満月でもない。だが大禍時は訪れた。怪物との遭遇は不吉そのものに違いない。見下ろすと、靴箱で一番活動的な靴が、土を踏んで汚れている。
 三人はしばらく黙りこくって森を歩いた。その建造物が見えてもなお。
 今吉が言ったとおりのプレハブの、大きめの物置、又は小さな事務所、そういう小屋が建っていた。日当たりはよくない。だが、吸血鬼にはおあつらえ向きだ。
 べつに怪物は昼間にだって人前を闊歩する。朝から晩まで不吉は実現する。しかし夜行性の怪物もいるのである。
 吸血鬼は伝承のとおり、日の光を嫌っていた。皮膚が日光に当たると、極度の日焼けを起こすそうだ。灰にはならない。死にもしない。皮膚癌の発症事例も報告されていない。そも吸血鬼は人間の病気を〈克服〉するものと見られており、——だから日中の屋外活動は絶対不可能なことでもない。ほとんどの吸血鬼は昼夜逆転生活を送ることになるけれど。吸血鬼にとって巣の日当たりの悪いことは、むしろ願ってもない利点なのだ。
 この、あんまり薄暗くじめじめとした、ぽつんと建つプレハブも、吸血鬼には望まれるのだろう。数年前に閉鎖されていることも、なおさら都合がよい。昼間だろうと、誰もここを訪ねない。実際、管理は疎からしい。遠目にもわかる。この建物は長らく放棄されている。
 ただし、外観に損なわれた部分はなく、出入り口は一か所。
 三人は二手に分かれた。花宮が先行した。黛は、やや距離を置き、木々に紛れて矢をつがえる。いずれ〈どこかしら〉から吸血鬼が姿を現す。そこに死人の血を弓で撃ち込む作戦だ。
 吸血鬼は新鮮な血液を好む。逆に極端に鮮度の悪い血液——死人の血——は、吸血鬼にとって日の光よりよほど有効な弱点らしい。死人の血を体内に取り入れると、吸血鬼は身体機能が鈍るのだ。当たり所が〈悪〉ければ、動けなくもなるという。長続きはしないようだが、花宮の言うには、今吉が首を落とす時間くらいはつくれるそうだ。
 今吉は黛についた。花宮は今吉に何を持たせることもしなかったが、今吉は血もナイフも用意していた。ナイフは、ハンターが怪物の首を落とすときによく使う鉈状の——山刀だ。どちらも父親の遺品なのだと今吉は言った。
 黛は、家族を亡くした今吉とは、今日初めて対面する。黛は彼をよく知らないが、まったくいつもどおりだと、そんなはずもないのに錯覚した。ホテルの前で会ったとき、そして金曜日の電話越しにこそ、学食で隣り合うときのプラスマイナスゼロっきりの今吉が、黛に話しかけてきた。今吉は、うまく激情を隠していた。
 それゆえ、なのだろうか。花宮が今吉の意志を確認したことは。
 自ら殺すと今吉が宣言したとき、花宮は挑発的に返したが、その実、ないがしろにするつもりはないようだった。それどころか、今晩の計画は今吉にかたきを討たせるためのものだ。弱らせた吸血鬼を適切に拘束すれば、たとえ素人にだって首を落とせる。そしてたいていの怪物は、首が落ちれば死に至る。昨晩の妖術師も、首を落としたら死んでしまった。
 それゆえ、なのだろうか。
 黛は花宮のこともよく知らない。同様に、今吉と花宮の関係についても詳しくない。学食で一度だけ、あの花宮が中学時代の後輩なのだと聞かされた。金曜日に電話越しに、あの花宮が現役のハンターなのだと聞かされた。花宮の母親がハンターなのだという。ハンターの間では、よくあることだ。ハンターは家業になる。黛も、そのひとりだ。
 強い風が体を冷やした。半月はのぼる。小屋には確実に何者かが息づいている。花宮がそれを吸血鬼だと認めたことを、黛は、その音で知った。
 硝子の割れる音がした。計画に従って木々の隙間から花宮が、手に持ったものを再び振りかぶる。第二投。
 紙袋の中身は〈催涙剤〉だった。対吸血鬼用、聖水を振りまく手榴弾だ。吸血鬼もまた聖水を弱点とする怪物の一種だ。
 案の定、吸血鬼は飛び出してきた。一体は〈唯一の出口〉から。認めるや否や、黛は弓を引いた。命中。同時に、横の今吉が飛び出した。黛もナイフと注射器をつかんで後を追う。視界の端で花宮が、別の吸血鬼の首を締め上げていた。だらりと垂れた腕の先に、鋭い爪が伸びている。吸血鬼だ。
 二体。黛は怪物を数えた。正面の今吉が吸血鬼の首に注射器を打ち込んでいる。
「殺せ!」
 黛は叫んだ。吸血鬼が打ち消さんばかりに悲鳴を上げた。苦しんでいる。今吉は意に介さず、再び叩きつけるように赤黒の液体を注射する。これで三度は弱点を突いたはずだ。吸血鬼が弱々しくあえいだ。今吉が後ずさった。今ならたしかに素人にも殺せる。だが今吉は、そもそもナイフをつかんでいなかった。
「何考えてんだ」
 黛はナイフを構えて近寄った。今吉は肩で息をして、答えない。「いいでしょう」と、次に花宮がやってきた。
「聞くこともあります」
 花宮はもう一体の吸血鬼を蹴り飛ばして転がした。
 二十代後半から三十代前半といった見た目の、中肉中背の男女だった。現状、二体で全部らしい。プレハブは、ぴったり二人分の居住空間になっていた。三人は二体を別々に拘束した。力が入らないのか、吸血鬼はろくに抵抗しない。死人の血の効果が薄れる時を、そして黛たちの油断を待っているのだ。花宮と今吉は、そして首筋にナイフを添えた。
「豚を盗んだな」
 これは花宮。聞かれて、男の吸血鬼がせせら笑った。花宮のナイフの相手だ。
「牛と鶏もな」
「人間も殺しただろ」
「スーツのやつか? ありゃあ『事故』だって」
 言葉にしながら、吸血鬼が笑う。おまえらハンターだろ。もう片方も笑った。女の吸血鬼だ。
「なんでわかった? 泥棒のせいか?」
「詰めが甘ェんだよ」
 花宮が鼻で笑う。吸血鬼は反射的に怒鳴ったが、花宮も今吉も、怪物を傷つけることはしなかった。怪物も、もがく素振りは見せなかった。ただ今吉が静かに告げた。
「もうええ。仲間はどこや」
 普段より、やや声が低い。今吉の吸血鬼は笑って答えた。中を見ただろう、と。
 たしかに確認した。花宮も今吉も、黛もこの目で。スマートフォンで室内を照らして、床も壁も天井も見た。隠れられる場所などなかった。他に吸血鬼はいなかった。
「なら、どっちが殺した? ハンターや。殺したやろ、前の町で、一週間前」
 今吉のナイフは震えない。
 花宮は冷徹な目で吸血鬼を見下ろす。その手元の吸血鬼が、ひと際大きな声で笑ったのだった。
「かたき討ちか! あいつの——そっちの関西弁! 息子か? そうだろ!」
 今吉は答えない。だが吸血鬼は得意げに続けた。
「知ってたんじゃねえか! あいつ! あの人を殺しやがった!」
「殺されたのか」
 花宮が尋ねた。間髪入れずに吸血鬼は肯定する。吸血鬼は、まだ笑っている。
「仲間を殺されたわりに、うれしそうじゃねえか」
「うれしいわけねえだろ!」
 吸血鬼は、しかし笑顔だ。
「だから俺が殺してやったんだ。あの人のかわりに。あの人の後を継いだんだ。俺たちが!」
「そいつが〈親〉か」
「それなら、——孫の顔を見せてやりたかった」
 花宮のナイフの先で、吸血鬼がくすくすと笑った。今吉のナイフの先でも、吸血鬼が笑い始めた。
 孫。
 黛は思わず反芻した。小屋を見る。三体目はいなかった。二体分の居住空間だった。今も気配はない。さらに周囲にも敵意はない。おそらくは。もっとも吸血鬼の超人的な身体能力は、瞬発力にも五感にも及ぶ。怪物は一瞬で距離を縮め、また人間の感知能力の範囲外から警戒できる。はったりか。だが本当に仲間がいるのだとしたら、この怪物二体の勝算は、より確実なものになる。吸血鬼と一対一で戦えるハンターは、ここでは花宮だけなのだ。
 吸血鬼は楽しげに自ら肯定した。
「また三人家族になったんだよ!」
「ハンターじゃなくても知ってることだよ。殖やしたの!」
 女の吸血鬼が目だけで今吉を見上げる。
「今度は四人家族ってのも、いいと思わない?」
 今吉は微動だにしない。
 花宮は見下ろしたまま口を開いた。
「そいつはやめとけ」
「あんたでもいいんだよ」
 吸血鬼は花宮に視線を移した。花宮は鼻で笑った。
「生粋のハンターは殺してくれと乞い願いさえするもんだぜ」
 吸血鬼も鼻で笑った。
「お兄ちゃん、今度は私に譲ってくれるよね」
 それが最期の言葉になった。
 男の声が、そいつの名を叫ぶ。悲鳴に似ていたその声は、いずれ苦痛を訴え始める。花宮が首筋に血を注射していた。その足元に、女の頭部が転がっていく。今吉が深く息を吐いた。右手のナイフが血を垂らして、土を汚す。
「もうええ」
 今吉が、それを再び持ち上げる。どうぞと花宮が二歩だけ下がった。今吉はつかつかと歩いて、吸血鬼の正面に立つ。吸血鬼が口汚く今吉を罵った。三体目は現れない。
「心中はお察ししますが、急いでくださいよ。効果には有効期限がある。三体目もいるようですし」
 花宮は口ではそう言ったが、注射器を見せびらかして、逆にナイフは下ろしてしまう。
 黛は一歩、前に出た。今吉はナイフを振り抜かない。
「それとも二人きりがいいですか」
「そうしてもらえると——」

 吸血鬼が、つんのめって、頭から地面に突っ込んだ。

 今吉の言葉を遮るように。そう考えてしまったくらいには、今吉は、その続きを知っていた。脳が、まったく別の発声を命令した。口からは、言葉にならない音が飛び出した。
 ようやく正しく叫んだときには、
「殺すな!」
 花宮を突き飛ばしていた。花宮がナイフと一緒に地面を転がる。吸血鬼の悲鳴はやんでいた。花宮が顔に返り血をつけている。彼のナイフが、その刃渡りの大きな狩りの凶器が、血を滴らせて、彼の手を離れた。
「危ねえな」
 花宮が声を上げて笑った。吸血鬼の頭が、そのずっと手前に、今吉の足元に、体から分かれて落ちていた。苦痛に満ちた表情。だくだくと地面にこぼれる体液。
「ほら、回収しないと」
 最後に花宮が、そう言った。今吉は黙って背を向けた。
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