なかなかどーしてややこしい

    二

 心からお悔やみ申し上げますと言われた。彼の口は勝手に動いて返事をした。二時間前の菓子パンの味より、ずっと覚えの確かな言葉だ。十二月の日曜午後二時、この若者たちで、はたして何人を数えるのか。
「工藤探偵事務所の内田です」
「上原です」
 人生の伴侶を失って、もう四日になる。
 事故だった。毒ヘビに咬まれ死亡、とは、地元新聞の小さな見出しだ。
 木曜朝、市内の公園で死体が発見された。死亡推定時刻は水曜夜。状況から、野生の毒ヘビに咬まれ、出血が止まらなくなったものとみられている。付近では以前にもヘビの目撃情報が上がっており、市民にはヘビに関して注意喚起が行われた。
 その「死体」が、彼の配偶者だ。
 前日昼に、帰りが遅くなるだろうと入った連絡が、配偶者との最後の会話だった。このところ配偶者は残業続きだったので、彼は二つ返事で受け入れて、結局、温めるだけの料理を用意し、帰りを待たずに眠りについた。二人の習慣で、夕飯がいらないときは、昼の時点で伝えてくれる。しかし翌朝、食卓は冷えきっていた。配偶者は二度と帰ってこなかった。今は遺影のなかで笑っている。
 まさか、そうするつもりは毛頭ない、いつか遠出したときの写真である。彼が撮影して、どちらも心身共に健康で、あまりに若かった。——青年たちが手を合わせた。もちろん彼らほどではないけれど。
 と、はっとなって正面を見る。工藤探偵事務所から来た若者二人が、配偶者の前で手を合わせている。次に礼儀正しいと感じたことは、彼の老いの兆候だろうか。だが、感心な青年たちだ。仕事柄だろうか。スーツ姿が板についている。
 内田と名乗った青年が、先に手を下ろした。
 もう若者ではない彼は、咄嗟に頭を下げて、
「ありがとうございます」
 遺影その人の話をした。
 内容には、まとまりがなかった。彼は話しながら自覚して、自覚しながら開き直った。この週末に少なくない人と会ったが、事故自体の話にはならなかったのだ。彼自身の見解など一度も話していない。整理がつかなかった。余裕がなかった。配偶者を失ってから話した人たちは皆、彼のことを気遣ってくれた。彼は今日になっても忙しい。本当なら眼前の青年たちを呼ぶ暇もなかった。ものを考えるだけの時間もなかったのだ。
 だから、この発想は、ようやく火葬場で訪れた。
 そうしたことまで彼は話した。
 要領を得ない話を、内田は辛抱強く聞いてくれた。後になって思えば、聞き上手だった。もう一人、上原を名乗った青年は、逆にめったに口も開かないが、それは内田の能力を信頼してのことだろう。
 内田は何かと目につく青年だった。初めて見たときは率直に身長のことを考えさせられた。百八十センチか百九十センチか、いや百九十センチはないだろうか。体脂肪率は低そうだ。肉体が引き締まっており、姿勢がよい。均整が取れている。——ああ、そう、整っていた。
 内田は整っていた。髪の長い男子だった。彼は身長の次に、内田の髪型について思いを寄せた。内田は襟元で後ろ髪をひとつに束ねていた。そのことに眉をひそめなかったといえば噓になるが、実際に接してみたら、礼儀正しく感心な青年だったのだ。理知的な顔立ちだとまで感じれば、それらの性質が内田の生業を保証するかのようである。
 内田は調査員だ。
 彼自身が呼んだ探偵だ。若いなと真っ先に抱いた感想は、彼らを拒絶する理由にはならない。他ならぬ彼自身が選んだ。〈東の大学生探偵〉の「工藤探偵事務所」を。
「ですから、あの、事故、について調べてほしいんです。
 警察は毒ヘビのしわざだと言いましたけど、もう十二月ですよ。ヘビは冬眠するじゃありませんか。そしたら今度は暖冬の影響だろうと仰ったので、一度は不運なことが起きたのだと思うことにしました。手続きなどもありましたから、忙しくって。言われてみれば、異常気象の生態系への影響は、もう何年も国際問題ですし。
 でも、落ち着いてきたら、やはり変なように思えてきまして。調べてみたら、捕まえたときに咬まれることが多いそうで。変だと思ったんです。あれはヘビを捕まえるような人間じゃないんですよ。むしろ避けて通ります。爬虫類館にも入りたがらないくらいで。いえ、すみません。もちろん怪我の原因がひとつじゃないだろうこともわかっています。
 ですからね、一番最初に私がおかしいと思ったのは、——信じられますか。ヘビに咬まれて全身の血がなくなるなんて」
 しかし失われていた。発見時すでにそうだったのだと聞かされた。野生の毒ヘビのしわざだろうと。しかし殺人を犯したというヘビは、いまだ目撃されてもいない。
 ひとたび疑問が芽生えたら、あとは膨らむだけ膨らんで、骨壺の前で花開く。そして、その夜、玄関で、骨壺の隣で、彼はひとりの探偵を選んだ。
 東の大学生探偵、工藤探偵事務所である。
 大学生ながら名探偵というだけでも驚くべき事実だろうが、かつては「東の高校生探偵」と呼ばれていた。とうに有名だったのだ。高校生の時分から警察に協力し、たびたびの事件を解決に導く。それも多くは凶悪犯罪を。先月も、都内で起きた殺人事件をはじめ、複数の事件解決に協力している。
 だから、ということも理由のひとつだ。
 彼の疑いの芽は告げていた。配偶者は殺されたのだ。
 心当たりはないけれど。あくまで彼の知る限りでは、配偶者が恨まれるようなできごとはなかった。彼自身が恨まれるような覚えもない。配偶者も彼自身も人間関係は、家族と会社と、学生時代の友人が数名か。会社では社外の人間とめったに会わず、一方、友人とはだいたい季節ごとに遊ぶ仲だ。数名とは葬儀に際して話したものの、特に不審な者はいなかった。逆恨み、はたまた彼自身の疲労をあげつらえばそれまでだが。
「本当に人間の犯行だったとしたら、殺すために全身の血を奪うような相手ですし」
 生前の配偶者が不審に振る舞わなかったとしても、そういう場合に、彼自身が気づけたとは思えない。
 内田は、そうですねとうなずいて、配偶者の死亡時の状況について他に聞いたことはないかと尋ねてきた。尋ねられて彼は、いいえと首を横に振った。
「金曜日に地元の新聞が少しだけ書いていたのですが、あとのことは、それとほとんど変わりません。読まれましたか」
「たしか、毒ヘビに咬まれて、という内容で、失血の状況についてはほとんど記述がなかったかと」
「そのことは本当によかったと思っています。私はこうして探偵の方に相談していますが、『全身の血が——』なんて書かれて、しかも事件だとなったら、まるで吸血鬼みたいだと騒ぎ立てられるような気がして」
「『吸血鬼』ですか」
 内田が当惑したように彼を見た。思わず、人間らしい表情だと感じてしまった。すぐに忘れてしまったけれど。この現実は映画ではないと少し笑ったら、どうして「吸血鬼」を連想したかを思い出したのだ。これも地元新聞が書きたてなかった事実だが、
「咬まれたという場所なんですが、実は首筋でして」
 警察は、場所も悪かったのではないかと言っていた。打ちどころが悪かった、というのと似たような意味合いで。おまけに、あの夜は雨だった。そこまで話して、また思い出す。
「そうでした、死体検案書があればとのことでしたよね。——これです。写しですが」
「助かります」
「どうぞ、ご覧になってください」
 書類を渡すと、受け取った内田は上から下へと目を通した。そして、お預かりしますと言って、隣へ渡す。彼にも頭を下げられて、こちらもお願いしますと頭を下げて、再び内田が口を開いた。
「何か生活のなかで違和感を覚えたようなことはありませんか」
「『違和感』ですか」
「はい。あなたご自身が、いつもと違うと感じたこと。変わったこと、おかしなこと、不思議なこと、なんでも。生前のご様子でも構いませんよ。何か違和感があると仰っていたとか、珍しい鳥を見かけたとか、急にカレーを食べたくなったとか、旅行、プレゼント、変な音」
 今度は彼が当惑する番だった。おかしなことを聞くものである。だが内田にも自覚はあるらしい。内田は苦笑しながら言葉を続けた。
「光熱費が倍になったり、家電の調子が悪かったり、刺激臭、嫌な臭いがしたり」
「いいえ何も。この辺りで変わったことといえば、豚が盗まれたとか」
 関係があるとは思えないが、窃盗団が現れたようだという話である。市内で近ごろ頻発している事件で、配偶者の「事故」よりも大きく扱われている。窃盗団は家畜を盗むそうだ。豚だけではない。牛や鶏も被害にあっている。
「子供が——豚や牛のということですが——狙われたそうですよ」
 そのあたりで話は一旦切り上げ、内田たちに部屋を見せて回った。そのなかで、こちらの仕事や趣味に少しだけ触れた。配偶者とは趣味を通じて結ばれたのだ。先に伝えた友人は、学校のサークルの関係者だ。それから、遺体の所持品の話にもなった。
 彼は何にも気づけなかった。よいように言えば、配偶者は強盗にあったわけではないようだった。警察も最後まで強盗をほのめかしはしなかった。逆に不自然な所持品もなかった。遺体の所持品は、すべて配偶者が持つべくして持っていた。
 見せられるものは内田に見せた。見せられなかったものというと、たとえば指輪である。
「骨壺に納めてもらったんです。いつも着けていたので。——これと同じですよ」
 彼は右手の薬指を見せた。そして内田が何かを言う前に、左手を見せた。
「結婚指輪ではないんですが、いつもは左手の薬指にはめていました。これです。——結婚してから金属アレルギーがわかったんです」
 配偶者がそうだった。結婚するまで気づかなかったので、結婚指輪についてもアレルギーのことを考慮しなかった。二人は相談して、新しい指輪をそろえた。結婚指輪は大事なときに着けることにして、でも普段使いもしたいからと。
 結婚指輪は骨壺には入れなかった。単に探す時間がなかっただけだ。結婚指輪は各々で保管していた。彼は配偶者の指輪の場所を知らなかった。隠していたわけではない。きっと年を重ねたら、保管場所の話をしたのだろう。いずれ必ず死ぬにしたって、この世の中では早すぎる死だった。
 ——探偵事務所の二人が帰るころ、時刻は午後三時を回っていた。
 彼は、すっかり彼らのことを許していた。調査の結果、改めて事故だったことを突き付けられるかもしれない。だが、そのときは事実として受け入れられるような気がしたのだ。はたして彼らと話したからかは、今の彼にはわからないのだけれども。
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