なかなかどーしてややこしい
妖術師
一
今それどころじゃないですすみません。
十二月、卒論提出前の大学生の貴重な土曜日に、後輩と呼ぶには縁遠い——そのちんけな縁をたどれば「先輩」に当たってしまうおそれさえある——花宮真(男・年下・無職・高卒・元バスケ部)は息もつかずに拒絶した。顔も上げずに切り捨てた。並の人間ならキレていた。
しかし黛千尋には、おおむねバスケ部に所属していた高校時代がある。
バスケ。この崇高な球技は彼に自己抑制を刷りこんだ。口癖は、もしかして「部活の癖が抜けなくて」になるかもしれず、
「クソッ」
黛は、しれっと隣にトレーを置く。
土曜午後二時、M市M駅から歩いて二分のマジバーガー。客の入りは悪くない。右隣の女子高生はクラスのなかよし四人組。左隣は男子高校生、サッカー部一年の三人組といったところか。それぞれ年相応ににぎやかで、かといって店の品位をおとしめる程度でもない。仮に一つ二つ物申される時が訪れても、その対象は、まず中間の花宮だ。なにせホットコーヒー一杯きりで、四人席を独占している。
いや、していた、のか。
花宮のぴったり隣で、黛は自分の紙コップに口をつけた。対照的に湯気を上らせる黒色が、冷えた体をよく温める。かぶりついたハンバーガーは空いた胃袋を満たしてくれて、つまんだフライドポテトは、まだ形状を維持している。
元はといえば花宮も、ここに昼食を求めて入ったはずだ。彼の紙コップは、トレーの上に放置されている。同じところにソースの染みが一つか二つか。彼がそれをどのような形相で食ったかということまで、黛には想像がついた。
「クソッ」
花宮が〈再び〉悪態づく。
そう、こういう形相だ。こういう。まるで人ひとりを殺せるような、殺したいような、殺したような。
おや花宮もバスケ部ではなかったか、などとは言ってくれるな。ご存じのとおり、おおむねバスケは団体戦で、特に高校バスケは五対五の形式を多く取る。五人と五人がひとつのボールを奪い合い、背の高いゴールを争って得点を競うのだ。かといって全員でボールを追いかけていても勝てはしない。戦術というものがある。そして戦術に応じて、五人それぞれに役割が与えられる。ポジションである。
黛と花宮ではポジションが異なったのだ。つまり役割が異なり、要求される技術も異なった。
黛のポジションはバスケ語でパワーフォワードといった。〈その名のとおり〉パスの中継役のことである。黛の高校は超がつくほどバスケの名門で、超がつくほど強豪のバスケ部を擁していた。黛は三年になって初めてレギュラー入りを果たし、その最後の一年はフォワードの名にふさわしく、死ぬほど敵のボールを奪わされたわけだ。これに手品の技術が必要であることは、黛の世代にはあまりにも有名。
さておき、あとはバスケIQや得点力も要求された。ここは花宮のポジションとの共通点だ。彼はポイントガードといって、コート上のコーチとも称されるポジションについていた。ガードとついても、理想形はオールラウンド。まあ花宮も何でもやった。必要に応じて攻めて守って、敵のボールもよく奪い、司令塔どころか監督になった。やらなかったことといえば手品くらいだ。
とまれ黛と花宮には、このような差異がある。黛がパワーフォワードにふさわしく突然キレない精神を身につけたように、花宮はポイントガードにふさわしく当然フェアプレーしない精神を身につけた。黛がフェアプレーをしたとしても、しかし花宮は引き合いに出されないだろう。なら花宮がキレたとしても、黛のことも引き合いに出すべきではない。学校も違ったし、きっと花宮のあおり耐性はゼロと幾らか。
いやいやいやいや。
そこで花宮が舌打ちをしたので、あれ思考を読まれちまったかなと、黛は焦りに似た感情をひっそりとしまった。同時に横目で両隣の高校生の様子をうかがった。いい加減に彼らが逃げ出しかねないぞと考えたのだ、が、杞憂であった。花宮も相変わらず手元の縦長の画面をにらみつけていた。おそらくスマートフォンである。黛は何も言わずにポテトをつまんだ。そして画面をのぞき込んだ。花宮はとがめなかった。
どうやら「今それどころじゃない」ことは本当らしい。
人ひとりを殺せるような、殺したような、そういう形相を向ける、——花宮が殺したい相手が、その端末で再生される動画の中に存在するのだ。
一本の動画を再生していた。花宮の親指は小刻みに、その再生範囲を変更した。様相を抜きにしても異様な光景だったから、黛は相席に対して多少の後悔を抱き始めた。両隣の高校生たちだって同意してくれるに違いない。
「明日の小テストがさあ」
「俺スタメン入れっかなあ」
ああ、きっと。花宮の行為に気づきでもしたら、たぶん。当然そのような事態はあまり望ましくないので、むしろ歓迎すべき現状だろう。花宮の行為に気づきでもしたら、きっと逃げ出すだけでは済まなくなって、ここでのできごとを積極的に忘れることに努めなければならなくなるのだ。高校生は高校生だけで、いつまでも世間話を楽しんでくれ。俺だってポテトの味を楽しみたいから。
フライドポテトを、また一本。かみ砕く黛の首より下で、ただ一本の動画が頻繫な一時停止を伴って再生され続ける。花宮の指は一時停止と同様の頻度で、映像の一部を拡大する。つまりは花宮が殺したい相手のことを。絶対に高校生たちには、いや、他のどの客にも気づかせてはならない標的だ。それは、どこからどう見たって、女子大生と女児だった。ものの弾みにでも気づかれてみろ、通報ものだぞ、通報もの。
一つ二つ物申されるだけで済む程度の現場ではなかったのだ、すでにして。花宮や黛と同年代らしい女性と、小学校中学年程度の子供、そのどちらともが花宮の殺意の対象で、まず確実に実在する。というと、その動画がTV番組でも映画でもないということで、しかしながら肝心の二人組の合意のもとに企画・配信されたものでもないということだ。おそらくは、コンビニエンスストアの監視カメラの映像である。
黛はフライドポテトを再びつまむ。
「それ誰だ」
花宮の指の中で、女児が飲みものを迷っている。
黛のポテトは少ししなびていた。
花宮は呟くように答えた。
「ガキ」
それから殺意を持ってにらみつけた。縮小、再生、一時停止、また拡大。髪の長い女子大生。冷蔵庫の扉の硝子が、彼女の顔を反射する。だが、造形のほどはわからなかった。結局、黛は再び尋ねた。花宮も再び答えた。
「ガキの母親です」
殺したくて仕方がない相手について無関係の第三者の前で話すとき、人は今の花宮と同じ声を出すのだろう。声量の問題ではなくて、しかし呟くようではあって、地面を無理やり這わせたようでもあって、そこにまずいホットコーヒーをこぼしてしまってももはや変化は望むべくもないようであって。俺でなきゃ逃げ出しちゃうねと、冗談を抜きにしても感じられてしまったので、黛はさらに問うた。
「それだけじゃねえだろ」
「一昨日の——女です」
花宮は、さらに答えた。
高校生の会話が、ぱたりとやんだ。
はああ。黛は内心で息を吐く。
高校生たちは、決して視線を向けてはこない。黛には、それが彼らの並々ならぬ努力の結果であることが、よくわかってしまった。
ただこれだけのことで、あたかも店内が静かであるかのように錯覚させられる。そんなことはない。ただ高校生たちが、ささやき合うことも忘れてしまった、それだけなのだ。
誰かがコーヒーを取った。
「空か」
花宮だった。取った紙コップを、舌打ちもしないでトレーに戻す。だが、もう遅い。女子高生が一人、急に声を張って、帰ったら通話をしてもいいかと話し始める。いいよと別の女子高生が答える一方で、男子高校生は露骨に店を出ることを提案する。まあ動画の秘密は守られただろうと黛も冷めたコーヒーを飲み干し、トレーに戻し、かばんを開く高校生たちを尻目に、話題を変えることにした。
「髪、伸ばしてるんだな」
「あの女、なんて言ったと思います」
普通に失敗した。
二
髪には霊力が宿るのよ。
あの女が何を言ったかというと、である。
ンなこと知ってるに決まってんだろバァカ! そう思い出した花宮が憤っても、同時に思い出された記憶の中の花宮は怒りの片鱗も示しはしないのだ。返事は忘れた。きっと、正直なところ、花宮自身が言い出したかも定かではないと考えたい。ところだが、髪に霊力がどうこうとは確実に言われていることからして、花宮自身が頭髪に関して何かしら言及したこともまた確実だろうと推察される。髪の長い女だった。
「姉貴、じゃあないのか」
「今からでもガキが妹だったことにならねえかなとは俺も念じているところですよ」
まあ一介の人間が念じた程度では、そのようなことは起きやしない。大学生と小学生の組み合わせだろうと、続柄は母と子なのだ。というのも、このガキ、この女のことを「ママ」と呼ぶ。
未婚なら妊娠できないとか、法律の定める婚姻適齢まで妊娠できないとか、そんなバカな話はない。適度に成熟した男女がやることをやれば、もちろんどちらかが小学生だったとしても、親にはなる。子供はできる。セックスだ。花宮は一昨日の晩に、その女とセックスをやった。
有り体に言って悪くない女だった。顔も腰つきも、何より体の具合が最近では群を抜いてよかった。体型の維持について、ジムの会員だと話していたが、事実ではないだろう。年齢のことも見かけに違わず大学生程度だと話していたが、実際のところについては、できることなら考えたくない。セックスしたからとか、セックスに至る前の話だからとか、そういうことではなくて、もっと根本的な問題だ。
「妹はいないとでも言われたのか」
「母一人子一人の母子家庭だったと言われました」
奇遇なことに、花宮も母子家庭の育ちである。それを理由に相手を定めたわけではないが、相手の決め手にはなったかもしれない。それは共感ではないだろうけれど。口では何とでも言えるのだ。だから花宮は慎重に吟味した。花宮は女を全裸に剝いたうえで、なお熟慮して去れる男である。
「俺は後腐れない女としか寝ません」
「子持ちは論外だと」
「当然です」
具合がよくとも、都合が悪くとも、絞まるものは花宮の首なので。
「でも一昨日は——寝たんだろ」
「あの女は、絶対に、違った」
「根拠は」
「経産婦の体じゃなかった」
「——あの女の子は」
「ガキですね」
「——根拠は」
「動画があります」
「はあ」
「ため息つきたいのは、こっちですよ」
「いや、どう考えても俺だ。おまえ本気で言ってるのか」
「今からでも自分が正気じゃねえことにならねえかなとは俺も念じているところですが、まあ本気で正気です」
そりゃあ花宮にだって、わかっている。一昨日に経産婦でもなかった女が今日は小学生の実母なのだと言われたら、花宮だって正気を疑う。里親と里子の関係ではないのかと、せめて尋ねるだろう。そうとわかっていながら、しかし花宮は否定するのだ。あれは実母と実子であると。知人の娘を預かっているわけでもない。逆に普段よそに娘を預けてもいない。うり二つの姉妹でもない。その姉妹の娘でもない。
これは、もはや、そういう次元ではない。
「ここに昨日の映像があります」
花宮は端末を操作した。あの女とガキを映した動画が、再生を終了する。母子にしろ姉妹にしろ、血縁を信じられる程度には面影のある二人組だった。女との一方的な再会は、そしてガキの発見は、昨日に遡り、その朝。夜に別れたばかりの女が、何の含みもなく偶然に、〈乳児〉を抱いて道端などに立っていたのだ。彼女は花宮を見つけなかったが、花宮は彼女を見つけた。そして乳児の顔もしっかり認めた。
二人の会話も、しっかり聞いた。
ママ。そうやって呼んだのだ。腕の中の乳児が、あの女を「ママ」と呼んだのだ。途端、あの女は顔つきを険しくして、しかし口では穏やかに「ミク」をとがめた。花宮はゲッと思ったが、「ミク」は「ママ」を呼ぶし、「ママ」も「ミク」を呼ぶ。やがて花宮も「ミク」を乳児の名前と認識して、——そもそもその町を訪ねた理由を思い出した。「ミク」の名前を再確認した。花宮の脳味噌はひっくり返った。
花宮は。そもそも仕事のためだった。その町を、仕事のために、狩りのために、わざわざ訪ねることにした。さらに遡って二週間前、Y市のマンションで銀行員の男性が何者かに投げ飛ばされて亡くなっていた。その状況から、警察は屈強な又は格闘家による犯行と見て今日まで捜査を続けているが、ほとんど進展はない。
その事件を頼りに、隣に座った年長者も、花宮を探し出したはずだった。
終わりを迎えたその盗撮記録の前で、隣の年長者がフライドポテトを無言でくわえる。数えるほどのフライドポテトが、まだトレーの上でしなびている。まずそうだなと、花宮は思った。相席の年長者は二本目をつまんだ。そして、くわえて咀嚼して飲み込んで、口を閉じて、花宮を見て、口を開けた。
「一応聞いとくが、『昨日』の『乳児』と、『コンビニ』の『小学生』の関係は?」
「〈同一人物〉です」
三本目のフライドポテト。咀嚼。
「おまえ、〈つけ〉ないんだな」
「ええ、ええ、当然〈つけ〉てヤってやりましたよ!」
三
これが花宮と黛の最初の事件のあらましだ。
避妊してセックスに臨んだと主張する花宮、四本目で底を突いた黛のフライドポテト、保存された盗撮の〈ホームビデオ〉、逆算する黛、「昨日の乳児」と「コンビニの小学生」。花宮は、その母親と、その夜のうちにセックスをした。避妊して。つまりコンドームをつけて。そしてコンドームによる避妊は、百パーセントは成功しない。
「そうなんでしょうね。目が覚めたときに体が縮んでしまっているような確率を俺が引いたって、そういうことなんでしょうね」
「何の話かわからんが、俺が言いたいのは、現実的に逆算すれば——おまえが父親ってことで」
「現実的に計算すれば、明日の朝には女子高生ってことですが」
「思春期の娘がいるってのはどういう気持ちだ」
「何をおいてもあれを殺す」
「おまわりさん、こっちです」
「人間の女が一晩でガキこさえますか?」
一昨日、土曜昼、そのときの黛は「こさえるんだろうな」と答えたのだった。マジバーガーを出たところだった。時刻は午後三時を過ぎていた。花宮は、きっと黛をにらみつけた。黛は一度だって名乗らなかったけれど、花宮は彼がハンターであることに気づいていた。片手に銀のスプーン、片手に聖水の水筒。次に黛は、それらを突きつけられる。
ハンターの間では一般的な、人間性の証明だ。
人間の女は、もちろん妊娠一晩では出産などしないのだ。医学的見地は、今は置く。そして花宮の主張は、こうなった。——あれは〈妖術師〉だ。
「たしかハンターは、人に害を成す〈術師〉を、まとめて『妖術師』と呼ぶんでしたね」
「ああ。だから人間に毛が生えたような程度の『妖術師』も珍しくはない。〈術〉を使うだけなら小学生でもする。ハンターの基準でいえば『こっくりさん』も明確に『術』だ」
「一方で、ヒトならざる種族としての『術師』も存在する、と。土曜日の相手は、どうだったんですか」
「——花宮に聞けよ」
「——聞きましたよ。銀行員殺しの犯人を始末したって」
「——プライド高そうだからな」
「——ベルツリータワーにも負けないでしょうね」
ベルツリータワーは高さ六百三十四メートルの観光名所である。閑話休題。
土曜日の妖術師は後者だった。人間性を喪失した、元より人間ではない、殺して狩るよりほかにない、怪物だ。
まさか、こんなことになっているとは。
殺して済むということは、ハンターにも好まれる、ある種の簡潔さだ。しかし黛の内心は険しくなる。たとえ相手が吸血鬼でなかったとしても、怪物を殺すということは、それ自体が難問だ。
黛は。そもそも仕事のためだった。花宮を、仕事のために、狩りのために、わざわざ訪ねることにした。遡って水曜日、同じ大学の今吉翔一と連絡がつかなくなったと、その友人から相談を受けた。ハンターとして頼られたのではない。単に今吉の知人だからと、確認のためにやってきたのだ。そして黛も一介の大学生として、見当もつかないと事実を伝えた。だが。
実際のところ、黛はハンターで、今吉も元ハンターだった。互いに薄々と勘づいていた。だから今吉の部屋へ侵入し、もしかしてと思って今吉の実家への侵入も果たし、とうとう本人から、案の定、吸血鬼退治の話を聞かされた。それに花宮の力が必要であることも。学生バスケの有名人は、今吉の中学時代の後輩で、実は現役ハンターだという。これが金曜日のことだ。
黛は、それから一日とたたずに花宮を探し当てた。多少は強引な手を使った。とはいえ黛自身、早かったと思っている。まさか一日で見つかるとは。そして吸血鬼退治の前に別の厄介事に巻き込まれることは——完全に想定外とは言わないが——まったく歓迎などできない事態だった。吸血鬼退治で花宮の手を借りたい手前、黛が彼の狩りに手を貸さない選択肢はなかった。多少、後ろめたい部分があったからだ。
花宮さんにも苦手な相手がいたんですね。
口を挟むと、話せばわかる、と返ってきた。対話による和解のことではない。
「というか、あれを得意だと言える人間が、そういないだろうよ」
どちらのことかと尋ねたら、両方だと黛は言った。なるほどなと、工藤新一はうなずいた。そして正面を見る。妖術師と吸血鬼を退治したという黛は、この月曜日ちょうど午後五時に、彼の探偵事務所を訪れた。
黛は同じ大学の四年生だった。工藤は驚かなかった。高校時代のバスケ関係者だと知らされても、やはり工藤は受け入れた。背の高い青年だった。しかし工藤には、彼がハンターであることだけは、わからなかった。
わからなかった。
同じ大学の四年生が何の用かと考えた。花宮の高校時代の知人がどうしてここにと記憶を探った。つい二時間前に、たしかに彼は工藤の事務所に人を寄越すと一方的に約束した。ではこの人が。ハンターだと、黛は、そのとき名乗った。実に疑わしい肩書だった。工藤にとって黛は、こうして事件の報告を聞いている今さえ、ごく普通の、どこにでもいる——特に工藤の大学には——歳の近い学生だった。
決してハンターなどではない。
また考えて、工藤は花宮を思い出す。きっと花宮は、この黛のことも苦手なのだろう。工藤は口を開けた。
「今吉翔一さんの話は、いつされたんですか」
「花宮の件を片づけてから、日付もまたいでいたかもな。知ってのとおり、今吉に頼まれたことは伏せた。俺は、あくまで大学の知人として吸血鬼にたどりついた。花宮のことは今吉に何度かにおわされていたからもしかしてと思った。花宮は、それならってことで、協力してくれることになった。どうせ吸血鬼を野放しにはできない」
妖術師退治に黛の手を借りた手前、彼の狩りに手を貸さない選択肢がなかった、ということもあるだろう。いつか花宮が言っていた。ハンターは根っからの信用商売なのだと。それはどの業界にも通用することだろうが、信用を損なったハンターは命を損なう。だからハンターをだますときは、だまし抜けと、花宮は工藤にそうも言った。
「なあ工藤。花宮は、いつから気づいていたと思う?」
そして黛は、こうも言った。
——最初からだ。
四
最初。二週間前に殺されたY市の銀行員は、最初に妖術師とセックスをした。最後は妖術師に殺された。彼はわけもわからずに最期を迎えた。
強いて言えば、奇麗な子だとは思っていた。
「誰だ、君は」
仕事帰りの玄関の向こう、荷物を置いたか、明かりをつけたか。独り暮らしの無人の部屋で物音がした。彼は違和感に従って足を動かした。居間に着いた。暗かったから明かりをつけた。LEDの白色が、そして少女を照らし出す。テーブルの前に知らない人間が立っていた。家に上げた覚えはない。三日前に寝た女のことは、思いつくこともできなかった。ここにいるのは子供だった。たしか部長に、この年頃の。
中学生か高校生か。心当たりのない美少女は、うんともすんとも言わなかった。
部長の子供ではないだろう。同僚も違う。友人も違う。親戚も違う。知人の顔を端から数えて、否定して、浮かびあがった「不審者」の三文字。彼は少女の全身を眺めた。手ぶらの、薄着の、私服だった。靴を履いたままだった。思わず床を見下ろした。彼は次に、靴を脱ぎなさいと言おうとして、——床が遠ざかっていく様子を見ていた。
疲れているのかと額をおさえた。同時に、踏ん張ることができないという感覚に襲われた。足がばたつく。何か、何かの、言葉を音にする前に、後頭部が、こつんとぶつかった。天井に。宙に。それは、ごまかしようもない。腹が、逃れようもなく床を見下ろす。少女の頭頂部を見下ろしている。尻が、ぴたりと天井につく。少女が顔を徐々に見上げた。
「わからないの?」
彼は最期まで、わからなかった。
正直に言って失望した。母に伝えたら呆れられた。彼女自身、娘が同じことを言ってきたら呆れるだろう。しかし彼女は当時まだ思春期の子供で、自分のこともわかっていなかった。未熟だった。靴が汚れないように彼の体液を避けたとき、いやに動悸がしたことを覚えている。初めての殺人だった。彼女は足を持ち上げるたびに言い聞かせた。
私は、人間などとは違うのだ。
そう内心でとなえるたび、すとんと気持ちが収まった。彼女は、人間などとは違うのだ。術師なのだ。彼女は自分のことを知っていた。生まれてこの方、瞬間も余さず。母と、そのまた母と同じように、彼女も娘も、そのまた娘も、皆等しく術師として死ぬ。人間などが、わかるはずもない。彼も彼女たちの正体を、術なるものの実在をわからないまま、わからないうちに息絶えた。
事件は世間に知れ渡った。成人男性が投げ飛ばされて、殺された。犯人は屈強な格闘家か何かだと、警察や報道機関が言った。人ひとりを手ずから投げ飛ばすために体格も筋肉も必要としない存在がいることを知らない、人間の見解である。おかげで彼女は二週間たっても捕まらない。あるいは彼女は、二週間前は華奢でか弱い少女だった。思春期の子供だった。今は違う。
今ならわかった。二週間前の彼女にとって、床の軋まない家は初めてだった。彼女のねぐらには隙間風も入った。母は住居に関して、とんと無頓着だったのだ。そもそも彼女たちの生活に余裕というものはなかった。しかし彼にはあった。銀行員は裕福な人種である。母は彼女に繰り返し聞かせた。今ならわかる。
自分のことが、わかる。なぜ生まれたのか、誰から生まれたのか、なぜ母と彼の間に生まれたのか。母がどうして彼を選んだのか。今の彼女は、そんなことまでわかっている。彼女も、そうして雄を選んだからだ。今にして思えば、あの雄の着ていた服は、〈彼〉の死装束によく似ていた。
つい一昨日の晩のことだ。雄を選びに入った店で、あの雄と意気投合した。つまり、この雄も一晩の相手を探していた。彼女は一目で既視感を抱いたが、そのときは正体はわからなかった。しかし質のよい身なりを認めて決心した。幸いにして顔も頭も悪くはなかった。一方あの雄も、彼女の容姿を気に入ったようだった。彼女は美しく生まれたことを、よく自覚している。
二人は、とんとん拍子で事に及び、そして互いに満足した。彼女は、よい雄を引き当てたのだ。もちろん母との〈特訓〉の成果も発揮された。雄は当然とばかりにコンドームを装着したが、彼女はまた母から継承した術によって確実に受精することができる。そして雄と円満に別れた後、日がのぼるころに娘を抱いた。孫を取り上げた母は、昼前に息を引き取った。彼女はただちに遺体を処理して、娘の教育に着手した。
そのころ娘は、三歳程度の発育段階に到達していた。すでに術師の資質も示し始めていた。彼女は母と同じように、もしくは、より優れた方法で、娘を術師として鍛え始めた。彼女は、もう三週間も生きられない。だが彼女の娘は三日もあれば、いっぱしの術師になる。最低でも人ひとりを確実に殺せる術を得る。彼女もそうだった。そして彼女も手始めに、父親を殺した。
彼女は時計を見た。そろそろ、あの雄は泡でもふいて倒れる頃だ。彼女もそうした。彼の立派な背広を吐瀉物で汚させた。少しだけもったいないように感じられたのだったか。思い返すと懐かしい気分になる。当時の彼女は思春期の子供だった。今は、思春期の娘のことを考えている。娘も、あの感慨に捕らわれたかと、彼女のように靴を汚したくなくて慎重に歩いたかと。
彼女だけは、わかっていた。まもなく娘が帰ることを。それから死ぬまで、何の罪にも問われないことを。彼女だけは、わかっていた。彼女の母が、そうだったから。いずれ彼女が、そうなるから。彼女たちは、人間などとは違うから。人間などというものは、術も術師も知らないのだから。彼女たちを何の区別もなく妖術師と呼ぶような連中を除いては。
やはり彼女は、彼女が母に言われたように、娘に言って聞かせたのだ。この安い賃貸の、狭い玄関で向かい合って。そして。
彼女が玄関へ目を向けた、ちょうどそのとき、外で呼び鈴が鳴らされた。
娘ではない。否定しながら、正面へ向き直る。術の研究に、術の道具に、術の痕跡。術も術師も知らないとはいっても、人間などを通すわけにはいかない部屋だ。彼女は自身の恰好を見下ろした。こちらは、玄関での立ち話くらいは可能。腕を顔の前まで持ち上げて、鼻を寄せる。おそらく、きっと問題ない。彼女は椅子から腰を上げた。再び呼び鈴が鳴らされる。娘には鍵を持たせてある。名乗りは続かない。
娘ではない。否定しながらも、彼女は立ち上がった。目的が何にせよ非常識な来客だ。訪問販売の類いなら特に、居留守を使うことに抵抗は起きない。だが、初めての殺人だった。今夜は、あの雄は、娘にとって最初の、そして最後の機会なのだ。娘は、まだ若い。あの夜の私のように。生まれたばかりの、思春期の、未熟な子供だったのだ。
帰った私を、母は優しく抱きしめてくれた。もし娘だったら、そうしてあげよう。娘のために。彼女のために。そして、そうでなかったとしたら。人間など適当に追い払ってしまえばよい。
五
夜だというのに非常識なことをした。黛は引き抜く前に強くひねった。女性の身体がくずおれる。それを見下ろす時間は、すぐに終わった。ぴったり背中からせっつかれて、黛は妖術師の死骸をまたぐ。安アパートの外観に相反することのない、狭い玄関だった。
花宮が死骸をまたぐためには、まず黛が廊下の終わりまで進まなければならなかった。安アパートの、台所と浴室に挟まれたような廊下である。特に異常な様子もない台所と浴室だ。確認していると、背中から強い視線を感じたので、仕方なく先へ進んだ。他者の気配はしない。そこに、ようやく花宮が死骸を引きずってやってくる。
「家に連れ込まれなくてよかったな」
2DK。すべての部屋が明るくて、すべての部屋に他者がいない。しかし術師の生活が見え隠れするダイニングで、術師が寝起きをしたような寝室で、明らかに術師が研究していた書斎だ。異臭も異音もしなかったけれど、ダイニングの所々には、術の道具が紛れていた。寝室に入れば、寝床のかわりに魔法円が描かれていた。術師の書斎には、本物の人骨が保管されていた。
花宮は、ちょうど机に開かれていたノートを取った。
黛も片手で棚からノートを抜いて読んだ。ありきたりな大学ノート。表題はない。だが、番号と日付は振られている。ので、先にぱらぱらとめくってしまう。九月九日が五連続、次いで十日も五連続、十一日は四ページだったが、十二日の分はまた五ページ。およそ四、五ページをかけて、一日の記録をつけている。なるほど、日誌のようだった。
今日は何を食べさせた。今日は身長がこれだけ伸びた。顔は、やはり私に似た。どれだけ術を教えた。どれだけ術を操れるようになった。野良猫を上手に殺せるようになった。人間の殺し方を訓練した。父親を殺して帰ってきた。成体になった。
成体になると、番号が更新された。番号が更新されると、日付が二週間ほど先に進んで、赤子の記録に戻っていく。
黛は次のノートを取った。ちょうど二週間後、次の番号から始まっていた。一日で小学生に、二日で中学生に、三日で大学生に。幅一メートルほどの本棚の右端から抜き取った、左開きの大学ノート、二十一番から二十四番。
片手でナイフを握りしめる。そして花宮を見た。
即戦力となる妖術師の量産。その研究の過程が、一晩で出産する女と、二晩で思春期を迎える娘の正体だ。この妖術師たちは超人的速度で成熟すると、〈二十代頃〉で肉体の発達を止め、一か月未満で死に至る。
そういう一族なのだと、今夜ここに至る前に、花宮から知らされていた。花宮は黛と合流する前に、敵の調査を済ませていた。ホテルでヤったと言っていたくせ、この巣もすでに特定していた。後は殺すだけだったのだ。
黛はノートを机に置いた。
「何でした?」
「育児日誌だった。そっちは?」
「日記交じりの研究日誌。大人の骨ではうまくできないから赤ん坊のを使おうとか、そういうのです」
花宮もノートを置いて顔を上げた。そして黛を見た。いや、黛の手のナイフを見た。黛は耳をそばだてる。そのとき、ちょうど外で物音がした。
とうとう娘が帰ってきたのだ。
また黛に刺させたいのか、それとも〈返して〉ほしいのか。わからず、そのまま身構えていると、花宮は速やかに黛の前に出る。おまえを殺しに出かけた娘だぞとは、黛は言わなかった。娘が殺したがっている父親は、大ぶりのナイフを握っていた。ハンターが怪物の首を落としたいときに、よく使う——。
ダイニングに〈母親〉の死骸が見えた。〈娘〉は、すぐに玄関の扉を開けた。やがて、その鍵までかけた。黛は物音で敵の気配を探った。敵はフローリングに靴を載せた。もう片足も、まもなく乗った。靴を脱がずに、死骸に駆け寄った。本当に少女である。本当に思春期の、本当に高校生程度の。そういう年下の女子が、また間髪入れずに、来客の居場所を鋭くにらんだ。黛はナイフを持つ手に力を込めた。
今度は花宮が先に出た。
続いて、物の落ちる音がした。
終わりに黛は、はっと見開かれたままの目と、目を合わせる。
まるで姉妹のような死体だなと、最後に思った。
六
悪霊退治のつもりだったんだ。
工藤の事務所の応接間で、黛は言った。だから狩りの準備は不足していたのだと。ただし、それは言い訳ではなく、凶器の説明に接続する。
花宮がナイフを寄越した。ナイフなら黛も持っていた。首を落とせば、怪物は死ぬ。単純明快にして安価、そして非常に汎用性の高い狩りの手法だ。だが花宮は、そのナイフを押しつけて、刺すだけでよいと言ったのだ。
「心臓を?」
工藤が尋ねた。黛はうなずく。
「刺した」
東の大学生探偵の前で、続けて告白する。
「初めてだったよ。心臓刺すだけで絶命を確信できたのは」
特別なナイフだった。いや呪具だったのだと、今はそのような確信を抱いている。
工藤が苦笑した。黛は、不快には思わなかった。精神病院は、ハンターの進路としては珍しい場所ではない。ハンターが正気であればあるほど、ハンターは正気とは見なされないものだ。仮に狩りにかかわった人間であっても、ハンターの言動が真実であるからこそ抱く不快感や困惑もある。だから、むしろ、おもしろい気持ちになった。
花宮と工藤は、ずいぶんと長い付き合いらしい。両者共まだ大学生程度の年齢だから、長いといっても期間は知れている。とはいえ歳月などは問題ではない。問題は回数だ。狩りにかかわった回数。それも情報提供程度の段階ではなく、もっと直接的に、実際的に。おそらく工藤は、吸血鬼の巣でわめいたとかいう狩りの後にも何度も、怪物と対面するかたちで狩りにかかわっている。
そういえば、学科のミステリ愛好家が、工藤について話していたっけ。二年前、当時高校二年の工藤新一に死亡説があったことを。
「黛さん?」
「大丈夫だ、問題ない」
「ならよかった。連日の狩りの後に、無理をしているんじゃないかと」
「まあ無理はしてるが」
黛は言葉をしまった。
「——そうですよね。すみません長々と」
「いや、話してるのはこっちだ。それに今回、俺は——ある意味では何もしてない」
工藤は口を閉じた。
「妖術師の件は、俺がかかわったときには全部調べがついてた。俺は悪霊退治のつもりだったんだ。心臓刺したナイフも花宮からの借り物だ。吸血鬼の件は、いわずもがな今吉が。
もちろん俺は花宮を探したし近づいたし、狩りもした。なんだかんだ言ってハンターも怪物を殺せる人手が欲しいんだ。狩りにも数の有利は働く。何もしてないなんてことはない。とにかく俺は妖術師を殺した。吸血鬼殺しにも加担した。よくやった。
けど、過剰だとも思う」
過剰に事が進展したと、顧みれば顧みるほど、決して謙虚からでなく感じられる。
「花宮は今吉の妹のことを〈知って〉いた。俺たちが吸血鬼を殺した地区は、俺が花宮に会ったマジバから電車一本で数駅だった。そもそも花宮がマジバにいたのは何にしたって銀行員殺しを追っていたからで、その銀行員が殺された町は今吉の実家から近いといっていい」
おかげで早々と花宮に会えた。狩りの最中ではあったけれど、事件を頼って探したのだ。その程度は想定の内だ。むしろ花宮の腕を知る機会ができたと前向きにとらえた。都合のよいことに、花宮の狩りは、終盤に差しかかってもいた。黛の想定を超えて遥かに順調だったとさえいえる。おかげで金曜夜に引き受けて、土曜日に合流して、日曜日には吸血鬼事件を解決できた。
だが、うまくいったと、ただで喜ぶことはできなかった。
「べつに悪いとは言わん。うまくいくことはいいことだ。狩りならなおさら。うまくいけばいくほどいい。そして工藤、もちろん、おまえを責める気もない。ただ、ひとつ聞きたいんだが、おまえはあの銀行員殺しについて、花宮に何と聞かれて教えたんだ?」
それだけ尋ねて黛は口を閉じた。
工藤は、しばらく口を開かずにいたが、やがて小さく息を漏らした。
「お察しのとおりです」
伝えて、一呼吸を置く。
ある鉄道が、M市とY市を通っている。その沿線で事件はなかったかと、たしかに花宮は工藤に尋ねた。
「一か月ぶりに連絡してきたかと思えばそんなことだったんですが。怪しい事件はないって答えたら、なら、未解決事件はないかって。それならと、俺は幾つか教えました。先週の土曜日の朝のことです。黛さん。質問の答えです。たしかに花宮さんは、最初から気づいていました。今吉さんのご家族に起きたことを、花宮さんは何らかの形で知っていました」
おそらくは、今吉の父親だろう。今吉と花宮は中学時代から互いに正体を知っていた。ハンターは家業になる。中学生のうちからハンターなら、その保護者がハンターであると予想することは、その逆を予想するよりよほどたやすい。当然、保護者同士も正体を知っていたはずだ。もしかすると今吉の父親は、今回の復帰に際して、花宮の保護者か当人の助言を得ていたかもしれない。これは完全に想像だが。
ともかく、今吉翔一と花宮真の間で直接の交渉が行われたわけではないということだ。花宮真は、今吉翔一とは——彼の妹とも——一切の連絡を取っていない。黛は今吉翔一の父親とも花宮真とも関係がなかった。花宮が〈黛を待っていた〉ことは、今吉の差し金ではない。それは、黛自身が待たれていたということにもならない。それが黛になったことは、単に結果に過ぎない。
たぶん今吉と花宮は互いをよく知っていて、そのうえ腹の探り合いが好きな人種だ。今吉は復讐のために、彼に差し出せるもののなかから、ハンターの花宮が欲しがりそうなものを予測した。花宮も、彼に必要なもののなかから、今吉がかたき討ちのために差し出せるものを予測した。その結果だろう。
ハンターのおともだち。
これが黛についた商品名だ。ハンターは、いつだって怪物を殺せる人手を欲しがっている。
まったく気に食わない。黛は心底から思う。まったく気に食わない。彼は交渉材料などに用いられたのだ。しかし困ったことに、たしかにハンターは、どいつもこいつも怪物を殺せる人手を欲しがっていた。特に同年代のハンターの知人というやつは、他の何かで代えられたとしても、まずまず貴重な存在であろうと、黛は考えている。
「まあ今後なんてものは二度とこないが」
「えっ」
「花宮にも言ってきた」
「言ってしまったんですか」
「おまえとは二度と組みたくないって」
「ええと、それで花宮さんは」
「ではそのように、だと」
「まあ花宮さんとどうなったからって、うちが振込を渋るようなことはありませんが」
工藤が、ちょうどよいとでも思ったのか、そこで黛の前に書類を差し出す。
「そいつはよかった」
黛は、にこりともしないで喜んだ。
一方で工藤は、僅かに表情を曇らせる。
「俺も言ったことがあります。あなたとは二度と会いたくないって」
「へえ」
「相手の返事は、じゃあそういうことで、でした」
工藤の顔色が悪くなる。
それで、と、黛はそれでも続きを促した。
工藤は黛の目を見て答えた。
「一週間後に再会しました」
一
今それどころじゃないですすみません。
十二月、卒論提出前の大学生の貴重な土曜日に、後輩と呼ぶには縁遠い——そのちんけな縁をたどれば「先輩」に当たってしまうおそれさえある——花宮真(男・年下・無職・高卒・元バスケ部)は息もつかずに拒絶した。顔も上げずに切り捨てた。並の人間ならキレていた。
しかし黛千尋には、おおむねバスケ部に所属していた高校時代がある。
バスケ。この崇高な球技は彼に自己抑制を刷りこんだ。口癖は、もしかして「部活の癖が抜けなくて」になるかもしれず、
「クソッ」
黛は、しれっと隣にトレーを置く。
土曜午後二時、M市M駅から歩いて二分のマジバーガー。客の入りは悪くない。右隣の女子高生はクラスのなかよし四人組。左隣は男子高校生、サッカー部一年の三人組といったところか。それぞれ年相応ににぎやかで、かといって店の品位をおとしめる程度でもない。仮に一つ二つ物申される時が訪れても、その対象は、まず中間の花宮だ。なにせホットコーヒー一杯きりで、四人席を独占している。
いや、していた、のか。
花宮のぴったり隣で、黛は自分の紙コップに口をつけた。対照的に湯気を上らせる黒色が、冷えた体をよく温める。かぶりついたハンバーガーは空いた胃袋を満たしてくれて、つまんだフライドポテトは、まだ形状を維持している。
元はといえば花宮も、ここに昼食を求めて入ったはずだ。彼の紙コップは、トレーの上に放置されている。同じところにソースの染みが一つか二つか。彼がそれをどのような形相で食ったかということまで、黛には想像がついた。
「クソッ」
花宮が〈再び〉悪態づく。
そう、こういう形相だ。こういう。まるで人ひとりを殺せるような、殺したいような、殺したような。
おや花宮もバスケ部ではなかったか、などとは言ってくれるな。ご存じのとおり、おおむねバスケは団体戦で、特に高校バスケは五対五の形式を多く取る。五人と五人がひとつのボールを奪い合い、背の高いゴールを争って得点を競うのだ。かといって全員でボールを追いかけていても勝てはしない。戦術というものがある。そして戦術に応じて、五人それぞれに役割が与えられる。ポジションである。
黛と花宮ではポジションが異なったのだ。つまり役割が異なり、要求される技術も異なった。
黛のポジションはバスケ語でパワーフォワードといった。〈その名のとおり〉パスの中継役のことである。黛の高校は超がつくほどバスケの名門で、超がつくほど強豪のバスケ部を擁していた。黛は三年になって初めてレギュラー入りを果たし、その最後の一年はフォワードの名にふさわしく、死ぬほど敵のボールを奪わされたわけだ。これに手品の技術が必要であることは、黛の世代にはあまりにも有名。
さておき、あとはバスケIQや得点力も要求された。ここは花宮のポジションとの共通点だ。彼はポイントガードといって、コート上のコーチとも称されるポジションについていた。ガードとついても、理想形はオールラウンド。まあ花宮も何でもやった。必要に応じて攻めて守って、敵のボールもよく奪い、司令塔どころか監督になった。やらなかったことといえば手品くらいだ。
とまれ黛と花宮には、このような差異がある。黛がパワーフォワードにふさわしく突然キレない精神を身につけたように、花宮はポイントガードにふさわしく当然フェアプレーしない精神を身につけた。黛がフェアプレーをしたとしても、しかし花宮は引き合いに出されないだろう。なら花宮がキレたとしても、黛のことも引き合いに出すべきではない。学校も違ったし、きっと花宮のあおり耐性はゼロと幾らか。
いやいやいやいや。
そこで花宮が舌打ちをしたので、あれ思考を読まれちまったかなと、黛は焦りに似た感情をひっそりとしまった。同時に横目で両隣の高校生の様子をうかがった。いい加減に彼らが逃げ出しかねないぞと考えたのだ、が、杞憂であった。花宮も相変わらず手元の縦長の画面をにらみつけていた。おそらくスマートフォンである。黛は何も言わずにポテトをつまんだ。そして画面をのぞき込んだ。花宮はとがめなかった。
どうやら「今それどころじゃない」ことは本当らしい。
人ひとりを殺せるような、殺したような、そういう形相を向ける、——花宮が殺したい相手が、その端末で再生される動画の中に存在するのだ。
一本の動画を再生していた。花宮の親指は小刻みに、その再生範囲を変更した。様相を抜きにしても異様な光景だったから、黛は相席に対して多少の後悔を抱き始めた。両隣の高校生たちだって同意してくれるに違いない。
「明日の小テストがさあ」
「俺スタメン入れっかなあ」
ああ、きっと。花宮の行為に気づきでもしたら、たぶん。当然そのような事態はあまり望ましくないので、むしろ歓迎すべき現状だろう。花宮の行為に気づきでもしたら、きっと逃げ出すだけでは済まなくなって、ここでのできごとを積極的に忘れることに努めなければならなくなるのだ。高校生は高校生だけで、いつまでも世間話を楽しんでくれ。俺だってポテトの味を楽しみたいから。
フライドポテトを、また一本。かみ砕く黛の首より下で、ただ一本の動画が頻繫な一時停止を伴って再生され続ける。花宮の指は一時停止と同様の頻度で、映像の一部を拡大する。つまりは花宮が殺したい相手のことを。絶対に高校生たちには、いや、他のどの客にも気づかせてはならない標的だ。それは、どこからどう見たって、女子大生と女児だった。ものの弾みにでも気づかれてみろ、通報ものだぞ、通報もの。
一つ二つ物申されるだけで済む程度の現場ではなかったのだ、すでにして。花宮や黛と同年代らしい女性と、小学校中学年程度の子供、そのどちらともが花宮の殺意の対象で、まず確実に実在する。というと、その動画がTV番組でも映画でもないということで、しかしながら肝心の二人組の合意のもとに企画・配信されたものでもないということだ。おそらくは、コンビニエンスストアの監視カメラの映像である。
黛はフライドポテトを再びつまむ。
「それ誰だ」
花宮の指の中で、女児が飲みものを迷っている。
黛のポテトは少ししなびていた。
花宮は呟くように答えた。
「ガキ」
それから殺意を持ってにらみつけた。縮小、再生、一時停止、また拡大。髪の長い女子大生。冷蔵庫の扉の硝子が、彼女の顔を反射する。だが、造形のほどはわからなかった。結局、黛は再び尋ねた。花宮も再び答えた。
「ガキの母親です」
殺したくて仕方がない相手について無関係の第三者の前で話すとき、人は今の花宮と同じ声を出すのだろう。声量の問題ではなくて、しかし呟くようではあって、地面を無理やり這わせたようでもあって、そこにまずいホットコーヒーをこぼしてしまってももはや変化は望むべくもないようであって。俺でなきゃ逃げ出しちゃうねと、冗談を抜きにしても感じられてしまったので、黛はさらに問うた。
「それだけじゃねえだろ」
「一昨日の——女です」
花宮は、さらに答えた。
高校生の会話が、ぱたりとやんだ。
はああ。黛は内心で息を吐く。
高校生たちは、決して視線を向けてはこない。黛には、それが彼らの並々ならぬ努力の結果であることが、よくわかってしまった。
ただこれだけのことで、あたかも店内が静かであるかのように錯覚させられる。そんなことはない。ただ高校生たちが、ささやき合うことも忘れてしまった、それだけなのだ。
誰かがコーヒーを取った。
「空か」
花宮だった。取った紙コップを、舌打ちもしないでトレーに戻す。だが、もう遅い。女子高生が一人、急に声を張って、帰ったら通話をしてもいいかと話し始める。いいよと別の女子高生が答える一方で、男子高校生は露骨に店を出ることを提案する。まあ動画の秘密は守られただろうと黛も冷めたコーヒーを飲み干し、トレーに戻し、かばんを開く高校生たちを尻目に、話題を変えることにした。
「髪、伸ばしてるんだな」
「あの女、なんて言ったと思います」
普通に失敗した。
二
髪には霊力が宿るのよ。
あの女が何を言ったかというと、である。
ンなこと知ってるに決まってんだろバァカ! そう思い出した花宮が憤っても、同時に思い出された記憶の中の花宮は怒りの片鱗も示しはしないのだ。返事は忘れた。きっと、正直なところ、花宮自身が言い出したかも定かではないと考えたい。ところだが、髪に霊力がどうこうとは確実に言われていることからして、花宮自身が頭髪に関して何かしら言及したこともまた確実だろうと推察される。髪の長い女だった。
「姉貴、じゃあないのか」
「今からでもガキが妹だったことにならねえかなとは俺も念じているところですよ」
まあ一介の人間が念じた程度では、そのようなことは起きやしない。大学生と小学生の組み合わせだろうと、続柄は母と子なのだ。というのも、このガキ、この女のことを「ママ」と呼ぶ。
未婚なら妊娠できないとか、法律の定める婚姻適齢まで妊娠できないとか、そんなバカな話はない。適度に成熟した男女がやることをやれば、もちろんどちらかが小学生だったとしても、親にはなる。子供はできる。セックスだ。花宮は一昨日の晩に、その女とセックスをやった。
有り体に言って悪くない女だった。顔も腰つきも、何より体の具合が最近では群を抜いてよかった。体型の維持について、ジムの会員だと話していたが、事実ではないだろう。年齢のことも見かけに違わず大学生程度だと話していたが、実際のところについては、できることなら考えたくない。セックスしたからとか、セックスに至る前の話だからとか、そういうことではなくて、もっと根本的な問題だ。
「妹はいないとでも言われたのか」
「母一人子一人の母子家庭だったと言われました」
奇遇なことに、花宮も母子家庭の育ちである。それを理由に相手を定めたわけではないが、相手の決め手にはなったかもしれない。それは共感ではないだろうけれど。口では何とでも言えるのだ。だから花宮は慎重に吟味した。花宮は女を全裸に剝いたうえで、なお熟慮して去れる男である。
「俺は後腐れない女としか寝ません」
「子持ちは論外だと」
「当然です」
具合がよくとも、都合が悪くとも、絞まるものは花宮の首なので。
「でも一昨日は——寝たんだろ」
「あの女は、絶対に、違った」
「根拠は」
「経産婦の体じゃなかった」
「——あの女の子は」
「ガキですね」
「——根拠は」
「動画があります」
「はあ」
「ため息つきたいのは、こっちですよ」
「いや、どう考えても俺だ。おまえ本気で言ってるのか」
「今からでも自分が正気じゃねえことにならねえかなとは俺も念じているところですが、まあ本気で正気です」
そりゃあ花宮にだって、わかっている。一昨日に経産婦でもなかった女が今日は小学生の実母なのだと言われたら、花宮だって正気を疑う。里親と里子の関係ではないのかと、せめて尋ねるだろう。そうとわかっていながら、しかし花宮は否定するのだ。あれは実母と実子であると。知人の娘を預かっているわけでもない。逆に普段よそに娘を預けてもいない。うり二つの姉妹でもない。その姉妹の娘でもない。
これは、もはや、そういう次元ではない。
「ここに昨日の映像があります」
花宮は端末を操作した。あの女とガキを映した動画が、再生を終了する。母子にしろ姉妹にしろ、血縁を信じられる程度には面影のある二人組だった。女との一方的な再会は、そしてガキの発見は、昨日に遡り、その朝。夜に別れたばかりの女が、何の含みもなく偶然に、〈乳児〉を抱いて道端などに立っていたのだ。彼女は花宮を見つけなかったが、花宮は彼女を見つけた。そして乳児の顔もしっかり認めた。
二人の会話も、しっかり聞いた。
ママ。そうやって呼んだのだ。腕の中の乳児が、あの女を「ママ」と呼んだのだ。途端、あの女は顔つきを険しくして、しかし口では穏やかに「ミク」をとがめた。花宮はゲッと思ったが、「ミク」は「ママ」を呼ぶし、「ママ」も「ミク」を呼ぶ。やがて花宮も「ミク」を乳児の名前と認識して、——そもそもその町を訪ねた理由を思い出した。「ミク」の名前を再確認した。花宮の脳味噌はひっくり返った。
花宮は。そもそも仕事のためだった。その町を、仕事のために、狩りのために、わざわざ訪ねることにした。さらに遡って二週間前、Y市のマンションで銀行員の男性が何者かに投げ飛ばされて亡くなっていた。その状況から、警察は屈強な又は格闘家による犯行と見て今日まで捜査を続けているが、ほとんど進展はない。
その事件を頼りに、隣に座った年長者も、花宮を探し出したはずだった。
終わりを迎えたその盗撮記録の前で、隣の年長者がフライドポテトを無言でくわえる。数えるほどのフライドポテトが、まだトレーの上でしなびている。まずそうだなと、花宮は思った。相席の年長者は二本目をつまんだ。そして、くわえて咀嚼して飲み込んで、口を閉じて、花宮を見て、口を開けた。
「一応聞いとくが、『昨日』の『乳児』と、『コンビニ』の『小学生』の関係は?」
「〈同一人物〉です」
三本目のフライドポテト。咀嚼。
「おまえ、〈つけ〉ないんだな」
「ええ、ええ、当然〈つけ〉てヤってやりましたよ!」
三
これが花宮と黛の最初の事件のあらましだ。
避妊してセックスに臨んだと主張する花宮、四本目で底を突いた黛のフライドポテト、保存された盗撮の〈ホームビデオ〉、逆算する黛、「昨日の乳児」と「コンビニの小学生」。花宮は、その母親と、その夜のうちにセックスをした。避妊して。つまりコンドームをつけて。そしてコンドームによる避妊は、百パーセントは成功しない。
「そうなんでしょうね。目が覚めたときに体が縮んでしまっているような確率を俺が引いたって、そういうことなんでしょうね」
「何の話かわからんが、俺が言いたいのは、現実的に逆算すれば——おまえが父親ってことで」
「現実的に計算すれば、明日の朝には女子高生ってことですが」
「思春期の娘がいるってのはどういう気持ちだ」
「何をおいてもあれを殺す」
「おまわりさん、こっちです」
「人間の女が一晩でガキこさえますか?」
一昨日、土曜昼、そのときの黛は「こさえるんだろうな」と答えたのだった。マジバーガーを出たところだった。時刻は午後三時を過ぎていた。花宮は、きっと黛をにらみつけた。黛は一度だって名乗らなかったけれど、花宮は彼がハンターであることに気づいていた。片手に銀のスプーン、片手に聖水の水筒。次に黛は、それらを突きつけられる。
ハンターの間では一般的な、人間性の証明だ。
人間の女は、もちろん妊娠一晩では出産などしないのだ。医学的見地は、今は置く。そして花宮の主張は、こうなった。——あれは〈妖術師〉だ。
「たしかハンターは、人に害を成す〈術師〉を、まとめて『妖術師』と呼ぶんでしたね」
「ああ。だから人間に毛が生えたような程度の『妖術師』も珍しくはない。〈術〉を使うだけなら小学生でもする。ハンターの基準でいえば『こっくりさん』も明確に『術』だ」
「一方で、ヒトならざる種族としての『術師』も存在する、と。土曜日の相手は、どうだったんですか」
「——花宮に聞けよ」
「——聞きましたよ。銀行員殺しの犯人を始末したって」
「——プライド高そうだからな」
「——ベルツリータワーにも負けないでしょうね」
ベルツリータワーは高さ六百三十四メートルの観光名所である。閑話休題。
土曜日の妖術師は後者だった。人間性を喪失した、元より人間ではない、殺して狩るよりほかにない、怪物だ。
まさか、こんなことになっているとは。
殺して済むということは、ハンターにも好まれる、ある種の簡潔さだ。しかし黛の内心は険しくなる。たとえ相手が吸血鬼でなかったとしても、怪物を殺すということは、それ自体が難問だ。
黛は。そもそも仕事のためだった。花宮を、仕事のために、狩りのために、わざわざ訪ねることにした。遡って水曜日、同じ大学の今吉翔一と連絡がつかなくなったと、その友人から相談を受けた。ハンターとして頼られたのではない。単に今吉の知人だからと、確認のためにやってきたのだ。そして黛も一介の大学生として、見当もつかないと事実を伝えた。だが。
実際のところ、黛はハンターで、今吉も元ハンターだった。互いに薄々と勘づいていた。だから今吉の部屋へ侵入し、もしかしてと思って今吉の実家への侵入も果たし、とうとう本人から、案の定、吸血鬼退治の話を聞かされた。それに花宮の力が必要であることも。学生バスケの有名人は、今吉の中学時代の後輩で、実は現役ハンターだという。これが金曜日のことだ。
黛は、それから一日とたたずに花宮を探し当てた。多少は強引な手を使った。とはいえ黛自身、早かったと思っている。まさか一日で見つかるとは。そして吸血鬼退治の前に別の厄介事に巻き込まれることは——完全に想定外とは言わないが——まったく歓迎などできない事態だった。吸血鬼退治で花宮の手を借りたい手前、黛が彼の狩りに手を貸さない選択肢はなかった。多少、後ろめたい部分があったからだ。
花宮さんにも苦手な相手がいたんですね。
口を挟むと、話せばわかる、と返ってきた。対話による和解のことではない。
「というか、あれを得意だと言える人間が、そういないだろうよ」
どちらのことかと尋ねたら、両方だと黛は言った。なるほどなと、工藤新一はうなずいた。そして正面を見る。妖術師と吸血鬼を退治したという黛は、この月曜日ちょうど午後五時に、彼の探偵事務所を訪れた。
黛は同じ大学の四年生だった。工藤は驚かなかった。高校時代のバスケ関係者だと知らされても、やはり工藤は受け入れた。背の高い青年だった。しかし工藤には、彼がハンターであることだけは、わからなかった。
わからなかった。
同じ大学の四年生が何の用かと考えた。花宮の高校時代の知人がどうしてここにと記憶を探った。つい二時間前に、たしかに彼は工藤の事務所に人を寄越すと一方的に約束した。ではこの人が。ハンターだと、黛は、そのとき名乗った。実に疑わしい肩書だった。工藤にとって黛は、こうして事件の報告を聞いている今さえ、ごく普通の、どこにでもいる——特に工藤の大学には——歳の近い学生だった。
決してハンターなどではない。
また考えて、工藤は花宮を思い出す。きっと花宮は、この黛のことも苦手なのだろう。工藤は口を開けた。
「今吉翔一さんの話は、いつされたんですか」
「花宮の件を片づけてから、日付もまたいでいたかもな。知ってのとおり、今吉に頼まれたことは伏せた。俺は、あくまで大学の知人として吸血鬼にたどりついた。花宮のことは今吉に何度かにおわされていたからもしかしてと思った。花宮は、それならってことで、協力してくれることになった。どうせ吸血鬼を野放しにはできない」
妖術師退治に黛の手を借りた手前、彼の狩りに手を貸さない選択肢がなかった、ということもあるだろう。いつか花宮が言っていた。ハンターは根っからの信用商売なのだと。それはどの業界にも通用することだろうが、信用を損なったハンターは命を損なう。だからハンターをだますときは、だまし抜けと、花宮は工藤にそうも言った。
「なあ工藤。花宮は、いつから気づいていたと思う?」
そして黛は、こうも言った。
——最初からだ。
四
最初。二週間前に殺されたY市の銀行員は、最初に妖術師とセックスをした。最後は妖術師に殺された。彼はわけもわからずに最期を迎えた。
強いて言えば、奇麗な子だとは思っていた。
「誰だ、君は」
仕事帰りの玄関の向こう、荷物を置いたか、明かりをつけたか。独り暮らしの無人の部屋で物音がした。彼は違和感に従って足を動かした。居間に着いた。暗かったから明かりをつけた。LEDの白色が、そして少女を照らし出す。テーブルの前に知らない人間が立っていた。家に上げた覚えはない。三日前に寝た女のことは、思いつくこともできなかった。ここにいるのは子供だった。たしか部長に、この年頃の。
中学生か高校生か。心当たりのない美少女は、うんともすんとも言わなかった。
部長の子供ではないだろう。同僚も違う。友人も違う。親戚も違う。知人の顔を端から数えて、否定して、浮かびあがった「不審者」の三文字。彼は少女の全身を眺めた。手ぶらの、薄着の、私服だった。靴を履いたままだった。思わず床を見下ろした。彼は次に、靴を脱ぎなさいと言おうとして、——床が遠ざかっていく様子を見ていた。
疲れているのかと額をおさえた。同時に、踏ん張ることができないという感覚に襲われた。足がばたつく。何か、何かの、言葉を音にする前に、後頭部が、こつんとぶつかった。天井に。宙に。それは、ごまかしようもない。腹が、逃れようもなく床を見下ろす。少女の頭頂部を見下ろしている。尻が、ぴたりと天井につく。少女が顔を徐々に見上げた。
「わからないの?」
彼は最期まで、わからなかった。
正直に言って失望した。母に伝えたら呆れられた。彼女自身、娘が同じことを言ってきたら呆れるだろう。しかし彼女は当時まだ思春期の子供で、自分のこともわかっていなかった。未熟だった。靴が汚れないように彼の体液を避けたとき、いやに動悸がしたことを覚えている。初めての殺人だった。彼女は足を持ち上げるたびに言い聞かせた。
私は、人間などとは違うのだ。
そう内心でとなえるたび、すとんと気持ちが収まった。彼女は、人間などとは違うのだ。術師なのだ。彼女は自分のことを知っていた。生まれてこの方、瞬間も余さず。母と、そのまた母と同じように、彼女も娘も、そのまた娘も、皆等しく術師として死ぬ。人間などが、わかるはずもない。彼も彼女たちの正体を、術なるものの実在をわからないまま、わからないうちに息絶えた。
事件は世間に知れ渡った。成人男性が投げ飛ばされて、殺された。犯人は屈強な格闘家か何かだと、警察や報道機関が言った。人ひとりを手ずから投げ飛ばすために体格も筋肉も必要としない存在がいることを知らない、人間の見解である。おかげで彼女は二週間たっても捕まらない。あるいは彼女は、二週間前は華奢でか弱い少女だった。思春期の子供だった。今は違う。
今ならわかった。二週間前の彼女にとって、床の軋まない家は初めてだった。彼女のねぐらには隙間風も入った。母は住居に関して、とんと無頓着だったのだ。そもそも彼女たちの生活に余裕というものはなかった。しかし彼にはあった。銀行員は裕福な人種である。母は彼女に繰り返し聞かせた。今ならわかる。
自分のことが、わかる。なぜ生まれたのか、誰から生まれたのか、なぜ母と彼の間に生まれたのか。母がどうして彼を選んだのか。今の彼女は、そんなことまでわかっている。彼女も、そうして雄を選んだからだ。今にして思えば、あの雄の着ていた服は、〈彼〉の死装束によく似ていた。
つい一昨日の晩のことだ。雄を選びに入った店で、あの雄と意気投合した。つまり、この雄も一晩の相手を探していた。彼女は一目で既視感を抱いたが、そのときは正体はわからなかった。しかし質のよい身なりを認めて決心した。幸いにして顔も頭も悪くはなかった。一方あの雄も、彼女の容姿を気に入ったようだった。彼女は美しく生まれたことを、よく自覚している。
二人は、とんとん拍子で事に及び、そして互いに満足した。彼女は、よい雄を引き当てたのだ。もちろん母との〈特訓〉の成果も発揮された。雄は当然とばかりにコンドームを装着したが、彼女はまた母から継承した術によって確実に受精することができる。そして雄と円満に別れた後、日がのぼるころに娘を抱いた。孫を取り上げた母は、昼前に息を引き取った。彼女はただちに遺体を処理して、娘の教育に着手した。
そのころ娘は、三歳程度の発育段階に到達していた。すでに術師の資質も示し始めていた。彼女は母と同じように、もしくは、より優れた方法で、娘を術師として鍛え始めた。彼女は、もう三週間も生きられない。だが彼女の娘は三日もあれば、いっぱしの術師になる。最低でも人ひとりを確実に殺せる術を得る。彼女もそうだった。そして彼女も手始めに、父親を殺した。
彼女は時計を見た。そろそろ、あの雄は泡でもふいて倒れる頃だ。彼女もそうした。彼の立派な背広を吐瀉物で汚させた。少しだけもったいないように感じられたのだったか。思い返すと懐かしい気分になる。当時の彼女は思春期の子供だった。今は、思春期の娘のことを考えている。娘も、あの感慨に捕らわれたかと、彼女のように靴を汚したくなくて慎重に歩いたかと。
彼女だけは、わかっていた。まもなく娘が帰ることを。それから死ぬまで、何の罪にも問われないことを。彼女だけは、わかっていた。彼女の母が、そうだったから。いずれ彼女が、そうなるから。彼女たちは、人間などとは違うから。人間などというものは、術も術師も知らないのだから。彼女たちを何の区別もなく妖術師と呼ぶような連中を除いては。
やはり彼女は、彼女が母に言われたように、娘に言って聞かせたのだ。この安い賃貸の、狭い玄関で向かい合って。そして。
彼女が玄関へ目を向けた、ちょうどそのとき、外で呼び鈴が鳴らされた。
娘ではない。否定しながら、正面へ向き直る。術の研究に、術の道具に、術の痕跡。術も術師も知らないとはいっても、人間などを通すわけにはいかない部屋だ。彼女は自身の恰好を見下ろした。こちらは、玄関での立ち話くらいは可能。腕を顔の前まで持ち上げて、鼻を寄せる。おそらく、きっと問題ない。彼女は椅子から腰を上げた。再び呼び鈴が鳴らされる。娘には鍵を持たせてある。名乗りは続かない。
娘ではない。否定しながらも、彼女は立ち上がった。目的が何にせよ非常識な来客だ。訪問販売の類いなら特に、居留守を使うことに抵抗は起きない。だが、初めての殺人だった。今夜は、あの雄は、娘にとって最初の、そして最後の機会なのだ。娘は、まだ若い。あの夜の私のように。生まれたばかりの、思春期の、未熟な子供だったのだ。
帰った私を、母は優しく抱きしめてくれた。もし娘だったら、そうしてあげよう。娘のために。彼女のために。そして、そうでなかったとしたら。人間など適当に追い払ってしまえばよい。
五
夜だというのに非常識なことをした。黛は引き抜く前に強くひねった。女性の身体がくずおれる。それを見下ろす時間は、すぐに終わった。ぴったり背中からせっつかれて、黛は妖術師の死骸をまたぐ。安アパートの外観に相反することのない、狭い玄関だった。
花宮が死骸をまたぐためには、まず黛が廊下の終わりまで進まなければならなかった。安アパートの、台所と浴室に挟まれたような廊下である。特に異常な様子もない台所と浴室だ。確認していると、背中から強い視線を感じたので、仕方なく先へ進んだ。他者の気配はしない。そこに、ようやく花宮が死骸を引きずってやってくる。
「家に連れ込まれなくてよかったな」
2DK。すべての部屋が明るくて、すべての部屋に他者がいない。しかし術師の生活が見え隠れするダイニングで、術師が寝起きをしたような寝室で、明らかに術師が研究していた書斎だ。異臭も異音もしなかったけれど、ダイニングの所々には、術の道具が紛れていた。寝室に入れば、寝床のかわりに魔法円が描かれていた。術師の書斎には、本物の人骨が保管されていた。
花宮は、ちょうど机に開かれていたノートを取った。
黛も片手で棚からノートを抜いて読んだ。ありきたりな大学ノート。表題はない。だが、番号と日付は振られている。ので、先にぱらぱらとめくってしまう。九月九日が五連続、次いで十日も五連続、十一日は四ページだったが、十二日の分はまた五ページ。およそ四、五ページをかけて、一日の記録をつけている。なるほど、日誌のようだった。
今日は何を食べさせた。今日は身長がこれだけ伸びた。顔は、やはり私に似た。どれだけ術を教えた。どれだけ術を操れるようになった。野良猫を上手に殺せるようになった。人間の殺し方を訓練した。父親を殺して帰ってきた。成体になった。
成体になると、番号が更新された。番号が更新されると、日付が二週間ほど先に進んで、赤子の記録に戻っていく。
黛は次のノートを取った。ちょうど二週間後、次の番号から始まっていた。一日で小学生に、二日で中学生に、三日で大学生に。幅一メートルほどの本棚の右端から抜き取った、左開きの大学ノート、二十一番から二十四番。
片手でナイフを握りしめる。そして花宮を見た。
即戦力となる妖術師の量産。その研究の過程が、一晩で出産する女と、二晩で思春期を迎える娘の正体だ。この妖術師たちは超人的速度で成熟すると、〈二十代頃〉で肉体の発達を止め、一か月未満で死に至る。
そういう一族なのだと、今夜ここに至る前に、花宮から知らされていた。花宮は黛と合流する前に、敵の調査を済ませていた。ホテルでヤったと言っていたくせ、この巣もすでに特定していた。後は殺すだけだったのだ。
黛はノートを机に置いた。
「何でした?」
「育児日誌だった。そっちは?」
「日記交じりの研究日誌。大人の骨ではうまくできないから赤ん坊のを使おうとか、そういうのです」
花宮もノートを置いて顔を上げた。そして黛を見た。いや、黛の手のナイフを見た。黛は耳をそばだてる。そのとき、ちょうど外で物音がした。
とうとう娘が帰ってきたのだ。
また黛に刺させたいのか、それとも〈返して〉ほしいのか。わからず、そのまま身構えていると、花宮は速やかに黛の前に出る。おまえを殺しに出かけた娘だぞとは、黛は言わなかった。娘が殺したがっている父親は、大ぶりのナイフを握っていた。ハンターが怪物の首を落としたいときに、よく使う——。
ダイニングに〈母親〉の死骸が見えた。〈娘〉は、すぐに玄関の扉を開けた。やがて、その鍵までかけた。黛は物音で敵の気配を探った。敵はフローリングに靴を載せた。もう片足も、まもなく乗った。靴を脱がずに、死骸に駆け寄った。本当に少女である。本当に思春期の、本当に高校生程度の。そういう年下の女子が、また間髪入れずに、来客の居場所を鋭くにらんだ。黛はナイフを持つ手に力を込めた。
今度は花宮が先に出た。
続いて、物の落ちる音がした。
終わりに黛は、はっと見開かれたままの目と、目を合わせる。
まるで姉妹のような死体だなと、最後に思った。
六
悪霊退治のつもりだったんだ。
工藤の事務所の応接間で、黛は言った。だから狩りの準備は不足していたのだと。ただし、それは言い訳ではなく、凶器の説明に接続する。
花宮がナイフを寄越した。ナイフなら黛も持っていた。首を落とせば、怪物は死ぬ。単純明快にして安価、そして非常に汎用性の高い狩りの手法だ。だが花宮は、そのナイフを押しつけて、刺すだけでよいと言ったのだ。
「心臓を?」
工藤が尋ねた。黛はうなずく。
「刺した」
東の大学生探偵の前で、続けて告白する。
「初めてだったよ。心臓刺すだけで絶命を確信できたのは」
特別なナイフだった。いや呪具だったのだと、今はそのような確信を抱いている。
工藤が苦笑した。黛は、不快には思わなかった。精神病院は、ハンターの進路としては珍しい場所ではない。ハンターが正気であればあるほど、ハンターは正気とは見なされないものだ。仮に狩りにかかわった人間であっても、ハンターの言動が真実であるからこそ抱く不快感や困惑もある。だから、むしろ、おもしろい気持ちになった。
花宮と工藤は、ずいぶんと長い付き合いらしい。両者共まだ大学生程度の年齢だから、長いといっても期間は知れている。とはいえ歳月などは問題ではない。問題は回数だ。狩りにかかわった回数。それも情報提供程度の段階ではなく、もっと直接的に、実際的に。おそらく工藤は、吸血鬼の巣でわめいたとかいう狩りの後にも何度も、怪物と対面するかたちで狩りにかかわっている。
そういえば、学科のミステリ愛好家が、工藤について話していたっけ。二年前、当時高校二年の工藤新一に死亡説があったことを。
「黛さん?」
「大丈夫だ、問題ない」
「ならよかった。連日の狩りの後に、無理をしているんじゃないかと」
「まあ無理はしてるが」
黛は言葉をしまった。
「——そうですよね。すみません長々と」
「いや、話してるのはこっちだ。それに今回、俺は——ある意味では何もしてない」
工藤は口を閉じた。
「妖術師の件は、俺がかかわったときには全部調べがついてた。俺は悪霊退治のつもりだったんだ。心臓刺したナイフも花宮からの借り物だ。吸血鬼の件は、いわずもがな今吉が。
もちろん俺は花宮を探したし近づいたし、狩りもした。なんだかんだ言ってハンターも怪物を殺せる人手が欲しいんだ。狩りにも数の有利は働く。何もしてないなんてことはない。とにかく俺は妖術師を殺した。吸血鬼殺しにも加担した。よくやった。
けど、過剰だとも思う」
過剰に事が進展したと、顧みれば顧みるほど、決して謙虚からでなく感じられる。
「花宮は今吉の妹のことを〈知って〉いた。俺たちが吸血鬼を殺した地区は、俺が花宮に会ったマジバから電車一本で数駅だった。そもそも花宮がマジバにいたのは何にしたって銀行員殺しを追っていたからで、その銀行員が殺された町は今吉の実家から近いといっていい」
おかげで早々と花宮に会えた。狩りの最中ではあったけれど、事件を頼って探したのだ。その程度は想定の内だ。むしろ花宮の腕を知る機会ができたと前向きにとらえた。都合のよいことに、花宮の狩りは、終盤に差しかかってもいた。黛の想定を超えて遥かに順調だったとさえいえる。おかげで金曜夜に引き受けて、土曜日に合流して、日曜日には吸血鬼事件を解決できた。
だが、うまくいったと、ただで喜ぶことはできなかった。
「べつに悪いとは言わん。うまくいくことはいいことだ。狩りならなおさら。うまくいけばいくほどいい。そして工藤、もちろん、おまえを責める気もない。ただ、ひとつ聞きたいんだが、おまえはあの銀行員殺しについて、花宮に何と聞かれて教えたんだ?」
それだけ尋ねて黛は口を閉じた。
工藤は、しばらく口を開かずにいたが、やがて小さく息を漏らした。
「お察しのとおりです」
伝えて、一呼吸を置く。
ある鉄道が、M市とY市を通っている。その沿線で事件はなかったかと、たしかに花宮は工藤に尋ねた。
「一か月ぶりに連絡してきたかと思えばそんなことだったんですが。怪しい事件はないって答えたら、なら、未解決事件はないかって。それならと、俺は幾つか教えました。先週の土曜日の朝のことです。黛さん。質問の答えです。たしかに花宮さんは、最初から気づいていました。今吉さんのご家族に起きたことを、花宮さんは何らかの形で知っていました」
おそらくは、今吉の父親だろう。今吉と花宮は中学時代から互いに正体を知っていた。ハンターは家業になる。中学生のうちからハンターなら、その保護者がハンターであると予想することは、その逆を予想するよりよほどたやすい。当然、保護者同士も正体を知っていたはずだ。もしかすると今吉の父親は、今回の復帰に際して、花宮の保護者か当人の助言を得ていたかもしれない。これは完全に想像だが。
ともかく、今吉翔一と花宮真の間で直接の交渉が行われたわけではないということだ。花宮真は、今吉翔一とは——彼の妹とも——一切の連絡を取っていない。黛は今吉翔一の父親とも花宮真とも関係がなかった。花宮が〈黛を待っていた〉ことは、今吉の差し金ではない。それは、黛自身が待たれていたということにもならない。それが黛になったことは、単に結果に過ぎない。
たぶん今吉と花宮は互いをよく知っていて、そのうえ腹の探り合いが好きな人種だ。今吉は復讐のために、彼に差し出せるもののなかから、ハンターの花宮が欲しがりそうなものを予測した。花宮も、彼に必要なもののなかから、今吉がかたき討ちのために差し出せるものを予測した。その結果だろう。
ハンターのおともだち。
これが黛についた商品名だ。ハンターは、いつだって怪物を殺せる人手を欲しがっている。
まったく気に食わない。黛は心底から思う。まったく気に食わない。彼は交渉材料などに用いられたのだ。しかし困ったことに、たしかにハンターは、どいつもこいつも怪物を殺せる人手を欲しがっていた。特に同年代のハンターの知人というやつは、他の何かで代えられたとしても、まずまず貴重な存在であろうと、黛は考えている。
「まあ今後なんてものは二度とこないが」
「えっ」
「花宮にも言ってきた」
「言ってしまったんですか」
「おまえとは二度と組みたくないって」
「ええと、それで花宮さんは」
「ではそのように、だと」
「まあ花宮さんとどうなったからって、うちが振込を渋るようなことはありませんが」
工藤が、ちょうどよいとでも思ったのか、そこで黛の前に書類を差し出す。
「そいつはよかった」
黛は、にこりともしないで喜んだ。
一方で工藤は、僅かに表情を曇らせる。
「俺も言ったことがあります。あなたとは二度と会いたくないって」
「へえ」
「相手の返事は、じゃあそういうことで、でした」
工藤の顔色が悪くなる。
それで、と、黛はそれでも続きを促した。
工藤は黛の目を見て答えた。
「一週間後に再会しました」
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