なかなかどーしてややこしい

  吸血鬼
    一

 食生活を学食に支配されている。
 規則正しい食生活が健康の基礎をつくるそうだ。家庭科の教科書が言っていた。規則正しいことは、朝昼夕の一日三食のことで、主食・主菜・副菜により適切に栄養を取り入れること。
 たしかに実家暮らしの時分には一日三食を強いられており(たいへんありがたいことである)、今にして思えば栄養面でも配慮されていた(これもマジ)。学校給食こそ言わずもがな。栄養士の献立は、小学生と中学生の健康を支援していた。高校時代には学生寮に朝夕の食事を世話されて、学校の課外活動でも一日三食は当然だ。
 大学の食堂が、急に一日二食や五食、まさか断食などを勧める道理はないというわけである。
 よって、大学に進学し、せっかく独り暮らしを選び、とうとう解放されたはずの食生活も、やはり一日三食を基本とすることになった。
 特に朝食を欠かさず取った。学食が、朝食は抜くなと、口を酸っぱくして言ったのである。学食だけではない。実家でも口を酸っぱくされた。家庭科の教科書も、何なら駅の張り紙まで酸っぱいくらいだ。不健康よりは健康でいたいことは確かであるので、冷蔵庫にはパウチのゼリーとヨーグルトを常備している。どうにか朝食はつまめるという寸法である。
 こうして、朝食は欠かさず、昼は学食に勧められて注文し、夕飯の献立も学食の案内に従う。
 学食が学生を支配する道理はない。勧めは勧めに過ぎない。そして勧められずとも、偏食をしたい気持ちは米粒ほどもなく、むしろ茶碗一杯分以上は偏食をしない決心がある。とはいえ、ただ偏食をしなければ規則正しい食生活を送れるというものでもない。と、自由な食生活の一日目に思い知らされ、これまでの環境には畏敬の念を抱き、家族のいる方角には到底足など向けられず——。
 まあ、なんだ。
 黛千尋は食生活を学食に支配されている。少しだけ。
 時には食べたいものを優先する。逆に食べたくないものはなかなか食べない。
 だから、その日の学食の勧めは、嫌いな内容ではなかったのだろう。
 大学二年の五月末、黛はいつもどおりに学食を利用して、いつもどおりにカウンター席を選んだ。いつもどおり空席が目立っていて、だからいつもどおりに両隣が空席で、初めにスプーンかフォークを手に取ったことを覚えている。では料理もカレーライスかスパゲッティだ。それらを、いつもどおりに口に運んで、ちょうど食器の半分ほどを綺麗にしたのだ。
「黛くんやろ、洛山の」
 ぴったり隣の空席に、そいつが料理を置いて座った。眼鏡の男子で、髪は長くない。背丈は黛と同じころ。ひょっとすると百八十センチメートルちょうど、なら黛のほうが大きいのかもしれない。そいつは、同じ大学の、同じ歳の、しかしかかわりのない学生だった。構内には珍しくもない、その他大勢のひとりである。しかし、黛の名を呼んだ。同じように黛も、返す言葉を持っていた。
「桐皇の、四番」
「今吉や。よろしゅう」
 今吉翔一は桐皇学園高校男子バスケ部の主将だった。

 黛は、かつて洛山高校男子バスケ部に所属していた。高校バスケでは名の知れた強豪校だ。優勝回数最多を豪語し、実際に黛の在籍時にも優勝している。
 今吉の桐皇も強豪のひとつだ。強力な選手を擁立し、彼の代にインターハイ準優勝を達成した。
 とはいえ、それだけだ。桐皇は東京で、洛山は京都。今吉のインターハイ決勝の相手は洛山だったが、黛はコートに立たなかった。今吉の記憶にも残らなかっただろう。だからこそ今吉が黛を認識するに至った時期も、正確に把握できるのだけれども。
 さておき今吉と黛は、その日、初めて会話をした。おもに黛のせいで、ほとんど成立しなかった。だが、それからも月に一回あるかないか、今吉は黛の隣で昼食を取った。いつも今吉が黛を見つけた。一度は友人だといって別の学生を連れてきた。許可を求められたことはない。そうしたことが続いて、年月が過ぎ、とうとう黛は四年になった。くしくも同年、今吉も四年になった。
 十月、また今吉が現れた。法科大学院の入学試験に出願したと言っていた。
「黛くんは就職か」
「まあ」
 十一月、今吉は現れなかった。
 十二月、法科大学院の入学試験の結果が出た。土曜日のことだ。そして水曜日の食堂に、今吉の友人が現れた。いつかのように、黛のぴったり隣の空席に、今吉みたいに昼食を置いて、
「黛だな、洛山の」
 今吉が、と言った。
「受かったらしい」
「よかったな」

 また土曜日が来た。その日の午後二時、黛は初めて花宮真に会った。M市M駅から歩いて二分のマジバーガーで、ホットコーヒーの紙コップに黒色を残して、四人席を独占していた。身長が黛を越していることには、そのときはまだ気づけなかった。
 そして日曜日。
 黛はホテルのベッドで目を覚ます。隣のベッドには、すでにスマートフォンをもてあそぶ花宮が、背を向けるように転がっている。彼もまた起きたばかりであったのだろう。上着はスウェットシャツのまま、伸ばした髪をまとめてもいない。あげく振り向きもせず、挨拶のひとつもなく、
「探偵と公僕、どっちがいいとかありますか」
 花宮は結局、身支度を終えて、朝食を調達しようというときになって、思い出したように「おはようございます」と言った。
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