別れと出会い
その日は優しくやってきた。
女神様の加護はながくコンノに祝福をもたらした。
人が産まれ、育ち、天にかえってゆくのを幾度も見守ることができた。
その順番は自分にもゆっくりゆっくり巡ってきた。
アメさん、とか細い声で呼ぶと、慣れた手つきで氷水を渡される。
もう咀嚼する力は残っていない。
ただ冷たい水が心地よかった。
ああ、アメさんには悪いことをしたなと思った。
彼女の想いを袖にしたワタシは、山で独り幕を下ろすはずだったのに。
どうしてなんだろうか。
つらく、さみしく、どうしたって離れ難かった。
思い返してみれば、ワタシの生は離れ難さで出来ていた。
穴に飛び込む様を見る度にギリギリと締め上げられる思いだったのに、逃げられなかった。
しがらみと呼ぶにはあまりにも自発的で、ワタシは自由から目を背けていた。
それが無くなっても、1人、また1人と見送っても…
足はどうしたって動かなかった。
どうしてなんだろうか。どうして、なんだろうか。
やがて本当に動かせなくなるまで留まるなんて、夢にも思っていなかったのに。
女神様に会えるのだろうか。
会ったらなんと言おうか。あのね、あのねと子狐にかえっても、聞いてくれるだろうか。
女神様、
神様、
ああ、そうか。
アメさん、アメさん。
願わくばーーー
アメの小さな手が白むほど握られる。
肩はふるえ、視界はかすみ、小さな声がもれては消える。
これで、村にはコダマの木と自分だけとなった。
ーーーーーー
その日は突然やってきた。
どう考えても収穫した野菜の数が合わないのだ。
やわらかな青菜を1束、2束と数えてみるが、
そうするまでも無くゴッソリなくなっている。
ははあ、とアメは思った。
春は道理を知らぬ悪戯者が増える。
まあ、自分だって人の体を得て1年目はたいそう苦労したものだ。道理をわきまえるとは、日進月歩なのだ。
さりとて威厳を示さないわけにはいかない。目こぼしするには大胆すぎた。
てきぱきと罠を庭にしかけ、その中に何でもかんでも入れてやる。
とりあえずその辺でむしったつくしを入れ、冬に食べ残して余った乾物、盗られたものと同じ青菜に、……少し迷ったが、思うところがあっておあげも入れた。
……おあげは、願う気持ちもあったかもしれない。いや、あった。
神様だって願ってもいいじゃない。
ちょっとささくれだった気持ちだった。
なんてね。
そう、終わらせるつもりだった。
ーーーーーーー
朝早く、こやん、こやんと鳴き声がする。
アメの背には冷や汗がドッとあふれた。
まさかと思うと同時に駆け出して罠の中を覗くと、ちいさなちいさな毛玉が震えていた。
「こ、ぎつね」
やってしまったと思った。私が願ったからこの子が捕まった。
もはや盗みを働いたのはこの狐かどうかなんて頭から抜け落ちていた。
なんで、どうして、この子にしがらみが出来たらなんと詫びればよいものか。
急ぎ扉を開けるが、子狐は震えるばかりで動かない。
「……おいで」
そう、つとめて優しくつぶやくと、子狐は前足をそろりと差し出して、そして、
へたりこんでしまった。
ああもう。
絶対コンノじゃない。コンノはこんなにか弱くない。
スタスタと素知らぬ顔で出ていくだろうし、なんの事ですかねェとそっぽを向いてこたえるはずだ。
ちょっといじわるで、肝心な時にあんまり助けてくれなくて、でもなんか気にかけてくれる、そんな優しさがある、大好きな、
ああ、
わたしの馬鹿。
コンノのわけがないのに。いたいけな子狐になんてことをしてしまったんだ。
ぐちゃぐちゃの思考のまま、アメは出来るだけ人の匂いがつかないように毛玉をつまみ上げると、ひょいと野原のほうに投げてやった。
「行きなさい。もうこの庭に来てはならない。これに懲りたら全て忘れて生きなさい。」
少し震えてしまったが、威厳は保たれただろうか。
子狐はこちらを2度3度振り向いたのち、山の奥へ駆け出していった。
わたしも、もう忘れてしまおう。
畜産をやめ、小さな畑のみで細々と生きていたアメにとって、それは久しぶりのぬくもりだった。
つまんだ指先の感覚が、忘れて良いのかと囁いていた。
ーーーーーーーー
コンコン。コンコン。
その夜。
ああ、久しぶりだなと思った。人ならざるものが戸を叩くのは、村に人が住まなくなってからはめっきり減った。
護るものがなくなった土地に残ろうとする者など、なかなかに特異である。
気が紛れるなら何でも良かった。
久しぶりに駆け回るのもよいだろう。
はいはいと戸をあけると、
ボロ布を纏った子供がいた。たぶん、だが。
見たことがない怪異だ。
どのようにわたしを脅かすのだろうと思案していると、推定子供はおそるおそるといった様子で口を開いた。
「結婚してください」
はて、なんと言ったかな。
会話ができる怪異なんて久しぶりすぎて、頭がキーンとする。
「お嫁さんになってください」
……アメは考えるのをやめそうになった。
とりあえず様子を伺っていると、今にも折れてしまいそうな首が、腕が、脚が、ふるふるとふるえ、言葉を待っている。
暗くて表情は読めないが、大体わかってしまうのが余計可哀想であった。
それを知ってか知らずか、夜闇に浮かぶ雲がふくふくと笑うように動き、月明かりが子供を照らす。輪郭がはっきりとうつしだされ、目は少し吊りがちで黒黒とキラキラと、鼻は高々と、口は、すこしへにゃりとまがり、
アメは、目を見開いた。
コンノに、似ている。
つづく
女神様の加護はながくコンノに祝福をもたらした。
人が産まれ、育ち、天にかえってゆくのを幾度も見守ることができた。
その順番は自分にもゆっくりゆっくり巡ってきた。
アメさん、とか細い声で呼ぶと、慣れた手つきで氷水を渡される。
もう咀嚼する力は残っていない。
ただ冷たい水が心地よかった。
ああ、アメさんには悪いことをしたなと思った。
彼女の想いを袖にしたワタシは、山で独り幕を下ろすはずだったのに。
どうしてなんだろうか。
つらく、さみしく、どうしたって離れ難かった。
思い返してみれば、ワタシの生は離れ難さで出来ていた。
穴に飛び込む様を見る度にギリギリと締め上げられる思いだったのに、逃げられなかった。
しがらみと呼ぶにはあまりにも自発的で、ワタシは自由から目を背けていた。
それが無くなっても、1人、また1人と見送っても…
足はどうしたって動かなかった。
どうしてなんだろうか。どうして、なんだろうか。
やがて本当に動かせなくなるまで留まるなんて、夢にも思っていなかったのに。
女神様に会えるのだろうか。
会ったらなんと言おうか。あのね、あのねと子狐にかえっても、聞いてくれるだろうか。
女神様、
神様、
ああ、そうか。
アメさん、アメさん。
願わくばーーー
アメの小さな手が白むほど握られる。
肩はふるえ、視界はかすみ、小さな声がもれては消える。
これで、村にはコダマの木と自分だけとなった。
ーーーーーー
その日は突然やってきた。
どう考えても収穫した野菜の数が合わないのだ。
やわらかな青菜を1束、2束と数えてみるが、
そうするまでも無くゴッソリなくなっている。
ははあ、とアメは思った。
春は道理を知らぬ悪戯者が増える。
まあ、自分だって人の体を得て1年目はたいそう苦労したものだ。道理をわきまえるとは、日進月歩なのだ。
さりとて威厳を示さないわけにはいかない。目こぼしするには大胆すぎた。
てきぱきと罠を庭にしかけ、その中に何でもかんでも入れてやる。
とりあえずその辺でむしったつくしを入れ、冬に食べ残して余った乾物、盗られたものと同じ青菜に、……少し迷ったが、思うところがあっておあげも入れた。
……おあげは、願う気持ちもあったかもしれない。いや、あった。
神様だって願ってもいいじゃない。
ちょっとささくれだった気持ちだった。
なんてね。
そう、終わらせるつもりだった。
ーーーーーーー
朝早く、こやん、こやんと鳴き声がする。
アメの背には冷や汗がドッとあふれた。
まさかと思うと同時に駆け出して罠の中を覗くと、ちいさなちいさな毛玉が震えていた。
「こ、ぎつね」
やってしまったと思った。私が願ったからこの子が捕まった。
もはや盗みを働いたのはこの狐かどうかなんて頭から抜け落ちていた。
なんで、どうして、この子にしがらみが出来たらなんと詫びればよいものか。
急ぎ扉を開けるが、子狐は震えるばかりで動かない。
「……おいで」
そう、つとめて優しくつぶやくと、子狐は前足をそろりと差し出して、そして、
へたりこんでしまった。
ああもう。
絶対コンノじゃない。コンノはこんなにか弱くない。
スタスタと素知らぬ顔で出ていくだろうし、なんの事ですかねェとそっぽを向いてこたえるはずだ。
ちょっといじわるで、肝心な時にあんまり助けてくれなくて、でもなんか気にかけてくれる、そんな優しさがある、大好きな、
ああ、
わたしの馬鹿。
コンノのわけがないのに。いたいけな子狐になんてことをしてしまったんだ。
ぐちゃぐちゃの思考のまま、アメは出来るだけ人の匂いがつかないように毛玉をつまみ上げると、ひょいと野原のほうに投げてやった。
「行きなさい。もうこの庭に来てはならない。これに懲りたら全て忘れて生きなさい。」
少し震えてしまったが、威厳は保たれただろうか。
子狐はこちらを2度3度振り向いたのち、山の奥へ駆け出していった。
わたしも、もう忘れてしまおう。
畜産をやめ、小さな畑のみで細々と生きていたアメにとって、それは久しぶりのぬくもりだった。
つまんだ指先の感覚が、忘れて良いのかと囁いていた。
ーーーーーーーー
コンコン。コンコン。
その夜。
ああ、久しぶりだなと思った。人ならざるものが戸を叩くのは、村に人が住まなくなってからはめっきり減った。
護るものがなくなった土地に残ろうとする者など、なかなかに特異である。
気が紛れるなら何でも良かった。
久しぶりに駆け回るのもよいだろう。
はいはいと戸をあけると、
ボロ布を纏った子供がいた。たぶん、だが。
見たことがない怪異だ。
どのようにわたしを脅かすのだろうと思案していると、推定子供はおそるおそるといった様子で口を開いた。
「結婚してください」
はて、なんと言ったかな。
会話ができる怪異なんて久しぶりすぎて、頭がキーンとする。
「お嫁さんになってください」
……アメは考えるのをやめそうになった。
とりあえず様子を伺っていると、今にも折れてしまいそうな首が、腕が、脚が、ふるふるとふるえ、言葉を待っている。
暗くて表情は読めないが、大体わかってしまうのが余計可哀想であった。
それを知ってか知らずか、夜闇に浮かぶ雲がふくふくと笑うように動き、月明かりが子供を照らす。輪郭がはっきりとうつしだされ、目は少し吊りがちで黒黒とキラキラと、鼻は高々と、口は、すこしへにゃりとまがり、
アメは、目を見開いた。
コンノに、似ている。
つづく
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