第3章 高校三年のお話
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
山王工業バスケ部の部員、そして親御さんからなる集団は体育館から少しだけ離れた送迎バス待機所に到着した。
「この後は試合を観ずにホテルへ戻る。バスの出発は一時間後とするから、観に来てくれた親御さんに挨拶しておきなさい」
堂本監督はそう言って、目元を赤く腫らす部員達に自由行動を促した。久しぶりに家族と再会する人も居る。部員達は嬉しそうに笑いながら思い思いの相手のところへ向かった。
一成と二人っきりで話がしたかった私は、バスの近くで立ち尽くしている彼の手をそっと取った。私の顔を見るや一成は少しだけ驚いたような表情を浮かべたが、構わずに歩き出す。
私の手を握り返す彼の指の力はとても弱かった。
第41話 高校三年、夏のインターハイのお話②
試合中ということもあり送迎バス待機所の自販機コーナーは見事なまでに無人だった。恐らく私達の貸し切り状態になるだろう。
握っていた手を離して私はゆっくりと振り返る。一成からは何も言ってこないだろうと分かっていたから大して間を開けずに言い放った。
「お疲れ様でした。今日の試合、凄かったよ」
泣くはずではなかったが、枯れたと思った涙が再び私の頬を濡らした。
本当に素晴らしい試合だったと。見事なプレーだと笑顔のままで称えたかったのに。けれど無理だった。彼らの試合中の姿を思い返すたびに、どれだけ勝ちたかっただろうという悲痛な思いが胸を貫いたからだ。
私は部外者だけど、部外者としては余りにも距離が近かった。一成や秋田の仲間達──河田やイチノ、松本や野辺、沢北くん──を通して、勝手に仲間意識を感じていた。だからこそ分かる。強豪校が背負う重圧に負けないよう必死で抗っていたこと。先輩が築き上げた栄光を潰さないよう必死で練習していたことを。
今、一番泣きたいのは一成なのに、私が泣いちゃうなんて馬鹿みたいじゃないか。でも止められそうにない。
「一成から目が離せなかった。凄い気迫だった。凄いプレーだった」
私は涙を拭かずに、一成の目を見ながら言った。
「誰が何と言おうと、どっちが勝っても可笑しくない試合だった」
試合の内容も、個々の選手の仕上がりも完璧だったはずだ。
イレギュラーだらけの試合ではあったと思う。事前に仕入れていた情報では賄いきれないものが湘北高校にはあっただろうから。
山王工業はありとあらゆる状況に対応できるだけの技術と思考力を持っている。この結果は、それらを駆使しても僅かに足りなかったという証拠だ。
奇跡にも近い試合に、今日ここで立ち会えたことがとても嬉しい。
「今までで最高の試合だった。今日の試合、私は死ぬまで忘れないと思う」
そう言った瞬間、呆然と立っていた一成がいきなり距離を詰めてきたかと思うと私を抱きしめてきた。目の前には山王の白いジャージが広がる。顔の前に空間は無く、胸に唇が押し付けられるような体勢になってしまう。
「んむっ、か、一成?」
つい反射的に押し返そうとするが、振り払うのはまず無理だった。一成の力は痛みを感じないもののかなり強い。絶対に離さないという意志すら感じられる。
「ごめん。今はこうさせてほしいピョン。顔見られたくないピョン」
「わ、分かった」
最後に一成にハグされたのはいつだったかな。
私のような女が易々と覆い隠されてしまうほどに大きな一成の身体。背中に回される逞しい腕。ぎゅうっと抱き寄せる手のひらの大きさ。服を通して感じる熱。全てが自分とは異なる生き物の──男のものだった。
そう自覚してしまえば、両腕に収まっている私の身体はぐわっと体温が上がるように熱くなった。何だこれ。凄く恥ずかしい!
「夢子の感想を聞いて今までの自分が報われたような気がしたピョン」
「そうなら嬉しいな」
「十分すぎる言葉だピョン。この先……学校で何を言われても、夢子の言葉があるからって負けずに居られそうだピョン」
「山王のあの練習量を知ってる人なら不躾なことは言わないと思いたいけど」
バスケ部以外の生徒ですら山王工業バスケ部の練習量がエグいことを知っている。夏合宿で逃亡者が出るのも周知のとおりで、汗だくで意気消沈している部員を目にする近隣住民は「またあのきっつい合宿か」と気の毒そうに見守るのも風物詩になっているらしいし。
生半可な覚悟で練習に参加し、試合をしているわけではないというのを多くの人が理解している。
彼らを揶揄するのは口だけの人だ。現実を見ずに結果だけであれこれ言うような人間のことなんて知らない。どうでもいい。
「一成は、信頼する人の言葉だけ聞いて。余計な人間の言うことは気にしないで」
「分かってるピョン。今は……夢子の声だけ聞いてたいピョン」
無意識だろうが、一成が私の首元に頭を擦り寄せてきた。まるで子供みたいだと小さく笑ってしまう。
……いや、十分子供だったな。私達はまだ十八歳なのだから。
「こんなことを言うのはお門違いかもしれないけど」
「ん?」
私を抱き締める力がさらに強まる。
「アメリカに行く沢北を……最高の結果で、送り出してやりたかった……ッ」
感情の昂りにより一成の接尾語が外れる。
一成が、泣いている。触れている手からは嗚咽による震えが伝わってきた。目が押し当てられている私の肩も涙でぐっしょりと濡れていることだろう。
普段は沢北くんを軽くあしらっている一成だが、一成なりに異国に向かう沢北くんを鼓舞してやりたかったんだ。貰い泣きでさらに涙が増えそうになるのをうぐぐ、と我慢しながら私は口を開く。
「結果は残念だったけど、沢北くんにとって今日の試合は特別なものになったはずだよ。ライバルにも出逢えたみたいだし、何より……最高のコンディションだった先輩達と一緒にプレーできたんだから」
私が今日の試合を忘れないように、きっと沢北くんも今日の試合を忘れないだろう。
今日得た悔しさを糧にして、きっとまた明日から何食わぬ顔でボールに触れるのだ。アメリカに旅立つその日まで大人しくするなんて真似は出来ない選手だ。あの子は。
「だからさ、自分が無力みたいな言い方しないで」
沢北くんだけじゃない。一成は私にも示してくれた。
彼が、彼らが全身で教えてくれた。思い出させてくれた。そのおかげで決意を固めることができたんだから。
「一成。私ね、決めたんだ」
泣くのが落ち着いてきたらしい一成は、様子が変わった私に何か感じたのか、ゆっくりと身体を離して見下ろしてくる。それを真正面から受け止めながら、笑顔で告げた。
「私、もう一回バスケやる」
「え」
「一成が、皆のプレーする姿が、後押ししてくれたんだよ」
私も皆みたいに全力で相手とぶつかりたい。湘北高校女子バスケ部の選手として。
「自主練だけじゃなくて、一成とだけじゃなくて……仲間と一緒に、試合に出たい」
さっきまで泣いていた一成の目は驚きのあまり見開いていた。私の両肩にぐっと手を置くと、背中を屈めてまるで尋問する刑事のように距離を詰めてくる。
「本当か、ピョン」
「うん。神奈川に戻ったらすぐ選手として入部させてほしいって頼むつもり。断られたら大学から始めるしかないけど」
自分勝手なことを言っている自覚はある。最後は俯き気味に言うと、一成は呆れたような声色で告げる。
「お前の目は節穴ピョン? 夢子が選手として入りたいって言ったら皆絶対に喜ぶに決まってるピョン」
「そうかなぁ」
「夢子が居ない状態で夏の地区予選はベスト16入りしてるピョン? なら夢子が入ったらもっと良い成績になるはずだピョン。きっとお祭り騒ぎになるピョン」
そりゃ両手を広げて歓迎してくれたら嬉しいけどさ。
「もしも選手として入部が許されたら地区予選に向けて練習漬けになると思う。一成と電話できないくらい疲れちゃうかもしれないけど、でも悔いを残したくないから」
一成は微笑を浮かべながら力強く頷く。私の気持ちが手に取るように分かるようだ。
「夢子にとっては高校最後の公式試合になるピョン。俺との電話はいいから思いきりやるピョン。気にせず電話はするけど」
「出れそうな時は話すからね? 相談とか色々するかもだし」
「ピョン。お互い冬の選抜の会場で会えるように頑張るピョン」
既に私達の気持ちは切り替わっている。
今日の敗北ではなく、次の勝利に向けて。冬の選抜という新たなステージに向けられている。
「……夢子」
一成はもう一度私を抱き締めた。ただ、力強くはない。大事なぬいぐるみでも抱き締めてるのかなと思うくらいに優しい。
「俺の人生に夢子が居てくれて良かったピョン」
「お、大袈裟だよ」
耳元で心から愛おしそうに囁くのは止めてほしい。
がっしりとした一成に包み込まれて、彼は男であり私は女なのだと改めて思い知らされる。聞き慣れているはずの声がやたらと甘くて嫌でも意識してしまう。現実をまざまざと見せつけられる。
「大袈裟じゃないピョン。真面目に言ってるピョン。夢子が居なかったら、俺は屍みたいな状態のまま秋田に帰ってたピョン」
「そんなことないと思うけど……でも嬉しいから、その言葉は有難く受け取っておくね」
「そうしてほしいピョン。はあ、帰りたくないピョン。ずっとこのままで居たいピョン」
ずっとこのままで、って……このまま抱き合った状態を継続したいということ!?
やだやだ恥ずかしい!
こんなの他の人に見られてしまったら大声で叫びながら走り去りたくなる!
「ちょっ……!」
抵抗しようと思ったら、一成は「あ」と小さな声を上げて尋ねてきた。
「夢子が言ってくれた試合の感想、皆に伝えてもいいピョン? 第三者の素直な気持ちを他の奴らにも知ってもらいたいピョン」
このままだと皆沈んだままになりかねないから。
そう続ける一成に、私は満面の笑みを浮かべながら快諾した。私の言葉で良かったらいくらでも引用してほしい。
「夢子。お前を一番に応援してるのは俺だピョン。それだけは忘れないでほしいピョン」
「その言葉、一成にそのままお返しするよ」
私達は真っ赤に目を腫らしたまま笑った。一成が送迎バスに乗り込み、ホテルに向かうのを見送るまでずっと一緒に居た。
練習する時間は少しでも多くしたい。合流した両親に何とか必死に頼み、私だけ先に神奈川へ帰らせてもらうことにした。一人で留守番くらい楽勝だ。両親には夫婦の時間を楽しんでもらうとして、空港に向かうべく早々に駅へ向かう。
神奈川に到着したら速攻で湘北に向かおう。
逸る気持ちを必死で抑えながら、私は電車に乗り込んだ。