かつて存在した兄と家族の話
季節は一巡する。
あれからまだ、一度も実家へは帰っていない。最後に両親と顔を合わせた日、父は血濡れたまま雑言を吐くばかりで、部屋に籠もった母は虚ろに塞ぎ込み、私のことなど見えていないようだった。膠着状態が続いていたウォールード軍との戦が動き始めたのは、自分の気を紛らわせるのに丁度良かった。だからだろうか。そうやって、自分の都合の良いほうへと逃げて、ディオンを支える事ばかりを考えていられると甘えた私への罰が与えられたのは。
ベアラーの奴隷制度を無くそうと動き始めた折も折である。ある程度の予想はしていたが、テランスの危惧通り、奸婦アナベラは自身が産んだシルヴェストルとの愛児を皇太子位に就けた。事実上の次期神皇である。その目的を果たす為にはまず目の上の瘤、ディオンを廃位しなければならず、廃太子するにあたっての口実を作らねばならなかったのだが、既に国民からの信頼も厚いバハムートを祭り上げる事は簡単で、これまでの戦功を称え、『竜騎士の頂点たる、聖竜騎士の称号を授与する』と託つけて、あの女はまんまと周囲の者を納得させたのだ。ディオンの弟、齢一歳のオリヴィエを皇太子位に、ディオンを聖竜騎士にと讃え、それと引き換えにディオンが皇太子位から退くことを余儀なくしたわけだ。
「喜びなさい、栄誉ある聖竜騎士の称号です」
奸婦はにやにやといやらしい笑いを浮かべて言った。強く拳を握りしめ、歯を食いしばったディオンは、それでも国民達の期待に応えようと笑顔を作った。舞台を降りて、傍につくテランスに向けて「やむを得ない」と気落ちした声で呟いた。
ああ、私はやはり、兵器以外の何物にもなれないのだ。いつか認めてもらえたら、等という願いは、
腹立たしい、悔しい、悲しい、どれを取っても私が未熟で愚かだった故の結果でしかなく、夢を見た者の末路らしく目の前が真っ白になったことには変わりない。
ディオンは失望落胆として、しかしそれを表に出すわけにもいかず、国を守る英雄として、毅然と振る舞わなければならなかった。
心に深い傷を負いながら、それを隠してまた槍を振るう。我々は戦わなければならない、その一心でディオンは歩みを進めた。彼の背を追うテランスもまた、ディオンの抱える痛みを和らげたいと、歯痒い気持ちでいっぱいだった。
大陸戦争は未だ長く続く。戦わなければ国を守れぬのだ。従軍し、熾烈な争いを繰り広げる
幾度目となる、敵国ウォールードとの激しい戦闘の最中のことだった。共に肩を並べて戦っていたザンブレク兵の矛先が、不意に、テランスの喉元へと向いた。
「ッ──!!」
おかしいと思っていたのだ。何処からか、こちらの情報が漏れていると。配置した軍の編制も、進駐する先も、駐留していた場所が気付かれてしまっていた事があった。どうしてだって、そんなことは考えつきたくなかった。
「……っ内通者が、……っ!!」
目と鼻の先にぎらぎらと鈍く光る刃の先がある。身体を反らし、一歩後退して咄嗟に剣を持ち直そうとしたが、動きを読んだザンブレク兵はテランスの手を鍔で打った。斬り上げられた腕が剣を落とし、裂けた皮膚から血が溢れる。
「ぐぅ……っ何をする、何故……っ!」
何度も言葉を交わした男だった。騎士団に入団した頃から世話になっていた方だった。立場が変わっても、守るべきものは変わらないと語っていた、仲間だと思っていた自軍の兵が。ディオン様を共に護ろうと、ディオン様に忠義を尽くすと言っていたではないか。
「騙される方が悪いんだよ」
「は……っ!」
頭に影が落ちて、高く掲げられた武器が振り下ろされた。全ては見たくないものから目を背けて、ディオン以外を見ないようにしていた私が悪い。自分達を取り巻く人々を一部でも信じた私が悪い。
何もかも、もう間に合わない。
鮮血が飛び散る。ぼたぼたと夥しい血が零れて、地面を赤黒く染めていく。
視界を染めた赤は、己のものではなかった。
「っ……ぁ、……は、ぐ……」
「、ど……」
──どうして。言葉が喉に詰まって、音にならない。護るべき人が、護りたい人が、私の前に飛び込んだ。斬り伏せられる筈だったのは私なのに、裏切った奴と私の間に、彼は身を挺して。思考が停止しているうちに、人の姿をした戦神は美しい竜の形を人型に混ぜ合わせて、高らかに咆哮をあげた。
いつだって、貴方は私の光だった
「──ディオン…………っ!!」
触れてはいけないと思っていた彼を、初めて抱き締めた。赤に染まった彼は、震える唇で「テランス、よかった」と、安心したように微笑んだ。
灼き払われた地に倒れ込んだディオンが意識を取り戻さないまま、数日が過ぎた。流石ドミナント、というべきか、重症を負うどころか、ただの人であったなら息絶えていた程の深手を負っていたディオンは、かろうじて一命は取り留めることができた。これが竜王の慈悲か、と医療従事者は言う。しかし、いつ目覚めるかはわからないと誰もが首を横に振る。全て私のせいだ。私が、何も見ようとしていなかったせいで。
テランスは自身を責め、昏々と眠り続けるディオンの手を握った。両手で包んだ手はやけに冷たく、指先まで凍りついているようだった。
ディオン。
声にならない声をあげる。起きて、目を覚まして、と、声をかけてやりたいのに、幼馴染にかける言葉すら、燃えるように熱い喉に張りついたままだった。
ず、と詰まった鼻を啜る。鼻の頭はツンと痛くて、彼の顔をしっかりと見たいのに、視界はぼやけて揺らぐばかりだった。手の温度は分け与えるのに時間がかかって、彼の指はまだ冷えたままだ。
握り返すこともない手に額を当てる。祈りを捧げるように背を丸めて懺悔した。どうか、どうか。グエリゴールよ。
「私の愛する人を連れて行かないでくれ。どうか、目を開けて」
ぴくりと手のひらが震えた。指先が、私の掌を握り返す。
「……テランス、いまのことばは」
掠れた声が私の名を呼ぶ。ゆらゆらと波打つ眼が私を映した。緩慢な動きで、テランス、と私の手を引いて、青白かった頬を薔薇色に染めた。それだけで私の世界は色付いて、誘われるままに額を寄せる。触れ合わせた鼻先が肌を擽り、交わる吐息に唇が熱を持った。
「やっと言ってくれたな」
ディオンが笑う。その笑顔は初めて見るほど不器用で、今までで一番愛おしかった。
そして幾ばくか。想いを通じ合わせたあと。
父は屋敷から姿を消した。
