かつて存在した兄と家族の話
867年某日。
無心で剣を振る。竜騎士叙任式から二年、ディオンの護衛として粛々と基盤を固めてきたのだ。プライベートな事で精神を乱すわけにはいかない。家族が何だというのだ、私の居場所はディオンの隣で、他に気を取られている暇はないというのに。
「…………」
脳裏を掠める先日の出来事に、はあ、と深い溜息が零れる。剣先を下ろして、伏せた目の先に見えた土くれを踏み潰した。そろそろ訓練所の地均しをしなければならない。錆が目立ち始めた装備の手入れも。戦が近い。ディオンの護衛を果たさなければならない。だというのに、取るに足りないことで心が乱されてしまう。
「テランス」
心配そうな声色だ。真っ直ぐに歩き続けた今迄と違い、最近のごたごたでかなり迷惑をかけている。なんて情けない。鍛練を止めた自分の元へ、自分が護るべき人が歩み寄り、慮ってくれている。あの奸婦がついに神皇の子を産み、家族というものに苛まれているのは、ディオンだって同じなのに。私は私の些細な問題で優しいディオンの手を煩わせてしまっている。未熟者だ、私は。これで任務を果たせるとでも思っているのか、と自身を責めた。
あの日、父が捕まったのは、ただ単に殿下に掴みかかろうとしたからで、隠し持っていたナイフを振り回したことは一種の錯乱状態にあったせいだとされたそうだ。兄だった人は、あの人を殺した事については器物損壊という扱いになるらしい。一緒にいた貴族の男に買われた、男の所有物であったが、買った物に対しての思い入れはなく、綺麗で具合の良い物であったがそれだけの物。壊れた物は買い直せばいい、壊した犯人に弁償して貰えば良い、そんな程度の話なのだ。だからこそ父の拘留は一時的なもので、人に危害を加える恐れがないと判断されれば、その内に屋敷に戻されるそうだ。兄を地に還して、父は元に戻るのだろうか。病んだ母は。恨みを向けられたディオンは。考え始めるとキリが無くて、これはもう駄目だ、と仕方なく剣を鞘に納め、鍛練に戻る気持ちを無くした。
ベアラーである限り、あれらは人間とは見做されない。人ではない。あくまでも都合の良い道具で、消耗品なのだ。人々の、民衆の認識に、頭が酷く痛む。昔からの国の決まり事で、そういう法の下に我々は生きているわけだ。吐き気がする。気持ち悪い。自分には兄がいたという事実が消されていたことも、ベアラーを人と思わない国の思考も。
「テランス」
もう一度名前を呼ばれる。静かで芯のある心地良い声で、愛する人が私の名前を音にする。テランス、そなたは。唇がはく、と音を発さずに動いて、悩んだように少しの間を置いてから、「この国が」と声を落とした。
「嫌いか」
「いいえ」
貴方が守りたいものを嫌えるわけがない。即座に否定した自分に、ディオンは困ったふうに、しかし全てを理解している顔で淡く笑った。
「私とて、ベアラーの扱いに納得はしていない」
ディオンが空を見上げる。生憎の天気だ。くすんだ空は竜が翔けるには適していない。
「先生と話していたのだ」
先生、というのは、一年ほど前に宮廷のサロンに迎えられた、かの有名な歴史研究家の御方だ。ディオンの師となり、世界の事象や習俗を教えているのだが、ディオンが楽しそうに「先生からこんな話を聞いた」「こんなことを教わった」という話をする度に、素晴らしい御方だと思う傍ら、もやりと燻る何かを持て余すのは、鍛練が足りず、思慕を拗らせた、心が狭い自分が悪いのだ。いや、意識が逸れた。そんな自分を気にせず、ディオンは言葉を続けた。
「猊下と共に民を守り、豊かな国をつくりたい。と」
「素晴らしいと思います」
「だが。そこにベアラーを含んでいるのは、私の想いだけなのだ」
目を細めたディオンが鈍色の雲を睨みつける。
「国を作るのは民だ。民は人だ。人は生きる者全てだ。意思があり、同じ言葉を交わせる。それが人で、ベアラーも変わらない。戦場で、宮廷で、社交場で、余が化物と呼ばれる時、そなたはいつも余を人だと言うだろう。彼らも同じだ。同じ人間なのだ、ベアラーも」
ぽつ、ぽつ、と。いよいよ泣き出した空が地面を色濃く塗り潰していく。ディオンの金の髪を濡らした滴が目蓋に落ち、頬を伝う姿は美しく、思わず見蕩れてしまった。
「制度を無くしたい。徴集される子を、クリスタルの枷で苦しめられ、道具とされる子を。余も戦争の道具だ、だがこの力で立てた戦功がある。半分だけの血とはいえ、形だけでも地位がある。……父上が、話を聞いてくれるのならば」
家族への飢えた愛が、彼の心を曇らせる。私は。私はそんな彼を。
「お供します。どこまでも。ずっと貴方の傍に」
愛してるとは伝えられないけれども。秘めた想いを胸に、覚悟を打ち明ける。雨足は強まる一方で、互いに濡れ鼠になっているにも構わず、真面目な表情をしてはっきりと言い切ったテランスを見て目を瞬かせたディオンは、くしゃりと破顔し、子供のような顔で笑った。
「ああ」
いつもそなたに心を救われている。ずっと、テランスだけが──。ディオンもまた、形にならない想いを眠らせている。
