かつて存在した兄と家族の話
「……父上が」
テランスの、感情がすとんと抜け落ちた顔を見たのはそれが初めてだった。
どうにも余は彼の父君に疎まれているらしい。
悪意を含む視線には慣れている。貴族社会という面倒なものだけでなく、余の出自を知るごく僅かな者、戦に出て上手く立ち回れなかった者、戦功をあげようと躍起になっている者、彼等の目が全て余に集まり、羨望、嫉妬、不満、鬱憤と、不平不満を募らせた人々の環境の中に長く晒されてきた。針の筵にされている。そんな気分になりながらも堂々と立ち振るまい、弱みを突かれぬよう為すべきことを為して前へ進み続けた。
歪な家族だ、と、テランスは自らの家を指して言った。テランスの母君は余の乳母であったから、あの優しい母君が?と思いながらも、余はテランスにかける言葉を見つけられないでいた。
バハムートの力を制御できずに泣いて暴れた時も、彼女だけは幼い余を安心させようと抱き締めてくれた。畏怖の目を向けられる事が当然の余の世界の中で、彼女と、彼女が連れてきた息子だけは他の目と違った。初めて会った時から、テランスは変わることなく瞳をきらきらと輝かせて“私”を見ている。ぽってりと丸みを帯びた頬は愛らしく紅潮させて、ディオン様!と高い声で元気良く私の名を呼ぶのだ。他の何者でもない、私の名前を呼ぶ声を、嬉しい、と思った。
お前は怖くないのか、と一度だけ聞いたことがある。
これは化物の力だ。ベアラーのそれとは比べ物にならない恐ろしい力で、全てを破壊する。伝説の聖獣とはよくも上手く言ったものだ。女神グエリゴールに付き従うドラゴン。国を救った英雄。それになぞらえて国を象徴する聖竜たれと存在する余に、テランスは怖気づくこともなく、媚び諂う様子も見せず、
「ディオンは凄い」と無邪気に笑ったのだ。
純粋な、綺麗な心に触れた。そんなふうに笑われたのは初めてだ。この力を格好良い、だなんて。
父上の仰られる、全ては国民の為だという言葉に縋って、擦り減っていた心が救われた思いだった。暖かく包み込まれたようだった。この気持ちをなんと呼ぶのだろうか。テランスと、ずっと一緒にいたい。傍にいてほしい。初めての、友達、というやつなのだ。彼の胸の内を苦しめる、その家庭の事情とやらを、なんとかしてやりたいと思っていた──のだが。
ディオン様、貴方が悪いのです。
その声が、いやに耳の奥に残っている。頭の中で反響するそれは、長い年月に渡ってディオンの心を蝕み続けた。
***
時間は少し戻る。
騎士団に入団して一年が経ち、長引く戦に皆の疲れが目立ち始めていた。竜騎士やザンブレク兵が疲弊すれば、自ずと地上で槍を振り回すよりも顕現して空を翔ける方が多くなる。巨大な翼を広げ、天から光弾を落とせば誰もが助けだと諸手を挙げた。或いは全て終わったと地に伏せた。英雄だなんだと持て囃す声に、ディオンも、テランスも疲れ切っていた。
「先ほど余が焼いた地に味方はいたか」
「いいえ。隊の者は皆撤退が済んでおりましたので」
「そうか……お前も疲れているだろう。休め」
「いえ、まだ報告が残っていますし、それにディオン様ほど疲れてはおりません」
「……ならば、良いが」
普段と変わらない表情で手際良く救援物資の確認をしているテランスをちらりと見やる。他の兵達と比べて我々はまだ若いとはいえ、この肉体を依り代にしてバハムートに顕現している分、自身の体力だけでなく精神的な消耗も激しい。しかし自分に付き従っているテランスだって、テランス自身の剣と、時には自分が預けた槍をも振るって戦場 を駆けているのだから彼だって疲労が溜まっているはずだ。
「……どうかされましたか?どこか、痛むところでも」
「何でもない」
疲れているくせに人の事ばかり心配する。怪我を負っても、それをおくびにも出さないのがテランスである。弱味を握りたいわけではないが、少しぐらい、ほんの少しでいいから余にも心配をさせてほしい。主従である前に、友達なのだから。気の置けない幼馴染に、ちょっとくらい甘えてくれても良いのではないかとディオンは思う。
「──あぁテランス、ここにいたか。これを──」
「…………何事でしょうか?……手紙?私に?」
こちらに一礼した憲兵がテランスに声を掛ける。手渡した書簡は急ぎのものらしく、場所を変えることもなくその場で封を開いたテランスを珍しいと思いながら眺める。彼の視線が文面を追うにつれて、その顔を徐々に険しくさせていった。
「テランス……?」
見たことがない顔だ。怒っているのか、悲しんでいるのか。何かを堪えるように噛まれた唇が痛々しい。手紙を持つ手が震え、指先を白くさせてしまっている。強く握られた紙の端が、くしゃり、と皺を寄せた。
「……父上が」
「父君が……?何か動きがあったのか?」
どこか遠い所を見ているようなテランスの目が、色を失ったように見えた。光が消えて、心を削ぎ落としたようだった。テランスの唇が短く言葉を零す。まるで他人事のように。
「兄を殺しました」
貴方が私の息子を奪った。貴方のせいで連れて行かれてしまった。息子が奴隷になった。奪われた。貴方のせいで。貴方のせいで。
ディオンを責めるのは間違っている。兄を奪ったのは皇国の制度だが、決してディオンが望んだことではない。当代ですらない遥か昔にベアラーを恐れた祖先によって定められた根深い問題だというのに、狂った父は執拗にディオンを詰った。
家族を奪われた。引き裂かれた。ベアラーだから何だといういうのだ、お前はより恐ろしい怪物になるというのに、それは許されるのか。お前は私の息子をまた奪うのか。父はずっと嘆いていた。
そうして行き当たったのが『やり直したい』という想いだった。徴集され、奴隷に落とされ、貴族に飼われ、なんと可哀想な長男だ。そして幼い時分から付き従い、従者とされて、そのまま危険な戦場まで駆り出されてしまう次男。お前達皇族は我々の心など考えもしない。そう吐き捨てた父の言葉に、テランスは信じられないと憤った。
「奪われただって?私が?ディオン様に仕える事を望んだのは私の意思だ!!」
「ああテランス、哀れな息子よ。お前まで奪われてしまった。洗脳されている。許せない。苦しい。なんてことだ、全てをやり直すしかない。愛する家族をもう一度ひとつに。息子達が私達の元に帰ってくるように」
「…………っ馬鹿げている!!」
聞くに耐えない言葉の羅列にテランスが叫ぶ。ディオンを恨むのは筋違いだ。どうして目の前にいる息子の声に耳を傾けないんだ。母は父を庇い、この人は悪くないの、と啜り泣くばかり。もとに戻りたいと、兄を産む前に、ベアラーを産んでしまう前に戻りたいと泣いた。自分の存在を否定されたようなものだった。
テランスは拳を握った。幸せな家族だと思っていた。
夫婦の仲が良く、子供の自分も愛されていた。
父が母の肩を抱き、母が微笑んで自分を見守っていた。三歳になった私は二人の元へ走って、愛しい私達の子と優しく抱き上げられた。幸せな家庭だと信じて疑わなかった。
ただの執着だったのだ、愛されていたのは私ではなかった。
テランスが庭に立ち尽くしている。無理を言ってテランスに付いて彼の屋敷まで来たが、存外大人しくしていた彼の父がディオンの姿を見た瞬間暴れだし、息子を返せと襲いかかろうとしたのだ。
既に処遇は決まっている。そこに罪を重ねればディオンの口添えがあったとてテランスの立場さえ危うくなる。戦功を立てて確立した地位が崩れてしまう可能性に、ディオンは嫌だと焦りを覚えた。
結局、ディオンが捕まるより先に父親の腕を捻り上げたテランスと、共に訪れていた憲兵達によって彼の身柄はあっさりと拘束された。それに具合を悪くした母君はテランスに声を掛けることもなく早々に屋敷の中に引き返し、一人外に取り残されたテランスを心配そうに見やった執事達も静かにその場を去り、ディオンはそれを見つめ続けることしかできなかった。
「まだ、私にはやるべきことがあります」
テランスが噛み締めるように言った。
ディオンを支えたいという願いの込められたその言葉の意味は、近い未来につい吐露してしまう事になるのだが、今のディオンには知る由もない事だった。
もうすぐ弟が生まれる。真に家族に愛される、父と義母との子が。
それのおかげでディオンごときの従者に構う暇などないと思われたのは、僥倖だったのか、寂しいと思うべきだったのか。ディオンは未だわからないままでいる。
ただ一つ、テランスが自分の隣に居続けられる真実だけが、ディオンにとって唯一の幸せに違いはなかった。
love was nowhere to be found
(愛はどこにも見つからなかった)
But we were able to love each other
(しかし、私達は愛し合うことができた)
テランスの、感情がすとんと抜け落ちた顔を見たのはそれが初めてだった。
どうにも余は彼の父君に疎まれているらしい。
悪意を含む視線には慣れている。貴族社会という面倒なものだけでなく、余の出自を知るごく僅かな者、戦に出て上手く立ち回れなかった者、戦功をあげようと躍起になっている者、彼等の目が全て余に集まり、羨望、嫉妬、不満、鬱憤と、不平不満を募らせた人々の環境の中に長く晒されてきた。針の筵にされている。そんな気分になりながらも堂々と立ち振るまい、弱みを突かれぬよう為すべきことを為して前へ進み続けた。
歪な家族だ、と、テランスは自らの家を指して言った。テランスの母君は余の乳母であったから、あの優しい母君が?と思いながらも、余はテランスにかける言葉を見つけられないでいた。
バハムートの力を制御できずに泣いて暴れた時も、彼女だけは幼い余を安心させようと抱き締めてくれた。畏怖の目を向けられる事が当然の余の世界の中で、彼女と、彼女が連れてきた息子だけは他の目と違った。初めて会った時から、テランスは変わることなく瞳をきらきらと輝かせて“私”を見ている。ぽってりと丸みを帯びた頬は愛らしく紅潮させて、ディオン様!と高い声で元気良く私の名を呼ぶのだ。他の何者でもない、私の名前を呼ぶ声を、嬉しい、と思った。
お前は怖くないのか、と一度だけ聞いたことがある。
これは化物の力だ。ベアラーのそれとは比べ物にならない恐ろしい力で、全てを破壊する。伝説の聖獣とはよくも上手く言ったものだ。女神グエリゴールに付き従うドラゴン。国を救った英雄。それになぞらえて国を象徴する聖竜たれと存在する余に、テランスは怖気づくこともなく、媚び諂う様子も見せず、
「ディオンは凄い」と無邪気に笑ったのだ。
純粋な、綺麗な心に触れた。そんなふうに笑われたのは初めてだ。この力を格好良い、だなんて。
父上の仰られる、全ては国民の為だという言葉に縋って、擦り減っていた心が救われた思いだった。暖かく包み込まれたようだった。この気持ちをなんと呼ぶのだろうか。テランスと、ずっと一緒にいたい。傍にいてほしい。初めての、友達、というやつなのだ。彼の胸の内を苦しめる、その家庭の事情とやらを、なんとかしてやりたいと思っていた──のだが。
ディオン様、貴方が悪いのです。
その声が、いやに耳の奥に残っている。頭の中で反響するそれは、長い年月に渡ってディオンの心を蝕み続けた。
***
時間は少し戻る。
騎士団に入団して一年が経ち、長引く戦に皆の疲れが目立ち始めていた。竜騎士やザンブレク兵が疲弊すれば、自ずと地上で槍を振り回すよりも顕現して空を翔ける方が多くなる。巨大な翼を広げ、天から光弾を落とせば誰もが助けだと諸手を挙げた。或いは全て終わったと地に伏せた。英雄だなんだと持て囃す声に、ディオンも、テランスも疲れ切っていた。
「先ほど余が焼いた地に味方はいたか」
「いいえ。隊の者は皆撤退が済んでおりましたので」
「そうか……お前も疲れているだろう。休め」
「いえ、まだ報告が残っていますし、それにディオン様ほど疲れてはおりません」
「……ならば、良いが」
普段と変わらない表情で手際良く救援物資の確認をしているテランスをちらりと見やる。他の兵達と比べて我々はまだ若いとはいえ、この肉体を依り代にしてバハムートに顕現している分、自身の体力だけでなく精神的な消耗も激しい。しかし自分に付き従っているテランスだって、テランス自身の剣と、時には自分が預けた槍をも振るって
「……どうかされましたか?どこか、痛むところでも」
「何でもない」
疲れているくせに人の事ばかり心配する。怪我を負っても、それをおくびにも出さないのがテランスである。弱味を握りたいわけではないが、少しぐらい、ほんの少しでいいから余にも心配をさせてほしい。主従である前に、友達なのだから。気の置けない幼馴染に、ちょっとくらい甘えてくれても良いのではないかとディオンは思う。
「──あぁテランス、ここにいたか。これを──」
「…………何事でしょうか?……手紙?私に?」
こちらに一礼した憲兵がテランスに声を掛ける。手渡した書簡は急ぎのものらしく、場所を変えることもなくその場で封を開いたテランスを珍しいと思いながら眺める。彼の視線が文面を追うにつれて、その顔を徐々に険しくさせていった。
「テランス……?」
見たことがない顔だ。怒っているのか、悲しんでいるのか。何かを堪えるように噛まれた唇が痛々しい。手紙を持つ手が震え、指先を白くさせてしまっている。強く握られた紙の端が、くしゃり、と皺を寄せた。
「……父上が」
「父君が……?何か動きがあったのか?」
どこか遠い所を見ているようなテランスの目が、色を失ったように見えた。光が消えて、心を削ぎ落としたようだった。テランスの唇が短く言葉を零す。まるで他人事のように。
「兄を殺しました」
貴方が私の息子を奪った。貴方のせいで連れて行かれてしまった。息子が奴隷になった。奪われた。貴方のせいで。貴方のせいで。
ディオンを責めるのは間違っている。兄を奪ったのは皇国の制度だが、決してディオンが望んだことではない。当代ですらない遥か昔にベアラーを恐れた祖先によって定められた根深い問題だというのに、狂った父は執拗にディオンを詰った。
家族を奪われた。引き裂かれた。ベアラーだから何だといういうのだ、お前はより恐ろしい怪物になるというのに、それは許されるのか。お前は私の息子をまた奪うのか。父はずっと嘆いていた。
そうして行き当たったのが『やり直したい』という想いだった。徴集され、奴隷に落とされ、貴族に飼われ、なんと可哀想な長男だ。そして幼い時分から付き従い、従者とされて、そのまま危険な戦場まで駆り出されてしまう次男。お前達皇族は我々の心など考えもしない。そう吐き捨てた父の言葉に、テランスは信じられないと憤った。
「奪われただって?私が?ディオン様に仕える事を望んだのは私の意思だ!!」
「ああテランス、哀れな息子よ。お前まで奪われてしまった。洗脳されている。許せない。苦しい。なんてことだ、全てをやり直すしかない。愛する家族をもう一度ひとつに。息子達が私達の元に帰ってくるように」
「…………っ馬鹿げている!!」
聞くに耐えない言葉の羅列にテランスが叫ぶ。ディオンを恨むのは筋違いだ。どうして目の前にいる息子の声に耳を傾けないんだ。母は父を庇い、この人は悪くないの、と啜り泣くばかり。もとに戻りたいと、兄を産む前に、ベアラーを産んでしまう前に戻りたいと泣いた。自分の存在を否定されたようなものだった。
テランスは拳を握った。幸せな家族だと思っていた。
夫婦の仲が良く、子供の自分も愛されていた。
父が母の肩を抱き、母が微笑んで自分を見守っていた。三歳になった私は二人の元へ走って、愛しい私達の子と優しく抱き上げられた。幸せな家庭だと信じて疑わなかった。
ただの執着だったのだ、愛されていたのは私ではなかった。
テランスが庭に立ち尽くしている。無理を言ってテランスに付いて彼の屋敷まで来たが、存外大人しくしていた彼の父がディオンの姿を見た瞬間暴れだし、息子を返せと襲いかかろうとしたのだ。
既に処遇は決まっている。そこに罪を重ねればディオンの口添えがあったとてテランスの立場さえ危うくなる。戦功を立てて確立した地位が崩れてしまう可能性に、ディオンは嫌だと焦りを覚えた。
結局、ディオンが捕まるより先に父親の腕を捻り上げたテランスと、共に訪れていた憲兵達によって彼の身柄はあっさりと拘束された。それに具合を悪くした母君はテランスに声を掛けることもなく早々に屋敷の中に引き返し、一人外に取り残されたテランスを心配そうに見やった執事達も静かにその場を去り、ディオンはそれを見つめ続けることしかできなかった。
「まだ、私にはやるべきことがあります」
テランスが噛み締めるように言った。
ディオンを支えたいという願いの込められたその言葉の意味は、近い未来につい吐露してしまう事になるのだが、今のディオンには知る由もない事だった。
もうすぐ弟が生まれる。真に家族に愛される、父と義母との子が。
それのおかげでディオンごときの従者に構う暇などないと思われたのは、僥倖だったのか、寂しいと思うべきだったのか。ディオンは未だわからないままでいる。
ただ一つ、テランスが自分の隣に居続けられる真実だけが、ディオンにとって唯一の幸せに違いはなかった。
love was nowhere to be found
(愛はどこにも見つからなかった)
But we were able to love each other
(しかし、私達は愛し合うことができた)