かつて存在した兄と家族の話

テランスには兄弟がいた。いた、というのはそれは既に過去の物となっていて、その存在を口に出すのも憚られる事だったからだ。
なんのことはない、ただザンブレク皇国が新生児に実施している検査でベアラーだと判断された、それだけのことだ。テランスが産まれるより数年前、まだ影も形もなかった頃に誕生した、テランスの両親にとって待望の第一子だった兄はベアラー検査結果が出てから間もなく徴集を言い下され、身分を剥奪ののち奴隷へと落とされていたようだ。
父はその豊富な人脈で汎ゆる伝手を使い我が子の徴集を大いに拒絶したそうだが、されど中流貴族、国が定めた法律には従わざるを得ず、貴族として民への見本となるように涙を飲んで耐えるしか無かったのだろう。
夫婦仲は良かったはずだ。小さい頃の記憶では、二人は仲睦まじかったと思う。兄の存在を知るまでの自分の目から見る限りでは特におかしなところもなく、寧ろ他の家族よりも距離が近過ぎるのではないかと感じていた。言うなれば、共依存、のような。
仲が良く、自分も愛されていた。執事や従僕も我が家にいたけれども、世界が父と母と自分、家族三人だけで成立しているような、そんな錯覚を抱くようになっていた。父が母の肩を抱き、母が微笑んで自分を見守る。二人の元へ向かえば愛しい私達の子と優しく抱き上げられる。幸せな家庭だと信じて疑わなかった。自らの足で立ち、遊んで走り回れるようになったばかりの頃だった。

それから二年が経ち、五歳になったテランスは生涯を捧げるに至る程に心を揺さぶられる人物と出会う。運命だと思った。ひと目見た瞬間から鼓動は激しく脈打ち、その人が笑えば胸が高鳴り、視線が合えば全身が沸騰したのかと勘違いしてしまうほど顔が熱く火照り、どこを見ても何を話していてもその人は美しく輝いて見えた。
その人が、彼があまりにも眩しいものだから目をぎゅうと瞑ってみれば、ふふ、と小さな笑い声が聞こえて、それがまた小鳥の囀りのように儚い音色だったので、姿形が綺麗な人は声まで綺麗なのか、とテランスは幼い恋心を胸いっぱいに満たしたのだった。
年の頃はテランスと同じ五歳だという。母が彼に向かって頭を下げ、
「息子をよろしくお願いしますね」
と愛想を振りまいた。
「ああ」
と言葉短く頷いた綺麗な人に、母との会話がよくわからないながらもまた見惚れていると、母が「テランスったら」と困った様に微笑んだ。
ディオン・ルサージュ。光の召喚獣、聖竜バハムートのドミナントであり、テランスが従者として仕える事になる主人の名だった。


兄を兄だと認識したのは、彼の顔が父にそっくりで、その顔に刻印さえなければ誰もが彼を貴族の出だとわかる程には気品が備わっていたからだった。ああ、だから父の様子がおかしかったのか。ここ数日、荒れに荒れているのは『見つけて』しまったからだったからなのだろう。父の愛する第一子、テランスの兄は思いの外自分達の近くにいた。屋敷から馬車を走らせて街を通り過ぎる途中、肌を大きく晒した服を着て、歓楽街の前で如何にもな恰幅の良い身なりの男にしなだれかかっているのを目撃してしまったようだ。自分も別日、同じ光景を見たのでそうに違いないと確信している。十二歳、ようやくディオンの正式な従者になれるのだと祝った、大陸暦862年の事だった。
父は陰でザンブレク皇室を罵るようになったし、母は曖昧に笑って言葉を濁すばかりの日々が始まった。ディオンを支えたいのに、親がそれの邪魔をする。


更に三年が経った。竜騎士の叙任を受け、ザンブレク皇国の騎士団に入団したが、自分の役目はディオンの護衛である為、片手剣を携える事になった。ディオンと初めて出会ったあの日、あの時には私は必ずディオンの傍にいて彼を護ると女神に誓っていたので、槍と剣どちらも使いこなせるようにと鍛錬を積んでいたから、己の得物が何に変わろうとなんら問題はなかった。
同年にはディオンの父君、シルヴェストル様がザンブレク皇国の新神皇として即位なされ、召喚獣フェニックスの暴走を受けて壊滅の危機に瀕し、ザンブレク皇国の属領となったロザリア公国の大公妃だったアナベラ・ロズフィールドをザンブレク皇室に迎え入れて神皇后とした。
自分もディオンも騎士団に入団したばかりだったが、大陸戦争に参加して数々の戦功を立てられたのは、ディオンがドミナントだからだというだけではなく、ディオンの弛まぬ努力の賜物である。なのに彼の父君はその力を当然我が物だというような顔をする。
ディオンの功績を自分のお陰だとし、ディオンの力を後ろ盾にして成り上がった男。ディオンが時折寂しそうな顔をする原因──どれ程の手柄を立てても褒める言葉も無く労る素振りも見せず、ただ一言「励め」と言うばかり。それだけなのかと言い募りたかった。あの扉の向こうに入れない、身分も立場も低い自分が恨めしい。 
国中の名声を集めたのは貴方ではなくディオンだ。そう言ってやりたかったが、ディオンはそれを是としなかった。
「ドミナントは国を守る為の重要な武器だ。余の力は国の為にあり、国は民の為にある」
「それでも……」
「民草の生活をより良くしようと父上はお考えになっておられる。国を豊かにしたいと父上は願い、余はそれに賛同している。だから、何も間違ってはいないのだ。父上の為に余が全力を尽くすのは当然のこと。国を想う父上が神皇となることは、ザンブレクの安寧に繋がると余は思っている」
そこで言葉を切ったディオンは、まだ不服な思いが消しきれない自分の顔を見て、ふは、と真面目な表情を崩して幼馴染の顔になり、お前の気持ちは嬉しいよ、と頬を緩めた。
「余の行いは全てお前が見ているだろう、テランス。余の一挙一動に合わせてお前も動く。余が正しいと思う事をすればお前はいつも褒めて、いけない事をすればならぬ事だと諌めてくれる。余はそれが嬉しい。ありがとう」
美しい微笑を湛えるディオンにドキリと鼓動が跳ねた。真剣な話をしていたのになんて不甲斐ない。イケナイ事をすれば、だって何もやましいこともない悪い行いという意味しかない発言だというのに、思春期真っ盛りの頭では一瞬にして桃色の妄想が広がってしまった。煩悩よ去れ。そう思いつつもディオンには悟られないように不埒な思いに蓋をして、努めて平然とした顔を取り繕ってディオンを見つめる。一つ訂正するところがあるとすれば、ディオンの一挙一動どころか一挙手一投足を見つめ続けている事くらいだろうか。瞬く瞬間、瞼が閉じて長い睫毛が頬に影を落とすところや、噛み殺しきれなかった欠伸をふぁ、と小さく口を開けてしまうとか、僅かな挙動を覗き見ていることは彼にバレないようにしなければならない。様々な心境で変わる君の表情全てが愛らしく映るので、恋は病だとはよく言ったものだと感心した。
「──それでテランス」
「っはい!」
つい思考が飛んでしまっていた私に向けて、ディオンが心配そうに顔を覗き込んでくる。ここ数年で同じ程だった身長は自分の方がより高く伸びてディオンに悔しがられたのは最近だ。こちらを見上げるディオンも可愛い──とまた意識が逸れかけた自分に気付いていないディオンが、それとは別の事柄で憂いた表情を浮かべた。
「……そなたの父君に関して、だが」
「…………はい」
良い気分というのも長くは続かないものだ。


兄を見つけて暫く荒れていた父は、やがて母を監視するようになっていた。母が街に出掛けたり、茶会に伺う時も相手、時間、場所、会話の内容までしつこく問い質し、母も母で疎むこともせず、父は不安で堪らないのだと私を宥めることさえした。たまに実家へ帰ればこれで、私自身の行動さえ縛ろうとしてくる。何年経っても変わらず、尚更に悪化しているように思えた。家族を誰にも渡さない、何処へもやりたくないと束縛したい心は、そのままベアラーを奴隷とする制度への反感に、それを定めたザンブレク皇室そのものへの恨みへと変わっていった。
現代の国主を憎んでも仕方がないのだ、制度を悪だとも思いやしないのは確かに嫌な気持ちになるが、制度を作った本人ではない。ましてやディオンは人間もベアラーも平等にと心を痛めている御方だ。ドミナントとして魔法を使うから、畏怖の対象として怯えられるベアラーの気持ちもよくわかるのだろう。ベアラーとて生きとし生ける人間、それが自由に声を発することも許されず、金で取引され、主人の気分次第で壊れるまで使われ続ける。食事も与えず、鞭打たれて捨てられる。……兄はどんな気持ちであの肥えた主人に飼われているのだろうか。
「まだ従者なのか」
不意に父が私にそう聞いてきた。
「生涯仕えるつもりですが」
言い種に腹が立って強く返事をした。
「ザンブレクの……──」
……ディオンを待たせている。くだらない父の陰言など聞きたくもない。
いつか我が家は没落するだろう。私の立場がどうなるかはわからないが、父が何かをしでかせば全てが終わることは目に見えている。兄を飼う主人に見張りをつけることは不可能だが、澱んだ父の目は深い憎しみを湛えている。事件を起こす前に手を打たねば。
面倒だ、仲が良かったはずだった家族。家族に愛された分だけ、ディオンを愛したかった。
ディオン、君の傍にいたいだけなのに。

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