テ゛ィス゛ニープリンセスママまとめ


波打ち際に落ちたそれらを眺める。強い衝撃を受けて破損した鎖帷子。圧し折れた肩当て。裂けて千切れた布切れ。服に付いていた筈の、錆びた留め具を拾い上げたとき、たしかに君の声を聞いた。


意識が浮上する感覚に任せ、テランスはゆっくりと目を開く。
視界に映る見慣れた天井と、肌を滑る柔らかなシーツに、はぁ、と深く息を吐きだした。
酷く苦しい夢だった。上手く呼吸ができなくて、頭が割れそうなほどに痛む、嫌なものを見た。こんなにも目覚めは最悪なのだから、少しくらい良い思いをしないと気がすまない。
そう思いながらそっと隣へ手を伸ばす。そこに眠る我が君の顔をひと目見ようと、寝返りを打って──触れたシーツの冷たさに、一気に目が冴えた。
がばりと身体を起こす。昨日までと何も変わらない、彼と共に過ごしている部屋だ。質素な作りの室内に、彼に貰った羽根ペンや、彼が借りてきた記憶のある書物が置いてある机。
そうだ、あれが現実なわけがない。夢の中の彼が脳裏を過ぎって寒気がする。
あんなことは無かった。ありえないことだ。そう思いたいのに、今、隣にいるはずの彼がいない。
嫌だ。夢を思い出してしまう。何とか忘れようと頭を横に振るが、一度覚えた不安は一向に消えそうにない。
静かに波打つ海の前。泥と血に塗れた洋装。砕けた鎧。壊れた槍と、石灰のような、粉塵の山の上に沈む、赤い石のついた銀の耳飾り。それは君の──そこまで考えて、指先まで冷え切った手が震え出したことに気付く。ぐらぐらと揺れているような脳に胃液が逆流しそうになり、喉元まで上がってきた酸味にテランスは咄嗟に口を押さえた。
あれは夢のはずだ、だって、昨晩まで隣にいたはずなのに。
あの日、彼は生きて見つかって、医務室で眠り続ける彼の目覚めを待ち続けたのだ。そして隠れ家の方々の手伝いをしながら生活して、外に出ている間に、彼は意識を取り戻して。それを知らない自分達は船を漕いで、やっと隠れ家へ帰還したあの時。
デッキに立つ彼を見つけた瞬間の、歓喜に満ち溢れた心は本物だったはずだ。 
まさか、それが夢で、夢で見たと思ったことが本物なのか?
あまりにも鮮明な夢は、自分の居場所をわからなくさせる。
今見ているこれが夢だというのか?だが、自分がいる場所は隠れ家の一室で、このベッドだって彼の要望でこんな立派な物を作って貰えた訳で、あれは夢のはずなんだ、でも、今、ここに彼はいなくて。
考えれば考えるほど目眩が酷くなる。気がおかしくなりそうだ。
とにかく外に出よう、とテランスがベッドの下に足を置いた瞬間、思うように力が入らなかった足が縺れ、バランスを崩して膝から床に転げ落ちてしまった。
恐怖で足が竦むとは、なんて馬鹿なことを。
不安と混乱が綯交ぜになり、上手く立ち上がれない自分に苛立ちが頂点に達し、拳を振り上げたと同時──
聞きたかった声を耳にして、テランスは弾かれたように顔を上げた。
「なんだテランス、もう起きていたのか」
何故床に?と首を傾げる彼に不思議そうな顔を向けられる。
会いたかったその人が、あんなリアルな夢のせいで、夢だと思いかけた最愛の人が、血色の良い肌を仄かに朱に染めて、微笑みながら部屋に入ってくる。
よかった、そう言いたいのに声が出ない。そんな自分の状況を知ってか知らずか、まぁいい、と床に座り込む自分の元へ近付いてきて、楽しそうに話をして──
「思いの外早く目が覚めてしまってな。水を貰いに行ったのだが、今ちょうどコルマックがこれを差し入れてくれたのだ。なんでも、新しく作った果実らしく……っ、テランス…!?」
その元気な姿に安心したおかげか、緊張が解けたおかげか。
テランスは盛大に吐いた。


「心因性嘔吐ね」
「心因性嘔吐」
オウム返しをしてしまったテランスに、タルヤは「貴方は至って健康よ」と、テランスよりも顔色を悪くしているディオンに向かって話を続けた。
自分のやらかした事に呆然としているテランスを慌てて医務室へと引っ張っていったディオンは青褪めていて、どちらが患者なのかという有様だ。
健康そのもので筋肉のバランスも良い。体格に合った鍛え方がされていて、規則正しい睡眠と栄養が取れている。そうタルヤから教えてもらっているディオンは、診断された本人よりも嬉しそうに頷いていた。
ただ、最近過度なストレスを感じなかったか、と聞かれて、テランスはビクリと肩を揺らしてしまった。二人は向かい合って話しているし、バレてなければいい……と隣を見て、すぐに諦めた。がっつり見られている。
「テランス」
顔を逸らす。険しい表情をしたディオンが、更に目を吊り上げて「おい」と腕を掴んだ。あまり知られていないが存外気が短い彼に、どうしたものかと思考を巡らせた。
心配をかけたのはわかっている。しかし言えるわけがない。ストレス等と普段感じる事は少ないが、確実なのは今朝のあれが原因なんだと。
強い力で腕を掴む手。握力も随分戻ってきて、喜ばしい限りだ。
温かい手のひらに、血の巡った肌艶の良い顔。あんな、粉々になった肉体ではない、生きた身体。
貴方が砕け散った夢を見ました。そんなことを言えるはずが。
「テランス」
二度目の強い呼びかけに、ううんと唸る。このままだとディオンが臍を曲げるのは目に見えていて、怒らせたが最後、長く口を聞いてくれなくなることだってある。
困った。そんな気持ちでタルヤと目を合わせると、こちらがストレスの原因を把握している事を察してくれたのか、片眉をぴくりと上げて、はぁ、と溜息をつかれてしまった。仕方ないわね、そう言うタルヤの呆れた声が聞こえた気がする。後で悪夢を見ました、とだけ伝えておこう。
そして、それが全く気に入らなかったのがディオンである。
「……そうか、私には言いたくないというわけだな!」
「あっ、ディオン!」
椅子を蹴飛ばすように立ち上がって、大股で医務室から出て行くディオンを慌てて追いかける。

怒らせる前に言い訳を考えようと思っていたのに甘かった。懐かしい程に久しく見なかった、自分の前をずかずかと歩く姿に、テランスはやってしまった、と頭を抱えそうになりつつ、大人しくディオンの後ろを歩き続ける。おかげで夢の内容は八割消し飛んだ。どうしよう。
教える気など更々ない夢などどうでもいいが、その一部分に、今の自分と変わらないことが一つある。忘れた悪夢の中の、随分前から隠したままの物がひとつ。

タイミングは今じゃないだろう。どう考えても、こんな状況じゃあり得ないし間違えてる気がする。だが、夢であれを見たのは、数年もの間ずっと持ち歩いているおかげで、これが誰の物なのか忘れかけていたのを思い出させる為だったんじゃないか、と混乱した頭ではそんなことしか思いつかなかった。

『ずっと前から、渡したい物があったんだ。』

夢の中の自分は、赤い石の付いた耳飾りに向かってそう呟いていた。

誰にも見つからないようにこっそりと用意したそれを、全てが終わったら君へ贈ろうと思っていた。
その身は国の為にあったから。全部が終わってしまうなら、それがチャンスだと考えていたんだ。
君の、美しい絹糸のようなブロンドの髪で見え隠れするその赤い石は、君の白い肌によく似合っているとは思っていたけれど、その国宝を思い出すような色とは別に、自分の色もその身に付けてほしかったんだ。

私の色。俺自身が宿す色。この目と同じ、青灰色の宝石が嵌め込まれた、指を飾るそれを、君に。

「………っディオン!」 
「なんだ!」
切羽詰まった声で名前を呼ぶテランスに、不機嫌さを隠そうともせずディオンが振り返る。
自国にいた時とは違い、逃げ込む先も思いつかず隠れ家を歩き回ること数分。昼前から何事だと騒ぎの気配を感じた兄弟が顔を出して、いつもの二人を確認すると今度はなんなんだと呆れた顔をする。
クライヴはまたディオンの隠れファンが浮かれた手紙を寄越すのではないか、と不安げに。ジョシュアはあんなに元気なら本気で外にも行ってもらわなきゃね、と仕事の割り当てを思案して。
勢いよく振り返ったディオンの腕をがし、と強く掴まれて、気勢を削がれたディオンが戸惑ったように腕とテランスを見比べる。
何も浮かばない上に言葉が思いつかない。なんて格好のつかない、と思いきり顔に書いてある。
何がしたいのか、なんてテランス以外に分かるはずもないが、ポケットに手を突っ込んだと思えば何かを取り出して、ディオンの手のひらに、小さな箱に入ったそれを握らせた。
手を取って嵌めるんじゃないんだ。そうツッコんだのは、何となく察したジョシュアだろうか。
「こっ……れを、ずっと贈りたくて」
「…………テランス」
固い声に釣られてハイ、と返事をする。怒っているのか、手のひらを見つめて下を向いたままのディオンの表情は窺えず、何を考えているのか全く予想がつかない。二十年以上も傍にいるのに、こういった失敗をした時の彼の行動は、自分の想像の上をいくことがあるのだ。
「これはなんだ」
「……指輪です」
「何故これを」
「貴方に、着けてほしくて」
三年程前から持ち歩いていました、なんて愚かすぎる事は言わない。その内に肩を震わせ始めたディオンに、え、と狼狽えたテランスの声を遮って、ディオンは質問を続けた。
「ここを何処だと思っている」
その言葉に周囲を見渡したテランスが、しまった、と頬を引き攣らせた。
「………デッキです」
更に言えば昇降機の真ん前の、かなり目立つ場所にいることに今更ながら気がついた。
「……ふっ」
ふふふ、と、箱を見つめていたディオンが笑い声を漏らして、どうして今なんだ、と笑いながら目尻を拭った。怒りで震えていたわけじゃなかったのか。ひとまず機嫌は治ったようだと内心胸を撫で下ろしたテランスに、ディオンが箱を持った手をつき出した。
「え」
もしや気に入らなかったのか。一瞬で落ち込みかけたテランスに、ほら、とディオンが催促した。
「この手に嵌めるのは、お前の役目だろう」
「っ………はい!」
箱を受け取り蓋を開く。片膝をついて暫し逡巡して──右手を取ったことに、ディオンがなんだ、と悪戯な笑みを浮かべた。
「左ではないのか」
「……いつかリベンジをさせてください。その時までは」
こちらに。そう言いながら右手を撫で、ゆっくりと薬指に指輪を嵌める。小さな青灰色の石がきらきらと輝いて、やっと届けてくれたと喜んでいるように見えた。
「テランスの眼だ」
そう言って手を翳したディオンに、はい、と返事をした。
傍にあるのならそれが良い。誰よりもディオンの近くにいるのは、自分であると言い切ってやる。
「似合っているだろう」
「……御自身で仰るのですね」
「テランスの色が私に合わないはずがない」
そうだろう?きっぱりと言い切ったディオンに、貴方には敵わないな、とテランスは照れた顔も隠しきれずに目を覆った。
響く口笛と歓声は、二人の耳にはまだ届かないようだ。



「ところで、これがストレスの原因だったのか?」
「えっ」

1/4ページ
スキ