―――が存在しなかった世界線
『……俺は、ディオンの。……幼馴染で、従者で、恋人で……』
「テランス」
名前を口に出してみる。まだ数度も呼んだことのない名前はやけに舌に馴染んで、あれを欲しいと思う欲がそうさせるのか、と我が事ながら驚いた。
幼馴染と呼べる存在が、自分にはいただろうか。
もしかしたらどこかで出会っていたのかもしれないと考えかけて、やめた。無意義なことだ。あのような男が近くにいて気付かないはずがない。テランスという男が余に向ける目とは違う、もう一人の余──この世界の“ディオン”に向けた、やたら熱い眼差しが全てを物語っている。
余にも確かに従者はいた。しかし余の顔色を窺い、怯え、或いは媚びて他に権力を振り翳すような者ばかりで、信用に値しないあれらに倦厭として必要最低限の仕事だけをさせて遠ざけていた。
バハムートの権威がそんなにも欲しいのか。何度も暇を出した従者達の歪んだ顔を思い出して、嘲るように笑った。
「解せん」
テランスのいない昼間、隠れ家の中をうろうろと歩いてすれ違う人々と挨拶を交わし、何かあると手伝いを申し出るディオンの後ろをついて回ったディオンが、部屋に戻った途端ごろんとベッドに寝転び頬杖をついて吐き捨てた言葉がそれだ。
「何故たかが人間1人でそこまで変われる?」
「なんの話だ」
眉間に皺を寄せた──どうしてもこの捻くれたディオンを前にするとこうなってしまう──ディオンが二人分の昼食の乗ったトレーをテーブルに置いて椅子に腰掛ける。ラウンジで食べないのは、このディオンが余計な事をしないようにする為だ。人を玩具としか見ていない。すぐに騙そうとする。顔貌は同じだが、着ている物の意匠が違うとか表情から滲み出る性格の悪さでこの世界の“ディオン”とは別人とザンブレク出身の者には気付いてほしいとディオンはちょっぴり思った。そう言えるわけがないが。そんな別の世界のディオンを見張るのも神経が擦り減ってしまうので、仕方なくこの遺跡全体の中でも特に離れた位置にある自分達の部屋に一度戻ることにしている。隠れ家に待機中の団員達との団欒(と書いて訓練と呼ぶ)に参戦したいが、この男に隙を与える訳にはいかない。
「あの面白い奴だ」
口角を持ち上げた男が指す者に、心当たるのは1人しかいない。
「面白い……可愛いの間違いだろう」
「可愛くもある」
「貴様が可愛いと言うと腹が立つ。やめろ」
「心の狭い余だな。嫉妬は見苦しいぞ」
鼻で笑うディオンに少し苛つく。誰のせいだ。毎日毎日手を変え品を変えテランスを襲おうとするもう一人の自分に、心が狭いなどと言われる筋合いはない。
「どちらでも同じだろう」
ベッドから起き上がったディオンがディオンに近付き、戯れるように頬を撫でる。本当に、これが私だとは信じ難い。
「お前は余で、余はお前なのだから」
それだけ“余”が変えられたテランスとかいう存在に興味しかない。
たった1人だ。余の世界にはあれが存在しなかった。出会わなかった。それだけでここまで人生が変わってしまうのか、不機嫌を顔に出したこちらの余を見て愉快な気持ちになる。
物心がつく頃には既にバハムートとしての矜持を忘れるなと抑圧されていた。ザンブレク皇国の象徴とあれ。常に己の立場を理解しろ。元首である父の顔に泥を塗るな。バハムートのドミナントとしてザンブレク皇国を守り、父の後ろ盾となるのだと言われ続けてきた。
そこにテランスがいたとして、何が変わるというのだろうか。
自分の存在が父に快く思われていないのは、幼心にもよくわかっていた。子に恵まれず、正妻の目から逃げた先で買った娼婦が身籠った子など、女共々殺したかったに違いない。だが正妻には一切の懐妊の兆しは見られなかったことが、自分を手元に置いておく後押しの一つとなったのだろう。
娼婦から『正しく元首の子を産んだ』のだと父に瓜二つな赤子を売りつけられ、正妻の子とした赤子がドミナントだと発覚すれば、疎ましく思えどよく使える駒になるだろう、と父は思ったに違いない。
ドミナントとは国を守る為の重要な武器だ。ドミナントがその肉体を依り代として、神に近い存在である召喚獣を実体化させ、現世に姿を現す。まさしく敵を排除する為の戦力。ドミナントとはそういう物だから仕方がないのだと自身に言い聞かせていた。
だから私は父を信じた。民を第一に考え、国を豊かにしようという心は本物なのだからと、信じていた。
7歳にもなれば修道院附属学校に通った。余は当然1人だったのだが、こちらの余はそこにテランスもいたと言う。そんなところからあれらは傍にいたのかと思うと、今の二人の濃くて甘い空気に嘘だろう?と若干引いた。20年来の付き合いと聞くともう少し離れるものではないのか。いや、型に嵌めてはならんのか。
成長に従ってザンブレクの貴族としての振る舞いと在り方を求められ、存在価値、存在理由を教え込まれたのは同じといったか。流石に教育機関は変わらないらしい。
ザンブレク皇国の国教であるグエリゴール全教。皇国の創世記に伝わる女神グエリゴールは聖獣ドラゴンを従えていたといい、そのドラゴンの頂点に立つ存在がバハムートなのだと古くから語り継がれている。
民に歌われた誇り高いバハムートとしての矜持。聖獣ドラゴンの頂点。なるほど、額面通りに受け取った余と、持て余した感情の受け皿となれるテランスがいた差か?わからんが。
「──お前が、羨ましい」
「…………は?なん──」
頬を撫でる指がディオンの顎を持ち上げると、眉間に皺を寄せたままのディオンが戸惑った声を上げた。羨ましい、そうかこの気持ちが。初めて覚える感情ばかりだ。こちらの世界に来てから、まんまと死なずに生き延びて良かったのかと、やっと喜べそうだ。
「っ……!?」
戸惑ったディオンが息を呑んだ。唇を塞がれて、起こった事態に茫然とした愉快な顔になっているのをしっかりと見つめながら軽いリップ音を立てる。余に自己愛の気は無いが、これも面白い。
顔を離すと自身に起こった事に理解が追いついたらしいディオンがわなわなと震える。喜べもう一人の余、お前はテランスの次に貰ってやっても良い。
「〜〜〜っふ、ふざけるな!!」
今にも暴れ出しそうな余にふははと笑う。元の世界で捨てる筈だった命を、もう少しだけ持っていても良いと赦された気分だった。
「テランス」
名前を口に出してみる。まだ数度も呼んだことのない名前はやけに舌に馴染んで、あれを欲しいと思う欲がそうさせるのか、と我が事ながら驚いた。
幼馴染と呼べる存在が、自分にはいただろうか。
もしかしたらどこかで出会っていたのかもしれないと考えかけて、やめた。無意義なことだ。あのような男が近くにいて気付かないはずがない。テランスという男が余に向ける目とは違う、もう一人の余──この世界の“ディオン”に向けた、やたら熱い眼差しが全てを物語っている。
余にも確かに従者はいた。しかし余の顔色を窺い、怯え、或いは媚びて他に権力を振り翳すような者ばかりで、信用に値しないあれらに倦厭として必要最低限の仕事だけをさせて遠ざけていた。
バハムートの権威がそんなにも欲しいのか。何度も暇を出した従者達の歪んだ顔を思い出して、嘲るように笑った。
「解せん」
テランスのいない昼間、隠れ家の中をうろうろと歩いてすれ違う人々と挨拶を交わし、何かあると手伝いを申し出るディオンの後ろをついて回ったディオンが、部屋に戻った途端ごろんとベッドに寝転び頬杖をついて吐き捨てた言葉がそれだ。
「何故たかが人間1人でそこまで変われる?」
「なんの話だ」
眉間に皺を寄せた──どうしてもこの捻くれたディオンを前にするとこうなってしまう──ディオンが二人分の昼食の乗ったトレーをテーブルに置いて椅子に腰掛ける。ラウンジで食べないのは、このディオンが余計な事をしないようにする為だ。人を玩具としか見ていない。すぐに騙そうとする。顔貌は同じだが、着ている物の意匠が違うとか表情から滲み出る性格の悪さでこの世界の“ディオン”とは別人とザンブレク出身の者には気付いてほしいとディオンはちょっぴり思った。そう言えるわけがないが。そんな別の世界のディオンを見張るのも神経が擦り減ってしまうので、仕方なくこの遺跡全体の中でも特に離れた位置にある自分達の部屋に一度戻ることにしている。隠れ家に待機中の団員達との団欒(と書いて訓練と呼ぶ)に参戦したいが、この男に隙を与える訳にはいかない。
「あの面白い奴だ」
口角を持ち上げた男が指す者に、心当たるのは1人しかいない。
「面白い……可愛いの間違いだろう」
「可愛くもある」
「貴様が可愛いと言うと腹が立つ。やめろ」
「心の狭い余だな。嫉妬は見苦しいぞ」
鼻で笑うディオンに少し苛つく。誰のせいだ。毎日毎日手を変え品を変えテランスを襲おうとするもう一人の自分に、心が狭いなどと言われる筋合いはない。
「どちらでも同じだろう」
ベッドから起き上がったディオンがディオンに近付き、戯れるように頬を撫でる。本当に、これが私だとは信じ難い。
「お前は余で、余はお前なのだから」
それだけ“余”が変えられたテランスとかいう存在に興味しかない。
たった1人だ。余の世界にはあれが存在しなかった。出会わなかった。それだけでここまで人生が変わってしまうのか、不機嫌を顔に出したこちらの余を見て愉快な気持ちになる。
物心がつく頃には既にバハムートとしての矜持を忘れるなと抑圧されていた。ザンブレク皇国の象徴とあれ。常に己の立場を理解しろ。元首である父の顔に泥を塗るな。バハムートのドミナントとしてザンブレク皇国を守り、父の後ろ盾となるのだと言われ続けてきた。
そこにテランスがいたとして、何が変わるというのだろうか。
自分の存在が父に快く思われていないのは、幼心にもよくわかっていた。子に恵まれず、正妻の目から逃げた先で買った娼婦が身籠った子など、女共々殺したかったに違いない。だが正妻には一切の懐妊の兆しは見られなかったことが、自分を手元に置いておく後押しの一つとなったのだろう。
娼婦から『正しく元首の子を産んだ』のだと父に瓜二つな赤子を売りつけられ、正妻の子とした赤子がドミナントだと発覚すれば、疎ましく思えどよく使える駒になるだろう、と父は思ったに違いない。
ドミナントとは国を守る為の重要な武器だ。ドミナントがその肉体を依り代として、神に近い存在である召喚獣を実体化させ、現世に姿を現す。まさしく敵を排除する為の戦力。ドミナントとはそういう物だから仕方がないのだと自身に言い聞かせていた。
だから私は父を信じた。民を第一に考え、国を豊かにしようという心は本物なのだからと、信じていた。
7歳にもなれば修道院附属学校に通った。余は当然1人だったのだが、こちらの余はそこにテランスもいたと言う。そんなところからあれらは傍にいたのかと思うと、今の二人の濃くて甘い空気に嘘だろう?と若干引いた。20年来の付き合いと聞くともう少し離れるものではないのか。いや、型に嵌めてはならんのか。
成長に従ってザンブレクの貴族としての振る舞いと在り方を求められ、存在価値、存在理由を教え込まれたのは同じといったか。流石に教育機関は変わらないらしい。
ザンブレク皇国の国教であるグエリゴール全教。皇国の創世記に伝わる女神グエリゴールは聖獣ドラゴンを従えていたといい、そのドラゴンの頂点に立つ存在がバハムートなのだと古くから語り継がれている。
民に歌われた誇り高いバハムートとしての矜持。聖獣ドラゴンの頂点。なるほど、額面通りに受け取った余と、持て余した感情の受け皿となれるテランスがいた差か?わからんが。
「──お前が、羨ましい」
「…………は?なん──」
頬を撫でる指がディオンの顎を持ち上げると、眉間に皺を寄せたままのディオンが戸惑った声を上げた。羨ましい、そうかこの気持ちが。初めて覚える感情ばかりだ。こちらの世界に来てから、まんまと死なずに生き延びて良かったのかと、やっと喜べそうだ。
「っ……!?」
戸惑ったディオンが息を呑んだ。唇を塞がれて、起こった事態に茫然とした愉快な顔になっているのをしっかりと見つめながら軽いリップ音を立てる。余に自己愛の気は無いが、これも面白い。
顔を離すと自身に起こった事に理解が追いついたらしいディオンがわなわなと震える。喜べもう一人の余、お前はテランスの次に貰ってやっても良い。
「〜〜〜っふ、ふざけるな!!」
今にも暴れ出しそうな余にふははと笑う。元の世界で捨てる筈だった命を、もう少しだけ持っていても良いと赦された気分だった。