―――が存在しなかった世界線

目を覚まして最初に湧き上がった感情は、生き延びてしまった、というガッカリした気持ちだった。次に喪失感。自分の内側に常に在った聖竜が、あの男に喰らい尽くされた事でごっそりと消えて無くなっている。自分の内側、痛みに悲鳴を上げる身体を無視して召喚獣の残滓を探すが、顕現できそうな気配は一切無く、魔法を起こすことすら出来なくなっていた。死ねなかった。生きたところで、バハムートを失い、ドミナントとは呼べなくなった自分に存在価値は無くなり、父上に見放されるのは目に見えていた。
捨てられてしまう。他の、力の絞り切ったベアラーと同じく、なんの役目も果たせなかった惨めな余に、使い道はない。
胸が詰まる。息が苦しい。目眩がして、名前の知らない感情に叫び出してしまいそうだった。どうして死に損ねたのか、クリスタルはどうなってしまったのか、フェニックスの訴えは真だったのか。何もわからない上、思考の邪魔をするように自分の手当てをしたらしい女が此方の様子を窺ってきた事に、酷く苛立った。
この女が誰なのか知るわけがないが、余を助けると言う者はいつも何かしらの下心を抱いている。いつも余に媚び諂い、機嫌を取り、お伺いを立てる者ばかりだった。どうせこの者もそうなのだろう。打算無しで余を助ける者など、夢物語の中にしかいないのだから。
腸が煮えたぎるまま女を組敷くと、やけに暴れ出した女に大きく舌打ちをする。何が望みなのだ、こちらでは無いならやはり金か、誰かの命を奪って欲しいのか──と糾しようとして、「何をしている!」という怒鳴り声に動きを止めた。
どこかで聞いたような声だ、と思った。緩慢な動作でそちらを向く。鏡で写したような姿に言葉を失ったのは同時で、先に動いたのは相手の方だった。
「退け!」
「っぐ……!」
写し鏡の男が躊躇なく体当たりを食わせてくる。弾かれた身体は強かに床に打ち付けられ、傷の痛みに低く呻く。包帯の上から肩を押さえてその男を見ると、男は此方を見向きもせずに女を起こした所だった。
「タルヤ無事か、怪我は」
「大丈夫よ、何もないわ。ただ彼は……」
「……兎に角クライヴか、オットーに連絡を……」
「まずは話を聞かないと……」
此方を放置して話し込み始める二人に興醒めする。床に転がったままでいるのも馬鹿らしくなり、砂埃を払って空いたベッドの縁に腰掛けた。何が何だかわからないまま時間だけが過ぎる。本当に、何もかもがどうでもいい。負けた事実は変わらないし、もう、帰る場所など無い。認められる為に必死だったが、全て無駄になった。………バハムートの無い自分など、誰も必要としないのだ。
「おい、聞いているのか」
「……なんだ?」
どうやら一段落ついたらしい男が此方に向かって話しかけていた事に、怪訝そうな表情を見て気付く。その顔も、鏡や窓に映った時によく見る顔でまったく気味が悪い。男がじっと此方の顔を見て、お前は、と口を開いた。声も似ていて口調まで真似られるとは、下手な影武者より余程タチが悪かった。
「お前は何者なのか、名前と、覚えている事を全て話せ」
「……余を知らぬ者がいると?はは、つまらない冗談を言う。良い、それが褒美というわけだな。全て話してやる。どうせ用済みの肉体だ。余の価値など、父上には、もう─…」
生きているのか死んでいるのかすら、余には知る権利など無い。


何もかもが面倒で、聞かれるままに話をすれば女が一度部屋を離れ、見覚えのある好々爺を連れて戻って来た。どこかで見た顔だと思えば、確か10年程前に宮廷のサロンにいた学者で、こんな所で再会するとはな、と変に感心してしまった。
「並列、平行世界と呼ばれる事象がありましてな」
話を聞いた好々爺、ハルポクラテスが、ほほお、と白髭を撫でながら一つの仮説を立てる。同一の世界、同じ空間から分岐した時間軸。一本の樹が枝分かれするように、何を選択したかによって変わっていく未来。
「その仮説が正しいとすると、余はフェニックスの手を取らずに敵対し、敗北してしまったのだが………、そこのお前はフェニックスについたというのか?あの与太話を信じて?」
「……、それは……」
「僕の話というと、あの時だよね」
「ジョシュア、」
「…………フェニックス……貴公もここに……」
医務室に入って来たフェニックスに、何ともいえない感情が渦巻く。最後、フェニックスが自分を見た時の眼が忘れられない。可哀想な物を見るような、憐れむような眼で、翼を折って血を流しながら落ちていく自分を彼は見ていた。それが自分の愚かさを露呈させていくようで、どうしてか酷い苦しみを覚えた。それを歯を噛み締めて誤魔化しながら彼の話を聞く。気付かない振りをしているのか、フェニックスは目を細めて部屋にいる全員──余と、余に似たあれと、学者、医師の女を順番に見た。
「何か、違うと思うんだよね。それじゃなくて、もっと前。根本的な何かが」
「根本的……?」
「そう。あの時、僕はヨーテを連れて君の野営地に行った。見張りに少し眠ってもらって、天幕に入ったらテランスに剣を抜かれかけた。そして彼を止めたディオンが──」
「…………誰だ?それは」
「え?」
思いがけず現れた名前に声を上げてしまう。記憶を思い返しながら話を聞いていたのに、突然出てきた誰かのせいで意識が引き戻されてしまった。確かにあの時、フェニックスは従者を連れて見張りを倒し天幕の中に入って来た。だが、中にいたのは自分一人だったはずだ。
おい、と同じ顔のあれに肩を掴まれる。その包帯の下に傷があるのをわかっていないのか、この愚か者は。そう言ってやりたかったが、あまりにも真剣な表情に仕方なく黙ってやった。
「テランスは、……お前に幼馴染はいないか?側近は、竜騎士の右腕は、……恋人は」
「恋人?はは、あり得ないだろう。余の立場を忘れたか」
お前が余だというのなら、わかっているだろう。立場を、存在理由を、生きている意味を。
何も間違ったことは言っていないのに、この男はみるみるうちに表情を無くして、そうして黙りこくってしまった。
顔を見合わせた奴等が何かを話し、フェニックスが此方に近付きベッドの横に椅子を置いた。そこに腰掛けた奴が此方を見て、「少し話をしようか」と、あれの“幼馴染”とやらの事を掻い摘んで説明した。二十年以上を共に過ごした“誰か”の話を。


フェニックスと学者が退室し、黙りこくる男と医師の視線が此方に向く。やはり、本来なら余は死んでいた筈だった。しかし生きてしまったのは、あの墜ちて逝く瞬間、起こる筈のない世界線への干渉が生じてしまったのだろうと学者が言っていた。
生きる事を喜べと、どうして思えようか。
「…………来るわね」
唐突に医師が入口に視線をやる。続いて凄まじい勢いで近付いてくる騒がしい足音。“余”が顔を上げて、振り向くと同時。でかくて獰猛な動物が、あれに飛びかかったように見えた。
「ッディオン!!!!」
耳鳴りでも起きるかと思った。
思わず半眼になりながら奴等を眺める。でかい動物は人間だった。早口で何を言っているかわからないが、見目は良いように思える。そして、かなりの手練だということも。
飛びつかれて、抱き締められているもう一人の余を見る。その腕の中の余を見て、その初めて見る自分の表情に、何だあれは、と柄にもなく戸惑った。
あんな顔はしたことがない、そんな顔をするような感情を、覚えたことはない。
ニヤ、と無意識に口角が上がる。面白い。余がそんな腑抜けた顔をする相手が。泣きながら微笑む男と、それを見て嬉しそうな表情を浮かべる自分に興味が湧いた。
初めて覚える感覚だ。この高揚感は。
手始めに一つ、それを扱ってみたい。テランス、といったか。
「これはお前の物か。中々面白い。この男をくれ」
「は!?」
「え」
途端に怒り出す余と疑問符を浮かべるその男に、ますます面白い気分になった。
それがお前の物なら余の物も同然だろう。ああ、先が楽しいなんて初めてだ。
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