―――が存在しなかった世界線
どこで選択を間違ってしまったのか。
霞む視界、何の力も残っていない四肢を宙に投げ出し自身に問いかける。20年振りに会ったフェニックスの馬鹿げた妄言を無視した事か。それとも、奴等をみすみす逃し、侵入を許してしまった事か。どちらにせよ、余は負けた。フェニックスと組んだイフリートによって召喚獣を喰われ、翼を捥がれ、地に墜とされてしまったのだ。
父上にも母上にも申し訳が立たない。余が死んでしまったことで、猊下はどうなったのだろうか。バハムート亡き今、皆殺されているだろう。『お前のような玩具が欲しかったのだ』そう言って嘲笑ったオリヴィエ、お前の玩具の役割は果たせそうにない。
やはり鏖にすべきだったのだ。忌々しい。愚かな事をした。余も、奴らも。
余のバハムートが、まさか無残にも敗れてしまうなど。最期に見たフェニックスの顔を思い出す。憐れむような目が、哀しいとでも言いたげな目が癪に障る。あぁ全てが気に入らない。何もかもが無駄だった。父上の為に働き、身体を売り、御意のままに行動した事も。つまらない、塵芥のような人生だった。
重力に従って空を落ちる。轟々と耳鳴りが響き、風が身体を押した。落ちる。落ちて、余は無様に死んでしまうのだ──。
ザバァン、と大きな水しぶきが上がる。隠れ家である遺跡を囲む湖の真ん中に何かが落ちたのか、水面に重い物を叩きつけた様な盛大な音を立てて船が激しく揺れた。何事かと集まった野次馬達で騒然とするデッキで、真っ先に目を凝らして落ちた物を確認していた男が「マズい!」と声を張り上げた。
「ありゃあ人だ!誰か、船を出してくれ!生きてるかはわからんが、あの形はどう見ても人間だ!」
湖に浮いていた木片に丁度引っ掛かった人間らしき物が、波に揺られて静かに沈んでいく。木片に乗り、だらりと垂れているのは恐らく上半身で、全身が湖に浸かるのは時間の問題だった。
男の声に反応して船に飛び乗った石の剣の数名が救助に向かう。沈みきる寸前、間一髪で引き上げた人間を見て、その場にいた全員が戸惑った。
甲冑の下、ドレスのようなコートを身に着けた金の髪の男は、今、隠れ家で療養中の“彼”そのものだった。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうものだ。
ハルポクラテス先生と分け合って始めた文献の解読を済ませ、机の上に広げた辞典を片付けながら和やかに会話をする。テランスのいない時間は寂しいが、こうして仕事をさせてもらっていると新たな知識に胸が弾み、気を紛らわす事もできる。日暮れが近付き、じきにテランスも戻るだろう。今日得た物はなんだろうか、話を聞くのが楽しみだ、と、ディオンが心を躍らせていると、書庫の扉が豪快に開け放たれた。
「語り部!ディオン様はこちらに──いらっしゃいます、ね……?」
「……扉を壊す気か、ケビン。ここをどこだと思っている。申し訳ございません、先生。私の部下が……」
「うぅむ、まあ、元気があって良いではないですか」
騒がしく書庫に入ってきた私服の聖竜騎士団員に苦言を呈し、ハルポクラテスに謝罪をする。朗らかに笑ったハルポクラテスにほっと息を吐くと、ディオンは団員に向き直った。
「それで、何があった。急ぐ用か?」
「あっ、ハイ!それが──」
知らぬ天井。見覚えのない部屋。安物のベッド。身に着けていた装備は脱がされたようで、肌に巻かれた包帯を見下ろして、男は深く溜め息を吐いた。
「…………死に損なったか……」
身体は、動く。手の平を見つめて指を動かし、上体を起こして地面に足を降ろした。下は履いているが、靴はどこにあるのだろうか。周りを見渡す男の耳に、あら、と少し驚いたような声が届いて、男は顔を上げた。
「もう目が覚めたのね。……ええと、貴方は……ディオン、でいいのかしら……」
「……女、お前が余を助けたのか。礼を言う」
「は……?本当にディオンなの?貴方は一体……」
「……?なんだ、褒美がほしいのか。はっ、これだから卑賤の者は…」
「何?どういうこと……っちょ、何を!」
自嘲気味に笑った男──ディオンが、ディオンに近付いた声の主──タルヤの腕を引いてベッドに組み伏せる。掴んだ腕を押さえつけて、膝で足を割り開きタルヤの上に乗り上げた。
「抱いてほしいのだろう。貴様らはいつもそうだ。余を都合の良い傀儡だと、そう陰で嘲笑っているのだろう。忌々しい。望み通り犯してやる。後悔するがいい──」
「──何をしている!!」
言い募るディオンの声を遮るように同じ声が医務室に響く。タルヤを組敷いた、無表情のディオンが振り向いて、温度の無い眼を僅かに見開く。同じく、書庫で“自分が救助された”と話を聞いて駆けつけたディオンが“自分の姿”を見て息を呑む。偽物にしては出来すぎている。魔物にしては気配が人そのものである。わからないが、放置するにも危険しかない。この男は──
「「お前は、誰だ……?」」
同じ声と同じ顔。ただ一つの違いは、心の拠り所の存在であった。
何もわからないまま、ただディオンが傷を負っていると聞いて、桟橋から全速力で医務室に直進したテランスは、扉を開いた先に立つ彼を視界に捕らえた瞬間、思いきり抱き締めてしまった。
「傷とはなんですか何をしたんですか何を考えておられるのですかどうして危険な真似をするんです何故いつも大人しくしていられないんだ待つことを覚えてくれないかふざけないでいただきたい!!」
「く、苦しい、テランス、待て、落ち着け……!」
頭に浮かんだままぽんぽんと言葉を投げつけるテランスに圧倒されてディオンが慌てて静止をかける。ぎゅうぎゅうと抱き締められるのは好きだが、こう力加減をしないと窒息してしまうではないか、と息苦しさに悶えながら、ディオンはテランスの背を落ち着かせるように撫でた。
少し緩んだ腕の力に呼吸がしやすくなる。よかった、と安心したのも束の間、ぐす、と耳元で聞こえた鼻を啜る音に、今度はなんだ!?とディオンは慌てた。
「ど……っ、して、貴方、は、いつも……っ!」
「待て待て本当に落ち着いてくれ、テランス、私ではないんだ、今度は、本当に、絶対に、大丈夫だから!な?!」
「ディオン……」
軽く胸を押して身体を離し、テランスの顔を見上げると、予想通り目尻と鼻を真っ赤にして瞳を濡らした恋人の落ち込んだ表情がそこにあって、ディオンはふふ、と笑ってしまった。
「どうして笑うの……」
「いや、つい」
可愛くて、という言葉は飲み込んで、泣き虫に戻ったテランスを見つめる。凛々しい眉をハの字にしたテランスが、無事を確かめるようにディオンの姿をじっと見つめ返した。
「………ふむ?」
もう一人の声が、甘い空気など知らぬと言いたげな鋭さで吐き出された。その声にテランスが反応する。誰だ、と言いかけて、反射的にディオンを背に庇う。
ベッドの縁に腰掛けていた“ディオン”が立ち上がり、テランスに近付いて上から下までをじっくりと眺めた。まるで品定めのようだ。息が詰まる感覚に、テランスはごくりと唾を飲み込んだ。
「これはお前の物か。中々面白い。この男をくれ」
「は!?」
「え」
え?と疑問符を浮かべるテランスの前に飛び出して“ディオン”に指を差して貴様ふざけるな、とぎゃんぎゃん喧嘩を始めるディオンに、傍観者に徹していたタルヤははぁ、と額を押さえた。
困ったことになる予感しかしないわね。
霞む視界、何の力も残っていない四肢を宙に投げ出し自身に問いかける。20年振りに会ったフェニックスの馬鹿げた妄言を無視した事か。それとも、奴等をみすみす逃し、侵入を許してしまった事か。どちらにせよ、余は負けた。フェニックスと組んだイフリートによって召喚獣を喰われ、翼を捥がれ、地に墜とされてしまったのだ。
父上にも母上にも申し訳が立たない。余が死んでしまったことで、猊下はどうなったのだろうか。バハムート亡き今、皆殺されているだろう。『お前のような玩具が欲しかったのだ』そう言って嘲笑ったオリヴィエ、お前の玩具の役割は果たせそうにない。
やはり鏖にすべきだったのだ。忌々しい。愚かな事をした。余も、奴らも。
余のバハムートが、まさか無残にも敗れてしまうなど。最期に見たフェニックスの顔を思い出す。憐れむような目が、哀しいとでも言いたげな目が癪に障る。あぁ全てが気に入らない。何もかもが無駄だった。父上の為に働き、身体を売り、御意のままに行動した事も。つまらない、塵芥のような人生だった。
重力に従って空を落ちる。轟々と耳鳴りが響き、風が身体を押した。落ちる。落ちて、余は無様に死んでしまうのだ──。
ザバァン、と大きな水しぶきが上がる。隠れ家である遺跡を囲む湖の真ん中に何かが落ちたのか、水面に重い物を叩きつけた様な盛大な音を立てて船が激しく揺れた。何事かと集まった野次馬達で騒然とするデッキで、真っ先に目を凝らして落ちた物を確認していた男が「マズい!」と声を張り上げた。
「ありゃあ人だ!誰か、船を出してくれ!生きてるかはわからんが、あの形はどう見ても人間だ!」
湖に浮いていた木片に丁度引っ掛かった人間らしき物が、波に揺られて静かに沈んでいく。木片に乗り、だらりと垂れているのは恐らく上半身で、全身が湖に浸かるのは時間の問題だった。
男の声に反応して船に飛び乗った石の剣の数名が救助に向かう。沈みきる寸前、間一髪で引き上げた人間を見て、その場にいた全員が戸惑った。
甲冑の下、ドレスのようなコートを身に着けた金の髪の男は、今、隠れ家で療養中の“彼”そのものだった。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうものだ。
ハルポクラテス先生と分け合って始めた文献の解読を済ませ、机の上に広げた辞典を片付けながら和やかに会話をする。テランスのいない時間は寂しいが、こうして仕事をさせてもらっていると新たな知識に胸が弾み、気を紛らわす事もできる。日暮れが近付き、じきにテランスも戻るだろう。今日得た物はなんだろうか、話を聞くのが楽しみだ、と、ディオンが心を躍らせていると、書庫の扉が豪快に開け放たれた。
「語り部!ディオン様はこちらに──いらっしゃいます、ね……?」
「……扉を壊す気か、ケビン。ここをどこだと思っている。申し訳ございません、先生。私の部下が……」
「うぅむ、まあ、元気があって良いではないですか」
騒がしく書庫に入ってきた私服の聖竜騎士団員に苦言を呈し、ハルポクラテスに謝罪をする。朗らかに笑ったハルポクラテスにほっと息を吐くと、ディオンは団員に向き直った。
「それで、何があった。急ぐ用か?」
「あっ、ハイ!それが──」
知らぬ天井。見覚えのない部屋。安物のベッド。身に着けていた装備は脱がされたようで、肌に巻かれた包帯を見下ろして、男は深く溜め息を吐いた。
「…………死に損なったか……」
身体は、動く。手の平を見つめて指を動かし、上体を起こして地面に足を降ろした。下は履いているが、靴はどこにあるのだろうか。周りを見渡す男の耳に、あら、と少し驚いたような声が届いて、男は顔を上げた。
「もう目が覚めたのね。……ええと、貴方は……ディオン、でいいのかしら……」
「……女、お前が余を助けたのか。礼を言う」
「は……?本当にディオンなの?貴方は一体……」
「……?なんだ、褒美がほしいのか。はっ、これだから卑賤の者は…」
「何?どういうこと……っちょ、何を!」
自嘲気味に笑った男──ディオンが、ディオンに近付いた声の主──タルヤの腕を引いてベッドに組み伏せる。掴んだ腕を押さえつけて、膝で足を割り開きタルヤの上に乗り上げた。
「抱いてほしいのだろう。貴様らはいつもそうだ。余を都合の良い傀儡だと、そう陰で嘲笑っているのだろう。忌々しい。望み通り犯してやる。後悔するがいい──」
「──何をしている!!」
言い募るディオンの声を遮るように同じ声が医務室に響く。タルヤを組敷いた、無表情のディオンが振り向いて、温度の無い眼を僅かに見開く。同じく、書庫で“自分が救助された”と話を聞いて駆けつけたディオンが“自分の姿”を見て息を呑む。偽物にしては出来すぎている。魔物にしては気配が人そのものである。わからないが、放置するにも危険しかない。この男は──
「「お前は、誰だ……?」」
同じ声と同じ顔。ただ一つの違いは、心の拠り所の存在であった。
何もわからないまま、ただディオンが傷を負っていると聞いて、桟橋から全速力で医務室に直進したテランスは、扉を開いた先に立つ彼を視界に捕らえた瞬間、思いきり抱き締めてしまった。
「傷とはなんですか何をしたんですか何を考えておられるのですかどうして危険な真似をするんです何故いつも大人しくしていられないんだ待つことを覚えてくれないかふざけないでいただきたい!!」
「く、苦しい、テランス、待て、落ち着け……!」
頭に浮かんだままぽんぽんと言葉を投げつけるテランスに圧倒されてディオンが慌てて静止をかける。ぎゅうぎゅうと抱き締められるのは好きだが、こう力加減をしないと窒息してしまうではないか、と息苦しさに悶えながら、ディオンはテランスの背を落ち着かせるように撫でた。
少し緩んだ腕の力に呼吸がしやすくなる。よかった、と安心したのも束の間、ぐす、と耳元で聞こえた鼻を啜る音に、今度はなんだ!?とディオンは慌てた。
「ど……っ、して、貴方、は、いつも……っ!」
「待て待て本当に落ち着いてくれ、テランス、私ではないんだ、今度は、本当に、絶対に、大丈夫だから!な?!」
「ディオン……」
軽く胸を押して身体を離し、テランスの顔を見上げると、予想通り目尻と鼻を真っ赤にして瞳を濡らした恋人の落ち込んだ表情がそこにあって、ディオンはふふ、と笑ってしまった。
「どうして笑うの……」
「いや、つい」
可愛くて、という言葉は飲み込んで、泣き虫に戻ったテランスを見つめる。凛々しい眉をハの字にしたテランスが、無事を確かめるようにディオンの姿をじっと見つめ返した。
「………ふむ?」
もう一人の声が、甘い空気など知らぬと言いたげな鋭さで吐き出された。その声にテランスが反応する。誰だ、と言いかけて、反射的にディオンを背に庇う。
ベッドの縁に腰掛けていた“ディオン”が立ち上がり、テランスに近付いて上から下までをじっくりと眺めた。まるで品定めのようだ。息が詰まる感覚に、テランスはごくりと唾を飲み込んだ。
「これはお前の物か。中々面白い。この男をくれ」
「は!?」
「え」
え?と疑問符を浮かべるテランスの前に飛び出して“ディオン”に指を差して貴様ふざけるな、とぎゃんぎゃん喧嘩を始めるディオンに、傍観者に徹していたタルヤははぁ、と額を押さえた。
困ったことになる予感しかしないわね。