君とオペラを
何もかもが上手くいかない日だった。
目覚めた時から身体に不調を感じていたりだとか、第六感が働いて嫌な気配がしただとか、異変を覚えた、悪いものを食べた、だとかそういうことは一切なく、ただただ普通で良くも悪くもない、普段通りの朝だった。
細かいミスをした。
いつもなら有り得ないような物を幾つか。
例えば、手際よくペンを走らせて片付けた書類に記した綴りを間違えていたりとか、模擬試合をした相手に軽く指導するつもりが泣かせてしまったりだとか。
頼まれた物を間違えたりもした。
渡す相手も、受け取りに行く相手も勘違いをした。
侍女だったり、団員だったり、何処かの貴族だったり。
小さな失敗の積み重ねで、多くの者に迷惑をかけたように思う。
父にも、先日の戦の件で叱責された。ミスは無かった筈だ。
何かが至らなかったのだろう。
余の行い一つ一つが、父への評価へ繋がる。
頭の上から足の爪先まで、全ての挙動が監視され、立ち振る舞い次第で民に見限られ、父を失望させてしまう。
余の力は父の為に。父の考えは国を想って。あの奸婦が何と言おうと、父の信念は揺らがないと信じている。
失敗は許されない。立ち止まる事も、寂しい等と人間のような感情を口に出す事も、許されるはずがないのだ。
夕刻、早々に自室に引き上げて身を投げるようにソファへ倒れ込む。彼方此方からの視線が痛い。一挙一動を見定められている。
柔らかなクッションに顔を埋めて抱き締める。叫び出したい気持ちになったが、そうした所で何も変わりはしないのだと冷静な自分が醜い自分の姿を見下ろした。
暫くそのままでいると耳慣れた靴音が扉の前まで近付いてくる。ひと呼吸置いてノックが数回。
会いたくないというわけではなかったが、何もしたくなかった。沈黙を続けていれば引き返すと思ったのに、余の従者は断りもなく室内に入って来たようだった。
うつ伏せて寝転んだまま動かない自分の隣に立つ気配を感じる。文句があるなら言えば良い。お前になら、テランスだけには全てを曝け出しても良いと、私は思っているのだから。
「ディオン様」
思いの外柔らかな声にびくりと身体が震える。もっと怒っているか、堅い口調で話しかけられると思っていた。どんな表情をしているのか途端に気になってしまって、顔を上げるタイミングを見つけられないでいる私に、テランスは予想もしていなかった言葉をかけてきたのである。
「今から、出掛けましょうか」
その歌劇は外大陸で大流行中の物らしく、どうでもいい貴族達が話していたのを耳にした事がある。
内容はよく知らぬが、平民にも人気が高い作品なのだと聞いてはいる。
「戦争で引き裂かれた恋人達の愛の物語ですよ。脚本もさることながら、舞台演出も素晴らしく目を見張る物なのだとか」
「ほう……?」
テランスの説明を聞きながら渡されたパンフレットに目を通す。
西の国と東の国の戦争。西軍の戦士は自国の姫と恋仲で、国に残してきた姫を想いながら戦に身を投じる。
東軍は強く圧倒的で、最前線で戦っていた戦士は無惨にも散り、敗戦国となった西の国は占拠されて、戦士の恋人だった姫は東の国の王子の妃として迎えられる──。
「……ゾッとしない話だ」
面白くない、という事ではなく、実際に有り得そうで胸が痛んでしまう、というか。
夜の部はもうすぐなのだという。テランスめ、わざわざチケットを二枚取って、この為に城を抜け出したのだから、悲恋よりももう少し幸せな物を見つけてくれば良かったものを。
劇場に着いて、案内された座席に着く。
二階のボックス席からは舞台の全体が見渡せて、朝から塞ぎ込みがちだった気分が少しだけ上昇した。
「公演が始まりますよ」
照明が落ちる。降りていた幕が上がり、重厚な演奏が響き、舞台の中心に立った男が、愛する者への想いを歌った。
──戦士は生きていた。
生き残りの数少ない兵を連れて、東の国へ命を賭して乗り込んだ。姫の為に、国の為ではなく、自分が愛した人を取り返す為に。
意思を汲んだ王子が決闘を持ち掛ける。
想い人を自分の元へ置く戦いを。戦士と王子の剣戟が繰り広げられる。どちらが姫の傍に立つのが相応しいかを歌い、そして剣舞の終わりに王子の剣が弾き飛ばされ、姫が戦士の元へ駆け寄り──王子は負けを認めた。
戦士よ、姫を幸せにしろ。
そう言った王子も、戦争に関係なく姫を愛していたのだろうか。
「……思ったのだが」
「なんでしょう?」
城への帰り際、どうしてかテランスが差し伸べてくれた手に引かれながら、ぼんやりと夜空を見上げて歩く。
声をかけたのはいいが、何も考えがまとまらない。
納得のいく出来だった。大団円で幕を下ろした舞台が鮮明に蘇る。
あの戦士は、姫への想い一つで生きていた。
負け戦だとわかりながらも特攻した、ただ姫を取り返したいと願って、何もかもを振り切って敵国に乗り込んだ戦士のことを思う。
──もしもテランスが、私をここから連れ出したいと何処かで思っているとしたら。
「…………いや、早く戻らないとバレてしまうな」
「ええ、これは私と貴方だけの秘密ですから」
こうして貴方とデートが出来て良かった。そう微笑んだテランスの目に浮かんだ気遣いと慈愛の眼差しに、やっと今日の自分を許せるような気がした。
目覚めた時から身体に不調を感じていたりだとか、第六感が働いて嫌な気配がしただとか、異変を覚えた、悪いものを食べた、だとかそういうことは一切なく、ただただ普通で良くも悪くもない、普段通りの朝だった。
細かいミスをした。
いつもなら有り得ないような物を幾つか。
例えば、手際よくペンを走らせて片付けた書類に記した綴りを間違えていたりとか、模擬試合をした相手に軽く指導するつもりが泣かせてしまったりだとか。
頼まれた物を間違えたりもした。
渡す相手も、受け取りに行く相手も勘違いをした。
侍女だったり、団員だったり、何処かの貴族だったり。
小さな失敗の積み重ねで、多くの者に迷惑をかけたように思う。
父にも、先日の戦の件で叱責された。ミスは無かった筈だ。
何かが至らなかったのだろう。
余の行い一つ一つが、父への評価へ繋がる。
頭の上から足の爪先まで、全ての挙動が監視され、立ち振る舞い次第で民に見限られ、父を失望させてしまう。
余の力は父の為に。父の考えは国を想って。あの奸婦が何と言おうと、父の信念は揺らがないと信じている。
失敗は許されない。立ち止まる事も、寂しい等と人間のような感情を口に出す事も、許されるはずがないのだ。
夕刻、早々に自室に引き上げて身を投げるようにソファへ倒れ込む。彼方此方からの視線が痛い。一挙一動を見定められている。
柔らかなクッションに顔を埋めて抱き締める。叫び出したい気持ちになったが、そうした所で何も変わりはしないのだと冷静な自分が醜い自分の姿を見下ろした。
暫くそのままでいると耳慣れた靴音が扉の前まで近付いてくる。ひと呼吸置いてノックが数回。
会いたくないというわけではなかったが、何もしたくなかった。沈黙を続けていれば引き返すと思ったのに、余の従者は断りもなく室内に入って来たようだった。
うつ伏せて寝転んだまま動かない自分の隣に立つ気配を感じる。文句があるなら言えば良い。お前になら、テランスだけには全てを曝け出しても良いと、私は思っているのだから。
「ディオン様」
思いの外柔らかな声にびくりと身体が震える。もっと怒っているか、堅い口調で話しかけられると思っていた。どんな表情をしているのか途端に気になってしまって、顔を上げるタイミングを見つけられないでいる私に、テランスは予想もしていなかった言葉をかけてきたのである。
「今から、出掛けましょうか」
その歌劇は外大陸で大流行中の物らしく、どうでもいい貴族達が話していたのを耳にした事がある。
内容はよく知らぬが、平民にも人気が高い作品なのだと聞いてはいる。
「戦争で引き裂かれた恋人達の愛の物語ですよ。脚本もさることながら、舞台演出も素晴らしく目を見張る物なのだとか」
「ほう……?」
テランスの説明を聞きながら渡されたパンフレットに目を通す。
西の国と東の国の戦争。西軍の戦士は自国の姫と恋仲で、国に残してきた姫を想いながら戦に身を投じる。
東軍は強く圧倒的で、最前線で戦っていた戦士は無惨にも散り、敗戦国となった西の国は占拠されて、戦士の恋人だった姫は東の国の王子の妃として迎えられる──。
「……ゾッとしない話だ」
面白くない、という事ではなく、実際に有り得そうで胸が痛んでしまう、というか。
夜の部はもうすぐなのだという。テランスめ、わざわざチケットを二枚取って、この為に城を抜け出したのだから、悲恋よりももう少し幸せな物を見つけてくれば良かったものを。
劇場に着いて、案内された座席に着く。
二階のボックス席からは舞台の全体が見渡せて、朝から塞ぎ込みがちだった気分が少しだけ上昇した。
「公演が始まりますよ」
照明が落ちる。降りていた幕が上がり、重厚な演奏が響き、舞台の中心に立った男が、愛する者への想いを歌った。
──戦士は生きていた。
生き残りの数少ない兵を連れて、東の国へ命を賭して乗り込んだ。姫の為に、国の為ではなく、自分が愛した人を取り返す為に。
意思を汲んだ王子が決闘を持ち掛ける。
想い人を自分の元へ置く戦いを。戦士と王子の剣戟が繰り広げられる。どちらが姫の傍に立つのが相応しいかを歌い、そして剣舞の終わりに王子の剣が弾き飛ばされ、姫が戦士の元へ駆け寄り──王子は負けを認めた。
戦士よ、姫を幸せにしろ。
そう言った王子も、戦争に関係なく姫を愛していたのだろうか。
「……思ったのだが」
「なんでしょう?」
城への帰り際、どうしてかテランスが差し伸べてくれた手に引かれながら、ぼんやりと夜空を見上げて歩く。
声をかけたのはいいが、何も考えがまとまらない。
納得のいく出来だった。大団円で幕を下ろした舞台が鮮明に蘇る。
あの戦士は、姫への想い一つで生きていた。
負け戦だとわかりながらも特攻した、ただ姫を取り返したいと願って、何もかもを振り切って敵国に乗り込んだ戦士のことを思う。
──もしもテランスが、私をここから連れ出したいと何処かで思っているとしたら。
「…………いや、早く戻らないとバレてしまうな」
「ええ、これは私と貴方だけの秘密ですから」
こうして貴方とデートが出来て良かった。そう微笑んだテランスの目に浮かんだ気遣いと慈愛の眼差しに、やっと今日の自分を許せるような気がした。
