ED後、隠れ家で生活シリーズ
このまま二度と目覚めない可能性がある。
長い赤銅色の髪を一つに束ねた医師ははっきりと告げた。
自分の目を真っ直ぐに見つめる射るような眼差しは、決意に満ちたかつての彼の目と同じに思えて、堪えきれず視線を落としてしまった。
覚悟はしていたが、こうも真正面から伝えられると心にズシンと響く。目覚めなくとも、生きてさえいればいい。彼が成し遂げたことに胸を張って、前を向いて歩めばいい。そう思った事は事実で、本心のはずだった。
しかし現実はどうか。頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けて、ぐらぐらと目眩を起こしているではないか。どの口が胸を張って生きろ、と言えるのだ。
張れるほどの強さはすっかり身を隠して、心の内側の脆い部分が顔を出そうとしている。自分の心の奥底に沈めた幼い感情が癇癪を起こして、小さな子供のように喚いてしまいそうだった。
昏々と眠り続ける彼の頬に触れる。酷く冷たい肌にざわりと胸がさざめくが、薄い皮膚の下に僅かな脈動を感じて、なんとか荒れた気持ちを押し鎮めた。
彼が海岸で発見され、この隠れ家とやらに運び込まれた時から彼の体温は下がり切ったままだ。血と泥に塗れていたブロンドは、どんなに洗い拭っても繊細な美しさは戻らず、栄養不足から日に日に輝きを失い、柔らかだった肌は乾燥して土のように生気を無くし、着込んでいた装備は破損して一部行方知らずになっている。
せめてもの救いは、細やかにでも絶え間なく心臓が動き、彼が、ディオン・ルサージュの肉体が生存を諦めていなかったことだ。
彼よりも先に見つかり、この場所へ運ばれたドミナントの兄弟は早々に目覚めたのだと話を聞いた。兄の方はすっかりと元通りというふうに隠れ家内のあちこちや湖を渡った外の何処かへと忙しなく動き回り、時折こちら──というか医師、タルヤ様への話ついで──に顔を見せてくださるのだが、弟の方は自室で療養中らしく、医務室の奥で眠る彼の傍から一切離れる気のない自分とはあまり顔を合わせる機会はなかった。
いつかディオンが目覚めたときに誇れる自分であるように、とは、今の自分が持つ指標のようなものだ。
あれはディオンが見つかったと一報を受けて直ぐの事だった。
医務室に急いだのは自分や聖竜騎士団の者達だけではなく、保護した少女も共に船へ乗り彼の元へ駆けつけた。
始めは自分と同じく心配と不安の色を浮かべて何度か見舞いに来ていた少女は、何時間も何日もぐずぐずとディオンから離れることのできないままでいる自分に「テランスさんはそれでいいの!?」と叱咤し、再び立ち上がるように背中を押してくれた。
大恩は報ぜず。まさに今の自分に当てはまる言葉だった。
小さな恩はその都度に負い目を感じ、忘れずに恩返しができるものだが、あまりに大きすぎる恩義はかえって気付かず、それに報いようともしないものだ。
立場を忘れて、ただの個人となってしまっていたことに漸く気付いた。
受けた恩には感謝を返さねば。ディオンを助けていただいた。こうして昏睡の中にある彼を診て、動かない患者の身を清潔に保ち、治療法を探しながら、彼等は混沌とした世界を駆け巡っていた。これを厚恩と思わずしてなんと言うか。
彼等の戦いの果てに、空には明るい陽が戻った。
魔法は失われ、人々がそれぞれ新しい生き方を模索していく中、各国各地には平和とはほど遠い小さな諍いや、簒奪と暴動、人が人らしく平等にと訴える示威運動が起こっている。
今こそ生き延びた我々が、自分が手を貸すべきではないのか。
恩がある。生きている。困っている人がいて、それを解決する術を探せる頭と足が自分にはある。
可能性とは潜在的な発展性だ。目覚めない可能性があっても、それは確定した未来ではない。目覚める可能性も勿論ある。確率が0ではない限り、ディオンはどちらもあり得るというわけだ。
彼が生きている限り、命は続いていく。
ならば、私はここで燻ったままでいるわけにはいかないだろう。
記憶の中の君が手を振って、私の名前を呼ぶ。
それに応えるように立ち上がって、私は前を向いて歩き出した。
いつかディオンが目覚めたときに、彼に誇れる自分であるように。
そうして半年が経ち。
テランスが隠れ家から離れている間に──琥珀色の双眸は世界を映すことを思い出したのである。
ゆっくりと開いたディオンの眼に、目覚めを信じて日々と歩み続けた彼が、くしゃりと顔を歪ませて涙を浮かべる姿が映るのはもう少し後のことだが……、その話を笑ってするのは、更に半年後の事だそうだ。
彼と再会して、共に笑い合えるようになるまでの一年間の話だ。
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