Finale
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ずっとそこにいることができると思っていたのが間違いだったのだ。『ここにいないはずの人間』がそもそもあれだけの時間を向こうの世界で過ごせたこと自体が奇跡だった。あの世界が随分とよそ者に優しかったからすっかりと私は受け入れられたものだと勘違いしていた。それは違った。歪みは必ずどこかで正されなくてはいけない。訳の分からないままあの世界に放り出された私は、同じようにして突然もとの世界に戻された。どうすればいい?愛したものは手のひらをすり抜け、宇宙より遠く彼方へといってしまった。
この世には私が愛したものの残滓さえもない。それならば、いっそ。
目覚めたとき視界に入ったのは一面の白だった。シミがついた汚い壁紙ではなく、清潔な白い空間が広がっていた。上の方からはピーピーという機械音が聞こえる。どういうことだろう、また変な夢を見ているのかと思い目を閉じようとすると、部屋に入ってきた女性が私の顔を見るなりこちらに駆け寄ってきた。
「お加減どうですか?どこかおかしいところは?」
その問いかけに条件反射で左右に首を振る。女性は「お医者さん呼んできますね」と言って部屋から出て行ってしまった。
少し視線をずらすと腕に点滴が刺さっていて、ベッドのところには点滴バッグがぶら下がっているのが見えた。私はここでようやく自分が病院にいるということに気が付いた。しかし自分の身に何が起こったのかと思いだそうとしてもうまく思い出せない。最近した怪我というのも夜中にお茶を飲みに起きたとき、ゴーストが私を驚かしたために壁に頭を打ち付けたくらいだ。オンボロ寮で彼らとも仲良くやってきたつもりだったのにやはり不意打ちで来られると私はひいっと驚いて腰を抜かしそうになる。本当に悔しい。
そんなことを考えるうちに、先程の女性――看護師は医師の後に続いて病室に入ってきた。こちらも女性で、「失礼しますねー」と私のあちこちを弄りながらご家族に連絡して、と看護師に指示をする。看護師ははい、と返事をすると足早にまた病室から出ていく。私はそれを他人事のように眺めていた。
私は通学途中に横断歩道を渡ろうとしたとき、信号無視をしたトラックに轢かれて約1年昏睡状態だったらしい。家族は目を開けている私を見た途端に私の手を握り締めて泣き出した。あんたが目覚めなかった1年は100年にも思えるほど長かった、本当に目を覚ましてくれてよかったと子供のようにわんわんと泣いていたけれど、あまり実感がわかずに曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。そして先生からは最低半年入院して様子を見ながら退院の日取りを決めましょう、と言われ、こくんとまたもやよく考えずに頷く。クルーウェル先生だったらすぐにそれを見抜いて「おい、今よく考えずに答えたな?」と詰問されるだろう。
看護師と医者は一通りの説明を手短に終えると病室から出て行った。残ったのは両親と私の3人だけだ。
「本当にこうしてもう一度こうして喋れるのが夢みたいだ」
「無事に目を覚ましてくれてよかった。今は自分の体のことだけを考えなさい。学校のこととかは心配しなくていいから」
そう、学校だ。私はナイトレイブンカレッジに通っていた。グリムに無理矢理棺桶の蓋を開けられて、そこから2人して入学が認められ、魔法が使えないなりに学園生活を謳歌していた。友達もできたし、恋人もいた。あの人たちは、あの世界はどうなったの?
もしかして、私はあの世界から突然消えたんじゃないのか。「貴方が元いた場所に帰れる方法を探すのです」と言っておきながら果たして真面目に取り組んでいたのか分からない学園長の言葉を思い出す。あの世界が消えたのではなく、私がいるべき場所に帰ってきたのだろうか。どうしよう?まだ何の挨拶もしていないし、やり残したことだってある。
何より、アズール先輩とこんな形でいきなり別れるのは嫌だ。私はなんとかベッドから出ようとするが力が入らない。ずっと寝ていたから筋力が衰えたのだろうか。涙がぼろぼろと頬を伝い弱々しくベッドを拳で殴る。そんなことがあるはずない、私は校内を走り回っていたし体力育成の授業にも出席していた。なのにどうして力が入らないの?
両親はその様子に慌て、「どうした、具合が悪いのか」とベッドで伏せっている私に声をかける。
「そろそろ面会時間…どうなさったんですか。大丈夫ですかー、私のこと分かりますか?」
それに顔を背け、唸り声を上げて泣き始める。看護師はベッドの傍にあるブザーを鳴らすとすぐに医師が病室に入ってきて容体が再びおかしくなったと私の診察を始めた。
遮光カーテンから射す僅かな光で目が覚めた。もぞもぞとベッドの中で寝がえりを打ち、もう少しこの温かさを味わっていたいと丸くなる。ベッドの中で膝を抱え目を閉じしばらく丸まったあと、私はようやく起き上がった。
私が昏睡状態から目覚めて八年が経った。この世界で日常生活を再び送り始めるとあの夢のような時間が本当にあったのかと疑わしくなる。学園長が向こうの世界で私の世界に関する文献がないと言っていたのと同じく、こっちの世界にも向こうの世界の文献は一切見当たらない。『魔導エネルギー』といった言葉もよく耳にしたのに辞書にすら載っていない。こういうことが続いて、あの世界が霧の中に消えそうになるときいつも私は耳をふさいで体験したことを思い出す。最初にオンボロ寮に入ったときの埃っぽい空気、グリムの毛の柔らかさ。そしてまだ思い出せる、あの世界はあるのだと安心させる。私はすっかり怯えてしまっていた。あの出来事を忘れ去ろうとする自分に、そしてそんなのは夢だと言い切るこの世界に。
紅茶をマグカップに注いでそれを飲むと、私はくるみパンを一つ掴んでアパートから出た。都内からこの県に就職を決めたとき、友人や家族からどうして?似た会社ならこっちにもあるのに。不便じゃない?と尋ねられた。私は不便じゃない、どうしてもあそこがいいと言って譲らなかった。ここは海と朝焼けがとても綺麗なのだ。友達と旅行した際に、私はその光景に心を奪われ、卒業した暁には必ずここに住もうと決めた。
10分程歩けば潮風の香りが少しずつ辺りに漂ってくる。私はそれにつられるようにして歩く。まだ朝日が昇っていないからか誰ともすれ違わなかった。私はこちらに引っ越してきたときから時間があれば欠かさず朝焼けを見に行くことにしている。太陽はどこにあってもその輝きを損なわず、頭上にあるからだ。あの世界にもこの世界にも存在していたそれだけが私の味方であるように思えてくる。
夏のにぎやかさが嘘のように消え去って冬の海にあったのは静寂だった。人っ子一人いない海に向かって、朝焼けに目を細めながら砂を踏みしめる。潮風の厳しさに私は黒いダウンのポケットに両手を突っ込んだ。鉛色の海が鈍い太陽に照らされてその水面を輝かせる。波打ち際では先程から白い泡がひっきりなしに生まれては消えていく。
スニーカーが少しだけ海水に濡れた。太陽の力強さとは反対に海は凪いでいる。その光景に目が釘づけになりながら、向こうは今何時ごろなんだろうか、今すぐにでも会えたらいいのにと思った。この光景をアズール先輩と一緒に見たいと思って、すぐに乾いた笑い声が口から漏れた。
会わないと会えないは違う。『会わない』のは会える状況にあるからそれを選択できるのであって、『会えない』はどちらかが既にこの世にいないという状況でしか生まれない。私はあの世界を出た瞬間に生きたまま死人になったのだ。そして、この燻った恋とも愛とも呼べない残骸を抱いて、燃えるような赤の曼珠沙華の間を成仏できずずっと彷徨っているのかもしれない。
アズール先輩には、もう会えない。
私は、貴方に会えない。辿り着くことができない。貴方の声を忘れ、眼差しを忘れ、そして次には貴方の纏っていたコロンの香りを忘れるだろう。記憶の断片を掻き集めて、再構築してもそれは私が好きだった貴方にはならない。それでも、貴方は許してくれるだろうか。呆れた声で「仕方がない人だ」と言ってくれるだろうか。
私は固く目を閉じる。潮風は肌を突き刺すように寒く、ダウンの口元に顔を埋める。
——私の世界で海の最も深いところは10911メートルあるらしいんです。確かそこに到達できたのはたったの3人とか。すごいですよね。
興味がおありで?
あります。どんなところなんだろうって想像しただけでわくわくします。でも1人で行くのは少し心細いですね。
今度、僕が故郷に連れて行ってあげましょう。そこよりももっと雄大で美しい景色をお見せしますよ。だから貴方がそこに行くときは僕も一緒に行きますから。
えー、本当ですか!嬉しいな、絶対一緒に行きましょうね——
アズール先輩。貴方に連れて行ってもらった故郷の海は綺麗でした。少し寒かったけれど。お母さまもお父さまも人間である私にとてもお優しくて、私は涙が出そうでした。好きな人の家族に受け入れてもらえて本当に幸せでした。私は人間だから深いところには行けなかったけれど、先輩との海中散歩では間違いなく私の一番の思い出です。ヒトデが私の服に張り付いてやっとのことで剥がしたことは絶対に忘れないと思います。
ねえ、先輩。あのとき「貴方がそこに行くのなら僕も行く」って約束してくれましたよね。もしかして、先回りして待っていてくれたりしますか? 太陽の光も射さない暗闇で私は先輩を見つけることができるでしょうか。先輩の方が先に私を見つけるかもしれません。だって先輩は私のことを見つけるのが得意だったから。
——そんなこと、有り得もしない。私は目を開ける。空は突き抜けるような水色で、とんびがぐるりと旋回していた。
「アズール先輩」
グレイの髪の毛、口許の黒子、にせものの笑みを浮かべたあの顔。1つ1つ思い返していくうちにあることに気が付いて、私は髪の毛をぐしゃぐしゃと乱し顔を手で覆う。
「あ、あ、ああ…」
堰を切ったように泣き始めた。堪えきれなかった。心はバラバラに砕け散り私は海岸に蹲った。確かにこの胸に刻みつけたのに、あの時私は貴方のことをちゃんと見つめていたはずなのに。
私は、アズール先輩が見せた解けるような笑みを思い出すことができなくなっていた。
いつかはこうなると思っていた。しかしその時がこんなにも早く訪れるとは露ほども思っていなかった。どうすればいい?不器用なあの愛しい笑顔を忘れたいまでも、私はアズール先輩を想い続けてもいいのだろうか?
いいや、私がこんなことには耐えられない。私はこれからどんどん先輩のことを忘れていって最後にはその存在さえも忘れてしまうだろう。あんなにも好きだったのに。あの時間を否定されるのが嫌なくせに自分は勝手に忘れてしまうなんて。
「ああ」
顔を覆った手の隙間から情けない声が出た。先輩、ごめんなさい。貴方のことを嫌いになったことなんて一度もなかった。私は、ずっと貴方だけが好きでそれはこれからもずっと変わらない。
水際ではあぶくが生まれてはすぐに弾ける。私は涙で汚れた顔を雑に手で拭くと、黒のダウンを脱ぎ捨てて海に入った。下に来ていた白のセーターから簡単に風が入ってあまりの寒さに私は両腕で体を抱き締める。でも大丈夫だ。すぐにこの寒さなんて感じなくなって、私はずっと先輩をこれ以上忘れなくて済むのだから。永遠がなければ、私が永遠を作ってそれをずっと証明し続づければいいだけの話だ。
海水はいつの間にか太ももまで来ていた。この寒い中、太陽だけが私を暖かく包み込む。私は少し笑うと、じゃぼん、と海に沈んだ。
「本日のニュースです。○×海沿岸で20代女性の遺体が発見されました。県内で行方不明の女性が1名いるとの情報があり、県警は今身元特定に急いでいるとの話です。行方不明の女性が借りていたアパートの大家によれば1週間ほど姿を見せてなかったとのこと。遺体には打撲、刺傷痕がないため自殺だと推定されています。 では、次のニュースです…」
この世には私が愛したものの残滓さえもない。それならば、いっそ。
目覚めたとき視界に入ったのは一面の白だった。シミがついた汚い壁紙ではなく、清潔な白い空間が広がっていた。上の方からはピーピーという機械音が聞こえる。どういうことだろう、また変な夢を見ているのかと思い目を閉じようとすると、部屋に入ってきた女性が私の顔を見るなりこちらに駆け寄ってきた。
「お加減どうですか?どこかおかしいところは?」
その問いかけに条件反射で左右に首を振る。女性は「お医者さん呼んできますね」と言って部屋から出て行ってしまった。
少し視線をずらすと腕に点滴が刺さっていて、ベッドのところには点滴バッグがぶら下がっているのが見えた。私はここでようやく自分が病院にいるということに気が付いた。しかし自分の身に何が起こったのかと思いだそうとしてもうまく思い出せない。最近した怪我というのも夜中にお茶を飲みに起きたとき、ゴーストが私を驚かしたために壁に頭を打ち付けたくらいだ。オンボロ寮で彼らとも仲良くやってきたつもりだったのにやはり不意打ちで来られると私はひいっと驚いて腰を抜かしそうになる。本当に悔しい。
そんなことを考えるうちに、先程の女性――看護師は医師の後に続いて病室に入ってきた。こちらも女性で、「失礼しますねー」と私のあちこちを弄りながらご家族に連絡して、と看護師に指示をする。看護師ははい、と返事をすると足早にまた病室から出ていく。私はそれを他人事のように眺めていた。
私は通学途中に横断歩道を渡ろうとしたとき、信号無視をしたトラックに轢かれて約1年昏睡状態だったらしい。家族は目を開けている私を見た途端に私の手を握り締めて泣き出した。あんたが目覚めなかった1年は100年にも思えるほど長かった、本当に目を覚ましてくれてよかったと子供のようにわんわんと泣いていたけれど、あまり実感がわかずに曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。そして先生からは最低半年入院して様子を見ながら退院の日取りを決めましょう、と言われ、こくんとまたもやよく考えずに頷く。クルーウェル先生だったらすぐにそれを見抜いて「おい、今よく考えずに答えたな?」と詰問されるだろう。
看護師と医者は一通りの説明を手短に終えると病室から出て行った。残ったのは両親と私の3人だけだ。
「本当にこうしてもう一度こうして喋れるのが夢みたいだ」
「無事に目を覚ましてくれてよかった。今は自分の体のことだけを考えなさい。学校のこととかは心配しなくていいから」
そう、学校だ。私はナイトレイブンカレッジに通っていた。グリムに無理矢理棺桶の蓋を開けられて、そこから2人して入学が認められ、魔法が使えないなりに学園生活を謳歌していた。友達もできたし、恋人もいた。あの人たちは、あの世界はどうなったの?
もしかして、私はあの世界から突然消えたんじゃないのか。「貴方が元いた場所に帰れる方法を探すのです」と言っておきながら果たして真面目に取り組んでいたのか分からない学園長の言葉を思い出す。あの世界が消えたのではなく、私がいるべき場所に帰ってきたのだろうか。どうしよう?まだ何の挨拶もしていないし、やり残したことだってある。
何より、アズール先輩とこんな形でいきなり別れるのは嫌だ。私はなんとかベッドから出ようとするが力が入らない。ずっと寝ていたから筋力が衰えたのだろうか。涙がぼろぼろと頬を伝い弱々しくベッドを拳で殴る。そんなことがあるはずない、私は校内を走り回っていたし体力育成の授業にも出席していた。なのにどうして力が入らないの?
両親はその様子に慌て、「どうした、具合が悪いのか」とベッドで伏せっている私に声をかける。
「そろそろ面会時間…どうなさったんですか。大丈夫ですかー、私のこと分かりますか?」
それに顔を背け、唸り声を上げて泣き始める。看護師はベッドの傍にあるブザーを鳴らすとすぐに医師が病室に入ってきて容体が再びおかしくなったと私の診察を始めた。
遮光カーテンから射す僅かな光で目が覚めた。もぞもぞとベッドの中で寝がえりを打ち、もう少しこの温かさを味わっていたいと丸くなる。ベッドの中で膝を抱え目を閉じしばらく丸まったあと、私はようやく起き上がった。
私が昏睡状態から目覚めて八年が経った。この世界で日常生活を再び送り始めるとあの夢のような時間が本当にあったのかと疑わしくなる。学園長が向こうの世界で私の世界に関する文献がないと言っていたのと同じく、こっちの世界にも向こうの世界の文献は一切見当たらない。『魔導エネルギー』といった言葉もよく耳にしたのに辞書にすら載っていない。こういうことが続いて、あの世界が霧の中に消えそうになるときいつも私は耳をふさいで体験したことを思い出す。最初にオンボロ寮に入ったときの埃っぽい空気、グリムの毛の柔らかさ。そしてまだ思い出せる、あの世界はあるのだと安心させる。私はすっかり怯えてしまっていた。あの出来事を忘れ去ろうとする自分に、そしてそんなのは夢だと言い切るこの世界に。
紅茶をマグカップに注いでそれを飲むと、私はくるみパンを一つ掴んでアパートから出た。都内からこの県に就職を決めたとき、友人や家族からどうして?似た会社ならこっちにもあるのに。不便じゃない?と尋ねられた。私は不便じゃない、どうしてもあそこがいいと言って譲らなかった。ここは海と朝焼けがとても綺麗なのだ。友達と旅行した際に、私はその光景に心を奪われ、卒業した暁には必ずここに住もうと決めた。
10分程歩けば潮風の香りが少しずつ辺りに漂ってくる。私はそれにつられるようにして歩く。まだ朝日が昇っていないからか誰ともすれ違わなかった。私はこちらに引っ越してきたときから時間があれば欠かさず朝焼けを見に行くことにしている。太陽はどこにあってもその輝きを損なわず、頭上にあるからだ。あの世界にもこの世界にも存在していたそれだけが私の味方であるように思えてくる。
夏のにぎやかさが嘘のように消え去って冬の海にあったのは静寂だった。人っ子一人いない海に向かって、朝焼けに目を細めながら砂を踏みしめる。潮風の厳しさに私は黒いダウンのポケットに両手を突っ込んだ。鉛色の海が鈍い太陽に照らされてその水面を輝かせる。波打ち際では先程から白い泡がひっきりなしに生まれては消えていく。
スニーカーが少しだけ海水に濡れた。太陽の力強さとは反対に海は凪いでいる。その光景に目が釘づけになりながら、向こうは今何時ごろなんだろうか、今すぐにでも会えたらいいのにと思った。この光景をアズール先輩と一緒に見たいと思って、すぐに乾いた笑い声が口から漏れた。
会わないと会えないは違う。『会わない』のは会える状況にあるからそれを選択できるのであって、『会えない』はどちらかが既にこの世にいないという状況でしか生まれない。私はあの世界を出た瞬間に生きたまま死人になったのだ。そして、この燻った恋とも愛とも呼べない残骸を抱いて、燃えるような赤の曼珠沙華の間を成仏できずずっと彷徨っているのかもしれない。
アズール先輩には、もう会えない。
私は、貴方に会えない。辿り着くことができない。貴方の声を忘れ、眼差しを忘れ、そして次には貴方の纏っていたコロンの香りを忘れるだろう。記憶の断片を掻き集めて、再構築してもそれは私が好きだった貴方にはならない。それでも、貴方は許してくれるだろうか。呆れた声で「仕方がない人だ」と言ってくれるだろうか。
私は固く目を閉じる。潮風は肌を突き刺すように寒く、ダウンの口元に顔を埋める。
——私の世界で海の最も深いところは10911メートルあるらしいんです。確かそこに到達できたのはたったの3人とか。すごいですよね。
興味がおありで?
あります。どんなところなんだろうって想像しただけでわくわくします。でも1人で行くのは少し心細いですね。
今度、僕が故郷に連れて行ってあげましょう。そこよりももっと雄大で美しい景色をお見せしますよ。だから貴方がそこに行くときは僕も一緒に行きますから。
えー、本当ですか!嬉しいな、絶対一緒に行きましょうね——
アズール先輩。貴方に連れて行ってもらった故郷の海は綺麗でした。少し寒かったけれど。お母さまもお父さまも人間である私にとてもお優しくて、私は涙が出そうでした。好きな人の家族に受け入れてもらえて本当に幸せでした。私は人間だから深いところには行けなかったけれど、先輩との海中散歩では間違いなく私の一番の思い出です。ヒトデが私の服に張り付いてやっとのことで剥がしたことは絶対に忘れないと思います。
ねえ、先輩。あのとき「貴方がそこに行くのなら僕も行く」って約束してくれましたよね。もしかして、先回りして待っていてくれたりしますか? 太陽の光も射さない暗闇で私は先輩を見つけることができるでしょうか。先輩の方が先に私を見つけるかもしれません。だって先輩は私のことを見つけるのが得意だったから。
——そんなこと、有り得もしない。私は目を開ける。空は突き抜けるような水色で、とんびがぐるりと旋回していた。
「アズール先輩」
グレイの髪の毛、口許の黒子、にせものの笑みを浮かべたあの顔。1つ1つ思い返していくうちにあることに気が付いて、私は髪の毛をぐしゃぐしゃと乱し顔を手で覆う。
「あ、あ、ああ…」
堰を切ったように泣き始めた。堪えきれなかった。心はバラバラに砕け散り私は海岸に蹲った。確かにこの胸に刻みつけたのに、あの時私は貴方のことをちゃんと見つめていたはずなのに。
私は、アズール先輩が見せた解けるような笑みを思い出すことができなくなっていた。
いつかはこうなると思っていた。しかしその時がこんなにも早く訪れるとは露ほども思っていなかった。どうすればいい?不器用なあの愛しい笑顔を忘れたいまでも、私はアズール先輩を想い続けてもいいのだろうか?
いいや、私がこんなことには耐えられない。私はこれからどんどん先輩のことを忘れていって最後にはその存在さえも忘れてしまうだろう。あんなにも好きだったのに。あの時間を否定されるのが嫌なくせに自分は勝手に忘れてしまうなんて。
「ああ」
顔を覆った手の隙間から情けない声が出た。先輩、ごめんなさい。貴方のことを嫌いになったことなんて一度もなかった。私は、ずっと貴方だけが好きでそれはこれからもずっと変わらない。
水際ではあぶくが生まれてはすぐに弾ける。私は涙で汚れた顔を雑に手で拭くと、黒のダウンを脱ぎ捨てて海に入った。下に来ていた白のセーターから簡単に風が入ってあまりの寒さに私は両腕で体を抱き締める。でも大丈夫だ。すぐにこの寒さなんて感じなくなって、私はずっと先輩をこれ以上忘れなくて済むのだから。永遠がなければ、私が永遠を作ってそれをずっと証明し続づければいいだけの話だ。
海水はいつの間にか太ももまで来ていた。この寒い中、太陽だけが私を暖かく包み込む。私は少し笑うと、じゃぼん、と海に沈んだ。
「本日のニュースです。○×海沿岸で20代女性の遺体が発見されました。県内で行方不明の女性が1名いるとの情報があり、県警は今身元特定に急いでいるとの話です。行方不明の女性が借りていたアパートの大家によれば1週間ほど姿を見せてなかったとのこと。遺体には打撲、刺傷痕がないため自殺だと推定されています。 では、次のニュースです…」
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