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寂しいふたりが出会ったのは、偶然ではなかった。方や将来一国の王となる者、方や運命に人生をひっき掻き回されて此処に流れ着いた者。ふたりに共通していたのはその種類は違えど『理解してくれる者が傍にいない』ということだった。
マレウス様、と慕ってくる者はいるものの、崇拝の念を抱く彼らがどうしてマレウスの深淵のような孤独を理解することができるだろうか。彼が『マレウス・ドラコニア』である限りこの孤独から解放されることはない。彼は深淵で一人佇んでいた。その麗しい顔に陰を宿して。

いつの時代も人は崇拝・畏怖している人間を正しく理解することはできない。真実は歪められて虚飾される。それはまるで正義の名の下に他者を一方的に蹂躙をするように。

監督生といえば、ごくごく普通の人間だった。彼女がいなくても世界は回り、その逆も然りである。誰かに多大な影響を及ぼすこともない、平凡な人間。しかしそれに嘆き悲しむ必要はない。彼女が欠けただけで世界が回らなくなるのならば、彼女はその重圧に一人で苦しむことになるだろう。英雄、と呼ばれる人間にならずとも彼女は健やかに生き、その一生を終えるはずであった。訳の分からないこの世界に落ちる前までは。

この訳の分からない世界では彼女のいた世界の理は通用しない。非現実・非常識当たり前のように起きる世界である。人魚というものは人間が作り出した御伽話ではなかった。魔法というのは単なる呪いではなかった。彼女はその目で人魚という種族が豊かな文明を築いているのを、何もないところから水が溢れ出るのを目撃した。彼女はそれに混乱し、立ち止まりたかったがその時間は与えられなかった。異邦人はその世界の枠組みに組み込まれ、生存することを強いられた。
辛い、と思っても彼女にはなす術がない。愛する友や両親もいないこの世界で、彼女は折れるわけにはいかなかった。そして、脆い子供の心はいつしかぽっかりと大きな穴が開いてしまった。


そして二人は出会った、それは偶然ではない。欠けたパズルのピースが嵌るように、引力によって惑星が引き寄せられるように。その出会いは必然であった。


彼女が彼と出会った時、彼はその名前を明かしてはくれなかった。マレウス・ドラコニア、偉大なる茨の谷の次期当主。そのことを知ってさえすれば、いくら無知な彼女でも偉い人だということくらいは分かる。そしてあんなあだ名で彼を呼ぶことはなかった。しかし彼はそれに怒ることはなかった。むしろ面白そうに、その顔を綻ばせた。

彼が『マレウス・ドラコニア』だと彼女に明かすのを躊躇ったのは、これを明かせばこの人間もその他大勢と同じく、彼を遠巻きに見つめることになるだろうと予見したからだ。彼はそれが当然だとわかっていながらも、そのような態度にうんざりし、悲しみを抱いていた。『マレウス・ドラコニア』である限り、自分は平穏な生を送ることが出来ないのか、と。だからこそ、己を知らない彼女には自身の名を明かさなかった。それは対等な関係を結びたい、というありふれた、しかし彼にとっては困難な願いから来たものだった。

そして、彼は二人しか知らない秘密の関係を作り上げることに成功した。友達のような、それ以上のような関係。人工的に為された楽園で二人は語り合う。出生のこと、学園のこと、元の世界のこと。彼は彼女の事情を聞いたとき、最初こそ哀れな人間だと思っていた。おおよそこんなことがあり得るのか、と自分でも彼女が無事に故郷へ帰れるようにと様々な手段を弄した。その全てが失敗に終わりつつあるとき、だんだん彼の心には薄暗い感情が芽生えてきた。


この人間を手放したくない


月が白く輝く夜、彼と彼女はオンボロ寮で語り合っていた。二人の手には温かいホットミルク。ふうふう、と冷ましてその蕩けるような甘さを堪能する。この日もいつもと同じような会話をしていた。二人はぴったりと寄り添って、既に寝てしまったグリムを起こさないようにひそひそと語り合っていた。彼女がくすくすと声を抑えて笑う様子の愛らしさは彼の心を凪いだものにした。彼は空になったマグカップをテーブルに置く。それは、ここによく出入りする彼に彼女が「今日からツノ太郎のマグカップはこれね」と買ってきたものだった。他者にはやらない、自分だけ与えられたそれに彼は薄らと仄暗い喜びを感じた。彼女の私生活にまで自分が入り込んでいること、そして自分は彼女の中で『特別な人間』の部類に入るであろうこと。


彼は彼女の顔を睫毛と睫毛が触れ合いそうになる距離まで引き寄せた。彼は彼女の出会った人間の中で最も妖艶な瞳をしていた。どこかの神話ではないが、あの瞳を間近で見たら石に変えられてもおかしくないと思うほどには。妖しく美しいその瞳を見つめる。彼は彼女の頬を優しく撫でて、唇の前でこう囁いた。甘く、酔いしれそうになる声で。


「お前は僕を恐れない。そんなお前を失うことが、僕は恐ろしくなり始めている」


情事後特有のあの、甘く気怠い空気が充満している部屋で、私は彼の少し火照った胸板に頭を預ける。二人が寝るには少し狭いベッドだがこうしてくっつけば問題はない。白くなめらかな大理石のようなそれからは人よりもずっと遅い心音が聞こえてくる。トン、トン、トン。心拍数によって生物の寿命は決まると言われているが、こんなにも遅いのなら彼は私よりも優に100年は生きるだろうと思った。100年。私が死んだ後、彼はその長い時間をどうやって生きていくのだろうか。私を想って生きていくのか、忘れるのか。私達はどう足掻いても同じように時を歩むことができない。何か事故が起きない限りは私は絶対に彼を遺して先に逝くだろう。私を想って、胸が張り裂けそうになるくらいに悲しめ、などとは言わない。
孤独に耐えることができるのだろうか。誰かが、それを理解してあげて欲しいと思う一方、理解者は私だけでいいのだという考えが浮上する。私達の哀しみは、何人たりとも理解させない。随分と傲慢な人間になった、と心の中で冷たく笑う。

そんなことを考えながら胸板を人差し指でなぞる。すると、彼はその手を掴み人差し指を口に入れた。「痛、」彼の歯が私の人差し指に突き立てられたのだ。どうして、と言外に訴えると口角を上げ、少し得意げな顔で血を啜った。生暖かい舌が私の指を包んで、ちゅうと音を立てる。

「美味しいの?」
「いいや、特に。吸血種ではないからな」

彼は薄い舌で血を舐めとる。その仕草に私は背中がぞわりとした。彼がその気なら、私もそれに乗ろうじゃないか。私は薄く綺麗な唇に口付ける。彼は舌が深く絡みあうように私の髪に指を入れて頭を引き寄せる。角度を変えて、何度も何度も口付ける。それを止めたときには、彼の唇はほんのりと紅く染まっていた。

「随分と積極的だな」
「そんなことない、そっちの方が乗り気だったんじゃないの?」
「そうかもしれない。お前のその顔を見ると、僕はどうしても手が出したくなるようだ」

くつくつと笑う。あまりにも素直に認められたので、私は恥ずかしくなってもう一度胸板に頭を預けた。手遊びに彼は私の髪の毛を触る。優しい触り方だった。そういえば、最後に両親に頭を撫でられたのはいつだっただろうか?

「ユウ」
「なに?」
「お前は僕の唯一だ」

お前は僕の唯一だ。彼はその言葉をよく口にするようになった。私が元の世界のことを思い出しているときに、暗示をかけるようにそれを口にする。私はもう埋められない悲しさがそれで紛らわされるのを覚えた。甘い、胸を締め付けるような響きを持って私の心に訴えかけられる。

お前は僕の唯一だ。

最初から知っている。もう私は二度とは此処から逃げることができないということを。ならば、それを甘んじて受け入れよう。茨に搦め捕られよう。きっとそれは繭のように私を囲うだろう。誰も近づけず、誰も私を傷つけられない。一人だけの愛によって構築された、私のためだけの茨の繭。刺で血を流そうとも、私は其れさえも幸福に思う。だって、愛しい人の腕の温もりを、私は知っているのだから。
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