早く僕のものになってよ
死んでもいいと思えた。
これは失恋した人間が口を揃えていう言葉だと思う。実際は死なないくせにみんな揃って明日世界が終わるとでもいうかのように絶望した顔になる。かくいう私は失恋した友達を必死で慰め、酒で宥めと世話する係なのであの日までは未だにこの感情を味わったことがなかった。そう、あの日までは。
私は誕生日を明日に控え、少しだけ早めに退勤し、上機嫌で帰りの地下鉄に乗り込んだ。
イヤフォンからは『早く僕のものになってよ』という歌詞とポップな音楽。人の少ない地下鉄で私は鼻歌を歌う。早く僕のものになってよ、なんて可愛すぎて甘ったるい歌詞だけど、私はそんなことさえもどうでもいい。明日は恋人と久しぶりに一日一緒にいれるから。
ポロン、とメッセージの通知が来た。通知をタップしてメッセージを開く。
『ごめん もう無理』
「え?」
いきなりのことに私は席から立ち上がって、額に手を当てて画面を凝視する。何が無理なの、明日の予定がダメになったとか?そうやってメッセージを送信するけど相手からは一向に音沙汰がない。慌てて適当な駅で降りて電話をかける。
「この番号にはお繋ぎすることはできません」
返ってきたのは無機質な機械音。感情のこもらない拒否の言葉。私は脚の力が抜けて床にへたり込む。いい年した大人がぺたりと床に座っているので通行人はギョッとした顔で通り過ぎてゆく。
しかし、私はそんなことを気にしている余裕はなかった。次の瞬間、涙がボロボロと溢れ出して声を上げて泣き始めた。
その後どうやって私が移動したのか覚えていない。ただ気づいた時には知らない街の知らないバーにいてウイスキーを頼んでいた。目の前のバーテンは無表情で私を見つめる。みんな冷たいな、もう少し優しくしてよ。どうして優しくしてくれないの。なんて思っていたらまた涙が溢れてきた。それを誤魔化すためにグラスを傾ける。
「彼女と同じものを僕にも」
やたらいい声が聞こえたので隣を見ると体格のいい男性が座っていた。左目が店の照明できらりと光る。キリッとした眼差しのオッドアイの男性はこっちを見て微笑んだ。
「こんばんは。同席してもよろしかったでしょうか」
「どうぞ…」
完全に事後承諾じゃん、こんなの断れない。
グラスを揺らすとカラン、と氷が乾いた音を立てた。それをぼーっと眺めているとハンカチで涙を拭かれる。えっ、と私は思わず身を引いた。
「女性が泣いているのを見ると心苦しくなるんです」
「そうなんですか」
確かに初対面の人間が泣いていたら困るだろう…と思いかけていや、この人が勝手に座ってきたのにどうして私が気を使わなくちゃいけないんだ、と思い直した。目の前の彼は私に優しく微笑む。
「何かお辛いことでも?」
「いや、別に、そんな…」
「赤の他人の方が話しやすいということもあります。それに、」
彼は一層笑みを深めた。そして、砂糖を煮詰めたような甘い声でこう囁いた。
「貴方には笑っていて欲しいんです。どうしてでしょうね、今日初めて会ったのに」
彼が眉を落としてそう言うので、私はダムが決壊したように泣き出した。客が少ないのが幸いだった。
「明日、たんじょびなのにっ、いきなり、別れよってっ、なんでなんだろう」
「それは酷い人だ。僕ならどうにかしてあげられますのに」
「私のことっ、すきっていってたのにっ」
「おやおや…嘘をつくとは。いけない人だ」
完全にカウンターに突っ伏した私の背中を彼が優しく撫でる。さっきみんな冷たい、って言ってたけどこの人だけは私に優しくしてくれる。私はその優しさに甘えてワンワン泣いた。彼は一晩中、私の話を聞いていた。
は、と目を覚ますとまた知らない場所にいた。狭いビジネスホテルの一室で私は寝ていた。靴はご丁寧にも脱がされてある。馬鹿みたいに痛む頭で必死に考える。どうして、どうやって私はここに来たんだろう。
「あの人か!」
昨日の晩、私がベロベロに酔って泣いて絡んでいったあの人が多分ここまでしてくれたんだ。うわ~、本当に最悪だよ、どうやってお礼したらいいんだろう。そもそも誕生日のスタートがこれってどうなの。私は泣きそうになりながらとにかくベッドから起き上がって冷蔵庫から水を取り出し、床に座り込む。時計ではまだ五時だった。五時かあ、今日は多分人生で一番長くて退屈な日になるんだろうなと途方に暮れる。
立ち上がり、バックを取ろうとした時に置き書きを見つけた。きっとあの人からだ、とそれを手に取る。
『昨日は楽しい夜をありがとうございました。もし、申し訳ないと思っていらっしゃるなら今度は僕に付き合ってくれませんか。電話番号を残しておきます。
P.S お誕生日、おめでとうございます。
ジェイド・リーチ』
綺麗な筆跡を指でなぞる。ベッドに再び寝転がり、私は枕に顔を埋める。頬を抓ったら痛かったからこれは夢ではない。さっき恋人と別れて泣いていたはずなのに、どうしてか私は嬉しくなった。くすくすと笑って早速電話番号を登録する。
きっと、この日の誕生日ほど刺激的で面白いものはないと思いながら。
これは失恋した人間が口を揃えていう言葉だと思う。実際は死なないくせにみんな揃って明日世界が終わるとでもいうかのように絶望した顔になる。かくいう私は失恋した友達を必死で慰め、酒で宥めと世話する係なのであの日までは未だにこの感情を味わったことがなかった。そう、あの日までは。
私は誕生日を明日に控え、少しだけ早めに退勤し、上機嫌で帰りの地下鉄に乗り込んだ。
イヤフォンからは『早く僕のものになってよ』という歌詞とポップな音楽。人の少ない地下鉄で私は鼻歌を歌う。早く僕のものになってよ、なんて可愛すぎて甘ったるい歌詞だけど、私はそんなことさえもどうでもいい。明日は恋人と久しぶりに一日一緒にいれるから。
ポロン、とメッセージの通知が来た。通知をタップしてメッセージを開く。
『ごめん もう無理』
「え?」
いきなりのことに私は席から立ち上がって、額に手を当てて画面を凝視する。何が無理なの、明日の予定がダメになったとか?そうやってメッセージを送信するけど相手からは一向に音沙汰がない。慌てて適当な駅で降りて電話をかける。
「この番号にはお繋ぎすることはできません」
返ってきたのは無機質な機械音。感情のこもらない拒否の言葉。私は脚の力が抜けて床にへたり込む。いい年した大人がぺたりと床に座っているので通行人はギョッとした顔で通り過ぎてゆく。
しかし、私はそんなことを気にしている余裕はなかった。次の瞬間、涙がボロボロと溢れ出して声を上げて泣き始めた。
その後どうやって私が移動したのか覚えていない。ただ気づいた時には知らない街の知らないバーにいてウイスキーを頼んでいた。目の前のバーテンは無表情で私を見つめる。みんな冷たいな、もう少し優しくしてよ。どうして優しくしてくれないの。なんて思っていたらまた涙が溢れてきた。それを誤魔化すためにグラスを傾ける。
「彼女と同じものを僕にも」
やたらいい声が聞こえたので隣を見ると体格のいい男性が座っていた。左目が店の照明できらりと光る。キリッとした眼差しのオッドアイの男性はこっちを見て微笑んだ。
「こんばんは。同席してもよろしかったでしょうか」
「どうぞ…」
完全に事後承諾じゃん、こんなの断れない。
グラスを揺らすとカラン、と氷が乾いた音を立てた。それをぼーっと眺めているとハンカチで涙を拭かれる。えっ、と私は思わず身を引いた。
「女性が泣いているのを見ると心苦しくなるんです」
「そうなんですか」
確かに初対面の人間が泣いていたら困るだろう…と思いかけていや、この人が勝手に座ってきたのにどうして私が気を使わなくちゃいけないんだ、と思い直した。目の前の彼は私に優しく微笑む。
「何かお辛いことでも?」
「いや、別に、そんな…」
「赤の他人の方が話しやすいということもあります。それに、」
彼は一層笑みを深めた。そして、砂糖を煮詰めたような甘い声でこう囁いた。
「貴方には笑っていて欲しいんです。どうしてでしょうね、今日初めて会ったのに」
彼が眉を落としてそう言うので、私はダムが決壊したように泣き出した。客が少ないのが幸いだった。
「明日、たんじょびなのにっ、いきなり、別れよってっ、なんでなんだろう」
「それは酷い人だ。僕ならどうにかしてあげられますのに」
「私のことっ、すきっていってたのにっ」
「おやおや…嘘をつくとは。いけない人だ」
完全にカウンターに突っ伏した私の背中を彼が優しく撫でる。さっきみんな冷たい、って言ってたけどこの人だけは私に優しくしてくれる。私はその優しさに甘えてワンワン泣いた。彼は一晩中、私の話を聞いていた。
は、と目を覚ますとまた知らない場所にいた。狭いビジネスホテルの一室で私は寝ていた。靴はご丁寧にも脱がされてある。馬鹿みたいに痛む頭で必死に考える。どうして、どうやって私はここに来たんだろう。
「あの人か!」
昨日の晩、私がベロベロに酔って泣いて絡んでいったあの人が多分ここまでしてくれたんだ。うわ~、本当に最悪だよ、どうやってお礼したらいいんだろう。そもそも誕生日のスタートがこれってどうなの。私は泣きそうになりながらとにかくベッドから起き上がって冷蔵庫から水を取り出し、床に座り込む。時計ではまだ五時だった。五時かあ、今日は多分人生で一番長くて退屈な日になるんだろうなと途方に暮れる。
立ち上がり、バックを取ろうとした時に置き書きを見つけた。きっとあの人からだ、とそれを手に取る。
『昨日は楽しい夜をありがとうございました。もし、申し訳ないと思っていらっしゃるなら今度は僕に付き合ってくれませんか。電話番号を残しておきます。
P.S お誕生日、おめでとうございます。
ジェイド・リーチ』
綺麗な筆跡を指でなぞる。ベッドに再び寝転がり、私は枕に顔を埋める。頬を抓ったら痛かったからこれは夢ではない。さっき恋人と別れて泣いていたはずなのに、どうしてか私は嬉しくなった。くすくすと笑って早速電話番号を登録する。
きっと、この日の誕生日ほど刺激的で面白いものはないと思いながら。
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