その日、夕刻には雨は音も無く降り始めていた。
邸から傘を持って出掛けていたが、何処の誰とも知れぬ相手に十四郎は傘を譲ると小雨の降る道を大して急くこともなく帰途に着いた。
普段は帰宅したら元気な声が聞こえるはずなのに、今日の十四郎は静かすぎた。
妻がそれに気付かぬはずがない。
「
さくらには内緒にしておいてくれ」
出迎えた使用人から手ぬぐいを差し出された十四郎がそう言い終える前に、白い髪から躍り出るような雫を目にした
さくらは何があったか全てを理解した。
1
「十四郎様」
呑気に肩を拭いていた夫の手をパシッと取ると
湯殿までずんずん進み手際よく着ていた物を脱がせ
自分は足袋も脱がずにそのままの姿で入ってきて、
夫の頭から湯をかけると湯船に浸からせた。
十四郎の肩下からの髪が湯船に広がると
「ちゃんと頭も洗って、三百数えてから出て来て下さい」
それだけ言うと、
さくらの濡れた膝は床から離れた。
「…百でいいだろ」
そして十四郎がそういう間も無く戸はピシャンと閉められた。
2
戸口から湯船に視線を戻すと、十四郎は湯を掬った。
パシャ シャ… シャ
掬った湯はあっという間に掌から零れ落ちる。
適温に沸いたこの湯を見れば、自分がたとえ傘を差し足袋すら濡らさずに帰宅したとしてもすぐに風呂を勧めるつもりで
さくらが待っていたのは明らかだ。
「…やれやれ」
相当怒らせたなと自覚のある十四郎は、仕方なく妻の言い付けを守った。
3
外はまだ雨が降っていた。
戻ってみると
さくらの姿はなく、部屋に暖が入れてある。
じんわりと汗が滲むほどゆっくり湯に浸かってきた十四郎には暑いほどだ。
とりあえず髪を乾かし火鉢を消そうとしたところへ、
さくらが現れた。
十四郎の正面に座ると失礼しますとうなじに両手を伸ばし、夫の髪が乾いたかどうかを地肌に触れて確かめた。
「大丈夫ですね」
必ずチェックされるであろうとわかっていた十四郎は、今日は殊の外念入りに乾かしていた。
4
「全く。お前は心配性だな」
うなじから離れた妻の手を掴むと、そのまま肩まで手を滑らせて抱き寄せた。
「心配性ではありません。心配なんです」
自分より遥かに体躯よく温かな十四郎のこの体が弱いなどと、未だに不思議な気がした。
しかし我が身を構わず行動する夫には、これでも
さくらの世話は足りていないぐらいだ。
「それを心配性と言うんだ」
膝に乗せられ、夫と頬が触れ合いそうになる。
「でしたら心配しなくてもいいように、しっかりご自分の身を構って下さい」
反対側の十四郎の頬を包むと、
さくらの指は白い髪の上を滑った。
わかった、わかったと、十四郎が降参する。
この件に関してだけは十四郎が引き下がるしかなかった。
5
「さ、おやすみ下さい。こんなことで寝込まれたくはないでしょう?」
就寝には少し早かったが、その言葉を合図に
さくらは十四郎から降りようとしていた。
「お前が傍に居てくれるなら、寝込んでも構わんがな」
笑いながらそう言った十四郎の頬からペチンッと音がした。
「冗談でも、おっしゃっていいことと悪いことがあります!」
十四郎の頬から手が離れるよりも早く、目の前にある
さくらの瞳は既に潤んでいた。
6
「………済まん」
十四郎が詫びると同時に、
さくらは夫にしがみついた。
「
さくら……」
さくらは肩を震わせて忍び泣いた。
心のままの
さくらは泣き虫だった。
嬉しくても悲しくてもポロポロと涙を零した。
「また、泣かせてしまったな…」
泣いている顔を夫に見せまいとするが、十四郎は顔を上げさせる。
そうして流れる涙を唇で受け、妻が泣きやむのを待つしか
今の十四郎には術がなかった。
7
さぁさぁと、まだ雨の音がする。
その音に交じる
さくらの啜り泣きが納まってくると
「話しをしても、いいか…?」
十四郎は自分の喉に
さくらを凭れさせるように頭を掌で包み込んだ。
未だに時折鼻をクスンと啜るが
さくらが腕の中でコクンと頷いたのを見て、十四郎はゆっくりと昔を懐かしむ深い声で語った。
「俺は生まれつき、身体が弱くてな。母親も随分注意して面倒を看てくれたんだ…」
お前のように―――
そう言いたかったのだろう。
8
「それでもこの身体はどんなに注意しても、悪くなる時は悪くなるものなんだ」
だからあまり気に病むなと言う。
「だからって、お体に悪いとわかっていることを放っておけません!」
グッと目許に力を入れて、赤くなった目で睨まれる。
いつもなら言い返したりはしない十四郎だが、今日ばかりは違った。
「
さくら。俺はこの体を忌忌しいと思ったことはあるが、こんな体でなければ良かったと思ったことはない」
十四郎もまた、力強い視線を返した。
9
「寧ろ肺を患ったのはもしかしたらお前に出逢う為だったんじゃないかと、今では感謝しているぐらいだ」
さくらがハッと顔を上げ、十四郎を見た。
驚いたような、怒っているような表情―――。
それを見た十四郎が、また泣かせてしまうかと宥めようとした時だ。
「――って、ました…」
「うん?」
瞳を見開いていた
さくらが俯いたので、十四郎も顔を覗き込むように首を傾げた。
「私、も…十四郎様がこんなお体でなければ、出逢うことはなかったのではないかと思ってました…」
十四郎は、そうかと相槌を打つと微笑んだ。
10
しかし
さくらは俯いたまま、「ごめんなさい…」と呟く。
「どうして謝るんだ?」
おかしな奴だと十四郎は微笑んだまま尋ねる。
「十四郎様は辛いのに、私ったらそれを喜んでいるようで――――…」
だからごめんなさい。
さくらは今まで後ろめたかった気持ちを夫に告げた。
「…それで俺が寝込むと、自分を責めてたのか?」
さくらは握り締めた手を胸元に当てた。
さくらが心を傷めるとそこに痛みが走るらしく、自然とそうしていることに本人は気付いていないようであった。
11
十四郎はその手をそっと包み込んだ。
「
さくら…」
そして痛む妻の胸から引き離し、己の胸元の…肺の辺りに置く。
「俺の肺の病が生まれつきなのは―――」
チョイチョイと頬にちょっかいをかけ、
さくらの顔を上げさせた。
「これはお前と結ばれる為の、標(しるし)だったんだ。お前に出逢う前からこの身体は運命の女性(あいて)を知っていた。少なくとも俺は今、そう思う」
「じゅ…」
何も余計なことは言うなと、
さくらの唇に指を当てた。
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「俺もお前もそう感じていたのなら、間違いないだろ?」
唇を塞がれた
さくらが首を左右に振ろうとすれば、今度は額をくっつけられもう一度そうだろ?と念を押される。
つまり、夫は肯定の返事しかさせてくれなかった。
「じゅぅ、 ン――――」
額の次は、唇を押し付けられた。
「……お名前ぐらい、呼ばせて下さい///」
漸く喋れるようになると、今度は
さくらからおでこをくっつけて拗ねてみせた。
「ああ。お前が呼んでくれるというなら、一晩中でも構わん」
夫はそう告げるものの、直ぐにまた
さくらの唇は自由を奪われた。
13
うつらうつらとしながらも、サー、サー、と雨の音に耳を擽られる。
ゆっくりと上掛けが動き、夫が寝返りを打つのがわかった。
外側の肩にしっかりとした温もりが伝わり、布団の中で抱き寄せられた。
とん…
それから、もう一方の肩に頭を乗せられた。
たとえ目を開けたところで逞しい腕と白い髪しか見えないが
きっと顔を綻ばせ、頬擦りしているのだろうと
さくらは十四郎の愛撫に身を任せて朝を迎えた。
fin*
************************************************ケータイ更新第二弾です。自棄気味ですか?私。
何度も言いますが長月は陰暦9月の異称で、今頃のことと解釈願います。
タイトルは勿論「これ、どっかで読んだ~」と思われた方、私もそう思います。
月夜見の最初のほうの浮竹隊長をちょっと足し引きすると、こぉんな感じですか?(^_^;)
浮竹隊長と肩を並べて目覚める。起き抜けに抱き寄せられて、ほっぺたスリスリ。
これ、好きなんです///。
新鮮味なくてすいません。時代はエコ&リサイクルということで……。
来週にはノーパソが直って戻ってきてますように。
2008.10.29
花の護廷十三隊〔一〕 風⋆花⋆雪⋆月