春の日差しに色めく朽木家の庭に桜の木はない。
本来、庭木に相応しくない木々は朽木家の庭園に植えられるはずもないからだ。
椿も梅も咲き終えた庭は足元にいくらかの花々が彩るだけで、白哉の視線の先には白い雲と薄水色の空が続いていた。
日の出より一刻あまりが過ぎ去ろうとしていたが朝の供御にいくらか時間はある。
さくらより一足先に目覚めた白哉は朝の庭先を眺め終えると、まだ己の温もりが残っているであろう寝室に戻った。
1
「まだ眠いのか…」
そして珍しく、休みの日となると朝寝坊になる妻に起床を促した。
しかしこの世で最も短い返事をしただけで、
さくらは目を閉じたままだ。
「今日は其方が生誕した日だと言うのに…」
何故か当の本人よりも白哉は惜しむ言葉を述べる。
起こしたいのなら髪を梳くのはやめてください、と微睡(まどろ)んでいなければ
さくらは言いたいところだろう。
2
婚儀・仕事納め・正月・夫の生誕祭・立春・先妻の命日・桃の節句舞と
普段よりも多忙な身にも関わらずどうして妻の誕生日に屋敷に戻る為に昨日まで夫が無理をしていたのか、
さくらは真意をつかみかねていた。
白哉は痺れを切らしたらしく、
さくらのお付の者を呼ぶ。
「いやぁー
ツバメ。あなた、いつから白哉様に従事するようになったのよぉ―――」
食事を摂れる程度の身支度を整えようとする侍女に
さくらは悪態をつく。
十歳近く年上の侍女は臆することなく仕事をこなし、主を食事の席につかせた。
3
しかし休日の、特に朝食が進まない
さくらは箸も持たずに座っている。
座ったまま未だ夢見心地だ。
白哉は自分の食事を終えると、
さくらの碗を持ち上げた。
「さあ」
口を開けるように白哉に言われ、
さくらは顎を引く。
食欲はありませんと訴えているのだ。
「……口移しがよいのか」
滅相なと言いたくて口を開いた拍子に温かな白米を入れられた。
「いい子だ」
高貴なる眼が柔らかな色を帯び、唇は妻を褒めた。
4
「酢の物ならよかろう」
ほんの少量を箸で束ね汁気を切ってやる。
さくらが従えばまた「いい子だ」と低く呟く。
自分が一番好きな言葉を口にする白哉に、
さくらは再び白米を口にした。
すっかり弱いところを熟知されている。
白哉自身が気づいたのかもしくは誰が教えたのかなど詮索することはなかったが、僅か半年足らずでこうも自分を掌握されて怪訝に思わないのが
さくらであった。
何度も「いい子だ」と褒められ、結局その調子で味噌汁も魚も煮物も勧められた。
当番の時よりは少な目の二割程度を
さくらが口にしたところで、白哉は箸を置いた。
5
「お呼びでございますか」
白哉の鬼道で、もう一人の
さくらの侍女が現れる。
「
アヤメ、
さくらの支度を」
「畏まりました」
天宝院家に仕えた侍女らを
さくらと同じ方法で呼び、用を申し付ける。
「
アヤメまで…?」
侍女に外出着に着替えさせられている間も、今日は自分が主役の日だなどということは
さくらは全く気にも留めていなかった。
6
支度の最後に、
アヤメは
さくらの髪に簪を挿した。
丁度そのとき隣室に用のあった者の声がする。
「白哉様。白辛樹(アサガラ)の用意が整いましてございます」
それを耳にした
さくらはじっと自分の姿を見下ろした。
馬に乗るには相応しくない、きらびやかな重ね着姿。
夫と外出し、夫が馬に乗るのであれば、自分が何故このような衣装なのかと
アヤメに尋ねようとした矢先、
白哉が部屋に現れ外出を促した。
7
「あのう、白哉様…」
一頭の白馬に白哉と相乗りでやって来た場所は、かの演舞会付近だった。
驚く
さくらを他所に、白哉は腰を抱えて
さくらを白辛樹から降ろした。
何故と問う妻に、白哉は静かに答える。
「今日は其方の生誕の日であろう」
それはわかっている。しかしあれは未婚の男女のみが出席することのできる演舞会。
桃の節句舞に縁起がいいと夫婦で招かれたのはわかるが、今日は勝手が違うのに――――。
さくらは夫から目を離せなかった。
8
さくら 其方は知らぬであろう
私が二年前の今日
其方に出逢ったことを。
私が其方の舞の相手を務めたくて
あの後すぐに
伯楽に弟子入りしたことも。
昨年のみならず
舞のみならず
未来永劫 其方の相手は私であってほしいと
願い 望み 叶えたことを……。
一昨年の其方は 蕾
昨年の其方は
蕾開かねば実を結ばぬことをようやく知り
本年(いま)こそ
其方は
恋に咲いた桜の精を
舞おうて相応しき女
――私の妻になった。
9
「白哉様、
さくら様。どうぞこちらへ」
白哉もまた
さくらを見据えて感慨に耽るうちに赤い敷物が桜の間に敷き詰められていた。
桜はすぐさまその上に ひらりひらりと花びらを落とし始める。
「桜始開」
不意に白哉は七十二候のひとつを口にした。
だから、と続ける。
微かに鼓の音が届く演舞会の舞台から離れた此処で白哉が望んだ事。
それは…
「
さくら、其方と舞いたい」
白哉は銀白風花紗を
さくらに手渡し、舞へと誘った。
10
もう二度と、舞うことはないと思っていた桜の精。
それを再び夫と舞える機会を与えてもらうなど、
さくらは思いもよらなかった。
さくらは立ち位置を決め、銀白風花紗をほんの僅かに見せるように持ち、桜の咲き始めを表した。
それを合図に
琴の音が弾かれ
小さく鼓が応える
琴の音が弾かれ
笛がそれに囁き返す
春 桜の精が目覚める…
かの舞を、桜にも負けぬ深い色の絹衣に身を包み
それにも負けぬ深い想いで舞う桜の精
舞にも負けぬ深い二人の想い
深い 二人の絆
それを表すが如く
鬼道を用い 手掌で操り 霊圧を放ち
二人は滔滔と舞い澄ました。
11
しっかりした造りの舞台とは違い、敷物があろうと二人に地面の感触が伝わる。
「ぁ…」
少し不安定になった
さくらを、舞に構わず白哉は支えた。
「良い。私の為に舞ってくれるだけで」
そして、
さくらが詫びる前にそう告げた。
「…白哉様を思えばこそ、上手に舞いとうございます―――」
と、
さくらが言い終える前に白哉は怒りにまかせたかの如く
さくらの手首を掴んだ。
驚く
さくらに
……目を逸らす侍女ら
小さな花びらでは隠せぬ接吻が
さくらの唇に降る。
桜始開
本日、
さくらの誕生日なり。
12
時折、温かな日差しと共に笛の音やら歓談の笑い声が風に流されてくる。
本日の演舞会、午前の部も滞りなく終了したようだった。
武礼は今日の演舞会には出席していない。阿散井と共に隊長の留守居である。
「白哉様、
さくら様。お支度が整いましてございます」
二人は振り向くと聞こえた旨を軽く表した。
13
さくらは空いている左の手で、今しがた萼(ハナブサ)を離れし花びらをくるくると白哉の周りに躍らせながら皆の元へ向かう。
間近にて何度か目にするうちに、
さくらの鬼道は手のひらから大きな流れを生み出し滑らかな指で細やかに動かしていることが知れた。
これほどの鬼道を操れながら、四番隊の官位がない死神。
最早それは意図的に席を与えていないのは明らかだった。
幸いだ。
四番隊であれば戦闘に駆り出されるかと杞憂せずに済む。
死神であれば屋敷に残して来ずともよい。
さくらが死神で
有能で
平隊員であること。
誰の思惑かは測りかねたが
ただ 感謝しよう。
白哉の素直な感情だった。
14
二人が中心に座すると弁当が配られた。
さくらは目の前の五段の提げ重箱の包みを解かない
ツバメに疑問も抱かずにじっとしている。
下々まで弁当が行き渡っても動じない
さくらに、やれやれと口を開いた。
「奥方様、御開きくださいませ」
「―――…」
胸の高さまである重箱。
これを小鳥の胃袋並みの
さくらの分だと言うのであろうか。
流石に
さくらも絶句したままだ。
15
もうよかろうと白哉が助け舟を出した。
企画したのは当の本人であるのだが。
「案ずるな。ただ中を見るだけでよいのだ」
と夫に言われ、恐る恐る包みを解き、一の重の蓋を取った。
上品な紫の絹布に乗せられた、色味のない角張った小さなそれを
さくらは暫し見遣る。
「…牽星箝でしょうか」
さくらの小指にも満たない艶やかな物が恭しく数個、鎮座している。
「お付け致します」
嬉しそうに
ツバメが両手を出した。
舞の為に飾られた簪を抜き
アヤメに渡すと、牽星箝を左右対称に四点
さくらの黒髪に施した。
よくお似合いですと皆が目を細め、褒める。
16
中でも
ツバメの笑顔が一番幸せそうに見えた。
代々仕えていた志波家が落魄し、辛酸をなめた両親を
ツバメは見てきている。
それ故であろう。
さくらがその身分に相応しい家へ嫁ぎ、苦労せぬことが彼女の願いであった。
さくらの父母より母方の祖父母より
武礼より、
さくら自身よりも。
誰より、姉の如く朽木家との縁を喜んでいる。
比重19.9 融点1773℃。
柔らかく溶けにくく延ばしやすく殆ど酸化しない二元合金。
さくらは斬魄刀を生み出した祖は鍛冶である
天宝院家に生を受けた者として、その価値を認識したうえで礼を述べた。
17
次を促されて、
さくらは一の重を持ち上げた
途端に鼻をくすぐった ―――蘭麝(ランジャ)の香
一の重、二の重に収められていたのは尸魂界・現世を問わず史上最高の貴金属と香木であった。
目にするまでもなく、それが何であるかを悟った
さくらは、その香を逃さぬように急ぎ重箱を元に戻した。
「…………」
これ以上の贈り物の価値に恐れをなし、
さくらは三の重に手をかけることさえ躊躇った。
今度は案ずるなと言われても、はいそうですかとは応えられない。
どうしようかと唯々目の前の重箱を見つめる
さくらに、
アヤメが味方についた。
「奥方様…」
そっと上の重を退けて、
さくらを安心させた。
18
「まあっ」
さくらにしては大きな声で、目を見開いて喜んだ。
中には愛らしい茶菓子が並んでいるではないか。
馴染みの物から初めて目にする物まで、凝りに凝った色とりどりの茶菓子に幼さを見せて喜ぶ。
もう大丈夫と
アヤメの表情で悟った
さくらは四の重を自ら開けた。
これまた腕を揮ったのが明らかな、
さくらに無理のない量の弁当に漸く辿り着いた。
最後の五の重はと言うと、文が入っていた。
読むのも後のお楽しみとのことで、
さくらは素直に文を衿に挿した。
「では…」
祝い酒が振舞われ、生誕を祝う言葉が
さくらを包み、宴が始る。
19
さくらは漸く
ツバメと
アヤメの変化が理解できた。
白哉と朽木家の従者と共に自分への贈り物に知恵を絞ってくれたのだ。
何を贈るか、いつ贈るか、どこで贈るか、どう贈るか、散々検討を重ねてくれたのだ。
嬉しい。
戴いた品の高価さは言うに及ばず
皆が自分のために膝寄せ合って考え抜いてくれたその行為、その気持ちが一番の贈り物と、
さくらは素直に喜んだ。
20
夫の杯が空になったのを見て、
さくらは提子(ヒサゲ)を手にする。
白哉の酒量を心得た妻は、僅かに提子を傾ける。
「白哉様、誠にありがとうございます」
さくらは五弁の花びらを纏う桜より、匂やかに微笑んだ。
其方の生誕の日と言うのに―――
表情は変えねども、白哉は深く反省した。
祝いをもろうたのは
私の方か………
どんな高価な品にも勝る
妻の笑顔を贈られた白哉は、至らぬ自分が不甲斐なかった。
fin*
************************************************天宝院家から来た二人の侍女
アヤメと
ツバメの、朽木隊長の印象を郛外区で書き足りないまま今回のストーリーをUPしてしまいました。
よくわからなかったらごめんなさい。
ツバメは志波家に仕えた家臣の子です。だから貴族が落ちぶれて雇われていた家族がどれだけ苦労したかを骨身に沁みている為、四大貴族の朽木隊長との結婚を喜んでいます。
対して
アヤメは朽木隊長は近寄り難い人だったのです。←
アヤメに関しては軽く郛外区にて触れてます。
最後の文に書かれていた贈り物は、
さくら様の一番欲しいものです。何でしたか?(*^_^*)
最後までご覧くださいまして、ありがとうございました。
2008.03.26
花の護廷十三隊〔一〕 風⋆花⋆雪⋆月