はるかの日課は朝、四番隊に赴き娘の枕元に花を飾ることだった。
「おはよう、
さくら」
それは
さくらの体が機能し始める前からの習慣だ。
精神にもダメージを負っていた
さくらは、息をし始めても目を開けても、何も見ないし何も言わない。
それに対し卯ノ花は勿論、家族の誰も驚かなかった。
涅の指摘どおり、体という器が残っただけのところに皆の霊圧を注いでいたのだ。
この体が動いたこと自体が奇跡だった。
1週間が過ぎ十日が過ぎても何の反応もなくじっと天井を見詰めたままの娘に、今日も
はるかは笑顔で告げる。
「さぁ、今日は体を拭いてあげるわね」
さくらは、不憫な子だった。
母である自分が好きな男と結ばれたが故に、身代わりとなって
はるかの両親の期待を負わされた。
そればかりか夫の優れた血を受け継いで、幼いうちから身の丈と変わらぬ刀の主となり…
尸魂界を、現世を救った。
しかもその栄光も賛美も、
さくらには与えられなかった。
天支光輪の主とは、陰に生き陰で支え陰のまま去る者。
況してやその力を使って、後に生きていた者など居ないのだ。
叔父や弟がこの子に霊圧を、霊子を分けてくれなければ、この体さえ留めることもできなかった。
生まれた頃は父親似であったのに、あの家宝刀の主となるきっかけの際
はるかの霊圧と霊子を取り込んでしまった
さくらの顔立ちは、
はるかの若い頃にそっくりだ。
願わくば、私のように伴侶に恵まれますように……。
自分に姿形が似たのならば幸せもと願ったとおりとなったのに、運命はまだ
天宝院家の枷を背負わせていた。
…いいや。
さくら自身は枷などと思っていなかったであろう。
そういう娘であったからこそ、天支光輪の主と認められたのだから。
1
今日は上瞼を優しく拭った直後、娘と目が合った気がした。
もう片方も拭いてやると、また……。
気の所為でも、母親としては嬉しいものだ。
「気持ちいい?
さくら」
はるかは独り、呟いたつもりだった。
「…私は――――」
突然、懐かしい娘の声が耳に飛び込んできた。
「私は、”
さくら”という名前なのですか……?」
空耳ではないかと唇を凝視していた
はるかは、確かに自分を見詰めている視線に息を呑んだ。
「……そ…う、よ。あなたの名前は、
さくら――…」
私の娘だと続けようとして、
はるかは口を噤んだ。
この子はまだ、状況を把握できていない。
たったあれだけの問いから即座に今の
さくらを理解できた
はるかは、急ぐべきではないと判断したのだ。
「……起きて みる?」
さくらは小さく頷いた。
簡単な会話はでき、僅かばかりの自我がある。
それに筋力の衰えはあるものの、座れるまでに回復していた。
本当ならばすぐ夫に知らせたかったが、
さくらが自分を母と呼ばないのだ。
きっと“見知らぬ男達”が現れてもいい結果にはならない。下手をすれば脅えさせるか混乱させるだけだと、今は娘の求めに応じようとした。
しかし
さくらは何も問いかけてこない。
「続き…」
はるかが口を開くと、これまたゆっくりと視線を向けただけである。
「体を、拭きましょう…ね?」
「はい、ありがとうございます。あの………?」
漸く娘が、自分は誰だか知りたがったと悟った
はるかは
「
はるか。あなたの…母、です」
恐る恐る自己紹介をした。
すると
さくらは「然様ですか、お母様」と微笑み返した。
2
何と返事すればいいのか迷ったわけではない。
この後にパニックになるのではないかと時間が過ぎるのを待つ為に、黙々と体を拭き続けた。
それから…清拭を終えても穏やかな表情のままの娘に、躊躇いながらも尋ねてみた。
「あなたの家族に、会ってみる?」
「はい、お母様」
さくらは飲み物でも勧められたが如くすんなり承知した。
はるかは万一の為に
さくらの傍を離れたくはなかったので、四番隊の隊士に夫に連絡してもらい
程なく、皆が現れた。
さくらは彼が父で弟で、朽木白哉が夫であると"紹介"されると母の時と同じく「然様ですか」とすんなり受け入れた。
「其方には…子も、居る」
「然様ですか」
何ら驚くこともなく、子供に会いたいか?という問いにも「はい」と答え、数刻の後に突然抱きついてきた子供をいとも簡単に受け入れた。
あまりの素直さに最初、白哉は記憶に問題がないのではないかと思ったほどだ。
だが誰の名前も言えず「わかりません。教えてください」という妻に、初めて卯ノ花や義父母が懸念していたとおりの状況であることを漸く白哉も受け入れた。
数日経っても
さくらに大きな変化―――特に感情の変化は見られなかった。
しかしそれ故に、日常生活に支障はないと判断され自宅療養に切り替えることとなった。
自宅と言っても今の
さくらには何処が落ち着いて暮らせる場所なのか。
両親と暮らしたいか?それとも夫とか?と尋ねられても、どちらでも良いと言う。
肉親も白哉も記憶にない
さくらには、どちらの家で暮らそうとも同じことなのかもしれない。
いつでも移り住めるからと周囲のほうが気遣ったが、
さくらを朽木家に連れ帰っても「大きなお屋敷ですね」と微笑み清家の二度目の説明も素直に耳を傾けた。
周囲が変わったのではない。自分が忘れてしまったのだと、あまりにも状況を分かりすぎていた。
さくらの言葉を借りれば「何かを失ったが、それが何かわからない」感覚があるだけだとのこと。
「思い出せないのは申し訳ないですが、皆さんがどれほど私を思ってくださっているかは、十分わかります」
不安や恐怖がないのは自分達のおかげだと言ってくれる
さくらに、皆のほうが安堵させられる。
3
そんな
さくらに過去の知識を与えた所為もあったのだろう。
暫くすると、薬を煎じてみたいと言い出した。
この申し出が一番有り難かったのは浮竹である。
数回作っているうちに勘を取り戻したのか、浮竹に最も合う薬を処方できるようになった。
いくら自分の書いた処方箋があるとはいえ、一月程度でここまで腕を取り戻すとは思ってもみなかった。
この時も
さくらは記憶が戻ったわけではないと言ったが、これならば以前と同じ生活をさせたほうが良いと誰もが感じた。
だが死神としての体力も自覚もない
さくらを四番隊隊士として復帰させるわけにはいかない。
三隊長が思案した結果。
さくらが浮竹に薬を渡し易いように四番隊所属のまま六番隊に配置することにした。
薬は家でも処方できるので四番隊を使う必要はなかったし、六番隊ならば白哉の傍に居られるし、
武礼の目も届くからだ。
さくらは出仕自由だったが元来の気性か白哉と共に隊に現れお茶当番として雑用をこなしたが、それでも時間は余るので茶菓子まで作り始め、しかも真っ先に隊長である白哉に甘い菓子を勧めてしまった。
皆が青ざめる中、白哉は黙ってそれを口にしようとした。
「
さくら姉、朽木隊長は甘い物がお好きじゃないよ」
白哉の手が茶菓子に届く前に
武礼が告げると、
さくらは素直に謝った。
「では、茶を頂戴しよう」
白哉も詫びを込めて、一度戻した手を茶に伸ばしたのだが今度は
さくらがそれを止めた。
「こちらの茶菓子に合うようにお茶を淹れて参りましたので、お口に合わないかもしれません。朽木隊長はどのようなお茶がお好みですか?」
「…いいや。其方の茶は私の口に合っている」
この時、姉と自隊隊長が初めて言葉を交わした日が脳裏に甦ったのは言うまでもない。
二人が出逢った頃の状況だと悟ったのは
武礼だけかもしれないが
以来、六番隊でも
さくらが忘れてしまったことは遠慮なく教えることにした。
するとものの数ヶ月で、
さくらは家でも六番隊でも何ら支障なく生活できるようになった。
4
しかし茶菓子と薬を作っているだけでは、体は鍛えられない。
白哉が手始めに舞に誘ったが、
さくらは「白哉様の舞には敵いませぬ」と、寧ろ白哉の舞を観ていたいと微笑んだ。
ならば乗馬をと白辛樹(アサガラ)達と引き合わせても、「これが馬ですか」と近付くこともない。
馬に跨がる方法も忘れていたので相乗りをしてみたが「馬の背は…高いのですね」と怖がっているように見えた。
あれほど好きだったのにと驚いたのは白哉だけではない。
茶菓子や薬はすんなり作り始められたというのに……。
思えば物心ついた時から薬を作れば祖父母らに褒められ、菓子を作れば母らに褒められていたからではないか?という話になった。
では舞にあれほど熱心だったのは、上手に舞えば師匠に褒められていたからか。
今は傍らに居らぬ師匠に、舞への熱意も失せたのだろうか。
ならば馬は?
記憶を辿っても、
さくらが乗りたいと申し出たはずだと乗馬を止めさせたがっていた母が告げる。
武礼も「
さくら姉は馬の姿や毛並みを褒め、体の大きさに似合わぬ臆病な性格を可愛いと好んでいました…」と続ける。
「では。飼ってもいない馬を、何処で
さくらは知ったのであろう」と 白哉は誰とはなしに訊ねた。
「………儂じゃ」
すると
鏡月が口を開いた。
かいつまんでは義弟から聞いていた事情により、離れて暮らしていた親子。
少しでも長い時間
さくらと居たいが為に、昔は
さくらの私邸に馬で通っていたと語った。
これで合点が行った。父を恋い慕う想いが、馬にも移ったのだろう…と。
5
さくらの好きなもの。
それは全て家族への想いと繋がっていた。
ならば師匠と会わせれば
さくらも舞を思い出すかもしれないと試みたが、互いに自己紹介をしただけである。
目の前に居る父との思い出ある馬に興味を示さなかったのだ。
後で考えてみれば、これも容易に予測できる結果だった。
このことから、
さくらは天支光輪に主と認められる前までは覚えているのではないかと思われた。
しかしこのままでは籠の鳥のように家に籠っていた幼少期と何ら変わらない。
どうしたものかと思案しているうちに、弟の鍛練を見学していた
さくらが真似て体を鍛えるようになった。
それならばと基本的な舞の練習を取り入れたところ徐々に形になってきて、
さくらは舞を
武礼に教えてもらいたがった。
「こう?」
「んー、もう少し…。そう。そんな感じ」
立場は逆転したが姉弟は仲良く舞の稽古に興じる姿を見ていると、やはり記憶を無くしても
さくらは
さくらのようである。
「
武礼、
武礼ー」
次第に
さくらは弟に甘えるようになった。
結婚後、六番隊にも
さくらの部屋を設けてあり隊舎でも宿舎でも寝泊まりできるようにしてあったが、ある日
さくらは「一緒に寝たい」と
武礼に頼んだ。
「えーっと……」
これには
武礼も返答に困り、頭を掻いた。
確かに入隊するまで、幼いころから寝食を共にしてきた姉弟だ。
姉が添い寝をしてほしいというのであればできないことはなかったが、今となっては世間体というものがある。
「あの…義兄上と寝たら?」
「あに…うえ?」
持参した枕を抱えたまま、
さくらは首を傾げた。
「俺から見れば朽木隊長は義理の兄でしょ」
「朽木隊長が…お兄様……」
情報としてしか夫と知らなかった白哉が家族であることを、
さくらは漸く実感したらしい。
ただ、兄ではなく夫なのだが………。
6
「白哉様はお兄様……」
「ん? まぁ…妹御もおいでだから兄といえば兄だけど、
さくら姉から見れば――――」
「白哉様は、お兄様なんだ……」
「………」
この時、
武礼の頭が冴えていて良かった。
「
さくら姉。白哉“お兄様”と一緒に寝てもらったら?」
「うん―――。でも、いいって言うかな?」
「俺からも頼んでみるから、ね?」
「うん!」
姉は何ら変わっていない。
淋しがり屋で甘えん坊で、兄という存在に憧れていた昔のまま…。
久しぶりに
武礼は本来の姉を思い出した。
一方 自分が護廷十三隊に寝泊まりする際は、隣室にて眠るはずの
さくらが部屋を抜け出したことに白哉が気付かぬはずがなかった。
「義兄上」
なかなか戻らぬ妻を夜の散歩と称して捜しに行くべきか床に就くか決めかねているところへ二人の気配が訪ねてくれば察しはつく。
「入れ」
静かに戸が開けられると案の定、義弟と妻が現れる。
しかも妻の腕の中には枕が。
どうしたのだと訊くのももどかしい程である。
「姉が義兄上と一緒に寝たいと申しまして…」
「構わぬ」
「では義兄上が先にお休みになっていただけますか?」
「…わかった」
これまた白哉は敏かった。
これは義弟の思惑が絡んでのことだと、
武礼の言葉に従い羽織を脱いで上掛けを捲った。
それでも
さくらは動かなかったので、ゆっくりと褥に身を横たえ始めると漸く二人が立ちあがる。
武礼が小さく断って上掛けを持ち上げると、
さくらは身を滑り込ませた。
成程。
さくらを添い寝に誘うには、私が先に床に就き上掛けをあげれば良いのか……。
義弟の寡黙な教えを理解できぬほど、白哉は愚かではなかった。
「では義兄上、姉上、おやすみなさい」
だが
武礼が兄と言う言葉を普段より繰り返す意図も
さくらが寝物語に義妹の話を強請った理由も、何度もルキアさんのお兄様と呼ぶ意味も
妻に触れられる機会を得たばかりの白哉にはわからなかったであろう。
7
朽木隊長 風⋆花⋆雪⋆月