「おめでとうございます。元気な男のお子様でございます」
一番に歓喜の声を上げたのは清家だった。
あれほどお静かにと言われていたのに清家は小躍りして喜び、看護婦に窘められた。
白哉は恭しく差し出された我が子を「お抱きになって構わないのですよ」
と促されるまで唯眺めていた。
我が子を抱くという初めての体験。初めての感触。そして初めてのぬくもり。
まだ
さくらのぬくもりを残す我が子の産着から覗いたその先が五つに分かれている拳であると白哉も頭では判っていても、あまりの小ささに言い聞かせねばならなかった。
1
「おお、朽木家のお世継ぎに相応しき何と利発そうなお子でしょう!」
横から赤子を覗き込む清家は、それはもう満面の笑顔だった。
「
さくらは…」
白哉の口から漸く漏れた言葉はそれである。
我が子を腕に、白哉は妻の体調を問うた。
「ご安心ください、問題はありません。ですが初めてのお子様ですから時間もかかりましたのでお疲れでございます。今暫くは十分なご静養をお忘れなきよう…」
そう言うと主治医は産室へ白哉を招き入れた。
既に産湯も片付けられ、産室から母親の寝室へと整えられ始めている。
寝台に横たわる
さくらは汗で額から頬に髪が貼り付いていた。
徹夜明けの
さくらの姿など見たことのなかった白哉は戸口付近で妻を一瞥するとそれ以上歩み寄ることなく赤子も清家に預け渡し、護廷十三隊へと戻って行った。
2
すうぅと…自分の髪を梳いてくれた優しい指先に
「…白哉様」
さくらは夫の名を呼んだ。
「…頑張りましたね、
さくら」
温かな言葉にうっすらと目を開けると、
「…お母様」
母が微笑んでくれていた。
「朽木隊長はあなたも子供も無事なのを確認なさってから、お仕事に戻られましたよ」
さくらも微かに夫が近づいてきた様子を感じたのだが、結局言葉を交わすことなく去ってしまっていた。
3
「………赤ちゃん」
さくらは周囲を見渡す。
「別室にて、朽木家の方々がお世話してくださってます。あなたはもう少し休みなさい」
母の声は優しく包み込んでくれたが
さくらは自分の望みを告げた。
「赤ちゃんを、抱きたいです」
母はにこやかに微笑むと、まだ横になっていなさいと言う。
産着に包まれた我が子を一度抱いただけの
さくらは、今一度自分の子をよく見たかった。
4
「…おっぱいを、あげたいです」
もう一度、理由を見つけて母にせがんでみた。
「今日はゆっくりなさい。初乳は明日、あげればいいですから」
「………」
赤ちゃんを抱きたい。
その気持ちをこれ以上言葉にできずにじっと自分を見詰める娘に、母は
「さあ、眠って。用があれば呼びなさい」
と子供を寝かしつけるように布団を軽く叩いた。
白哉様はどう思われたのだろう……。
夫は今朝の業務に間に合うように隊に戻ってしまった為、我が子の誕生した喜びの声も労いの言葉も直接耳にすることはできなかった。
喜んで、くださいました。よね………。
いつまでも天井を見詰めている娘に、母は髪を撫でながら瞼を閉じさせた。
5
母は一日傍についていてくれた。侍女らも
さくらの為に居てくれる。
何不自由ない状態。
「赤ちゃん…」
それでも目覚めると部屋には自分一人で、白哉と誕生を待ちわびていた日々が幻のようである。
お腹に子がいると伝えた瞬間の、あの白哉のはにかんだ笑み。
あの日から毎日が輝いていた。
あまり人前で触れることの無かった白哉が、
さくらが手の届く範囲にいれば護廷十三隊内であろうとも髪を梳き、頬を撫ぜ、
時には「今、動きました」と教えればそっとお腹に触れ
「私にも、返事をした」
と掌を蹴られたことを悦んでみせた。
6
男の子であろうとわかってからも、どちらであってもいいようにと名前は双方考えてくれた。
「女であれば
さくらのように。男であれば
さくらのような妻を迎えられる立派な男に」育ってほしいと真顔で呟きながら。
子宝とは正にこの事のように。その子をお腹の中で育む
さくらを宝物のように。
「朽木隊長も人の子だった」との陰口も耳に入らぬのか、むしろ羨望の眼差しと受け取っているのか、あの涼しげな表情を全く崩すことなく
さくらとお腹の中の子を慈しんだ。
7
そうやって何ヶ月もこの腕に抱ける日を待ちわびた我が子と
さくらが対面できたのはほんの一瞬。
さくらは女として大業を成し遂げた達成感よりも、何かを失ったような感覚のほうが強かった。
単にマタニティーブルーと呼べばそれまでのことだったが
それは日が経つにつれ薄まるどころか、更に増していった。
「
さくら様。本日より乳母がお乳をあげます故、ごゆっくり静養くださいまし」
四大貴族の朽木家のこと。侍女に乳母にと育児にはいくらでも手はある。
初乳から通常の母乳に変わった
さくらから、母親としての仕事は全て取り上げられた。
8
白哉は我が子の誕生以来毎日、朽木家に帰宅した。
子の起きている姿はまず見られなかったが、すやすやと寝息を立てる寝顔とその両脇に添えられた小さな拳を朝に夕に目に焼き付けるだけで満足だった。
「白哉様、こちらが高名な名付け人数名より提案いただいたお子様のお名前の候補。こちらが初宮参りの日程表。こちらがご生誕祝いの式典予定にございます」
その数分しか許されぬ慈しみの時間にさえ、清家は当主としての仕事を白哉に持って来ては判断を仰ぐ。
「わかった」
それらを部屋に置いておけと告げもう暫く我が子を眺めると、白哉は自室に戻った。
9
既に先程清家から見せられたものは文机に置かれている。
白哉はそれらを一瞥すると、手甲を外し始めた。
「…白哉様」
襖一枚隔てた背後で弱弱しく自分を呼ぶ声がした。
一双の手甲をその場に置くと、白哉は声のする襖を開く。
「…お帰りなさいまし。お出迎えもせずに申し訳ございません」
頭(こうべ)を垂れる妻の姿に白哉は顔を顰める。
「起きるのであれば何か羽織るように言われたであろう」
薄い寝間着一枚で褥を出て正座している妻を窘めた。
「…申し訳、ございません」
さくらは再び詫びる。
「褥に戻るのだ」
その詫びを聞く時間ももどかしいようで、白哉は横になるよう促した。
「………」
さくらは俯いたまま、勤めを果たしてきた夫の前で褥に横たわる。
10
「目は、大事ないか?」
頭を枕に乗せた
さくらの前髪を撫ぜて尋ねた。
「…まだお医者様は、読み書きはせぬようにと……」
「然様か」
出産から一週間ほどしか経ってはおらず、まだ体力は完全回復には至ってはいない。
本来ならば三~四ヶ月の休養をという主治医に対し
さくらが申請した育児休暇は一ヶ月とあまりにも短い為、殊の外白哉は
さくらの体を気遣う。
体力回復に視力を目安にしているのは測定し易く、且つ
さくらの業務には視力は欠かせないからだ。
時に髪の毛一本の重さ程度の薬を天秤で量り、調合するにしても煎じるにしても数値には表せぬ僅かな状態をその目で判断する。
じっと己を見遣る妻に、今この一瞬さえも目を休めよと白哉は言いたいぐらいであった。
11
「あ、のぅ…白哉様」
「何だ」
ここ数日、頼みたかったことを漸く願い出る機会が
さくらに訪れた。
「私も、お子の世話をしとうございます…」
「まだ読み書きも禁じられているのでは、其方が思うほど体力は回復しておらぬはず。乳母も何人かつけておる。子の世話など必要ない」
「………はぃ」
夫に言い切られ、
さくらは顔を褥に埋める。
12
「白哉様」
今度は自室から己を呼ぶ清家の声が聞こえた。
優雅に見えて忙しないのは常だ。
白哉は
さくらの許で煩わしい話を聞かせまいとすぐさま自室へと引き返し襖を閉め、何だと用向きを尋ねた。
「お子様のお名前だけでもご覧いただけましたでしょうか?」
「…後で検討する」
「畏まりました。では、お夕食の用意が整いましたら改めてお呼び致します」
「わかった」
白哉は子が生まれるまで隊首羽織を受け取ってくれていた
さくらの手を借りることなく着替えを済ませると、
さくらを残して食事の席へと赴いた。
出産前は
さくらと相伴する機会を逸することなどなかったが、身なりを整え膳に向かうのも体力を要するであろうと
さくらの体調に寝食の時間を合わせられるよう、今は誘いだにしなくなっていた。
13
そんな日が幾日か続いたある晩のこと…。
「…白哉様。夜分に恐れ入りますっ」
「……何事だ」
清家がこんな深夜に白哉の下を訪れるとは尋常ではない。
理由を聞く前に上体を起こし、白哉は羽織に手を伸ばしていた。
「その……大変申し上げ難いのですが、お子様の姿が何処にも」
見当たりませぬと清家が言い終える前に障子を開いていた。
そしてすぐさま霊圧を探る。
さくらに聞かれはしなかったかと、まずは
さくらの霊圧を探ったのだ。
しかし隣室に乱れは感じられず、ぐっすり眠っているのだろうと妻を起こさぬように部屋を後にした。
14
朽木家の邸(やしき)は広い。しかし警備は行き届いている。
外部からの侵入者がそう易々と赤子とは言え連れ去るとは考えにくかった。
まずは幼い我が子の褥に急ぎ、霊圧の名残を探る。
まだ名もなき赤子は白哉の子らしく高貴なる霊質の為、それを意図的に隠していなければ辿るのは容易であった。
だからと言って気を抜かぬところが白哉である。
糸口を掴みながらも独りその先を静かに追い、確信が持てるまでは口にせぬ。
15
「………」
辿り着いたのは、全員が駆り出されているであろう使用人の一室であった。
しかもその部屋の主は…
白哉は赤子の健やかな寝息さえ通路から確認できたことで消していた霊圧を解いた。
そして堂々と戸を開き我が身を曝した。
「
さくら…」
突然現れた夫から
さくらを庇うように、侍女の
アヤメは慌てて白哉の前に立った。
「こんな処で何をしておる」
我が子を胸に抱き、放心状態の妻に静かに問う。
「 」
妻の声は夫には届かなかった。
夫婦の邪魔をする侍女を白哉が一瞥すると、
アヤメはそれだけでヘナヘナとその場に身を崩した。
16
「赤 ちゃん 」
白哉の耳に、漸く我が子を呼ぶ妻の声が届いた。
夜中にこんな騒動を起こしたのはどうやら侍女ではなく妻らしいと、白哉の唇から小さく溜息が漏れる。
へたり込んだ侍女が未だに目障りな故、
さくらの正面に回って白哉は片膝を折った。
「ぃゃ…赤ちゃん 」
「………」
妻が何を呟いているのか、白哉にもその言葉は聞き取れたがその意味は解らなかった。
そして先程まで内心はかなり動揺していた白哉も我が子を妻が抱いていたことに平常心を取り戻し、
初めて
さくらが震えていることに気付いた。
この異様な行動も、それに起因しているのかと更によくよく見れば
さくらは泣いていた。
17
「
さくら…。其方、何故に――」
「恐れながら、白哉様」
妻に問おうとした白哉に
アヤメが口出しした。
「
さくら様は幼き頃、ご両親の許でお育ちにはなれませんでした。故にご家族の関係に尋常ならぬ執着心がございます。
勿論、このお子様が白哉様並びに朽木家の大切なご継承者との認識はございます。ですから」
説明する自分を一切見ぬ白哉を
アヤメも一切目にすることなく頭を下げたまま続けた。
「
さくら様が"私の"赤ちゃんと呼ばぬのは、自分にその権利はないと――――」
おっとりした
アヤメが言い終える前に、白哉は全てを解した。
さくらは赤子を抱くことは勿論、我が子を我が子と呼ぶことさえ許されぬと思っている。
それでも抱きたくて愛しくて―――見かねた侍女が赤子を連れ出し、
さくらに抱かせてやったのだ、ということを……。
18
「
さくら…」
白哉が目の前に両膝をつくと、
さくらはそれが最も恐れていたことのように体を竦ませた。
『 奪われる 』と言った感情なのだろう。
「 い… ゃ 」
ややもすれば二度とこの子を抱かせてはもらえぬかもしれないとの気持ちが、白哉の伸びてくる手を拒む。
「いや、いや、いや…」
しかし白哉の手がとうとう
さくらの腕を掴んだ。
この子を
諦め
なければ、
ならない……。
自分の手を自分で解かねばと思いながら、
さくらの手は震え言うことを利かない。
19
「あかちゃん…」
さくらはボロボロ泣きながら唇を噛み締め我が子のぬくもりをわが身に擦りつけ最後の別れを済ませると、震える腕で夫に差し出した。
その距離、僅かに一尺。
しかし
さくらが絶望するには十分な距離だった。
諦められるはずがない。
我が身を我が命を削って得たこの子を
諦められるはずはなかった。
しかしこの子は朽木家の子。
我が子であって我が子ではない。
朽木白哉の子であって『私の子』ではない。
20
「ぅ、ぅ、ぅ、ぅ…」
安らかに眠る赤子の寝顔を再び目にしたなら、きっと白哉に返すことは不可能になる。
だから
さくらは顔を伏して滔々と流れる涙を己の膝に受け、子を差し出していた。
「…済まぬ」
白哉はそう呟くと、
「私は其方が一日でも早く四番隊に復帰したいのだと思っていた。
だからこそ極力育児の時間を減らし体力を取り戻すことを何よりも優先させたのだ。決して其方から赤子を奪うつもりではなかった…」
さくらは泣きながらも目を見開き、必死で現状に耐えている。
「何時でも抱くがいい。何よりもそのような遠慮、不要だ。その子は其方の子なのだから…」
21
「………」
白哉の言葉に、ゆっくりと頭を擡げ、腕の先にある宝物を
さくらは見遣った。
そうして今一度己に引き寄せ、それから白哉を見上げた。
「赤ちゃん…抱いても、いいの?」
恐る恐る問う
さくらは、幼き子のようである。
「
さくらの子であろう」
もっと微笑んでやれたらと思うが、白哉には事実を告げることしかできなかった。
しかし
さくらにはそれで十分で、夫の偽りのない眼差しに己の望むことを許されていると感じられた。
「あ、りがとう。ありがと、うござぃま…」
ああ、赤ちゃん…と、
さくらは嗚咽し抱き締めたのだろうが、言葉になっていなかった。
22
我が子に愛おし気に頬を摺り寄せる妻からゆっくりと視線を外すと、
白哉は
アヤメに「子供は私が見つけ、
さくらに渡したと知らせよ」と清家に言伝(ことづて)た。
アヤメが大きく頷き、慌てて頭を下げ嬉々として部屋を去ると
「…いつまでも赤子では可哀想か。そろそろ名を決めねばならぬな。
さくらはどの名が良いのだ?」
と、本当は
さくらの調子が良ければいつでも相談したかった件を尋ねた。
その問いに、
さくらは再び胸を熱くした。
「…私が、名を挙げてよいのですか?」
この子を抱いていい、それだけでなく、夫は子の名をつける権利まで許してくれると言うことに、驚いていた。
「…二人で、散々話し合ってきたではないか」
何を言うかと思えば、子が生まれるまでに互いに検討していた命名さえも許可のいることだと思っていたのかと白哉は呆れた。
23
「でも…」
名は清家らが幾つもの候補を挙げていた。広い邸とは言えそのことを
さくらも耳にしていた。
名付けで高名な方々がこぞって挙げた
立派な、朽木家に相応しきお子の名前を。
だから夫が自分に名を挙げさせてくれていたのは、ほんの戯れだったのだと…幸せな夢を見せてくれていたのだと既に
さくらは自分に言い聞かせていた。
「
さくらが決めれば良い。私の一存でどうにでもなることだ」
あれやこれや言わず、
さくらに最低限必要な事実だけを告げる。
そんな夫の心遣いに感服している
さくらを、白哉は勘違いした。
「まだ…選べぬか」
急かしたかと詫びる白哉を見詰めたまま、
さくらは口を開いた。
「…
藤哉」
それでもいいの?と恐る恐る名をひとつ挙げてみる。
24
「この子に相応しい、良い名を付けてくれた」
白哉はその名にしようとも言わなかった。
当たり前のように微笑む白哉に、
さくらは今一度腕の中の我が子を見つめた。
「
藤哉…」
初めて、名を呼んだ。
自分がつけたかった名を呼べた。
初めて、自分の子だと言っていい気がした。
「
藤哉」
母親の呼びかけにか
藤哉は小さな唇を動かし、それは微笑んで見えた。
「
さくらの腕の中が、
藤哉は一番居心地がいいのであろうな」
藤哉を白哉が撫ぜる。
すると、こてっと撫でられた方に顔を向けた
藤哉に二人は笑みを零した。
25
「…
藤哉、かわいい」
「
さくらに似たのだ」
妻を可愛いなどと褒められるはずも無い白哉は遠回しに気持ちを込めた。
全ての不安を拭い去れた所為か、
さくらの瞳からは慈しむ眼差しが我が子にも白哉にも注がれる。
「
藤哉…白哉様の幼い頃にそっくりだと伺いました」
「…覚えては、おらぬ」
夜の闇の中のこと、白哉が赤らんだことは
さくらも気付いてはいなかった。
「さあ、
さくら。体に良くはない…」
そろそろ褥に戻るのだと、白哉が促した。
「
藤哉……」
もう少し、もう少しだけと瞳で訴える妻の願いを白哉は退けた。
26
「眠るのだ。
藤哉と共に…」
そう言うと白哉はまだ意味のわかっていない
さくらを
藤哉ごと包み込むと、あやすように妻の背を軽く叩き、撫で擦る。
何日ぶりかの妻のぬくもりを白哉は懐かしがりながら、
さくらの耳元で囁いた。
「
さくらが構わぬのであれば、私も其方らと褥を共にしよう」
もう二度と、こんなことが起こらぬよう
二度と母子(ふたり)が離れぬよう
私が見守ろう。
愛しき者の微笑みを奪わぬように
失わぬ為に……。
何より
「はい。白哉様…」
愛しき者のその微笑みを、最も近くにて眺められるように……。
fin*
************************************************このストーリーは当初、郛外区に置くつもりでした。
しかし書いてみると朽木隊長の気持ちに傾いてしまいましたし、何より朽木隊長のお子様誕生のお話ですからね。風ゴテに置きたかったのです。
高貴なるお方の子育てはこんな感じなのでは~?と庶民のさくらの妄想です。
2008.05.05
朽木隊長 風⋆花⋆雪⋆月