薄桃色の隊着に長い足袋。
死覇装の中に四番隊特有の隊着ならば簡単に見つけられそうなものだが、一度紛れ込むと…
いや、姿を見失うと時間がかかるものだ。
無論、当の本人が怯えた足取りながらも人目につかぬようにしているからなのだが……。
「シュ… シュ…」
かれこれ半時あまり、
さくらは涙目になって八番隊隊舎を彷徨っていた。
「いました、隊長!」
伊勢が口許に手を当てて精一杯の大声を出す。
それでも
さくらは伊勢の声に振り返ることもなく、部屋をひとつひとつ覗いては同じ言葉をひたすら呟いている。
そんな
さくらの涙をふわりと風が掠め……
「ごめんよ、
さくらちゃん…」
次の瞬間、京楽は妻を抱き締めていた。
「しゅ…」
夫の開(はだ)けた胸に顔を押し付けられて、初めて
さくらの声に安堵が混じった。
京楽が羽織った女物の上着の中に
さくらも腕を差し込むと、抱き締め返す。
「隊首会が長引いてね。すぐに四番隊に行ったんだけど…」
全く聞いていないのだろうが、それでも京楽は遅れた理由を
さくらに説明した。
「しゅ」
「ああ、お昼にしようね」
さくらは同じ言葉しか口にしない。
それでも
さくらが何を言いたいのか、京楽にはわかった。
1
「おいで」
京楽が少し身を屈め腕を下げると、
さくらは足を差し出した。
その足を掬い上げると、妻を抱えて昼食に向かう。
いつもなら夫の顔をにこにこと眺めている
さくらも、今日は顔を埋めしがみついていた。
「ふぅ…」
隊長夫人の捜索が一段落した伊勢は、ため息を漏らす。
京楽と
さくら。
どちらが捜し易いかと言えば…
どちらも違った意味で大変である。
そもそも何故、
さくらを捜さねばならないか。
藍染を封印後、長い眠りに就いていた
さくらが目覚めた。
しかし完全に元に戻ったわけではない。
殊更話すことに関しては、全くできないのが現状だ。
目覚めた時から―――
まるで初めて見た動くものを親と思う雛鳥のように、
さくらは京楽の傍を全く離れようとしなかった。
それどころか夫以外の者に怯え泣き出す始末。
それもまるで幼子のようにわんわん泣いたのだ。
父母の話からして、天支光輪に主と認められた時から藍染を封印するまでの記憶がすっかり無くなっているようだ。
であるから今の
さくらが京楽を夫と知って慕っているのかも怪しいものである。
2
こんな、未だに言葉も話せず理性も幼児程度の
さくらが四番隊に復帰できたきっかけは浮竹だった。
さくらは自分に話しかけたり構おうとする相手は拒むが京楽に話しかける分には無視か興味を示さないだけだったので、当然京楽と親しい浮竹が側に居ることも別段意識する様子はなかった。
そんな
さくらの目の前である日、浮竹が咳込んだのだ。
「ごほ。ごほ、ごほ、ごほっ」
さくらの薬を長らく飲んでいない浮竹は以前の体調に戻ってしまっている。
寝込むのは勿論、咳などいつものことだった。
「浮竹っ」
「な…でも な ごほっ!げほ――っ!」
「少し横になったほうがいいね」
京楽は自然と浮竹を支えた。
「…もう 大 丈夫、だ…?」
浮竹はまだ肩で息をしながらも、何かを感じて視線を背後に移した。
「
さくら…」
「――
さくら、ちゃん…」
二人が驚くのは無理もなかった。
今までならば京楽に離れられたらおろおろするばかりであった
さくらが浮竹に治癒を施していたのだ。
さくらは浮竹が苦しめば京楽も辛く、それを自分が取り除けるのであれば何かしたいと考えられるまでに“成長”したうえに、誰に言われたわけでもなく治癒鬼道を扱えたのだ。
「もしかして―――…」
「…ああ。知識だけでも、戻ったのかもしれん…」
3
そこで試しに京楽が薬を処方してくれと頼んだ。
それだけではやはりぼーっとしていたが、卯ノ花の提案で言い回しを変えてみた。
「
さくらちゃん。ボクに二日酔いに効く薬を作ってくれないかな?」
「……………」
それでも
さくらは無言だった。
目の前の京楽が何故自分を抱いてくれないのかわからないという表情だ。
しかし立ち上がろうとしたり自分達を阻む机を動かそうとしたりする度に上手く京楽が宥め、処方箋の説明をすると机上の器具をのそりのそりと扱い薬を作ってみせた。
下準備をしてあったとは言え、
さくらは誰にも教わることなく薬を調合したのだ。
「――――ありがとうね。
さくらちゃん…」
卯ノ花に促された京楽が
さくらを手招きして抱き締めた。
「しゅ!」
「うん、上手だよ。助かるよ、ありがとうね」
さくらの頭を撫ぜて更に褒めると、今まで見せたことのない満足げな表情をした。
「
さくら。これもお願いできますか?」
続いて卯ノ花が浮竹の処方箋を差し出すと、それを一瞥することもなく
さくらは京楽の胸に顔を埋めてしまった。
「
さくらちゃん。これ、浮竹の薬なの。浮竹、わかるよね?ボクの友達。彼にこの薬を飲ませたいんだ。これも作ってくれないかい?」
「しゅぅ…」
目線を合わせて頼んでみたが、京楽の膝の上で拗ねたように首を竦めて目を伏せる。
「これが作れたらお終い。今日はずっと抱っこしてあげられるよ?」
京楽から離されたのが嫌だった
さくらは、これが終われば後の長い一日を京楽の腕の中で過ごせるというご褒美に体を捻ると、今一度机に向かった。
4
「しゅ」
そして終わると褒めてと言わんばかりに振り返る。
「よく出来たね、
さくらちゃん」
調合は出来たものの、薬包紙に一回分ずつに分けるのはぐずった。
しかしこれはわざとだ。
京楽が「じゃあ包めた数だけぎゅ、してあげるからね」と言うと大きく頷き、最後までやり遂げたのだから。
行動は幼いものの、
さくらに薬や鬼道を扱う能力は十分に備わっている。
四番隊復帰の期待が、皆の脳裏を過ぎった。
しかし
さくらは死神としての自覚もなく京楽に言われたことしか出来なかったので、四番隊にて業務をこなし休憩時間に京楽に会うという状態になるまでにかなりの時間を費やした。
今では卯ノ花の言う事を聞いていれば休憩時間には京楽と居てもいいことを理解している。
今日みたいに直ぐに会えないと泣くこともあるが、京楽に嫌われたとか捨てられたのではなく自分にはわからない理由でそこに居ないのだと捜し回るだけに“成長”していたこともわかった。
「しゅ」
「んー、何だい?」
「しゅ」
「…ああ。もう、そんな時間?」
共に食事を済ませ京楽の腕の中で過ごしていても、休憩時間が終わりに近付いてくると
さくらは自ら身を起こす。
5
「じゃあまた、夕方にね」
理性が完全に戻らないばかりか言葉もままならない妻なのに、時間や決まり事には京楽よりきっちりしている。
「隊長にも、奥様を見習ってほしいところです」
さくらの去った隊首室に現われた伊勢は、まだ床に寝そべっている京楽に呟いた。
「参ったね…」
京楽は編み笠で顔を隠す。
いくら藍染を封印した英雄であろうともそのことを知る者はごく僅か。
それに昔はどうあれ死神として働けないのであれば、たとえ妻であろうと護廷十三隊で一緒には居られない。
だから四番隊の…たとえ浮竹専門であろうとも薬を調合できるようになったのは幸いだった。
それどころか始めてみると、あれよあれよという間に昔の腕前を取り戻し正確を通り越した精密な処方に誰もが舌を巻いた。
恐らくあらゆるものを失い京楽からしか安心を得られなかった
さくらは、仕事をすることで”初めて”充実感を得られたのだろう。
浮竹の為に何かでき、卯ノ花に褒めてもらえることを楽しみに、
さくらが自ら四番隊に赴くようになった現在は昔どおりの怠け者の夫と働き者の妻だと思われている。
京楽とてこれで自分に関心を示さなくなったのならば気がかりだが、
さくらは必ず自分の許へ帰ってくる。
「しゅーぅー」
「はは、
さくらちゃん。おかえり」
定時きっかりに四番隊を出た
さくらは、京楽を見つけると自分から満面の笑顔で抱きついた。
以前の
さくらを知る者には京楽にベッタリ甘える
さくらは目を疑ったが、本来は淋しがり屋なのだ。
京楽は自分に縋る
さくらが、内心自慢だった。
6
さくらはある程度の言葉を理解出来ている、或いは全て理解できているが話せないが為に気持ちを訴える手段として幼児的な態度をとり続けるのではないかと思われた。
「しゅ…、しゅっ」
その証拠に
さくらとて、夫の名前を言おうとしているようなのだが次に続く「ん」が、なかなか音にならない。
たとえ「ん」に入れたとしても……。
「しゅ、んんンン…」
その次の「す」に入ることがどうしても出来なかった。
それにもう京楽達は聞き慣れたから「しゅ」と聴こえるが、本当は
さくらがそう発音できているのかも疑わしい“息の漏れる音”だ。
卯ノ花は声帯の使い方を体が覚えていないか舌をろくに動かせないという身体的理由か、精神的理由で声が出せず行動も幼児化しているどちらか…或いは複合的な理由だと診断した。
だから
さくらが自然に言葉を発せるようになるまで、京楽は待つつもりだった。
そうでなくとも
さくらは何か言いたくて―――
若しくは京楽が期待するように春水と呼びたくて努力しているのだから、じっと耳を傾けて見守るしかない。
7
しかし、とうとう悔し涙を流した。
「……しゅ、ぅ………」
ぎゅっと拳を作り歯を食いしばるように俯いて、大粒の涙を流す。
京楽は泣かないでと
さくらの頬を包み込むと、親指で涙を拭った。
「しゅ…」
さくらの涙は真珠のようで
目覚めるのを待ち焦がれた京楽には、この雫すら愛おしい。
さくらは、覚えているだろうか。
――聞こえて、いただろうか。
現世の物語に人魚姫っていうのがあるんだよと呟きながら、京楽が眠り続ける
さくらを見守っていたことを。
助けた王子に再び会う為に、声と引き換えに歩けるようになった人魚姫。
彼女が自慢のものをふたつも失ったように、
さくらは声と理性を無くした。
理性どころか、一度は全てを失った身。
おまけに人魚姫は、王子様とは結ばれず終い。
冷たくなった
さくらの顔を眺めながらこの話を思い出した京楽は、愚かな王子の気分だった。
だけどボクはキミが救ってくれたことを、知っている。覚えてる―――。
だから海の泡にならないでと…消えてしまわないでと祈り、願っていたことを………。
8
京楽の温かな親指がかなり涙を拭ってくれると、
さくらは猫のように丸めた手で残りの涙を自分で拭った。
海を泳ぐ人魚姫の華麗さを失い、幼稚な歩き方しかできずとも
鈴を転がしたような心地よい声で流暢な言葉を紡ぎださずとも
さくらは、愛らしかった。
漸くうっすら笑みを浮かべた
さくらを、京楽は柔らかく包み込む。
さくらは京楽の腕の中に居られれば、いつまでも大人しくしていた。
ただ…
さくらにとってこれが本当の安寧かどうかはわからない。
何故ならば落ち着いた
さくらを腕から放てば、何の脈絡もなく鏡台から紅を出してきて京楽に見せるのだ。
「しゅ」
「いや…仕舞っておいていいよ…」
あの時、何故この紅を懐に入れていたのか。
それを知りたくて話しかけた意味が未だにわからないらしく、藍染を封印した日に自ら懐に紅を入れた記憶もない姿を見ているとやはり不安になる。
他にも京楽が贈った物はあるというのに、この紅しか持ってこないことからしても意思の疎通はなっていないだろう。
だからこそ、焦らずとも言葉を取り戻したい。
本当に
さくらが自分を夫だとわかっているのか…
確かめなければ、ならなかった。
9
いつか…紅を引いて着飾って、ボクと出掛けることを喜ぶ
さくらが戻ってくるのだろうか……。
そう願っているのは本心でもあり、悲しいことは悲しい。イヤなことはイヤだと素直に表情(かお)に出す今の
さくらを手放したくないというのも本心であった。
殊更、伊勢が業務報告をしているとしがみついてくる
さくらは愛おしかった。
他の者には無関心で顔を見ることもないのに、伊勢だけはじっと見ている。
それは
さくらには伊勢が同性であることがわかっており、京楽とよく話す間柄であることもわかっているということだ。
完璧な妻だった
さくらが決して見せなかったその表情に、どちらの
さくらが本当なのかと…
もしかしたらこの
さくらこそがありのままなのではないかと、思えるのだ。
だからこのまま穏やかに、こんな日が続けばいい。
そう願う日が何度かあったのも事実だ。
そんなある日、
さくらが四番隊から定時に戻って来なかった。
浮竹の処方が長引いているだけだとは思ったが、京楽は迎えに行くことにした。
遠いうえにボロく辛気臭い小さな詰所の戸を面倒臭そうに開けながら、中に声をかける。
「ご免よ~」
すると浮竹に卯ノ花だけでなく、
さくらの母
はるかまで居るではないか。
10
「何か…あったのかい?」
「ああ。今、
さくらの言いたいことがわかったところだ」
どうやら浮竹に訴える内容がわからず卯ノ花に助けを求め、更には
はるかに来てもらったらしい。
三人が
さくらの言いたいことを解釈したところ
浮竹の薬の材料である薬草の在庫が少なくなってきており、それが欲しいと言っているとのことだった。
「それって、すぐに手に入るものなの?」
「入手し易いものもありますが、
さくらの処方した薬草に一番効果があるということは、何か違いがあるのかもしれません」
京楽の質問に卯ノ花が答えると、
はるかが思い出したように顔を上げた。
「…中でもこの薬草は、今の時期に摘むのが一番効果があるんです」
「それじゃあ、
さくらは薬草の採取時期を覚えているということか?」
浮竹の問いに
はるかはそれは定かではありませんが…と断定は避けたが、今まで四番隊にある薬草に関してこんな風に訴えたことはなかった。
子供のようにぽてりぽてりと歩いたり指を咥えたりする
さくらが卯ノ花や
はるかでも驚く知識を記憶しているとは思えなかったが、初めて浮竹を治癒した時とていきなり高度な鬼道を施したのだ。
11
「……もしかしたら、この子なりに大切なことから徐々に思い出していっているのかも……」
「けどさあ。そんなに都合よく思い出したりできる?」
「確かにそうだが、あくまでも仮定だ。いや…寧ろ必要に迫られて、ってことかもな……」
「必要に…?」
「俺が咳込んだ時も今も、
さくらが大切なことを思い出すきっかけになっているとは考えられんか?」
「成程ねえ…」
はるかは未だに自分のことを、誰だろう?といった目で見る愛娘の顔を暫くじっと見つめ、決心したようである。
「薬草の生息場所は私も存じてます。ですが
さくらに、行かせてみましょう……」
「行かせると言っても、かなり山の奥深くになるのではありませんか?」
はるかの決断に、卯ノ花が心配するのも無理はない。
「ええ…。ですが、
さくら自身にやらせたほうが―――」
「
さくら一人でか?」
「それは…そのほうが、いいとは思いますが……」
浮竹の確認に、
はるかは言葉を濁した。
護廷十三隊内でも危なっかしい歩き方をしているのに、山中に
さくら一人でなど到底行かせられはしない。
12
「ふう~ん。ならボクが付き添うよ」
「お前が?」
「お義母さんだと知識があるからどうしてもすべきことが先にわかって協力しがちだろうけど、ボクなら薬草の知識は何にもないじゃない。それに何かあった時はボクが守ってあげられるしね」
「そうですね。京楽隊長が同行してくださるのが、一番良いかもしれません」
卯ノ花も同意したが、浮竹は「本当にお前がついて行ってやるのか?」と念押しする。
「いいよ。
さくらちゃんも心配だし、勿論浮竹の為でもあるしね」
京楽は、これで一日仕事をサボれると安請け合いをしたが……。
「その気持ちが本当なら、お前が非番の日に行ってくれよ?」
悪戯っぽく告げる浮竹に背を向けると、京楽はげほんげほんと咳いた。
ともあれ
さくらは京楽と薬草を取りに行くことを理解できたらしい。
嬉しそうに手を繋いで出かける姿は正に子供のようで、
はるかが弁当を持たせてくれた意味もわかってはいないようであった。
しかし目的の山まで来ると、京楽そっちのけで薬草を摘みだした。
「……へえ。こりゃまた、随分と奥まで行くんだねぇ…」
さくらの後をのらりくらりとついて行っている京楽は、義母の弁当を食べ終えても尚終わらぬ薬草取りにそろそろ飽きてきていた。
昼食後にはあと残り三種となっていたのだが、これが今までのようにすぐに見つかるものではなかったのだ。
13
はるかは採取しやすいように薬草の名を順に書き出し、
さくらが場所を忘れていたとしてもなんとかなるように京楽にも簡単な地図を渡してくれていたので、京楽はこの辺りではないかと地図を見る為に暫し立ち止った。
さくらも前に進むというよりはキョロキョロとし始めたので、どうやらお目当ての薬草を見つけたようだ。
今回採取する薬草は採取する順番だけでなく二種類に分けられて印がつけてあった。
それは瀞霊廷でも購入できるものと、この山でしか採取できないもの。
だからどうしても必要な薬草に限ればいいのだがそれは簡単に採取できるものでなく、結局ここに来る間に全て揃えることができた。
さくらは、京楽の傍まで戻ると袋に入れてくれと言うように差し出した。
「これで終わりかい?」
達成感に浸る
さくらに素知らぬふりで尋ねると、にこっと笑顔で頷く。
京楽が薬草を袋に入れている間に、草の汁で染まった手で
さくらは頬の汗を拭ったものだから尚更汚れてしまった。
知性と幼さが混在する
さくらに、京楽は黙って手拭いで汚れを拭ってやる。
お疲れさんと肩を叩かれた
さくらは、首を微妙に振る。どうやら大丈夫だと言いたいようであった。
14
薬草入れを兼ねた弁当の提げ重箱と袋に入れた薬草も全て京楽が持ったまま、急ぎはしないものの帰途についた。
用を終えた
さくらは声が出れば歌でも歌ってくれそうなほど上機嫌だ。
ただ、相変わらずよく足を挫かないものだとヒヤヒヤさせられる足取りなので、京楽は
さくらが転ばぬよう気を配っていた。
そうやって
さくらに気を配り過ぎていたのか、単なる不注意か……
ズサササ………ッ
「…え。ちょ、ちょおおおおおー!?」
両手がふさがっていた京楽は、何かに掴まることもできずにズルズルと斜面を滑って行った。
京楽の声に何事かと
さくらも振り返った。
「しゅ! しゅ!?」
だが既に、京楽の姿はどこにもなかった。
京楽が滑り落ちて行くその瞬間を見ていなかった
さくらは、突然消えた京楽に不安の声を上げる。
「しゅ?しゅ?しゅ?」
黙っていれば心配するのはわかっていたが、声を上げれば
さくらまで同じ目に遭うかもしれない。
自分一人でも厄介な状況に陥ったというのに、これに
さくらが加われば更なる惨事となるのは明らかだった。
15
「…しゅ? しゅ…ぅぅ」
「参ったねえ…」
弱々しくなっていく
さくらの声に、京楽は益々対処が難しくなる。
「シュ―――っ! シュウウウ!!」
とうとう
さくらは泣きべそを掻きだした。
京楽は己の下肢に容赦なく滲むそれを苦々しく思いながら、小さな声で
さくらを呼んだ。
大声を出さないのは
さくらに落ち着いて状況を理解して欲しいからだ。
「……しゅ? しゅ!?」
京楽の自分を呼ぶ声に
さくらも泣き止み、じっと耳を澄ませた。
「
さくらちゃん。ボクぁ大丈夫だから、こっちに来ないって約束してくれるかい?」
「――――しゅっ」
声を頼りに、今まで歩いていた場所より下方に京楽が居ることに気付いた
さくらは地面に座り込むと下を覗いた。
「しゅ!!」
そこから京楽の体が全て見えたわけではないだろう。
だが、どこに居るのかわかった
さくらは当然傍に行こうと模索した。
16
上から崩れて来る土塊に、見上げずとも
さくらが何をしようとしているかわかる。
「来ちゃダメだったら!」
「しゅうぅ?」
京楽はもう一度穏やかな声で
さくらを諭そうとした。
「あのね、
さくらちゃんがココに来ちゃうと、ボクも
さくらちゃんも帰れなくなるの。だから誰か助けを呼んできてくれないかな?…そう、たとえば浮竹とか――――」
「しゅ………………」
当然、京楽の位置から全く
さくらは見えない。
だが其処に居続けるのは気配と時折漏れる寂しそうな声でわかっていた。
「……
さくらちゃん、頼むよ…。キミしか居ないの。キミにしか、できないんだよ…」
「……しゅう……………」
小さな土の塊と湿った埃がコロコロと転がって来る。
「駄目か…」
京楽が、諦めの言葉を吐き、仕方ない…と、もう一度
さくらに動かぬように念押ししようと呼びかけた。
「……
さくら、ちゃん?」
しかし返事はなく、
さくらの気配はいつの間にか消えていた。
17
「――――隊長!浮竹隊長!!」
「…どうしたんだ?そんなに慌てて……」
三席らの大声には慣れている浮竹も何事かと雨乾堂から出てきた。
「それが」
仙太郎が指差す先には清音に支えられた、薄汚れた
さくらが居る。
恐らくはおぼつかない足で走って、何度も転んだのだろう。
それでも泣きながらまだ駆け寄ろうとする
さくらを、浮竹が先に支えてやった。
「どうした、
さくら!?お前が一人で…」
さくらは一度大きく鼻を啜ると浮竹の隊首羽織を掴んだ。
「―――しゅン…しゅ、!」
「…京楽が、どうかしたのか?」
浮竹とて長年の付き合いだ。
いつもの…
夫の姿が見えずに泣いている眼差しではないことぐらい、容易に知れた。
18
「それに、確か今日は――――」
浮竹は
さくら達が薬草を取りに行く日であることを覚えていた。
「…しゃ・しゅ、しぇ、しぇ…」
「………助けて、って言ってるのか?」
わかってくれた浮竹に、
さくらはコクコクと頷いた。
「京楽に何かあったんだなっ?」
さくらは、そう!と言うように大きく頷いた。
「仙太郎!すぐさま一小隊を編成しろ。清音は八番隊に連絡だ。それと念の為に四番隊にも一報を頼む!」
「「はいっ!」」
縋るような眼差しの
さくらに浮竹は場所は…と問いかけて、やめた。
恐らくは山中。普通の者でも言葉で説明できはしないだろう。
「
さくら、おんぶだ」
背中を見せ膝を折った浮竹を、
さくらは茫然と眺めていた。
「お前を連れて行かなきゃ、どこかわからん。背中に乗れ」
「………………」
おんぶも…
況してや京楽以外の男に触れるなど”初めて”だった
さくらは、おずおずと浮竹の肩に手をかけた。
19
斜面を滑り落ちた京楽は薬草を肩に担ぐようにして…
「いやあ、助かったよ」
泥沼に下半身がどっぷり浸かったまま笑ってみせた。
その姿を間近で見た浮竹は一度大きくため息をつくと、薬草の入った袋と提げ重箱を除けてやった。
「これぐらい、自分でどうにかできただろう。
さくらを試したのか?」
「…まぁ、それも無きにしも非ずだけど……」
荷物のなくなったその手でたっぷり泥を含んだ袴を持って泥沼から抜け出そうとしたがやはり無理で、結局浮竹にも手伝ってもらった。
「ね?あれじゃあ誰かに手伝ってもらわないと、抜け出せなかったって…」
ビチャビチャと泥水を撒き散らしながら、緩やかな場所をゆっくりと登る。
斜面をずり落ちる袴を両腕で持って登るのは、本当に大変だった。
あのまま泥沼から抜け出せば、袴は置き去りになっていただろう。
「目出度いことだ」
「ま、そう言いなさんなって。
さくらちゃんの前で、恥ずかしい恰好なんてしたくないじゃない」
「目出度いじゃないか。
さくらがお前の為にどれほど”成長”したと思ってるんだ?」
「…ああ、そういうことね」
ちらりと視線を
さくらにやると、近づくなと言われた言葉を覚えているのだろう。
どうしていいかわからないようで、未だにおどおどとしていた。
20
「
さくらちゃん、ありがとうね。おかげで助かったよ」
京楽がだらしない笑顔を見せた瞬間、
さくらは両手を広げて駆け寄ってきた。
「しゅーっ!」
「おおっと、
さくらちゃんまで汚れちゃうよ」
「しゅっ!?」
「その…、泥だよ、泥。これつくと厄介なんだって……」
「京楽…」
浮竹の言葉が早いか否か
さくらの瞳がじんわり濡れ始め、大声でオイオイ泣きだした。
「やれやれ……お姫様に泥は似合わないでしょうに」
灰かぶり姫より厄介だよ…と言いながらも地面に胡坐を掻き、せめて
さくらと手を繋いでやろうとした。
「しゅう~!」
「あ!ほらぁ、抱きついちゃあ……あ~あ…?」
さくらの死覇装を間近で見た京楽は、薄汚れた人魚姫の姿に漸く気付いた。
「
さくら、お前を助けてくれと俺に言ったんだ」
「
さくらちゃんが?」
「ああ。ちゃんと言葉で伝えようとした」
「そう………」
思えばボクは ずっと
キミを追いかけてばかりいた。
初めて逢った、あの桃の節句の日から。
キミは一歩ずつ成長している。
今はまだ、おぼつかなくても……。
だからきっと近いうちに
ボクの許を離れる人魚姫(キミ)を
追いかける日が来るだろう。
「
さくらちゃん…。ホントにキミったら、なんて素敵なお姫様だろうね!」
「しゅうううううーっ!」
京楽と
さくらは互いをぎゅうと抱き締めて、汚れた頬を擦り合わせて笑った。
fin*
************************************************えー… おバカな
さくら様で申し訳ありません。
理性や美しい立ち居振る舞いを失った妻に対して、京楽隊長はどうするだろうなぁー?こうかなあ?と、お話を書いてみました。
私のお話はそう簡単にハッピーエンドにはならないのです。
でも、ハッピーエンド(?)ですがね。
最後までお付き合いいただけたらと思います。
2011.04.15
京楽隊長〔二〕 風⋆花⋆雪⋆月