「それじゃあ今日はこれで」
「お疲れ様でした、京楽隊ちょ…ぅ…」
伊勢の挨拶を最後まで聞くことなく、京楽は編み笠を目深に被り直すと女物の着物を翻して八番隊隊舎を去って行った。
あの日から――――
藍染を封印し、尸魂界に平穏が戻った日から
京楽は隊首業務を自らこなし終業時間きっかりに八番隊を去る。
サボらず酒も飲まず京楽が業務をこなすなど、誰が想像したであろうか。
この時間
誰とも視線を合わせずに足早に護廷十三隊を通り過ぎる京楽に、声を掛ける者はいない。
それは隊長格でさえ…親友の浮竹でも恩師である山本であろうともだ。
1
終業後の京楽と唯一言葉を交わすことができるのは、卯ノ花だけである。
「今日は髪も洗ってあげました」
「…そうかい。ありがとう……」
とはいえ、それも必要最低限の会話だけだ。
卯ノ花がゆっくりと扉を開くと白い薄煙が這いだし、京楽の足許に纏わりつく。
「
さくら。京楽隊長が来てくれましたよ」
遺体安置室の機能を備えた部屋を、
さくらの為に四番隊の一角に設けた。
そう。
さくらは死んだ。
崩玉を従えた藍染を封印するのに
弦昇の力だけでは全くもって足りなかった。
浦原に預けた封印架が発動すると、天支光輪を握る
さくらを背後から包むように手を添えていた
弦昇もろとも細やかな光に包まれたそうだ。
解放した時点で、恐らくはわかっていたのだろう。
弦昇だけではなく、
さくらの力をもってしても―――
力だけではどうにもならぬ、と。
いつもならば清らかな輝きを失うにつれてはっきりと見えてくる
さくらの姿が、光と共に薄れていると知った
はるかは顔を覆って
鏡月の胸に泣き崩れた。
家族であろうとも何も為す術がない中、
武礼だけが帯刀していた護王宝音を
さくら達に向かって解放したという。
それが功を奏し……
武礼の注いだ霊力が僅かに勝り
さくらの魂魄が消失するのを防ぐことができた………らしい。
2
「これは生きた屍だヨ」
それでも
さくらを見た涅は卯ノ花と同じ判断を、言葉を濁さずに告げた。
「本来ならば霊子に戻るはずの魂魄を、僅かに霊力が支えているだけだネ。それも本人のものじゃないから消失するのは時間の問題というもの。そう…今の状態は、いわば臨死状態だヨ。もうすぐ正真正銘の遺体にな…る」
涅の胸座(むなぐら)を掴んだ京楽に、誰もが怒りを覚えているのだと思った。
「つまりそれは…
まだ、
さくらは“遺体”じゃないってことだね?」
震える声が、低く確認した。
さくらはまだ生きている。京楽はそう解釈したのだ。
「聞いていなかったのかネ?もう、す…」
もう一度同じ結論を言おうとした涅を放すと、京楽は四番隊の別室に向かっていた。
走るというよりも瞬歩に近いスピードで四番隊隊舎内を嵐のように走り過ぎて行く。
そしてある部屋に駆け込むや否や、叫んだ。
「
武礼、キミが
さくらの命を繋いだ!繋いでくれたんだ。もう少し、もう少しだけ力を…」
寝台に横たわる義弟を見下ろし、一度深く息を吸った。
「キミの能力(チカラ)を、貸してくれ!!
さくらを救ってくれ―――!!!」
京楽は
武礼に縋り付いた。
3
しかし…
穏やかな
さくらの“遺体”とは対照的に、あの花の中に横たわっていた時の
さくら同様
武礼は生気なく動くことも叶わない。
「…」
乾いた唇を開くのもやっとで、
武礼が何を話したいのか…言葉どころか声すら聞きとれなかった。
「
武礼、頼む。頼むよ…」
彼に何の霊力も残っていないことを知りながらも、京楽は肩を揺さぶる。
「其奴には無理なことよ」
すると何時から居たのか、背後から義父の冷ややかな声がした。
その途端に京楽は身を翻した。
「彼は、霊力を失っただけ…だが
さくらは魂魄を失いかけている!死にかけているんだ!!」
京楽は涅の時と同じく
鏡月の胸座を掴んだが、今度は大声で叫んだ。
「どうあっても今の
武礼には無理じゃ」
平然と京楽の腕を掴み返すと、その手を解かせる。
それから寝台に歩み寄った。
「どうやった?」
「………ぉ父、ぅ…ぇ」
父が喉から頬に触れると、先程までは掠れた音も聞こえなかった
武礼の喉の奥から途切れながらも言葉が漏れだした。
「護王宝音を貸せ。儂が代わりにやる。
何、以前(もと)は儂も此奴の主。コツさえ教えてもらえば、然程難しくはなかろう?」
天支光輪に二人の主が居たように、護王宝音にも二人の主が居る。
武礼は力を使い果たしたが、
鏡月ならば……
可能なのだろうか?
「…基本は、斬魄刀と同じ…。霊力を注ぎ、ます」
「うむ…」
一通り
武礼の話を聞くと、
鏡月は京楽の前から姿を消した。
「―――ぉ義父さ…ん?」
黙って二人のやりとりを聞いていることしかできなかった京楽は、事態を飲み込めていない。
「父、が 行きま…した」
さくらの許に
鏡月が向かったことを
武礼は告げた。
5
京楽が
さくらの許へ戻った時には、卯ノ花に
はるか、虎徹勇音、四番隊の席官、そして……
「鬼道衆です。要請により応援に駆けつけました!」
力を貸せる者が
鏡月の伝令を受け、続々と集まってきていた。
「皆、長丁場は覚悟せい…」
鏡月が、
武礼から預かった護王宝音を鞘から抜く。
「楽(がく)は我が魂と共に、我が耳によりて我が魄を動かせり。護王宝音!」
その瞬間から戦意も無いのにこれほどの霊圧を放てるのかと思うぐらい、室内は圧(お)された。
妻は心得ていたのだろうが、卯ノ花と京楽ですら一瞬呑まれそうになったほどだ。
斬魄刀を操る霊圧とは異なる感覚に誰もが馴染めなかったが、それは心地の悪いものではない。
要領を掴んだ者から順に
鏡月に、協力し始めた。
しかし
鏡月の言ったとおり、いくら時間が過ぎようとも終わりが見えない。
「――っ…」
「限界を感じたなら、抜けなさい。荻堂八席」
鬼道衆は交代で休んでいるが、四番隊は十席までがずっとかかりっきりだった。
そのうちの三人が脱落した。
「なんて…」
いくら鬼道を叩き込んでも全く手ごたえが無い、と荻堂が呟く。
涅隊長はもうすぐ遺体になると言ったが、この感触は最初から遺体そのものだった。
6
「護廷十三隊で……お力を貸していただける死神の方々は、これで全員ですか…?」
はるかが護廷十三隊側の助け人を確認するということは鬼道衆全員の力を借りていて、そちらも限界が近いということだ。
卯ノ花は十番台の席官を参加させることに未だ躊躇いはあったが、そうも言っていられない。
荻堂らの回復には二十番台の席官が当たることにし一人ずつ様子を見ながら増員したが、それでも全く変化は見られなかった。
「ボクは、お力になれませんね…」
鬼道は扱えど治癒的なものとなると出番がない京楽が、ただ見ていることしかできないもどかしさから口を開いた。
「…京楽隊長のお力は、後ほどお借りする。
さくらの魂魄が安定すれば、それに越したことはない…」
鏡月が話しながら刀を僅かに捻った。
鍔についた独特の傷が、京楽の位置からも見える。
こんな時だというのに…
いいや、だからこそ闇の花園に眠る
さくらの傍らに置かれていた家宝刀は天支光輪ではなく、この護王宝音だったことを京楽は思い出させられる。
あの時の
さくらは見られた姿ではなかった。
しかし、あの状態ならば時間をかければ助かるのだ。
7
先程の義弟を思い出した京楽は、声まで干乾びていた
武礼が
鏡月に触れられた途端に話ができた訳を漸く理解した。
あれは、
鏡月が説明を訊くのに必要な箇所に限って治癒を施した。
それも瞬時に―――――。
義父は護王宝音の前の主だから、この技をすぐに扱えただけではない。
治癒系鬼道の知識と能力までも持っているのだ。
どこまで凄い男(ひと)なのか……京楽は、こんな時でなければこの場にへたり込んでいたかもしれない。
だが
武礼と比べものにならぬほど、瀕死―――
いいや臨死状態の今の
さくらの前では驚きも薄れるというものだ。
この状態の
さくらを前にしても
鏡月の表情は崩れていないが、
はるかが動揺を隠しきれていないのは明らかだった。
「山田七席」
その間にも卯ノ花が山田の限界を知り、抜けるように促す。
「大、丈夫です。もう少し…」
「一度抜けるのです。微妙な調整を要する今、安定しない鬼道は皆の妨げになります。回復したら、また参加しなさい」
山田がはいと力なく同意し周囲を見ると脱落した席官が他の者に治癒をされている始末だ。
山田のうろたえぶりから処置に携わっている者に余裕がないことは明らかで、そんな状況下で口を開ける卯ノ花や
鏡月達がどれほどの腕の持ち主かが推し量れる。
8
「
さくらと師匠…二人同時では難しいのではありませんか?」
そんな彼らの力をもってしても今だ変わらぬ状況に、京楽が
さくらだけでも…という気持ちを遠回しに告げる。
「
弦昇も、
武礼と同じことを考えていたようでの…」
鏡月は手を休めずに話した。
「己(おの)が魂魄を
さくらに注いで最期を迎えるつもりじゃったらしい。それ故か、
さくらに直接護王宝音で働きかけるよりも
弦昇と同時にか―――寧ろ
弦昇に流し込むほうが、効果的な気がするのじゃ」
「…そうか。だから僕は手ごたえが薄かったんですね」
それを聞いた山田は言葉を漏らした。
「まあ、全然気付きませんでしたわ」
卯ノ花も小さく驚いてみせた。
「卯ノ花隊長は自らを補助と思っていらっしゃる為に、自然と護王宝音に力を貸す形になっていらっしゃるのでしょう…」
はるかは皆の鬼道が調和するように助けていたが、卯ノ花には一度もその手を差し伸べずにいられた理由を述べた。
こうして時計の短針が半周を過ぎ、一周を過ぎても、
さくら達の蘇生を試みた。
9
しかし…
「魂魄の崩壊を遅らせたところで、無駄だヨ」
涅の忠告は正しかった。
さくら達は原形を保ってはいたが、体の機能が再開する気配は全くなかった。
「これ以上は…」
誰となく呟いたところへ、治癒を施された
武礼がよろめきながらも現れた。
漸く立って歩けるようになっただけのその様で、
さくらを助けられるはずもない。
武礼も、そのつもりはなかった。
ただ、待ってくれと告げに来ただけだ。
「俺が…必ず、
さくら姉を目覚めさせます」
そう伝える為に。
さくらの回復に力を貸した者は不可能なことだと感じていても、誰も
武礼には言えなかった。
10
その日から
京楽は隊首業務を終えると、毎日
さくらの許に通っている。
通っているといっても、遺体となんら変わりない
さくらを
武礼が起き上がれるようになるまで保管しておいただけのようなものだ。
実際、最初は低温を保つ為に遺体安置室に置かれていた
さくらだが
肉体に魂魄は十分満ちたと判断され、同じ機能の部屋を四番隊の一室に設けてからは卯ノ花が目を配ってくれている。
あの日からだけでも、何日が過ぎたのだろう―――。
もしかしたら何十年、何百年かもしれない。
しかしそれはもう、どうでもいいこととなってしまっていた。
京楽から季節は姿を消し、食事は砂の味と化し、酒は泥水同様となった今はもう……。
今ではすっかり回復した
武礼は六番隊の任務をこなし、月に一度の間隔で
さくら達に霊力を注いでいる。
簡単に聞こえるが技術開発局に四番隊、
さくらの両親らの協力の下、限界まで義弟は力を発揮してくれているのだ。
だがこれも涅の言葉を借りれば「防腐剤を打っている」ようなものだった。
さくらはぴくりとも動かない。動かないどころか、何の変化もない。
それこそ魂魄が消失しないというだけだ。
11
寒がりな
さくらが、京楽ですら肌寒いと感じるこの部屋で、縮こまることも京楽のぬくもりを求めることもなく眠っている。
毎日訪れる必要はないと助言されたこともある。
だが、それならば一体何日置きに来ればいいのか……。
永遠に足が向かなくなりそうで、そんな自分を京楽が最も恐れた。
当初は
さくらを前に酒を煽ったこともあったが、介抱してくれぬどころか声すらかけてもらえぬ妻の前では酔うことすらできなかった。
殆ど扉の前から動かず
さくらの全身を眺めていた京楽が、漸く歩み寄り枕元の椅子に腰を下ろす。
「
さくらちゃん、知ってる?現世の御伽噺(オトギバナシ)では王子様がお姫様に口付けると、息を吹き返すって…」
話すことが決まらぬうちに傍に寄れば、悲しみで押し潰されそうになるからだ。
「キミは、ボクのお姫様じゃなかったのかい?」
わかっているが、
さくらの冷たい唇は応えてくれはしない。
「
さくら…」
ボクはもう、無理に明るく振る舞うこともおどけてみせる気力もなく、ただ惰性で仕事をこなしている。
12
どうすればボクの
さくらは目を開けてくれる?
「息を、して」
「笑ってよ…」
「声を、聞かせてよ――」
「
さくら――」
あの日
藍染に斬られた傷は、
さくらに治してもらうから完治させないでくれと卯ノ花に苦笑いして帰還したというのに。
てっきり浦原に手柄を取られたと思っていたのに……。
魂魄の消失を免れたキミは直ぐに回復して、仕事もせずに付き添っていたボクに「四六時中傍に居てくれた」と、喜んでくれると思ったのに…………。
一月も経てば、それが夢であると 知った。
それでも………
一年、二年の間は
「もし千年後にキミが目覚めたら、ボクとの年の差はもっともっと開いちゃうね…」
そう冗談めかして言えたが、今ではとうにそんな日も消え失せた。
あれから何年、何十年経ったのだろう―――。
「
さくら――…」
いっそ、忘れてしまえたら………
さくらとの日々の全てを忘れてしまえたなら……
何度、そう願ったことだろう。
あの笑顔も あの温もりも
薄れてきているというのに………
決して忘れられない、忘れたくない 時間。
13
「
さくら――――」
その名を呼べることが至上の悦びであり
「
さくら…」
その名を呼んでも応えてくれぬは至上の哀しみ。
冷たい手を握り
冷たい頬に頬を合わせて、己の熱の半分でも
魂魄の半分でも 分かち合えないかと………願う。
「
さくら――――…」
「…一晩中、此処にいらっしゃったのですか?」
肩に触れたぬくもりに、京楽は重い頭を動かした。
「朝ですよ、京楽隊長」
爽やかな朝を呼ぶ清らかな声。
「う…?」
京楽を起こした相手は、卯ノ花だった。
京楽は突っ伏していた顔を掌で撫でまわし、なんとか自分を目覚めさせた。
「まだ
天宝院さん方がお見えになるまで時間はありますが、どうなさいますか?」
「…あぁ」
自分が非番を取っていたことすら忘れていた。
その非番が、
さくらを蘇生させる為のものであることすら………。
14
冷たい
さくらの体を抱いて、施術できる部屋へ連れて行く。
それは京楽の仕事だ。
朝日の差し込む部屋に入ると、
はるかがおはようございますと声をかけてきた。
枕元に花が飾られたベッドに寝かせ、少し窓を開ける。
卯ノ花も時間があると立ち会ったが、大抵は
さくらの体が常温に慣れるまで
はるかがひとりで管理している。
鏡月と
武礼は開始間際まで現れないのが普通だ。
二人が交互に
さくらの蘇生を試みるのは、
弦昇とのバランスもあるのかもしれない。
だが京楽が敢えて訊くことはなかった。
「楽は我が魂と共に、我が耳によりて我が魄を動かせり。護王宝音!」
今日は
武礼が護王宝音を解放した。
室内でまず一番にこの刀に応えるのが花であることを、京楽も既に知っている。
花は自ら悦んで
さくらの一部となろうと、香りを差し出すのだ。
その次に
さくらが目覚めたなら風や光が反応するかもしれないと、余程の天気でない限り窓を開けている。
自然に反応するのではなく、自然が
さくらに反応すると考えている点がこの家族らしいといえば家族らしい。
15
天支光輪は霊子をあらゆるものに変換することも密度を高めることも可能だが護王宝音にはその力は無く、霊力を注げるだけだ。
つまりは萎れた花を元気にすることはできても、枯れた花を元の花に戻すことはできない。
裏を返せば天支光輪が使えたならば、この状況の
さくらを蘇生させることは十分可能なのだ。
だが天支光輪の主が二人ともこうなってしまっている今、兄弟刀である護王宝音の可能性に賭けるしかない。
期待と諦めの混じったこの時間が、一番辛かった。
どの時点で今日は…今日も無理だと判断すべきか、誰もが口を開くのを躊躇うからだ。
「ありがとう…お疲れ様……」
そしてその言葉を告げるのは、いつしか京楽の役目となっていた。
次回の施術まで低温保存しておく為に、再び京楽が
さくらを抱き上げた。
あの部屋を出て少し常温に戻った
さくらの体は、眠っているだけのように感じられる。
だらんと力なく垂れる手に
開かぬ瞳に
眠っていると、感じられた。
さくらは、眠りに就いた。
永遠の…覚めることのない、眠りに。
今までずっと考えまいとしていたのに、不意にこの状況を認められた。
16
そうとは知らず部屋に現れた卯ノ花は、いつもと変わらぬ言葉をかける。
「お疲れ様でした。また…次回まで、
さくらを預からせていただきますね」
いつか
さくらは目覚めると、期待を込めた卯ノ花の物言い。
だが京楽は、期待はしていない。期待どころかもう希望は消え失せた。
「卯ノ花隊長…。もう、あの部屋に
さくらを戻さなくてもいい」
「―――京楽隊長…?」
着物を翻した京楽が、
さくらを抱いたまま四番隊隊舎を出ていくことは皆にも察しがついた。
さくら。もういいよね?
もう十分手を尽くしたよね?
「キミの処へ…行っちゃ、ダメかい?」
全てを投げ出したかった。
投げ捨ててしまいたかった。
京楽にはどうすればそれができるのか、わからなかっただけだ。
さくらの艶やかな髪は、編まれていても京楽の指を楽しませてくれた。
さくらに触れていれば何も悲しいことは起こらない。
さくらが微笑んでいれば世界は幸せに満ちていた。
もう、あの日々は戻ってはこない。
いくらこの体が残っていようとも、微笑むことも手を握り返してくれることもない。
17
「
さくら―――」
深く深く息を吸い込み、ゆっくりと長い時間をかけて妻の名を外気に溶け込ませた。
さくらは、この世界とひとつになった。
この世界の全てが
さくらであり、骸(むくろ)はあろうともこの中に
さくらは居ない。戻ってくることは、ない。
「このまま……時間が止まってしまえばいいのにね」 遥か昔、ボクがそう呟いたなら
「…時が止まってしまったら、春水さんと居られて幸せだなあって思う気持ちまで止まってしまうでしょう?」 キミは首を傾げてそう答えた。
「
さくらちゃん――」
キミは時間が止まれば 全てが止まってしまうと言った。
ボクは時が止まれば今が永遠に続くと思った。
「でもね、違ったよ。二人とも、不正解…」
時が止まれば喜びや幸せは止まってしまう。なのに悲しみや苦しみだけは永遠に続くんだ…………………。
キミが微笑みキミと触れ合う瞬間―――
それを取り戻す為ならば、どんな努力も辛抱もするつもりだった。
今でも………………
とは、もう
京楽は言えなくなっていた。
18
京楽はいつの間にか見晴らしのいい場所に来ていた。
足が止まったのはその先に道はなく進むことができなかったからだが、此処は
さくらと最後に遊びに赴いた場所だと山を眺めていて思い出した。
あの日と同じように強い風が吹いている。
「空、高いですね…」あの時
さくらはボクの腕の中で空を見上げたけれど、今は目を開けることすら、ない。
あの時は二人が見上げる空を甲高い鳥の声が通り過ぎていったけれど、今は何も聞こえない。
「今度一緒に出掛けるのは、さくらちゃんの任務が終わってからにするね」あの約束は、果たせなかった。
空は何処までも続いてるけれど、景色の続きも巡ってくるけれど、ボクらの世界はあの日途切れた。
「大丈夫だよ。必ず、ボクらが勝つ」そう誓ったボクはお粗末な働きで、キミは人知れず大義を為して戦いを終わらせ、そしてボクの許から去って行った。
キミと、この景色の続きを見たかった―――。
19
「…天宝院家は瀞霊廷を、延(ひ)いては尸魂界のみならず現世も守護する為に在ります」 ボクはキミを、護れなかった…。
それどころかキミに護られて…
キミを失くして………。
お義父さんに感じたのは、藍染と同じ意志を貫く強さ。
キミに感じたのは、藍染と同じく世界に選ばれた魂(もの)の感触―――
「春水さん…
尸魂界(ここ)を護るのは、私達の役目ですから……」 ボクは全てを察していた。
けれども何の力にもなれなかった。
そしてキミを失った。
失った。
失ったんだ……………。
もう…このまま
さくらを抱き締めたまま、自分も命尽きてしまえばいいのに。
京楽は高い場所に居ながら、深い穴の中にいるようであった。
まだ底知れぬ、深い穴。
このままもっと、どん底まで落ちて行こうか―――。
風は足下から吹き上げていた。
あと二、三歩で風に乗れそうだ。
さくらと
風に乗って、二人―――
「京楽!!!」力強いその声に、京楽は自分が何をしようとしていたのかを忘れた。
否、我に返ったのだった。
ザリ、ザリ、とゆっくりと歩み寄る足音に、編み笠や履物や隊首羽織、
さくらを抱いている感覚が京楽に戻ってきた。
20
ガッと肩を掴まれた力のわりには、此方を向けと穏やかな声に誘(いざな)われた。
その凛とした眼差しに、救われた。
浮竹の、真っ直ぐに自分を見る…貫くような力強い視線に―――。
「こんなところで、何をしてるんだ?」
やはり眼差しとは裏腹に、声は優しく問いかけてきた。
「………………」
「
さくらの家族が、待ってる」
春水は腕の中の妻に視線を落とした。
「お前を、待ってるんだ」
違うと言いたげに、浮竹が首を振る。
「浮竹…」
「
さくらの家族が、何とも思ってないと思ってるのか?
彼らは誰かが諦めかけたら誰かが励まし、今日までやってきたんだ。
僅かな可能性に希望を見出してな」
「それは…」
ボクもそうだ、と言い訳しかかった言葉は幸いにも喉の奥に引っ掛かった。
「お前は
さくらの、一番の家族じゃないのか?誰にも代われない、夫という存在じゃないのか!?」
21
「浮竹… キミには、わかんないよ…」
「…ああ。俺にはわからん。
命を賭けて藍染を封印しなければならないという時に、あの生真面目な
さくらが唯一…」
そこまで言われても、京楽には思い出せなかった。
「任務とは関係のない紅を身に着けていた理由すらも、な」
「―――――…」
普段から整理整頓の行き届いていた
さくらだが、明らかに自分が居なくなった後のことを考えていた節があった。
己の最期を覚悟した
さくらが、戦いに必要のない紅など持っているはずがない。
さくらは―――天支光輪の主は、最期に自分がどうなるのかを知っているのかもしれない。
だからこそ京楽の形見と同じ光となり、尸魂界に漂いたかったか……
「今度一緒に出掛けるのは、さくらちゃんの任務が終わってからにするね」「……はい」或いは必ず再びこの紅を引く決意の表れだったのか。
ああ――
そう…、 だった……。
逝くにしろ
生きるにしろ
さくらはボクと居たかった―――。
あの日
真っ暗な部屋で独り紅を握り締めた感触を、京楽は思い出した。
22
さくらをその腕に帰ってきた京楽に
青ざめながらも無理に微笑む
はるか。
焦燥をすぐさま隠した
武礼。
じっと瞬きもせずに京楽を見遣る
鏡月―――。
彼らがそんな表情をするなど、考えれば容易に想像できたのに
考えたことなど一度も無かった……。
「す…」
「春水殿。
さくらはもう元には戻らぬやもしれん」
京楽が詫びる前に
鏡月は視線を外すと、
先程まで京楽が考えていたことを、
鏡月は初めて言葉にして告げた。
「しかしの、今の
さくらには儂ら家族の霊力が注ぎ込まれておる。それが
さくらの血となり肉となったように、いずれは儂らの
さくらが戻ってくると…信じようぞ」
きっとこの義父(ひと)は、いつでもボクにそう言えただろう。
けれどボクは耳を貸さず目を背けていた。
今でなければ聞こうとすらしなかった……。
「―――はい…」
待つことの辛さを
自分一人が抱えていると思い込んでいた。
今、
さくらの体がここにあるのは、師匠が手を貸してくれたからだ。
武礼が努力してくれたからだ。
義父らが諦めないでいてくれたからだ。
必要なのは期待でも希望でもない。
さくらの帰りを家族全員で信じて待つこと。
「はい、信じます。お父さん…」
京楽は自分を”家族”と呼んでくれる彼らを、初めて信じられた。
23
あれから半年近く経ったが、
さくらは相変わらず眠ったままだった。
だが一人で
さくらの回復を待っていた頃とは比べものにならない。
時には冗談を言えるほどになった京楽の余裕に、
はるか達が救われることもあった。
二週間ほど前に義弟が師匠の蘇生を試みたので、今日は父によって護王宝音が解かれる。
「楽は我が魂と共に、我が耳によりて我が魄を動かせり。護王宝音!」
それでも、
弦昇も
さくらも眠ったままだった。
「ありがとう…ございます。お疲れ様でした…」
武礼は、必ず自分が
さくらを目覚めさせると言い張っている。
武礼の誕生日に目覚めなかった
さくら。
その所為か京楽はなんとなく、自分の誕生日に
さくらが目覚めてくれるのではないかと思っている。
そんな期待があるからか、今日はすんなり区切りの言葉を言いだせた。
24
はるかが窓を閉め、京楽が
さくらを抱き上げようとした時だ。
さくらの睫毛が風に揺れた。
「………」
風などない。
「………」
この部屋に、風は吹いていない。
「………」
しかし誰もが、
さくらの睫毛を揺らしたものを見た。
「………」
それは風ではなく―――
「
さくら……?」
「
さくら姉…」
「
さくら、ちゃん?」
さくらを取り囲み、息を殺して
見守る。
「
さくら姉!?」
武礼が今一度、姉の名を呼ぶ。
確かに――
今度は睫毛ではなく、瞼が動いた。
微かに
微かに…
25
はるかがそっと、手を
さくらの顔にかざした。
「――――お…ぉ」
震える手で己の口を覆った
はるかの瞳からは、涙が滔々と流れ出た。
「
さくらちゃん…お姫様はね…王子様の口付けで、目覚めるもの なんだ、よ……」
キミってば、とんでもないお姫様だ。
ボクの口付けでは眠ったままで
記念日やボクの誕生日なんて
まるで無視して
長い眠りから 目覚めてくれた
世界を救ってしまうほどの
素敵な、お姫様。
「
さくら、ちゃん…」
京楽の頬を伝うものが、
さくらの頬に落ちた。
いつ以来だろう。
さくらの漆黒の瞳に、京楽の姿が映し出されたのは。
嗚呼――
この一瞬が
Verweile doch!
ボクの 全て
Du bist so schön.
fin*
************************************************前回タイトルの一般的な日本語訳を書きましたが、私の訳はこうなりました。
かなりの意訳です。他では通用しませんのでご使用にならないでください。(^^ゞ
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
でもまだ終わりではございませんので~。
2011.02.28
京楽隊長〔二〕 風⋆花⋆雪⋆月