「冬の決戦に向けて、鍛錬してくるね」
京楽のこの言葉を、伊勢が書類書きをサボる言い訳だと勘違いしたのは無理もなかった。
「ちょっと待ってください、隊長!」
しかし女物の上着を掴んだだけでは止まりそうにない京楽の歩調に、伊勢は気付くべきだった。
「……何?」
振り返った京楽の表情と近くにいた平の隊士が京楽の霊圧でその場に倒れ込んだことで
伊勢は漸くその言葉が本物だと知り、失礼しましたと京楽の腕を放し改まって呼び止めた言い訳を始めた。
「あの…でしたら、卍解の申請…」
「技術開発局には今朝、隊舎(ここ)に来る前に申請しておいたから」
それだけ告げると「勿論結界も張るよ」と付け足しながら前を向き、普段女の子が目の前で倒れていれば間違いなく声を掛ける京楽が一瞥すらくれず去って行った。
1
「大丈夫?」
腰を抜かしている隊士に伊勢は手を貸した。
「は…はい。でも今日の隊長、どうしたんですか?」
京楽が本気になったらどれ程のものかを知っている伊勢は、あれでも霊圧をかなり抑えていることはわかっていた。
「今朝は隊長、少し機嫌が悪いみたいね。何かある時は必ず私を通すように皆に伝えておいてください」
京楽の怒りの矛先は藍染らに向けたものだということは理解できたのだが、彼の気持ちを突然煽ったものが何であるのかは伊勢には想像すらできなかった。
2
隊長格が斬魄刀を解放して鍛錬にあたる場合、ひとつは自ら結界を施しその中で行う。あるいは技術開発局に申請し指定地域の霊圧を遮断してもらうのが通例だ。
冬の決戦を間近に控えたこの時期だ。
他隊から見ればあの京楽隊長も漸く腰を上げたかと思われる程度だろう。
しかし伊勢や彼をよく知る浮竹や山本ならば、何処か京楽らしくないと気付いてもおかしくはない。
況してその状況が
さくらの四番隊勤務の日も続いたとあれば尚更だった。
伊勢は酷く申し訳なさそうに、夫と昼食を相伴しに八番隊に現れた
さくらにそのことを伝えた。
「わかりました。ありがとうございます、伊勢副隊長」
さくらは笑顔で礼を述べると、白衣を翻した。
休憩時間に薄桃色の救護着で他隊の隊舎をうろつくのを避ける為、医薬品取扱専門詰所を出る時に外出用の白衣を
さくらが羽織るようになって久しい。
さくらもまた、こうして八番隊隊舎を訪れるのに抵抗はなくなっていた。
3
京楽が何処で鍛錬しているかなど、捜すまでもなく付近まで行けばすぐに居場所はわかった。
結界を張っているとはいえ、京楽の霊圧が竜巻のように
さくらを吸い寄せる。
卍解の許可を申請しているが基本的に始解にて鍛錬し質を高めているらしい。
さくらは初めて見た夫の解放された斬魄刀の太刀姿に、目を奪われた。
伊勢は京楽が怒りから鍛錬に励んでいると思っている口ぶりだった。
だが、
さくらには夫はただ『護りたい』が為に刀を抜き、己を練磨しているのだと感じられた。
確かに凄まじい威圧感に体を押さえ込まれると同時に地面から噴き上げる京楽の霊圧に包まれると、まるで火口から流れ出た灼熱のマグマに飲み込まれるかのようである。
その情熱に融けたことがなければ、これは恐怖かもしれない。
しかし
さくらはそんな夫を目の前にしながら、思い出すのはあの日の京楽の感触だ。
4
「大丈夫だよ。必ず、ボクらが勝つ」低く深く頭から爪先まで
さくらを包み込む夫の声が聞こえる。
戦いの炎を吹き上げる男に包まれ身を焦がしてしまいたいと望むのは不謹慎だろう。
それでも京楽が両手に身の丈に相応しい二刀を構える姿は堂堂たるもので、見惚れずにはいられなかった。
「…どうしたの――?」
男らしくも円やかな声にすら、酔っていた。
「
さくらちゃん。こんな所まで来て、どうしたの?」
「………」
遠くに認めていた男の姿はとうになく、
「隊長……」
視線を上げると、京楽が自分の目の前にいた。
5
「あ…。えっと、お昼に……」
漸く
さくらも夫を捜していた理由を思い出した。
「ああ…。もうそんな時間?」
京楽は太陽を見上げた。
「日差しが強くないから、わからなかったよ…」
少し不機嫌そうに聞こえる声は、鍛錬に集中していた所為だろう。
まだ物足りなげな京楽の気持ちを察した
さくらは白衣のポケットに両手を入れると少し身を乗り出すようにして、未だ空を見ている夫に声をかけた。
「隊舎まで、追いかけっこしながら帰りません?」
さくらの明るい声とその内容を解せなかった京楽は、再び妻に目を落とした。
「先に隊舎に着いた方の勝ちですよ?」
さくらは両手を仕舞ったまま、一瞬ふわりと浮いた
ように見えたかと思うと、姿を消した。
6
「えっ!
さくらちゃん!?」
京楽が驚いたのは、
さくらは隊舎と真反対の方向に移動したからだ。
「ちょっと、
さくらちゃん!!!」
慌てて斬魄刀を鞘に戻すと、京楽も後を追った。
「―――私の後ろをついてちゃ、勝てませんよー」
そんなことを言われても明らかに遠回りする妻より早く帰舎したところで勝ったとは言えないだろう。
シュン シュン シュン
シュンッ
風を切る音が耳を占め、一瞬蹴る大地だけがあっという間に過ぎていく目の前の景色とこの時間を感じさせてくれる。
タンッ!
京楽は次のタイミングで妻に追いつくつもりだった。
7
しかし
―――ススゥ…
と、
さくらの体が滑らかに移動する。
確かにこの腕に捉えられた距離だったのに、気付けば更に距離が開いていた。
「
さくらちゃんっ」
京楽の指先から指の股、そして掌から甲まで、一瞬にして汗が滲んだ。
――追いつけない!
焦りが現実となるのを恐れ、京楽は更に飛躍距離を伸ばすが、
さくらはより一層遠ざかる。
追いかければ
追いかけるほど
「
さくらっ―――!」
妻は遠ざかって行った。
8
「はい、到着!」
さくらは着地すると、ポケットに入れていた両手を天に大きく伸ばした。
そしてくるりと後ろを向くと
「隊長の…」
隊長の負けですねと言おうとしたところを息の荒い夫に抱きしめられた。
「あのっ!」
八番隊隊舎庭にて夫の抱擁を受けた
さくらは、慌てて京楽から逃れようとした。
しかし身を捩ろうともビクしないものだから、少しだけ自由な手で京楽の体を叩いて訴えた。
「隊長!離れてください!」
「
さくら……」
呼吸が整い妻の名を呼ぶと漸く
さくらを見、安堵したかのように腕を緩めてくれた。
9
夫がふざけるのはいつものことだが、少し様子が違うかと
さくらが確かめようとした矢先に、伊勢が二人に駆け寄ってくる。
あ~あ、隊舎であるまじき行為と叱られるかと、
さくらは肩を竦めた。
「隊長!危険です!!霊圧を下げてください!!!」
青ざめた伊勢の告げた意味が暫し理解できず、二人は一瞬顔を見合わせた。
「――あ、ご免よ…」
隊舎の庭先に誰もいないのだと思っていたのだが、急に京楽の霊圧に襲われた隊士らは隊舎内に避難していたのであった。
京楽の霊圧が下がると、伊勢は胸を撫で下ろした。
10
「私、手を洗ってきますね」
さくらは両手をひらひらと見せながら、京楽にもきちんと手を洗うようにと笑った。
恐らくは食事の途中であった伊勢も、妻と普段どおりの様子の京楽にホッとしながら戻って行く。
「七緒ちゃん…」
その伊勢を、京楽は沈んだ声で呼び止めた。
「ボクは…キミに言われるまで、隊舎内で認められている霊圧を超えていたんだ。よね?」
申し訳なさそうに肩を落として問う京楽に、伊勢は反省しているのだと思ったらしい。
「ええ、そうですよ。戦闘レベルの霊圧でいきなり隊舎にお戻りいただいたのでは、堪りませんからね。以後お気をつけ願います」
眼鏡を持ち上げてそう言うと、伊勢は京楽から目を離した。
11
項垂れていた京楽は、ゆっくりと薄曇の空に浮かぶ太陽を見た。
隊舎に戻って尚それだけの霊圧を維持していたのならば、鍛錬中のボクの霊圧はその10倍は優に超えていただろう……。
さくらは"それ"を、眺めていた。
優しい眼差しで、平然と立って―――。
そんなはずがない。
通常、平の隊士があれだけの霊圧に耐えられるはずがなかった。
今の霊圧でさえ副官の伊勢が青ざめて足がふらついていたのだ。
12
「隊長、手を洗いましたか?」
まだ庭に佇んでいた京楽を、戻ってきた
さくらが微笑んで昼食に誘う。
京楽の胸中をグルグル巡る思い当たる出来事は多すぎた。
初めて逢った時の見事な瞬歩は、美しさに重点を置いた鍛錬の賜物であろうと感服した。
それを木立の並ぶ中でも足場の悪い砂地や岩場でも事も無げに披露する
さくらに恐れ入った。
忘れていた。
さくらがそれほど優れた瞬歩の持ち主であることを、今日
さくらに鬼事を仕掛けられるまで。
あの時感じたのは、
さくらの瞬歩に追いつけない焦りではなかったのだろうか。
第一
さくらが、あれほどの霊圧の中で冷静に――――
13
「
さくら、ちゃん……?」
夫に呼ばれ、
さくらははいと返事した。
「どうしました?」
首を傾げる妻はまだあどけなさすら覗かせている。
そんなはずはない。
そう思いたかったが、京楽はとうに確信していた。
さくらは、ボクの霊圧を冷静に遮っているのでも耐えているのでもない。
それどころかどれ程大きな霊圧であろうともその圧を認識していない或いはできていないのだ、と。
現に
さくらもさっきまで、
ボクの霊圧が高いことに気付いていなかったじゃないか―――。
14
「隊長?」
さくらが京楽の顔を覗き込む。
「
さくらちゃん……。さっきからボクのこと、隊長って呼んでない?」
確信が持てた今、これ以上考えても致し方の無いことに、京楽は気持ちを切り替えた。
「――すいません。隊…春水さんの鍛錬中のお姿を見たら、つい……」
両頬を包み込んで赤くなった
さくらに、京楽の胸を占めていた思考はなりを潜めた。
「おんやぁ?それはボクの勇姿に惚れ直したってことかな?」
そう聞かれると、
さくらは頬を覆っていた手で顔を全部隠して大きく頷いた。
「――参ったねぇ」
こんなに可愛く素直な妻なのに……。
15
強い。さくらは自分より遥かに強い死神だ。
それを認めてしまった今、京楽の体から力が抜け
指先にも力が入らなくなり、持っていた箸がカツンと膳の上に落ちた。
「………」
女にだらしないことはあっても立ち居振る舞いがだらしないことは有り得ない京楽の失態に、
さくらは夫の顔を見る。
「少し……ぼーっとしてた」
ご免ねと謝り京楽は箸を拾う。
「いえ…。大丈夫ですか?」
それを
さくらは、それほど夫は疲れていたのかと勘違いをした。
「後でお昼寝しましょうね」
食後にごろんと横になり、二人くっついて仮眠する。
結婚以来の習慣だ。
「そうだね…」
平静を装わなくてはと自分に言い聞かせ、京楽は笑ってみせた。
16
昼寝の習慣のなかった
さくらは、結婚当初は京楽の隣でどぎまぎして昼の休憩時間を過ごしていたが
今では京楽の隊首羽織に頬を乗せて、深い呼吸音を聞きゆっくりと上下する胸の揺りかごですぐに寝付くようになっていた。
しかし今日はあの頃のように寝付けそうになく、夫から視線を外しても目が行くのは二刀の斬魄刀だ。
あんまり
さくらがにこにこしているものだから、「そんなにボクが格好良かったの?」と問えば「はい!」としっかりした返事が返ってくる。
医薬品取扱専門詰所から羽織ってきた白衣を上掛けにしているが、大きく頷いた為に肩からずり落ちたほどだ。
「二刀の斬魄刀を構えたお姿を拝見したのも、初めてでしたし」
そうだったかな…と京楽も思い返して、
さくらには披露したことがなかったのを思い出した。
「
さくらちゃんだって、二刀――斬魄刀と家宝刀を操ってるじゃないの」
そんなに珍しいことじゃないよと京楽が嘯(うそぶ)くと、
さくらは「春水さんみたいに同時には扱えません」と答えた。
「それに私、まだ始解にも至ってません…」
さくらは恥ずかしそうに俯くが、双極の矛と磔架を造るほどの技術と能力があれば始解ができないはずはない。
17
「少し、眠ろうか」
京楽にそう言われると、
さくらは瞼を閉じた。
妻の体を暫く撫でてやっていると力が抜けてきて、京楽の胸の上から落ちそうになった。
腰を抱き寄せようとするとちょうどポケットの上で、そこには帽子が入っている。
帽子を潰さぬように除けて体を引き寄せ、綺麗に編みこまれた黒髪から自分の腕に包まれている
さくらの寝顔に視線を移した。
まだホンの子供じゃないの……。
無防備に眠る姿は確かに平の隊士だ。
ボクの腕にすっぽり収まるこの小さな体の、何処にそんな力があるのさ……。
さくらの力――能力ではなく強さに気付いた今、京楽にはその不釣合いな力は理解の範疇を超えていた。
18
そういえば旅禍の黒崎一護もそうだった。
隊長という職に長く居る自分とは違い若気の至りで無茶をしているのかと思えばとんでもないことを平然とやってのけた当の本人には何でもないかのようで、更には結果を出してしまう。
「それが若さっていうものかい?それともボクが老いたのかい?
それとも――」
その先は考えたくなくて、先程も止まった場所だ。
藍染といい、黒崎一護といい、このところ今まででは考えられない者が現れる。
「そういう時代、なのかねえ…」
さくらの艶やかな髪は、編まれていても京楽の指を楽しませてくれた。
さくらに触れていれば何も悲しいことは起こらない。
さくらが微笑んでいれば世界は幸せに満ちていた。
「
さくら―――」
深く深く息を吸い込み、ゆっくりと長い時間をかけて妻の名を外気に溶け込ませた。
「このまま……時間が止まってしまえばいいのにね」
19
♪チチッ チチッ チチッ…
小さな目覚まし音の後、腕の中の
さくらが徐々に体を起こし始める。
京楽はいつものように目を閉じたままだ。
「春水さん。時間ですよ」
人差し指の腹で軽く二回頬に触れ、
さくらは夫を目覚めさせる。
「もう、時間?」
「ええ」
京楽の腕をすり抜けた
さくらは、穏やかに笑みを湛えている。
「時間なんて、止まってしまえばいいのにね」
白衣を羽織ろうとしていた
さくらを、京楽は今一度捉えた。
「駄目ですよ、春水さん」
さくらは引き止める夫の腕をサボりたいのだと思って窘める。
20
ボクの考えている本当のことを知るはずもない
さくらはきっと「皆の迷惑になる」とでも言うのだろうと思いながら
京楽が「どうして?」と尋ねると
さくらは一瞬、瞬きを繰り返した。
それから
「だって…時が止まってしまったら、春水さんと居られて幸せだなあって思う気持ちまで止まってしまうでしょう?」
夫の考えている本当のことを知るはずもない
さくらは首を傾げてみせる。
「
さくらちゃん――」
キミは時間が止まれば
不安も苦しみも喜びも
愛おしいという感情も
護りたいという想いも
止まってしまうというのかい?
「行ってきます、春水さん」
時が止まれば全てが止まると思ったキミと
「うん…」
時が止まれば今が永遠に続くと思ったボク。
それでも――
「行ってきます、春水さん」
「終わったら、迎えに行くからね」
キミが微笑みキミと触れ合うこの瞬間こそがボクの―――
二人の望んで止まない時間であることには、変わりないんだ。
fin*
************************************************タイトルはお馴染みゲーテのファウストより。
「(時よ)とまれ、お前はいかにも美しい」と訳されることが多いでしょうか?
でもあまり原作とどう関連があるかは考えないでください。f^_^;
BLEACHの原作沿いのお話は、これからシリアスになる一方です。
だって隊長方が命を懸けてるんですものね。
そして原作より先には進みたくないので、今後は更新が滞るかと思います。
ご訪問ありがとうございました。
2008.12.05
京楽隊長〔一〕 風⋆花⋆雪⋆月