飲みに行く話が先だったか月見の話が先だったのかは、もう誰もわからなくなっていた。
ただ一軒目で散々飲んだくれて次の店に移動する間に眺めた空に浮かぶ月を目にした時から、乱菊にはうっすらと数年前の記憶が甦ってきていた。
だがその時はまだ
あの日を完全に思い出していたわけではなかった……。
月に咲く花に酔う
1
日付の変わる前に、とうにみんなは酔い潰れていた。
今となっては酒豪の乱菊と春水、それに酒を飲んでいない
さくらだけが卓を囲んでいるだけだ。
「隊長~。ホラ、飲んでくださいよ」
乱菊が春水の空になった猪口に徳利を差し出した。
「お、悪いねえ~」
機嫌よく酒を注いでもらう夫を、
さくらは傍らで黙って見ている。
「奥さんも全く飲めないわけじゃないんでしょ?一杯ぐらい、どうですか~」
酒の場に素面(シラフ)の者がいると、正直白ける。
未だに背筋を正したままの
さくらを向かいでずっと目にしている乱菊としては気分を削がれ、酔うに酔えない雰囲気だ。
2
「
さくらちゃん。もうみんな酔い潰れちゃってるし一晩貸してもらったから、帰りは心配しなくていいからね」
春水も、
さくらが帰途を気にかけているのを知っている。しかしどれ程酔えど護廷十三隊隊長。
普段は甘えて寄りかかり
さくらに面倒を看てもらっているが、いざとなれば酒を一滴と飲んでいない
さくらを守れる自信はあった。
「あら?もう無いわ」
徳利を振る乱菊は摘まんでいた徳利の中を片目を閉じて覗き込んだ。
「…どうぞ」
さくらが傍らにあった徳利を差し出すと乱菊は悪いわねえと酌を受ける。
3
「春水さんも…」
向き直り夫に酌をしようとするが
「ああ、ありがとうね。徳利ごともらえるかい?」
そう言うと春水は猪口ではなく手を差し出した。
「……はい」
いつものことだ。
春水は
さくらに決して酌をさせない。
最初はそういう人なのかと
さくらも思っていたのだが、乱菊からの酌は受けるのに自分からのものは断られるのだ。
七緒にいたっては春水が強請(ねだ)って酌をしてもらうほどだ。
どうしてなんだろうと思うのだが、自ら尋ねる勇気は無い。
きっと自分が至らぬからなのだと俯くしかなかった。
4
「ほら、
さくらちゃんも」
春水は受け取った徳利を
さくらに向けた。
夫は共に酒の飲める妻を望んでいる。
それは結婚前からわかっていた。
「………いただきます」
さくらは自分用の猪口を漸く手にした。
「少しにしとくね」
春水は酒を半分ほど注いだ。
「―――…」
さくらが酌をするのも受ける仕草も酒を口にする姿も、この日乱菊は初めて目にしたのだが全てが女でも溜息の出るようなそれは色めかしい流れるような動作だった。
そうして一呼吸置くと、ぽっと紅くなり酔いが回ったと知れる。
5
「…もう夜も遅いし、眠いなら膝貸すよ」
猪口を手放した
さくらを支え、春水は自分の胡坐の上に乗せた。
日付の変わった時間帯と夫の腕の中という場所と酒を口にしたこと。
さくらが眠りに就く要素は揃っていた。
すぐにウトウトとし始め、春水らが
さくらから受け取った徳利を空にする頃にはとうに夢の中だった。
「追加するかい?」
春水は
さくらを起こさぬように静かに乱菊に尋ねる。
さくらが座っていた隣にある盆には、もう酒は乗っていなかった。
「二人で朝日を拝みますか」
そう言うと乱菊は立ち上がり、少しだけ廊下を行って店の者に酒を頼んできた。
酔っ払いらの為ではなく、
さくらの睡眠を邪魔せぬようにとの気配りだろう。
6
「では。改めて二人っきりの酒盛りに乾杯~」
互いに差しつ差されつ再び杯を交わす。
「あ~いいねえ。今夜はいい月だったし」
乱菊には月見など酒を飲む口実のようなものだったが、春水は確かに月を愛でていた。
「隊長…」
月明かりを浴びる男の横顔に乱菊は呟いた。
「ん~?」
乱菊とて酔いが回っているようには見えるが、酒に飲まれてはいない。
「隊長…。どうして奥様にはお酌させないんですか?」
「…あれ、そうだったかな?」
乱菊の真面目な問いに春水は嘯(うそぶ)く。
7
「奥様…、寂しがってましたよ?」
しらばっくれる春水に真剣に答えさせるには、七緒のようにここでキレてはいけないことを乱菊は知っていた。
「あんなにお酌が上手な奥様なのに、可哀想じゃないですか」
そう呟きながら酒を煽る。春水の答えにあまり興味がないかのように。
「…
さくらはね」
片手に妻を、片手に猪口を持ったまま、春水は溜息混じりに語りだした。
彫の深い顔の半分が月明かりに照らされている。
「別にそうしたくてしてるわけじゃない。そうやって躾られてきたんだ。上級貴族の仕来たりに雁字搦めにされながら、それを一切疑うことなく受け入れてきた…お人形さんなんだよ」
少しだけ、猪口を傾けた。
それは乱菊には飲むというよりも話の間を空ける為の所作に見えた。
8
「
さくらはね、いい素質(もの)を持ってるんだ。だけど王族に嫁ぐのが幸せだの何だのと生まれた時から周囲に翻弄されて、自分というものを育てることができなかったんだよね―――」
「…………」
乱菊は自分の与り知らぬ貴族社会で育った妻の過去を語る春水の話に耳を傾け徳利を傾けていた。
「ボクぁね、
さくらにお酌してもらいたくて妻にした訳じゃないんだよ。この妻(こ)がありのままの自分を曝け出せる場所を与えてやりたかったんだ…」
そう言って
さくらに注ぐ眼差しは、妻の居場所は自分の腕の中だと言っているようであった。
9
「でも隊長に喜んでもらいたくて、お酌したいんじゃありません?
そんな堅苦しく考えることないじゃないですか。
京楽隊長らしくありませんよ?」
「ん――、ボクもそう思う」
でもね、と話を続ける。
「酌をするにしても
さくらには、そう教わったからでなくそうしたいからするようになってほしいんだ。
ボクがお酒も飲めないと…って言えば、
さくらは飲めないのはいけないことなのだと気構えて飲もうとする。ボクは酒を楽しんでほしくて誘ったつもりだったんだけどね。
だからお酌にしてもボクが言うと、きっと注ぎ方が悪いとかまた誤解してしまうと思うんだよ。そういう性分なんだね…」
ふうん、と乱菊は軽く受け流すような相槌を打つと、再び徳利を手にする。
乱菊が冷淡なわけではない。
さくらには
さくらの過去があり春水には春水なりの気遣いがあってこの夫婦は成り立っているのだ。それにとやかく口出しする必要はなかった。
10
「あっ。じゃあどうしてさっきは奥様にお酒を勧めたんですか?」
思い出したように問う。
ああ、あれね…と答えながら春水は口許に寄せていた猪口を空にした。
「こうして飲んで酔ってボクに抱っこされて寝っちゃったら、お酒もいいもんだって思ってくれないかなぁーって思ってさ」
片手で手酌しながら春水は笑う。
「隊長。それって奥様を育ててるんじゃなくて、自分好みに育ててるだけじゃないですかぁ?」
「あれ?そうかな。そうなるのかなあ?」
「ん、もう!隊長ったら…」
「怒らない怒らない。キミだって
さくらが一緒に飲めるようになったほうが楽しいと思わないかい?」
「そりゃあ…」
だろう?と春水は徳利を差し出す。
「さ、楽しく飲もうよ~」
今までの真面目な話を払拭するかのように、春水は目と眉尻を垂れさせた。
11
「いい月だねえ…」
春水の呟きに、乱菊は我に返る。
いつの間にか今日と同じく隊長らと飲んだ数年前の思い出に浸っていたらしい。
乱菊がぼうっとしていたことに春水は気付いていないのか、月明かりに応えるかのように庭の樹の足下を彩る金木犀の黄色い花を愛で香りを楽しんでいた。
「…あら。このお酒…」
乱菊は漸く優雅な香りのする酒と春水の視線の先との共通点に気付いた。
「そう。金木犀の花弁とつぼみを三年間漬け込んだんだよ。乱菊ちゃん、よく気付いたねえ」
三年…
思い起こせば、あの日からそれぐらいの月日は流れていた。
12
「お待たせしました」
「やあ、
さくらちゃん。悪いねえ」
さくらが熱燗を運んで来ると、春水は一層顔を綻ばせる。
「これで厨房は閉めさせてもらいたいそうです。冷酒なら、ご自由にどうぞとのことですが…」
店主からの言伝を伝える
さくらに乱菊はぶーたれたが春水は熱燗で乱菊を宥めようとする。
しかし飲み足りない乱菊は春水の手から徳利を奪うと、手酌を始めた。
「春水さん…」
出来立ての燗の底に布巾を当て、春水に差し出す。
「ありがとうね、
さくらちゃん」
とく、とく、と、仄かに湯気の立つ酒が春水の持つ猪口に注がれる。
13
あぁー、といかにも美味しいという感嘆を漏らすと、春水は
さくらにも熱燗を勧めた。
「………いただきます」
さくらは自分用の猪口を漸く手にした。
「一杯だけにしとくね」
さくらは宴が始まった当初から、上品な甘みと爽やかな口当たりが彼女に相応しい桂花の酒しか飲んでいなかった。
注文する際に
さくらが一番初めに飲めるようになったお酒だと、春水が語った酒だ。
「熱燗だと、体がもっと暖まるでしょ」
妻に話しかけるが、
さくらには強いのか酒量の限界なのか、足が崩れ始める。
14
「………
ん」
「……眠いなら、膝貸すよ。
さくらちゃん」
猪口を手放した
さくらを支え、春水は自分の胡坐の上に乗せた。
先程までは少し酔いが回った程度に見えていた
さくらだが、春水に抱きかかえられると忽ち瞼が重くなったようだ。
暫くすると小さく揺れていた頭が春水の胸に落ち、動かなくなった。
酒を注ぐ音と猪口を卓に置く音だけが聞こえる。
「隊長…」
「ん~?」
妻の寝顔に見入る男に乱菊は呟いた。
15
「
さくらさんがこのお酒を飲めるようになったんじゃなく、隊長がこのお酒を勧めたでしょ」
春水の答えに興味が無いかのように、乱菊は酌をする。
「だってね。このお酒は甘くていい匂いがしてほんのり色付いて上品で、まるで
さくらちゃんみたいじゃない」
猪口に注がれるぬくもりを感じながら、春水は言い訳をした。
今では
さくらも酒の席を楽しめるようになってきていた。
それはきっと彼女らしく、夫の色に染められてきたからなのだろうと
酒に喩えて妻を褒める春水から、乱菊は夫婦の年月を垣間見るのであった。
fin*
************************************************お話の中で
さくら様が飲んでいたのは桂花陳酒です。
甘味が強く香り高く、楊貴妃も愛飲したと伝えられる白ワインです。
桂には『月にあるという想像上の木』の意味がある為、桂花が咲く様をタイトルに込めました。
今回はお酒の熟成と
さくら様の成長をかけてあります。
ウチの京楽隊長は商売女のように
さくら様がお酌をするのは嫌だったんですよね。そのくせいつの間にやら自分好みに育てちゃってる。(笑)
独特の美学を持った方なのです。
本日もご覧下さりありがとうございました。
2008.10.15
京楽隊長〔一〕 風⋆花⋆雪⋆月