西を橙色に染め一日を終えようとしている陽よりも早く、迫り来る夜の足音は今にも空を覆いつくそうとしている。
十四郎は空に光る星を見上げた。
「寒くなったなあー」
その言葉に頷くように瞬いた星から手にしていた薄布に視線を落とすと、
さくらが風邪の見舞いにくれた竜胆紫色のそれを軽く広げて肩に羽織った。
この深い青紫の紗は、朽木白哉の目を見開かせるほど高価なものらしい。
その値打ちを知らぬうちから十四郎は
さくらに返そうとしたのだが義父・
鏡月から「それは婚約破棄の意か」と問われ、初めてこれは
さくらの夫である証だったのかと漸く
天宝院家にとっての価値を理解した。
何よりも、
さくらが婚約を公にする以前に自分を夫だと心に決めていてくれた。それが十四郎にとって最もこの紗の価値を高めていた。
軽く優しく柔らかく温かく十四郎を包み込む感触は
さくらそのもののようで、
「…これは、浮竹隊長に」
そう言って胸元を包み込んでくれたあの時を思い出すだけで、一人家路を歩く十四郎の足取りを軽くさせるのだった。
Baby's Breath:転寝ver.
1
「お帰りなさいませ」
宿の女将は十四郎が現れる頃には自然と玄関口に居られる用事を毎日作っていた。
何しろ彼は上得意のご亭主である。
最初は宿の一室だったはずが子供の泣き声が迷惑ではと一月もせぬうちに奥の半分を借りると言い出し、今では階の全室を借りてくれているのだ。
この宿屋が自宅と何ら変わらぬ空間となって久しい十四郎が階段を上りきり真っ直ぐな廊下の先を見れば、小走りするように急ぎ此方へ向かってくる侍女と目が合った。
「
ツバメ…」
名を呼ばれた侍女は軽く会釈をすると労いの言葉をかけようとした主の夫の横を通り過ぎてしまった。
忙しない彼女を見送った十四郎は、奥へと廊下を進む。
この階の部屋を侍女らに二室、物の置き場に二室、団欒用の集いの部屋、十四郎の部屋、
さくらの部屋、それと子供部屋という具合に使っていた。
2
その一室に入ろうと襖を開けると目の前にもう一人の侍女、
アヤメが待ち受けていた。
人差し指を唇に当てている。
「寝てるのか?」
「はい、奥様も……」
そう言うと十四郎の前を空けた。
十五は物音がしても起きるほうではない。
アヤメの気配りは、
さくらの為であった。
小さな布団の上に大の字に寝ている息子の傍らで、妻は子供用の布団に寄り添って寝ていた。
さくらは寝入って間がないのだろう。
アヤメは
さくらの為の掛け物を出している途中だったらしく、押し入れが開けっぱなしだった。
十四郎は
さくらの傍に座ると、顔に薄っすらとかかった髪を払ってやった。
3
妻の眠りが深いことを、十四郎は
さくらが眉ひとつ動かさないことで知る。
「疲れてるな………」
「眠られただけです」
訂正する
アヤメから掛け布団を貰い受けた十四郎は、
さくらに掛けてやった。
「無理してる」
「努力なさってるんです」
アヤメは
さくらを起こさぬ程度の声で、しかし強く訴えた。
「
アヤメ……」
十四郎は溜息をついた。
アヤメは十四郎の動向を見守る。
やはり、護廷十三隊を辞めるべきだと言わさぬように。
四番隊の業務と子育て。
護廷十三隊に一番近い宿を月単位で借り、
ツバメに詰所まで
十五を連れて来てもらい休憩時間を授乳時間に費やし
業務が終われば死覇装に着替えて宿で待つ息子の許へと帰る。
さくらの毎日はその繰り返しだ。
4
「
さくらは限界…」
「もうすぐ離乳期に入ります」
しっかりとした口調だった。
普段
アヤメはおっとりしていて大抵のことは「あらまあ」と見過ごし大変なことが起こると慌てふためいている。
だが時折芯のあることを言い、小さい頃から共に育っただけあって
さくらに似た雰囲気の侍女だ。
今も
さくらの代弁をしているのと同じだったが
アヤメがそれ以上反論しなかったので十四郎は再び妻に目をやり、子供よりも無防備な寝姿に首を振った。
「卯ノ花には、俺が言っておく」
十四郎のこの物の言い様は決定事項だと
アヤメも知っていた。
アヤメは言葉にはしないが、お願いですと十四郎を見遣る。
しかし幾ら侍女らの手を借りてはいるといえ、
さくらが疲れていないはずがない。そして十四郎がそんな
さくらを厭(いと)わないはずがない。
5
アヤメと気まずい雰囲気の中、十四郎が無言で立とうとした。
「こんなに………」
アヤメは
さくらを起こさぬように静かに訴える。
「こんなにお幸せそうなのにですか?」
十四郎は意味が理解できずに
アヤメを見た。
「奥様は、こんなにお幸せそうなのに…」
これは子供と一緒にあどけなく眠っている幸せなお姿だと繰り返す
アヤメから視線を
さくらに移し、十四郎は今一度妻の顔をまじまじと見つめた。
疲れて寝入ってしまったと思い込んでいたが、そう言われてみれば微かに笑みを浮かべているようにも見える。
「旦那様は…ご存知ないのです。奥様が本当にお辛い時は―――」
ああ、そうだ…。
十四郎は思い出した。
さくらが本当に悲しい時、苦しい時、消えてなくなりそうなあの表情を。
さくらは今、頑張っている。充実した日々を送っている。
目一杯仕事をした後、子供と共に眠って充電しているのだ。
こんな仮初めに眠る間さえも、息子の呼吸を感じられることを喜び頬ずりするぐらい愛おしみながら―――。
6
「
アヤメ」
そこへ今しがた十四郎とすれ違った侍女が戻って来た。
ツバメは畳んだオシメを頭の高さまで積み上げている。
「あれほど奥様に上を掛けたら、坊っちゃんのオシメを替えておくようにって言ったでしょーが!」
ツバメは部屋の様子から頼んでおいた仕事を終えていないことを素早く察したらしい。
「ああー、ごめんなさい!
ツバメー」
アヤメはその仕事をすっかり忘れていたらしい。
狼狽
(ウロタ)える
アヤメに対し、
ツバメは運んできたオシメをその場に仮置くと
アヤメが置きっ放しだったオシメに手を伸ばした。
「俺が替えよう」
それに気付いた十四郎が手伝いを申し出る。
「「旦那様の、なさる事ではございません!」」
侍女二人のハモった科白に
さくらの指がピクンと動き、三人は一斉に口を噤んだ。
7
「ん…」
しかし
さくらはゆっくりと瞼を擦り、首を仰け反らせて上体を起こし始めた。
起こしてしまったか…と顔を見合わせる三人を
さくらは見回し、その中の一人に視線が止まる。
「十四郎様…」
夫の姿に今は何時かと時計を捜す
さくらの肩に、十四郎は手を置いた。
「ぁ…私――」
夫を出迎えなかったと謝ろうとしている
さくらの額に自分の額を合わせて、十四郎はそれを遮る。
「少しは眠れたようだな。すっきりしたか?」
どうだ?と問う夫の額の動きが、
さくらの額に伝わる。
「……はい。あの」
こんなの詫びることじゃないと十四郎は軽く額を左右に振り、
さくらの次の言葉を止めた。
そして
「ただいま、
さくら」
「…おかえりなさいませ、十四郎様」
二人が額をくっつけたまま、ふっと笑い合った頃には
ツバメは
十五のオシメを替え終えていた。
fin*
************************************************『完.双魚理』の次という三隊長のBaby's Breathの中で一番に降りて来たお話が一番後にUPとなりましたが、記念すべき浮竹隊長〔二〕の第一話目となったのもまた運命でしょうか。
本日はBLEACH劇場版FADE TO BLACK公開並びに石川英郎さんのお誕生日、おめでとうございます。
天宝院さくらでした。
2008.12.13
浮竹隊長〔二〕 風⋆花⋆雪⋆月