テニスの王子様
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麗らかな日差しの中、花束を持って歩みを進めていく。いつもは人が疎らな廊下も、今日はそこかしこに数人集まっては話をしている。集まっている人達は、笑い合っていたり泣いていたりと様々だけれど、言えるのはどの顔も晴れやかだということ。
とはいえ、今私がいるのは違う学年の廊下だ。少しばかり緊張しながら、人の間を抜けていく。そんな時でも、視線が右に左にと目当ての人を探す為に動くのは、どうしても見つけたいからだ。歩いて行った廊下の端に、ようやく探していた人を見つけて駆け寄る。
「卒業、おめでとうございます」
「あぁ。ありがとう」
声をかければ、くるりと振り返ったのは一学年上の柳先輩。部活の後輩達に貰ったのだろうか。手にはいくつかの花束を抱えている。
「……もういらないかもしれませんけど」
「そんなことはない。嬉しく思っている」
『断られることはないだろう』と思ってはいたものの、万一のことに備えて言った言葉は杞憂に終わりほっとする。差し出した花束を他の花束と共に、壊れ物を扱うかのように抱えてくれる。それだけで、『先輩を探して良かった』と嬉しくなった。
「それにしても……」
「何ですか?」
「いや」
「言ってくださいよ。気になります」
普段はスパンと音が鳴りそうなほど、『お前が何々の確率何パーセント』だとか『と、お前は言う』等と清々しいくらい言ってしまうのに。今回は何とも歯切れが悪く、反対に気になってしまった。あまりに私がじっと見ていたからだろうか。眉を下げながら笑う。
「実は、お前が泣く確率は八十七パーセントとかなり高かったんだが……」
「外すなんて珍しいですね。高校も同じ敷地なのに、泣くわけないじゃないですか」
「それもそうだな」
納得したように微笑む柳先輩を見て、ほっとする。それは、『嘘がバレなかった』ということに対してだ。柳先輩がデータを取り違えるなんて、そうそう無い。つまりは当たっているのだ。
ここに来るまでの間、校舎の中を歩きながら周りを見渡していれば、『ここでこんなことがあった』とか『こんな話をした』だとか。たくさんのことに思い馳せていれば、もうここで起こることのない思い出達に水の膜が徐々に厚くなる。すれ違うことに期待した移動教室や清掃の時間。
――もう、期待することも無いんだ。ここから、柳先輩は旅立ってしまうんだから。
そう考えれば水の膜は雫に変わり、頬を伝う。止めどなく流れていたそれが、ようやく止まったのは先程のこと。ここへ向かうまでの間に保健室で保冷剤を借りて、しっかり目を冷やしていた。
――今はバレなかったけど、このままいたらバレそうだな……。
挨拶も程々に、改めて『おめでとうございました』と告げて、そこから去ろうと背を向けた。
「待て、瑠奈」
短くも、しっかりと届いた声。くるりと振り返れば、こちらをしっかりと見据えている柳先輩。
「俺も渡したいものがある。後で教室に寄ってくれるか?」
「……良いですけど」
「そうか。ありがとう」
『今ここで渡しても良いのに』と思うけれど、そう言われてしまえば納得せざるを得なくて。
――初めて見かけたときから、微笑んだ姿は変わらずに綺麗な人だよなぁ……。
『ずるい人』という感情がふわりと心を覆った気がするけど、『気の所為だ』と振り払い、その場を去った。
「柳先輩?」
時間が経ち、あれだけ人がいた校舎も今は人を見かけず、聞こえるのは部活動の声のみ。柳先輩の教室に立ち寄り、声をかければ、中にいたのは先輩一人。読んでいた本から顔を上げた。
「あぁ、瑠奈。来たか」
「渡したいものって何ですか?」
「その前に、言いたいことがある」
「言いたいこと?」
『渡したい』というものを貰って、『自分の気持ちがバレないように』とすぐ去るつもりでいた。けれど、『言いたいことがある』と言われれば無視は出来ない。
――何かやらかしていたかな……。
なんてちらりと頭を過るくらいには、ドジを踏んでしまった覚えもある。何を言われるのかとそわそわしていれば、突如背中に回った腕。一瞬、時が止まったように感じた。
「柳先輩⁉どうしたんですか⁉」
ハッと時が戻ってくれば、思わず柳先輩の胸を押す。いくら力を込めても少しだって動かないけれど、この状態でいることが恥ずかしくてたまらなくて、『意味が無い』とわかっていてもそうせざるを得なかった。
「理由はわかっているんじゃないのか?」
「理由?何のことで――」
「俺のいないところで、こっそりと泣くのは止めろ」
ぽんぽんと頭を撫でながら、『慰めることが出来ないだろう』と続いた穏やかな声。『気付かれていたのか』とか『いつから』とか聞きたいことはあるけれど、どうやら温かな体温に『泣くまい』と虚勢を張っていた堤防は溶かされたようで。ぽろりと一つ零れたと思えば、それに続けとばかりに頬を伝っては零れ落ちる。決壊してしまったらしい私の涙腺は、止まることを知らないかのように涙が流れていく。
「何で……何で気付いちゃったんですか……っ⁉せっかく、泣かないようにって……っく、頑張ったのに……!!」
手で擦っても擦っても止まらない雫は、柳先輩と過ごした時間だ。そう思えるほどに楽しくて、掛け替えがなくて、そしてこの先輩の存在が大きいものだったのだと思い知る。
「次に学校に来たら……もう先輩とは、すれ違うことだって……無いんですよ……っ!」
思わず零れた『寂しい』という言葉。どれもこれもが良い思い出だった。だから、その思い出に浸って涙が出るのだと思っていたけれど。
――そうか。私は……寂しかったんだ……。
未だに止まることのない涙に、鼻を啜り過ぎて少し頭がぐわりと重い。ずっと頭を撫でてくれていた手が、あまりに私が目を擦るからだろうか。代わりにそっと拭ってくれる。
「あまり、目を擦るな。痛めてしまうぞ」
「でも……止まらないんです……」
「それだけ、瑠奈は俺との別れを惜しんでくれているのだろう?」
その問いかけに何度も頷く。惜しむに決まっている。それ程に、先輩との時間は大切なものだったから。
「渡したいものがあると言ったな」
「……はい」
「失礼する」
まだ涙で滲む視界の中、胸元からシュルリと音を立てて何かが首後ろを通っていく。そしてまた、何かが首後ろを通って衣擦れの音がし、キュッと首元の程良い位置で止まる。キツくもなく緩くもない。それがネクタイだと気付くのはすぐだった。
「これは……」
「勝手ですまないが、交換させてもらった」
またしても涙を拭ってくれた手。そのもう片方の手にあるネクタイ。柳先輩が裏を向けてくれたと思えば、そこに刺繍されているのは『宮坂』。私の名字だ。おそるおそる、胸元にあるいつもより長めのネクタイを裏返す。
『柳』
その字を見た瞬間に、またじわじわと前がぼやけていく。けれど、これはさっきのような悲しみの涙ではない。
「何でそんなズルいことするんですかぁ……!!」
「これで、あと一年頑張れ。俺は、先に行って待っているぞ」
号泣する私を抱き締め、背中を撫でる。先程から何とも子供扱いのように感じるけれど、それでもいい。
『ずるい人』
その人を追いかけて、一年頑張るとこれだけで決めてしまったのだから。
「瑠奈。入学、おめでとう」
「ありがとうございます、柳先輩」
そして、一年。新しい春に、新しい校舎で柳先輩に出迎えられる。共に一年過ごした、先輩のネクタイを手にして。
「今回は、号泣しないのか?」
「っしませんよ!もう忘れてください!!」
何とも恥ずかしい思い出を彼に残してしまったものだと思うけれど、このやり取りさえ懐かしくて笑みが浮かんでくる。
「それは難しいな。忘れる確率は零に等しい」
「もう『零パーセントだ』って言ったら良いじゃないですか」
「言って良かったのか?」
「……いや、やっぱりそのままで」
そう言えば、『そうだろう』と言わんばかりの表情で柳先輩も笑う。悔しさはあるけれど、きっと彼に敵うことはないのかもしれない。
「ほら、ネクタイを貸すといい。つけてやろう」
一年前のように結んでもらったネクタイは、変わらずに柳先輩のものだ。少し長めの、大きいもの。
「何か……所有感出ますね」
「それはお互い様だろう」
柳先輩のつけているネクタイがちらりと捲られれば、そこにも変わらずにある私の名字。胸がほわりと温かくなるのは、『春だから』だけではないはずだ。
「今年も一年、よろしくお願いします」
「こちらこそ。瑠奈が来るのを、とても楽しみにしていた」
一年経って、更に綺麗に笑う『ずるい人』の横に立ち、これからまた過ごせる『大切になるであろう時間』に思いを馳せた。