独占欲
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『整理整頓』
くの一教室の生徒達に口酸っぱく言ってきたが、教師たるもの、自分自身が率先して実施すべきだったことを倒れ込む土井先生を見ながら猛省していた。
兵糧丸を作った後、片付けないまま床に置きっぱなしにした薬研と薬研車。それに足をとられた土井先生がこちらに倒れこむ、ほんの数秒の出来事が随分長い時間に感じられた。来るべき衝撃に備えて固く目を閉じ、体を強ばらせる。
確かに衝撃はあったものの、痛みや圧迫を感じるほどではない。成人男性一人、反動もある中で全体重をぶつけられたら流石の私も怪我は免れない。なのに何故こんなに痛みや衝撃がないのだろうか……恐る恐る目を開けて自分の置かれた状況を観察しようとした、が。
状況を理解しない方が私にとっては良かったのかもしれない。
目を開けると眼前には土井先生の真剣な表情。
私の顔の両側に手を付き、私の膝を割るように土井先生の体が入り込んでいる。
──要は倒れこんだ土井先生に組み敷かれているのだ。
事態を把握して尚、声を上げなかった自分は女である前に忍の本質が身に付いている。その事実に少しだけ安堵した。最近の自分は、土井先生が絡むと途端に気が緩んでしまう、そこに自覚はあったのだ。
眼前の土井先生と目が合う。
何か言わなければと思ったその時、廊下の先で複数人の気配を感じる。聞き慣れた足音が、1、2、3……6人、移動中の6年生か。
善法寺くんが何の気なしに医務室に立ち寄るとも限らない、この場面を見られるくらいであれば、先にこちらから声をかけて部屋の片付けを手伝わせた方が誤解は生じないだろう。
「土井先生、6年生に片付け手伝ってもらいましょうか。」
動揺は見せずに、あくまでも合理性を求めた発言。平常心は装えど、多少声は興奮で上擦ってしまう。
建設的な提案に聞こえているだろうか。
もう少しこうしていたいという不謹慎な想いが土井先生に見透かされていたら……
遅れてやってきた羞恥心が、じりじりと耳や頬を火照らせていく。
取り繕った笑顔を浮かべ、土井先生とは目を合わさずに、彼の胸を軽く押して一緒に身体を起こそうとする。6年生の気配も近づいてきた。さぁ、私も教師に戻らなければいけない時間だ。
「……ません。」
「え?」
私は体を起こそうとしたが、土井先生の体は微動だにしない。結果、私が土井先生に一層身を寄せるような形で距離が縮まっただけだった。土井先生がポツリと発した言葉が聞き取れず、先程よりも至近距離になった彼の顔に視線を向ける。
「他の男には見せられません。」
「何を」と聞き返す前に土井先生の大きな手で口を塞がれて、そのまま体重をかけられて再び押し倒される。瞬時、土井先生の呼吸は静かでゆっくりとしたものになった。忍者が気配を消す時に使う「息長」という呼吸法だ。
土井先生の意図も分からないが、6年生の足音はこちらの事情なんてお構いなしに近づいてくる。
少なくとも「この場」を生徒に見られるわけにはいかないので、私も土井先生の呼吸に揃えて静かに気配を消した。
「あ、ごめん。医務室寄ってもいいかな?」
「伊作、怪我か?」
「いや、新野先生に土井先生の胃薬を言付けしてて……」
善法寺くんの声がしたと同時にカラリと障子戸が開く音がする。先刻とは違う、静かな風がゆっくりと室内の空気を動かしていく。開いた障子戸の方から鳥の鳴き声や、遠くの演習場で授業を受ける子供たちの声が風にのって運ばれてきた。
私と土井先生は衝立の奥なので、入り口にいる善法寺くんから見えない。
そう、室内に足を踏み入れなければ、だが。
「どうした?新野先生はいらっしゃらないのか?」
「あ、仙蔵。そうみたい、後で委員会の時にでも聞いてみるよ。」
「……そうだな。」
再びカラカラと障子戸の閉まる音。
そして談笑しながら遠ざかる6年生の足音。
危機は脱したが、私の心臓は早鐘を打つばかり。
状況は変わらず土井先生の手に口を塞がれたままだったが、呼吸法を変えたことで先程よりは冷静に周囲の気配や視線を感じることはできている。
その上で、障子戸に向けた視線を改めて土井先生に向けられないでいる。
「良かったですね、やりすごせました。」「あの子達もまだまだですね、こちらにきづきませんでしたよ。」そう、いつものように何気ない会話をして、何事もなかったかのように振る舞えば良いだけなのに。
この衝立に隠れてから、いや強いて言えばこの前のお風呂場での迎合から、もしや、と思うところはあったのだ。
任務で色を使うことも時にはある。相手の好意を逆手に取り、情報を引き出すのは潜入や情報収集の常套手段だ。
だからこそ潜入任務に長けた人間は、心の機微を感じとることに優れている。そして私の得意任務も潜入なのだ──。
土井先生の私に向けた視線は、既に同僚に向けるそれの類いではない。もし土井先生が私に好意を抱いてくれているのならば、そこまで考えて目を閉じた。
そんな贅沢を考えてはならない。
仕事もあり、可愛い生徒達に囲まれ、寝食住に困ることのない恵まれた生活に、これ以上何を望むと言うのだ。
でも、
もしも、
そんな普通の幸せを少しでも夢見て良いのならば、
……この一時だけは忍であることを忘れて、自分の気持ちを優先しても許されるのだろうか。
十数えて駄目ならば、この気持ちは死ぬまで隠し通して、今まで通り、忍として、教師として学園生活を過ごそう。
一方的に条件を決め、私の口を塞ぐ土井先生の手に、そっと自分の手を重ねる。重ねた瞬間、僅かに土井先生の手が強ばった。しかし、そんなのお構いなしに、そっと力をかけて塞ぐ手をゆるゆると下に動かす。
私の唇が露になったところで、こくりと彼の喉が鳴った。
ひとつ
ふたつ
彼は微塵にも動かない。
みっつ
よっつ
このまま何事も起こらなかった時、私は明日からどう過ごせば良いのだろう。ふと想像した未来の、底知れぬ絶望感。鼻の奥がつんと痛んだ。
いつつ
むっつ
今、土井先生はどのような顔をしているのだろう。愛しい人のはずなのに、今は顔を見るのも恐ろしく、一層固く目を閉じる。
ななつ
やっつ
ふと、私の目尻をさっと何かが撫でる。拭われた拍子に肌が濡れて、私は初めて自分が泣いていることに気がついた。
「あ……」
予期せぬ接触に、思わず声が漏れた。
次いで唇を何かが優しく触れる。
驚きと期待は私の心臓を激しく動かし、私は答えを確かめるように恐る恐る目を開けた。
──ふ、
静かな吐息を感じる距離、真剣な面持ちでこちらを見つめる土井先生がいた。先ほど以上に近い距離が、口づけが嘘ではないことを教えてくれる。
……この瞬間は、死ぬ間際も思い出しそう。
後にも先にも、多幸感で胸が苦しくなることなんてないだろう。きっと任務で失敗して死にゆく時も、天涯孤独で一生を終えることがあっても、この思い出が私の救いになる。一言も発することができないまま、もう少しだけこの幸せに縋りたいと、そっと土井先生の首の後ろに手を回す。
それを、この行為への肯定と受け取られたのだろうか。もう一度、土井先生の顔が近づく、今度は先ほどの掠めるような口付けではなく、性急で乱暴なものだった。
そう、まるでこの一時が最後だと言わんばかりに。
色の任務をやったことがないわけではない。
当然、私も男女の睦事が初めてではない。口付けだって任務を含めれば数多く経験はしている。
だが、想い人相手に任務と同じようにそつなくこなせるか、と言われれば、もちろん否、だ。
任務では、どのように男をその気にさせていただろうか。今は、どのように息をすべきかも分からない。首に絡めた手をほどき、自分から唇を離そうとするも、逃がさないとばかりに、するりと手を滑らせて私の後頭部を包むと、一層深く唇を合わす。
いつもの穏やかな印象と異なり、これまで交わってきた男性と同じように熱を持った視線と行為。有無を言わさない腕の強さと、貪るような口付け。
好きな人に求められる悦び。
呼吸もままならないせいだろうか、まるで頭にモヤがかかったように思考は鈍くなり、この抗いようのない快楽に身を任せてしまいそうになる。
ようやく離れた唇は、まるで名残惜しむようにつうと銀の糸を引いた。
くの一教室の生徒達に口酸っぱく言ってきたが、教師たるもの、自分自身が率先して実施すべきだったことを倒れ込む土井先生を見ながら猛省していた。
兵糧丸を作った後、片付けないまま床に置きっぱなしにした薬研と薬研車。それに足をとられた土井先生がこちらに倒れこむ、ほんの数秒の出来事が随分長い時間に感じられた。来るべき衝撃に備えて固く目を閉じ、体を強ばらせる。
確かに衝撃はあったものの、痛みや圧迫を感じるほどではない。成人男性一人、反動もある中で全体重をぶつけられたら流石の私も怪我は免れない。なのに何故こんなに痛みや衝撃がないのだろうか……恐る恐る目を開けて自分の置かれた状況を観察しようとした、が。
状況を理解しない方が私にとっては良かったのかもしれない。
目を開けると眼前には土井先生の真剣な表情。
私の顔の両側に手を付き、私の膝を割るように土井先生の体が入り込んでいる。
──要は倒れこんだ土井先生に組み敷かれているのだ。
事態を把握して尚、声を上げなかった自分は女である前に忍の本質が身に付いている。その事実に少しだけ安堵した。最近の自分は、土井先生が絡むと途端に気が緩んでしまう、そこに自覚はあったのだ。
眼前の土井先生と目が合う。
何か言わなければと思ったその時、廊下の先で複数人の気配を感じる。聞き慣れた足音が、1、2、3……6人、移動中の6年生か。
善法寺くんが何の気なしに医務室に立ち寄るとも限らない、この場面を見られるくらいであれば、先にこちらから声をかけて部屋の片付けを手伝わせた方が誤解は生じないだろう。
「土井先生、6年生に片付け手伝ってもらいましょうか。」
動揺は見せずに、あくまでも合理性を求めた発言。平常心は装えど、多少声は興奮で上擦ってしまう。
建設的な提案に聞こえているだろうか。
もう少しこうしていたいという不謹慎な想いが土井先生に見透かされていたら……
遅れてやってきた羞恥心が、じりじりと耳や頬を火照らせていく。
取り繕った笑顔を浮かべ、土井先生とは目を合わさずに、彼の胸を軽く押して一緒に身体を起こそうとする。6年生の気配も近づいてきた。さぁ、私も教師に戻らなければいけない時間だ。
「……ません。」
「え?」
私は体を起こそうとしたが、土井先生の体は微動だにしない。結果、私が土井先生に一層身を寄せるような形で距離が縮まっただけだった。土井先生がポツリと発した言葉が聞き取れず、先程よりも至近距離になった彼の顔に視線を向ける。
「他の男には見せられません。」
「何を」と聞き返す前に土井先生の大きな手で口を塞がれて、そのまま体重をかけられて再び押し倒される。瞬時、土井先生の呼吸は静かでゆっくりとしたものになった。忍者が気配を消す時に使う「息長」という呼吸法だ。
土井先生の意図も分からないが、6年生の足音はこちらの事情なんてお構いなしに近づいてくる。
少なくとも「この場」を生徒に見られるわけにはいかないので、私も土井先生の呼吸に揃えて静かに気配を消した。
「あ、ごめん。医務室寄ってもいいかな?」
「伊作、怪我か?」
「いや、新野先生に土井先生の胃薬を言付けしてて……」
善法寺くんの声がしたと同時にカラリと障子戸が開く音がする。先刻とは違う、静かな風がゆっくりと室内の空気を動かしていく。開いた障子戸の方から鳥の鳴き声や、遠くの演習場で授業を受ける子供たちの声が風にのって運ばれてきた。
私と土井先生は衝立の奥なので、入り口にいる善法寺くんから見えない。
そう、室内に足を踏み入れなければ、だが。
「どうした?新野先生はいらっしゃらないのか?」
「あ、仙蔵。そうみたい、後で委員会の時にでも聞いてみるよ。」
「……そうだな。」
再びカラカラと障子戸の閉まる音。
そして談笑しながら遠ざかる6年生の足音。
危機は脱したが、私の心臓は早鐘を打つばかり。
状況は変わらず土井先生の手に口を塞がれたままだったが、呼吸法を変えたことで先程よりは冷静に周囲の気配や視線を感じることはできている。
その上で、障子戸に向けた視線を改めて土井先生に向けられないでいる。
「良かったですね、やりすごせました。」「あの子達もまだまだですね、こちらにきづきませんでしたよ。」そう、いつものように何気ない会話をして、何事もなかったかのように振る舞えば良いだけなのに。
この衝立に隠れてから、いや強いて言えばこの前のお風呂場での迎合から、もしや、と思うところはあったのだ。
任務で色を使うことも時にはある。相手の好意を逆手に取り、情報を引き出すのは潜入や情報収集の常套手段だ。
だからこそ潜入任務に長けた人間は、心の機微を感じとることに優れている。そして私の得意任務も潜入なのだ──。
土井先生の私に向けた視線は、既に同僚に向けるそれの類いではない。もし土井先生が私に好意を抱いてくれているのならば、そこまで考えて目を閉じた。
そんな贅沢を考えてはならない。
仕事もあり、可愛い生徒達に囲まれ、寝食住に困ることのない恵まれた生活に、これ以上何を望むと言うのだ。
でも、
もしも、
そんな普通の幸せを少しでも夢見て良いのならば、
……この一時だけは忍であることを忘れて、自分の気持ちを優先しても許されるのだろうか。
十数えて駄目ならば、この気持ちは死ぬまで隠し通して、今まで通り、忍として、教師として学園生活を過ごそう。
一方的に条件を決め、私の口を塞ぐ土井先生の手に、そっと自分の手を重ねる。重ねた瞬間、僅かに土井先生の手が強ばった。しかし、そんなのお構いなしに、そっと力をかけて塞ぐ手をゆるゆると下に動かす。
私の唇が露になったところで、こくりと彼の喉が鳴った。
ひとつ
ふたつ
彼は微塵にも動かない。
みっつ
よっつ
このまま何事も起こらなかった時、私は明日からどう過ごせば良いのだろう。ふと想像した未来の、底知れぬ絶望感。鼻の奥がつんと痛んだ。
いつつ
むっつ
今、土井先生はどのような顔をしているのだろう。愛しい人のはずなのに、今は顔を見るのも恐ろしく、一層固く目を閉じる。
ななつ
やっつ
ふと、私の目尻をさっと何かが撫でる。拭われた拍子に肌が濡れて、私は初めて自分が泣いていることに気がついた。
「あ……」
予期せぬ接触に、思わず声が漏れた。
次いで唇を何かが優しく触れる。
驚きと期待は私の心臓を激しく動かし、私は答えを確かめるように恐る恐る目を開けた。
──ふ、
静かな吐息を感じる距離、真剣な面持ちでこちらを見つめる土井先生がいた。先ほど以上に近い距離が、口づけが嘘ではないことを教えてくれる。
……この瞬間は、死ぬ間際も思い出しそう。
後にも先にも、多幸感で胸が苦しくなることなんてないだろう。きっと任務で失敗して死にゆく時も、天涯孤独で一生を終えることがあっても、この思い出が私の救いになる。一言も発することができないまま、もう少しだけこの幸せに縋りたいと、そっと土井先生の首の後ろに手を回す。
それを、この行為への肯定と受け取られたのだろうか。もう一度、土井先生の顔が近づく、今度は先ほどの掠めるような口付けではなく、性急で乱暴なものだった。
そう、まるでこの一時が最後だと言わんばかりに。
色の任務をやったことがないわけではない。
当然、私も男女の睦事が初めてではない。口付けだって任務を含めれば数多く経験はしている。
だが、想い人相手に任務と同じようにそつなくこなせるか、と言われれば、もちろん否、だ。
任務では、どのように男をその気にさせていただろうか。今は、どのように息をすべきかも分からない。首に絡めた手をほどき、自分から唇を離そうとするも、逃がさないとばかりに、するりと手を滑らせて私の後頭部を包むと、一層深く唇を合わす。
いつもの穏やかな印象と異なり、これまで交わってきた男性と同じように熱を持った視線と行為。有無を言わさない腕の強さと、貪るような口付け。
好きな人に求められる悦び。
呼吸もままならないせいだろうか、まるで頭にモヤがかかったように思考は鈍くなり、この抗いようのない快楽に身を任せてしまいそうになる。
ようやく離れた唇は、まるで名残惜しむようにつうと銀の糸を引いた。
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