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1章:春野サクラの憂鬱

「…ふう。これでもう大丈夫よ。一時期はどうなる事かと思ったけど、何とか持ち堪えてくれたわ」

施術が終わり、安堵の吐息を吐き出しながら血の付着したゴム手袋を外していく。患者に数本の点滴を繋ぎ終えたあと、手探りで付けたゴム手袋はすっかりよれていて、すぐに近くにあったゴミ箱へと放り込んだ。そして、付けていたマスクの端と端を結ぶと白衣のポケットに突っ込み、結っていた髪を下ろした。ところどころ突っかかるところを手櫛で解すと、最後に前髪をそっと押さえ付ける。仮眠を取っていた時間帯だったにも関わらず、緊急オペを手伝ってくれた数名の同僚に会釈を交わす、までがいつも術後に行うサクラのルーティンである。最後に時計を見上げると、午前4時を指していた。サクラの夜勤の時間帯は朝の5時まで。あと1時間近くは、あの待機部屋で先程までの手術の報告書と患者の身内への連絡、そして朝出勤ほ同僚達への引き継ぎ設定…やる事はまだまだ山積みだった。さて、何から手を付けようとサクラが思案していると、背後に気配を感じ、振り返る。

はたしてそこには、トウマが佇んでおり、何か言いたげな顔をしている。サクラは微笑みを浮かべながら、

「どうしたのよ?」

と声を掛けた。トウマは照れ臭そうに、また、申し訳なさそうに目線を彷徨わせた後、意を決したようにサクラへ旋毛を見せるほど腰を折った。そして、

「サクラ先生、おれ、ずっと勘違いしてました。全身湿疹まみれで、苦しそうに俺の名前を連呼するミウの姿を見て、おれ…おれ…っ……頭ん中が、真っ白になって。そんで、早く助けてあげなきゃって、でもおれにはそんな実力ないし、何よりまだ手術をするのが怖かった。もし失敗したら、もし俺の手でミウを傷付けてしまったら、もし、もしって…怖かったんです、おれ、本当に。それで、医療に携わる者として最善の選択をする事が出来なかった。結局おれは、私利私欲に溺れた挙句、なにもできなかった。サクラ先生がいなかったら、おれは目の前で大切な人を……」

ぽた、ぽたた、と水滴が床の上を濡らしてゆく。芯が強そうに見えて、実は涙脆いこの男の微動だにしないその姿に、サクラは思いがけず昔の自分の姿を重ねた。

弱くて、なにも出来ず、ただ護られていただけの自分。その癖、一丁前にくノ一のつもりでいて、何かあるとすぐ泣いていた。情けなくて、惨めで、そんな自分がこうして今他人の役に立てているのは、その時護ってくれた人たちが居たから。導いてくれる存在がいたから。そして、共に並んで戦ってくれる仲間がいたから。

──人間は弱い。けれど、それを自覚し、己の悪い箇所を見つけ、時には仲間と寄り添い改善していく事こそが、弱さを克服するために必要なものだ。そう教えてくれる相手がいるのは、とても尊い事なのだと、サクラはもう知っている。

だからこそ、今目の前で後悔を知ったこの若い男を導いてやらなくてはならない。もう、そういう立場側の人間なのだ、サクラは。昔の泣き虫サクラではなく、里のために若輩を育ててゆく使命を担った、木ノ葉の里の上忍である。

「確かに、彼女の手術を担当したのは私よ。だけど、さっきあの場所で手術を完遂出来たのはどうしてだと思う?」

慰めでも、戒めでもない。
ただ純粋な疑問をぶつけたサクラの言葉に驚いたのか、トウマは頭を上げた。まだ腰は折ったままだが、それでも徐々に上体が傾き始めている。まんまるに見開いた目が、何かを探るようにただじっと、サクラの翡翠色をした瞳を捉えた。それでもサクラは何も言わない。喋らない。悟らせない。だって、自分自身で気付かなければ意味が無いから。トウマはきっと、この先木ノ葉の医療班にとって必要な人間になるだろう。他でもない、サクラの教え子として。その為には、乗り越えるべき試練が幾多も存在する。冷静な判断力と、柔軟な思考力。そして、何よりも患者やその家族を気遣える優しさが無ければ、幾ら治療が上手くても、医療忍者としての素質に欠ける。どれか一つだけでも、欠落していてはならないのだ。

──さあ、トウマ。意地を見せなさい。

「…そ、れは」

時計の秒針が刻むチク、タクという音だけが鳴り響くような、そんな静寂の中で、ようやくトウマが口を開いた。生唾を飲み込む音が聞こえる。

「……皆が、協力しあったからです」

つかの間の静寂が、そう広くはないこの部屋を支配する。尚も耳に纏わり付く時計の音を意識の外へ押しやって、サクラはトウマを見遣った。見られている事に気付いたのか、トウマはゆっくりと瞬きをし、同じようにサクラを見返した。

…逃げる事をやめたのね。

満点、とはお世辞にも言えないが、及第点位ならあげてもよいだろう。サクラはそう思い、前髪をくしゃりと掻きあげた。そして、

「合格よ、満点には遠く及ばないけどね。分かったならもう下を向いちゃダメよ。アンタ、まだまだこれからなんだから。…さ、早く彼女の所に行ってあげなさい。後のことは私に任せていいから」

と言った。初めは「そんな事させられません!僕がします!」と頑として譲らなかったトウマだが、サクラが一度壁を殴りつけ、絶対零度の微笑みを浮かべている姿を見ると、引き攣った頬を隠そうともせずに部屋を去っていった。

(あの頑固さは、ナルトと張るわね)

可動式椅子チェアの背もたれに思いっきり凭れながら、サクラはそんな事を思った。部屋を出る直前にトウマが呟いた台詞が、今も頭の中を巡っていた。

『…流石、サクラ先生だ』

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