1章:春野サクラの憂鬱
閉め切った窓から見えていた家々の灯りが消え始め、夜もこれからといった頃。勤務している病院の休憩スペースに掛けられた時計の針がぴったりと重なったのを横目に、サクラは煎れたばかりの珈琲を口に含んだ。
うん、美味しい。
幾らインスタントだからといって侮る事は出来ないし、何より基本的に動き回る事の多い医療忍者という立場からすれば、お手軽に摂取できるインスタント食品の類は重宝ものだった。
現に、この休憩スペースに設置してある棚には、皆が持ち寄った缶詰だの飲料水だのインスタント食品だのが所狭しと並べられている。原則として、誰が持ち寄ったかなどは気にせず、目に付いたものを誰でも好きなように飲み食いしていい。というのが暗黙のルールとしてあるが、やはり他人が持ち込んだものに無断で手を出すのは人間としての良心が呵責するので、皆中々自分が買ってきたもの以外には触れようとしない。
サクラが今飲んでいる珈琲も、数週間前にサクラが持ち込んだ物に他ならない。いつになればこの薄く張った結界のような壁は無くなるのだろう、と頭に疑問符を浮かばせながら残り僅かとなった珈琲を啜る。
本当ならば、柔らかいソファに身を沈めながらゆったりと渋茶でも啜り、つまみとしてあんみつを頬張りたい所ではあるが、とてもじゃないがそれは無理だろう。少なくとも、今は。
忍界全体を大きく揺るがした、第四次忍界大戦が集結してから、2年の月日が過ぎた。サクラも医療忍者として、そして、第七班の一員としてその腕を奮った。
かつて復讐に取り憑かれ、里を抜けてしまったサスケを、同班のナルトと共に救うために厳しい修行に邁進した。耐え抜いた先には、きっとまた第七班 で笑える未来が待っているはずだと思い、必死に努力した。
元々チャクラコントロールが群を抜いて上手く、またカカシからお墨付きを貰った幻術の才能に加え、負けず嫌いという性格を活かして鍛え上げてくれた師匠──綱手には頭が上がらない。医療忍術だけでなく、怪力や回避能力の向上、医療忍者の存在意義、何よりも、か弱いだけの女で終わってはならないということ……言い出せばキリがないほど、彼女から学んだ事は多い。
それら全てを理解させ、身に染み込ませた上で、火影としての彼女が誇りを持ってサクラに仕込んだのが百豪の印である。サクラの姉弟子であるシズネでさえ成し遂げる事が出来なかった、至極緻密なチャクラコントロールを要する百豪の印をサクラがようやく発動出来たのは、奇しくも第四次忍界大戦の最中であった。護られてばかりだった自分を変えようと、そして、今度はずっと護ってくれていたサスケとナルトを護れるように、というサクラの決意に呼応するかのように額に浮かんだその紋様を感じた瞬間、今までに無いほどの高揚感に満たされたのを昨日の事のように思い出せる。大切な人達を護れる強さを手に入れられた事は、大切な人達を救える力を手に入れた時以上に(比べられるものではないが)嬉しかった。やっと、やっと、やっと。
身体の内部から湧き上がる喜びで、無意識に肩を震わせてしまう。いけない、と思った矢先に、休憩室の扉が大きく開かれた。眉根を寄せ、今にも泣き出しそうな面持ちのままサクラを見詰めるのは、まだ医療忍者としては駆け出しの新米の、トウマという男だった。齢16にして、医療試験を一発クリアした事で医療班を騒がせたのはまだ記憶に新しい。最も、今の医療班には、その試験に齢12にして一発クリアした天才女医──もとい、春野サクラが居たため、さほど噂にはならなかったのだが。
トウマが研修医としてサクラの元に付き始めたのが、先の暮れである。非常に勉強熱心で、サクラの説明を一言一句逃さずに聞こうとするその姿勢が、サクラにはとても好印象だった。弱音を決して吐かず、どんな局面でも冷静かつ適切に対応出来るトウマがこんなにも慌てているということは、何かあったに違いない。オフモードに成りかけていた身体を切り替え、皺にならぬようハンガーに吊るしてあった白衣を急いで羽織りながら、トウマと共に現場へ向かう。
「状況は?」
とサクラが問うも、トウマからの返答はない。怪訝に思い男の方を向くと、今にも倒れそうなほど血の気が引いた真っ青な顔色で、歯がガチガチと鳴っている。上手く呼吸が出来ないのか、しきりに息を吐き出す音が辺りに響く。目線は定まっておらず、寧ろどうやってあの部屋まで来たのだろうかと不思議に思うほど、様子が可笑しかった。まったく、とため息を吐き出し、先より少し大きめな声で、
「状況は!?」
と聞く。ようやく声が耳に届いたのか、トウマはガタイのいい肩をビクッと震わせ、ゆっくりとサクラの方を向いた。あ、あ…と声にならない音を漏らしながらも、平常心を取り戻して来たのか、か細い声で言葉を発した。
「…こ、こきゅ、うが出来ないよう、で。し、しきりに血痰を、は、はいています…っあ、あとは腹部の激し、いいた、みを…うっ、…訴えて、お、り……、あと…あと…、ええ、と……全身、の湿疹…が……っ」
次第に震えだしたその声が紡いだ内容を脳内で整理してゆく内に、思い当たる節があった。大粒の涙と共に吐露された患者の容態は、いつの日か、医療忍者としての修行を積んでいた頃に文献で読んだ事がある症例と酷似していた。確かそこには───
「アナフィラキシーショック…」
この病気が流行ったのは数十年前で、その頃はまだ医療もあまり発展していなかったという背景から、サクラの読んだ文献には「別称・不治の病」と記されていた。症例自体は薬を幾つか組み合わせて患者に打てば時間と共に徐々に引いていくのだが、発症から死に至るまでの時間が極端に短い事から、任務先あるいは里へ戻る途中に力尽きてしまう事例が圧倒的に多かったのだという。
けれど、綱手を筆頭に、数多くの優秀な医療忍者たちや研究員たちの努力の甲斐あって、今では現場で適切な治療さえ行えば完治するまでに至っている。そもそも最近では、滅多に耳にしない稀有な症例な為、存在自体を知らない医療忍者も少なくはない。尚も歩みを緩めずに、サクラは問い返す。
「けど、仮にアナフィラキシーショックだとすれば治るじゃない。何をそんなに怯えているの?」
サクラの声が聞こえていないのか、トウマは虚ろな眼差し彷徨わせ、ようやく辿り着いた手術室の扉を押し開けながら口を開いた。
「患者は……ミウは……僕の、かのじょなん…です…」
そして、消え入りそうな声でサクラの方を振り返った。目は充血し、泣きすぎたせいか鼻水も垂れっぱなしだ。意を決したように唇を噛み締め、トウマは頭を下げた。
「お願いします、サクラ先生!ミウを…ミウをっ、救ってください…!」
下ろしていた髪を結い、手をアルコール除菌する。壁にぶら下げてある清潔な医療用マスクを着用し、いまだ頭を下げ続けているトウマに、サクラは鋭い声を飛ばした。
「私たちは医療忍者よ。誰であろうと、患者の命を救うのが私たちの仕事でしょ」
その言葉にはっとしたような顔をするトウマの背中をきつめに叩き、激励を送る。
「ほら、シャキッとしろ!はやくアンタも用意して来なさい、すぐにICUへ搬送するわよ」
じんじんと痺れる背中を擦る間もなく、サクラの言葉で何かに気付けたらしいトウマが準備を手伝い始めた。
もうその目に迷いが無いのを確認してから、サクラは目の前の患者の全身に視線を走らせる。目に見えている所以外に、何か不審な点はないか。血痰を吐いていると言うことは、いつ何時呼吸が止まっても可笑しくはない。自発呼吸が出来なくなってしまう前に、肺に溜まった血を取り除かなくてはならないが、今から切開して間に合うかどうか…正直危険な賭けだが、少しでも助かる望みがある以上は全力を尽くす以外に道はないのだ。考えている暇があるなら即、行動に移せ。──何処かから聞こえてきた師匠の言葉に小さく頷き、急いで患者の口元の呼吸器を外し、麻酔薬をたっぷりと含んだ装置を装着する。そして、近くのトレーに予め用意されてあった点滴針を、患者の腕に差し込んだ。細い針が血管に到達したのを確認すると、周りに集まってきていた他の医療忍者たちに指示を出してゆく。
「ペニシリンを投与したから、あとはアスピリン30mgとそれから───」
うん、美味しい。
幾らインスタントだからといって侮る事は出来ないし、何より基本的に動き回る事の多い医療忍者という立場からすれば、お手軽に摂取できるインスタント食品の類は重宝ものだった。
現に、この休憩スペースに設置してある棚には、皆が持ち寄った缶詰だの飲料水だのインスタント食品だのが所狭しと並べられている。原則として、誰が持ち寄ったかなどは気にせず、目に付いたものを誰でも好きなように飲み食いしていい。というのが暗黙のルールとしてあるが、やはり他人が持ち込んだものに無断で手を出すのは人間としての良心が呵責するので、皆中々自分が買ってきたもの以外には触れようとしない。
サクラが今飲んでいる珈琲も、数週間前にサクラが持ち込んだ物に他ならない。いつになればこの薄く張った結界のような壁は無くなるのだろう、と頭に疑問符を浮かばせながら残り僅かとなった珈琲を啜る。
本当ならば、柔らかいソファに身を沈めながらゆったりと渋茶でも啜り、つまみとしてあんみつを頬張りたい所ではあるが、とてもじゃないがそれは無理だろう。少なくとも、今は。
忍界全体を大きく揺るがした、第四次忍界大戦が集結してから、2年の月日が過ぎた。サクラも医療忍者として、そして、第七班の一員としてその腕を奮った。
かつて復讐に取り憑かれ、里を抜けてしまったサスケを、同班のナルトと共に救うために厳しい修行に邁進した。耐え抜いた先には、きっとまた
元々チャクラコントロールが群を抜いて上手く、またカカシからお墨付きを貰った幻術の才能に加え、負けず嫌いという性格を活かして鍛え上げてくれた師匠──綱手には頭が上がらない。医療忍術だけでなく、怪力や回避能力の向上、医療忍者の存在意義、何よりも、か弱いだけの女で終わってはならないということ……言い出せばキリがないほど、彼女から学んだ事は多い。
それら全てを理解させ、身に染み込ませた上で、火影としての彼女が誇りを持ってサクラに仕込んだのが百豪の印である。サクラの姉弟子であるシズネでさえ成し遂げる事が出来なかった、至極緻密なチャクラコントロールを要する百豪の印をサクラがようやく発動出来たのは、奇しくも第四次忍界大戦の最中であった。護られてばかりだった自分を変えようと、そして、今度はずっと護ってくれていたサスケとナルトを護れるように、というサクラの決意に呼応するかのように額に浮かんだその紋様を感じた瞬間、今までに無いほどの高揚感に満たされたのを昨日の事のように思い出せる。大切な人達を護れる強さを手に入れられた事は、大切な人達を救える力を手に入れた時以上に(比べられるものではないが)嬉しかった。やっと、やっと、やっと。
身体の内部から湧き上がる喜びで、無意識に肩を震わせてしまう。いけない、と思った矢先に、休憩室の扉が大きく開かれた。眉根を寄せ、今にも泣き出しそうな面持ちのままサクラを見詰めるのは、まだ医療忍者としては駆け出しの新米の、トウマという男だった。齢16にして、医療試験を一発クリアした事で医療班を騒がせたのはまだ記憶に新しい。最も、今の医療班には、その試験に齢12にして一発クリアした天才女医──もとい、春野サクラが居たため、さほど噂にはならなかったのだが。
トウマが研修医としてサクラの元に付き始めたのが、先の暮れである。非常に勉強熱心で、サクラの説明を一言一句逃さずに聞こうとするその姿勢が、サクラにはとても好印象だった。弱音を決して吐かず、どんな局面でも冷静かつ適切に対応出来るトウマがこんなにも慌てているということは、何かあったに違いない。オフモードに成りかけていた身体を切り替え、皺にならぬようハンガーに吊るしてあった白衣を急いで羽織りながら、トウマと共に現場へ向かう。
「状況は?」
とサクラが問うも、トウマからの返答はない。怪訝に思い男の方を向くと、今にも倒れそうなほど血の気が引いた真っ青な顔色で、歯がガチガチと鳴っている。上手く呼吸が出来ないのか、しきりに息を吐き出す音が辺りに響く。目線は定まっておらず、寧ろどうやってあの部屋まで来たのだろうかと不思議に思うほど、様子が可笑しかった。まったく、とため息を吐き出し、先より少し大きめな声で、
「状況は!?」
と聞く。ようやく声が耳に届いたのか、トウマはガタイのいい肩をビクッと震わせ、ゆっくりとサクラの方を向いた。あ、あ…と声にならない音を漏らしながらも、平常心を取り戻して来たのか、か細い声で言葉を発した。
「…こ、こきゅ、うが出来ないよう、で。し、しきりに血痰を、は、はいています…っあ、あとは腹部の激し、いいた、みを…うっ、…訴えて、お、り……、あと…あと…、ええ、と……全身、の湿疹…が……っ」
次第に震えだしたその声が紡いだ内容を脳内で整理してゆく内に、思い当たる節があった。大粒の涙と共に吐露された患者の容態は、いつの日か、医療忍者としての修行を積んでいた頃に文献で読んだ事がある症例と酷似していた。確かそこには───
「アナフィラキシーショック…」
この病気が流行ったのは数十年前で、その頃はまだ医療もあまり発展していなかったという背景から、サクラの読んだ文献には「別称・不治の病」と記されていた。症例自体は薬を幾つか組み合わせて患者に打てば時間と共に徐々に引いていくのだが、発症から死に至るまでの時間が極端に短い事から、任務先あるいは里へ戻る途中に力尽きてしまう事例が圧倒的に多かったのだという。
けれど、綱手を筆頭に、数多くの優秀な医療忍者たちや研究員たちの努力の甲斐あって、今では現場で適切な治療さえ行えば完治するまでに至っている。そもそも最近では、滅多に耳にしない稀有な症例な為、存在自体を知らない医療忍者も少なくはない。尚も歩みを緩めずに、サクラは問い返す。
「けど、仮にアナフィラキシーショックだとすれば治るじゃない。何をそんなに怯えているの?」
サクラの声が聞こえていないのか、トウマは虚ろな眼差し彷徨わせ、ようやく辿り着いた手術室の扉を押し開けながら口を開いた。
「患者は……ミウは……僕の、かのじょなん…です…」
そして、消え入りそうな声でサクラの方を振り返った。目は充血し、泣きすぎたせいか鼻水も垂れっぱなしだ。意を決したように唇を噛み締め、トウマは頭を下げた。
「お願いします、サクラ先生!ミウを…ミウをっ、救ってください…!」
下ろしていた髪を結い、手をアルコール除菌する。壁にぶら下げてある清潔な医療用マスクを着用し、いまだ頭を下げ続けているトウマに、サクラは鋭い声を飛ばした。
「私たちは医療忍者よ。誰であろうと、患者の命を救うのが私たちの仕事でしょ」
その言葉にはっとしたような顔をするトウマの背中をきつめに叩き、激励を送る。
「ほら、シャキッとしろ!はやくアンタも用意して来なさい、すぐにICUへ搬送するわよ」
じんじんと痺れる背中を擦る間もなく、サクラの言葉で何かに気付けたらしいトウマが準備を手伝い始めた。
もうその目に迷いが無いのを確認してから、サクラは目の前の患者の全身に視線を走らせる。目に見えている所以外に、何か不審な点はないか。血痰を吐いていると言うことは、いつ何時呼吸が止まっても可笑しくはない。自発呼吸が出来なくなってしまう前に、肺に溜まった血を取り除かなくてはならないが、今から切開して間に合うかどうか…正直危険な賭けだが、少しでも助かる望みがある以上は全力を尽くす以外に道はないのだ。考えている暇があるなら即、行動に移せ。──何処かから聞こえてきた師匠の言葉に小さく頷き、急いで患者の口元の呼吸器を外し、麻酔薬をたっぷりと含んだ装置を装着する。そして、近くのトレーに予め用意されてあった点滴針を、患者の腕に差し込んだ。細い針が血管に到達したのを確認すると、周りに集まってきていた他の医療忍者たちに指示を出してゆく。
「ペニシリンを投与したから、あとはアスピリン30mgとそれから───」
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