短い話
どうしてこうも弱々しくて生きていけるのだろうと五条は常々、不思議に思っていた。
肩書きばかりの姉はよく転んでよくだまされてよく泣いているような人間である。大丈夫だよ、と他人を安心させるための言葉は気休めにしかならないことを当の姉も知っている。ちっぽけで踏んだらたちまち粉々になってしまいそうなさまが、触れることすら躊躇させる。あまりにも薄っぺらい肩幅。子供のような手。あどけなく高い声。見ているほうが怖くなってくるほどとっくに成人している大人としては未完成で、どうしてなのかその幼さは五条の庇護欲をとてつもなく引っ掻いて刺激してくるのだった。
焦げついたフライパンを洗うことも月が変わってからはたして何度目のことであろうか。五条の肺の中にはもうため息を送る分の空気も残ってはいない。
つい先ほどようやく任務を終えたその足で帰宅したと同時に、まず玄関先でかすかに焦げついたようなにおいを察知した。実を言うと五条は玄関に立った時点で後始末を覚悟していた。良くはない予感と共にキッチンスペースをのぞきに行けば炭になった卵焼きと慌てふためく姉に同時に相対してしまったがために、必要最低限を残してすべての空気を吐き出し尽くしてしまったのである。こうして新たなため息は生まれなかった。呆れている感情もある。どうしてこんなことが出来るのだろうか。かわいそうな卵焼きたちだ。悲惨極まりなかった。
半泣きになっている姉はとりあえず卵液と焦げだらけの手を洗ってこいと言いつけて洗面所へ送り出し、一方の帰って来たばかりだったはずの五条がフライパンの焦げつきと和解し格闘を終えようとしていた頃。姉の失態をようやくすべて片付けたと言える頃合いになってようやく、背後にある出入口の向こう側からちいさなちいさな声で「悟くん」と弱々しい声が転がり落ちた。
「悟くん、ごめんなさい」
「いいよ。いつものことだし、こんなことで僕が怒ったことある?」
「ううん、無い」
姉の肯定通り、五条悟は姉の失態にため息をついても怒ったことは一度たりともなかった。ごめんなさいと謝りながら半泣きになる姉の頭を撫でながらなぐさめて、しょうがないなあと笑う。姉さんはしょうがないやつだね、僕がいないと本当にだめだ。五条はいつもそう言いながら当の姉の代わりに姉の失態の後始末をしている。
「それでもごめんなさい」
「姉さんの失敗は僕の失敗でもあるから。姉さんは僕がいないと何も出来ないけど、僕がいれば大丈夫だからね」
五条の白い髪とは似ても似つかない黒々として艶々と光を反射する姉の髪を撫でながら、五条はいつもと同じ言葉を姉に聞かせてやった。何度も何度も姉に言い聞かせている言葉。昨日も一昨日も、子どもの頃からずっと。
・
肩書きだけの姉なんかよりもずっと優秀でなんでも出来る弟のことを疎んだり嫉妬したりして嫌悪するようなことがあってはならない。そんなことはおそろしくて想像もしたくない。だから姉のたったひとりの弟である五条悟は子どもの頃からその姉に言い聞かせてきた。出来の悪い姉が五条たったひとりだけを頼ってくれるように、弟ならば当然に姉を助けてくれると理解してくれるまで。望むようになった後も。言葉は少しずつ積もり積もっていく呪いのようなものだから、何度だって言っておいてもいい。今は満足できていても、もっと欲しくなるかもしれないから。足りなくなるかもしれないから。
しなくていいことも五条は姉のためならばと手を貸してやることが日頃から多かった。朝食や夕食の準備も当番を決めているのに手伝う。食器を洗うことも手が荒れるからやめておけだの皿を割ったほうが面倒だのと言っておっちょこちょいの姉は椅子に座らせておく。
「姉さんは座っててよ」
「どうして、私もやるのに。悟くんばっかり家事して」
「いいから、ほら。座って」
わがままな姉は優しく手をひいてやればおとなしく椅子にすわってくれることももちろん五条は知っているのだ。悟くんのばか。悪態をつく乱暴な口も、じとりとにらむこわくない視線も五条にとってはかわいらしいものである。当然のように許した。そうしていつものようにものの見事に私にもお皿洗わせて攻撃を回避した五条は「これでも食べておとなしくしててね」と座らせておくついでに餌付けのつもりでコンビニで買ってきたプリンやシュークリームを与えているような始末だった。冷蔵庫で適度に冷えたそれらを受け取ると、たったそれだけでぱっと喜色満面になるさまが子どものようでほほえましい。五条もゆるゆると口角を弛めたが、シンクに映る顔は想像よりずっとだらしなかったのですぐに表情筋をひきしめた。
「悟くんはなんでも出来るね。悟くんが弟で本当によかったなあ」
五条は出来うる限りで姉を甘やかしては自立の心を削ぎ落とす努力をした。そうした努力の末に五条の庇護下でぬくぬくと過ごしふにゃふにゃと笑う頼りない姉を手に入れたのである。
彼女はもう弟に甘やかされることになれて、なんでもしてくれる五条をよくこうして手放しで誉めた。甘やかされることになれて、とうに自立心を喪失しているが故に。
「そうそう、こんなに出来た弟なんてなかなか居ないよ。しかも姉さんのことがだーいすきで。感謝してよね」
「感謝してるしてる。いつもありがと」
頼りない姉はいつまで経ってももう自立心を取り戻せないのだろうし、五条悟は自分のものになってくれた姉のことがこれからも大好きだ。それでいい。五条にとっての理想はこの二人暮らしの家の中だけにある。
肩書きばかりの姉はよく転んでよくだまされてよく泣いているような人間である。大丈夫だよ、と他人を安心させるための言葉は気休めにしかならないことを当の姉も知っている。ちっぽけで踏んだらたちまち粉々になってしまいそうなさまが、触れることすら躊躇させる。あまりにも薄っぺらい肩幅。子供のような手。あどけなく高い声。見ているほうが怖くなってくるほどとっくに成人している大人としては未完成で、どうしてなのかその幼さは五条の庇護欲をとてつもなく引っ掻いて刺激してくるのだった。
焦げついたフライパンを洗うことも月が変わってからはたして何度目のことであろうか。五条の肺の中にはもうため息を送る分の空気も残ってはいない。
つい先ほどようやく任務を終えたその足で帰宅したと同時に、まず玄関先でかすかに焦げついたようなにおいを察知した。実を言うと五条は玄関に立った時点で後始末を覚悟していた。良くはない予感と共にキッチンスペースをのぞきに行けば炭になった卵焼きと慌てふためく姉に同時に相対してしまったがために、必要最低限を残してすべての空気を吐き出し尽くしてしまったのである。こうして新たなため息は生まれなかった。呆れている感情もある。どうしてこんなことが出来るのだろうか。かわいそうな卵焼きたちだ。悲惨極まりなかった。
半泣きになっている姉はとりあえず卵液と焦げだらけの手を洗ってこいと言いつけて洗面所へ送り出し、一方の帰って来たばかりだったはずの五条がフライパンの焦げつきと和解し格闘を終えようとしていた頃。姉の失態をようやくすべて片付けたと言える頃合いになってようやく、背後にある出入口の向こう側からちいさなちいさな声で「悟くん」と弱々しい声が転がり落ちた。
「悟くん、ごめんなさい」
「いいよ。いつものことだし、こんなことで僕が怒ったことある?」
「ううん、無い」
姉の肯定通り、五条悟は姉の失態にため息をついても怒ったことは一度たりともなかった。ごめんなさいと謝りながら半泣きになる姉の頭を撫でながらなぐさめて、しょうがないなあと笑う。姉さんはしょうがないやつだね、僕がいないと本当にだめだ。五条はいつもそう言いながら当の姉の代わりに姉の失態の後始末をしている。
「それでもごめんなさい」
「姉さんの失敗は僕の失敗でもあるから。姉さんは僕がいないと何も出来ないけど、僕がいれば大丈夫だからね」
五条の白い髪とは似ても似つかない黒々として艶々と光を反射する姉の髪を撫でながら、五条はいつもと同じ言葉を姉に聞かせてやった。何度も何度も姉に言い聞かせている言葉。昨日も一昨日も、子どもの頃からずっと。
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肩書きだけの姉なんかよりもずっと優秀でなんでも出来る弟のことを疎んだり嫉妬したりして嫌悪するようなことがあってはならない。そんなことはおそろしくて想像もしたくない。だから姉のたったひとりの弟である五条悟は子どもの頃からその姉に言い聞かせてきた。出来の悪い姉が五条たったひとりだけを頼ってくれるように、弟ならば当然に姉を助けてくれると理解してくれるまで。望むようになった後も。言葉は少しずつ積もり積もっていく呪いのようなものだから、何度だって言っておいてもいい。今は満足できていても、もっと欲しくなるかもしれないから。足りなくなるかもしれないから。
しなくていいことも五条は姉のためならばと手を貸してやることが日頃から多かった。朝食や夕食の準備も当番を決めているのに手伝う。食器を洗うことも手が荒れるからやめておけだの皿を割ったほうが面倒だのと言っておっちょこちょいの姉は椅子に座らせておく。
「姉さんは座っててよ」
「どうして、私もやるのに。悟くんばっかり家事して」
「いいから、ほら。座って」
わがままな姉は優しく手をひいてやればおとなしく椅子にすわってくれることももちろん五条は知っているのだ。悟くんのばか。悪態をつく乱暴な口も、じとりとにらむこわくない視線も五条にとってはかわいらしいものである。当然のように許した。そうしていつものようにものの見事に私にもお皿洗わせて攻撃を回避した五条は「これでも食べておとなしくしててね」と座らせておくついでに餌付けのつもりでコンビニで買ってきたプリンやシュークリームを与えているような始末だった。冷蔵庫で適度に冷えたそれらを受け取ると、たったそれだけでぱっと喜色満面になるさまが子どものようでほほえましい。五条もゆるゆると口角を弛めたが、シンクに映る顔は想像よりずっとだらしなかったのですぐに表情筋をひきしめた。
「悟くんはなんでも出来るね。悟くんが弟で本当によかったなあ」
五条は出来うる限りで姉を甘やかしては自立の心を削ぎ落とす努力をした。そうした努力の末に五条の庇護下でぬくぬくと過ごしふにゃふにゃと笑う頼りない姉を手に入れたのである。
彼女はもう弟に甘やかされることになれて、なんでもしてくれる五条をよくこうして手放しで誉めた。甘やかされることになれて、とうに自立心を喪失しているが故に。
「そうそう、こんなに出来た弟なんてなかなか居ないよ。しかも姉さんのことがだーいすきで。感謝してよね」
「感謝してるしてる。いつもありがと」
頼りない姉はいつまで経ってももう自立心を取り戻せないのだろうし、五条悟は自分のものになってくれた姉のことがこれからも大好きだ。それでいい。五条にとっての理想はこの二人暮らしの家の中だけにある。
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