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短い話

床のそこかしこに割れた皿の破片が飛散している。うっかり手を滑らせた当の彼女は今にも倒れそうに蒼白な顔でそれを見下ろしていた。手がふるえて、謝罪をしなければと開こうとした口は空気と意味のない単語だけを吐き出すようなさまである。
「っ…、」
謝らなければ。悟様に。ごめんなさいと、はやく。思考だけがとりとめもなく働いている。呆然と破片を眺めながらもごめんなさいの言葉の輪郭だけをなぞる彼女の口元を見て幼い五条は、ふ、と笑った。なんとも愚かで可愛らしい。主人の前で粗相をしでかして後悔する様子が愛おしい。
五条は小さくて柔らかな手を彼女へとそっと伸ばした。彼女の指先は五条よりすこしだけひんやりとしていて心地がいい。細くて頼りないさまを五条は好ましく思っている。ふるえる手を優しく握りしめるとようやく少しだけ自意識を取り戻したらしい彼女は空気を吐くのみだった唇をぽかりと開けたまま、薄っぺらい肩をびくりと揺らした。揺らしただけだったが。冷や汗の浮かんだままの顔はそれでもまだ、五条へと向くことはなかった。隣に立つ主人を差し置いて、床に散らばった破片ばかりをじっと眺めていた。
「……、」
「ねえ、ねえってば」
五条の柔い手の体温がもう一度彼女の手を揺さぶる。そうすると、涙が浮いた真っ黒な瞳が部屋の灯りを反射しながら、飛散した破片からようやくそれた。五条の青い瞳と対になるような真っ暗な黒曜石の瞳が見開かれる。蒼白のままの顔が五条だけへと向いて、彼女はたちまちのうちに幼い主人だけしか認識できなくなった。
「…、あ」
「やっとこっち向いた」
幼い主人の青い瞳がじっと彼女を見上げている。価値のある鉱石のようにも見える瞳にのぞきこまれると深淵に突き落とされる心地がして、彼女はいつも不安になった。不安になるのに、それでもその瞳に映される瞬間はどうしてなのか幸せだと思えることも、この窮屈な五条の家でいちばん安心できると感じることも不思議だった。
彼女は小さな手を握り返して安堵の息をそっと吐いた。あたたかい、幼い主人の手は柔らかで、握り返すとやんわりとまた握ってくるさまに、また安堵した。同時に、彼女の口からはようやく、悟様、と意味のある小さな音が発せられる。
「悟様、」
甘えたような声だった。子犬か子猫がすがって離れたくないとごねるような、不安なのに甘えきった声の色。この広いだけの本宅にある五条の部屋にたったふたり、他はいらないと彼女だけをお手伝いとして側にいることを許しているが故に。彼女がすがる先が幼い主人である自分しか居ないのだという事実が、五条は心底心地がいいのだといつも思っている。それでいいと思っている。ずっとこのままであってほしいと思っている。
不安であるのはどちらかといえば、五条のほうだったのかもしれない。彼女は五条の面倒をみてくれる大人ではあるものの、あまりにも純粋ですぐに嘘に騙されるような、まるでどこにでもいる子どものようである。他に頼ることのできる者がいるなら、とっくに彼女はどこかの見知らぬその人間のもとへ行ってしまっていたのかもしれない。ありもしないことを彼女がこうして五条へとすがりつく度に考えることをやめられないでいるのだ。彼女の主人は今も昔も五条の家を仕方なしにでも背負って立つ五条悟だけだというのに。
彼女をたったひとり、支配する人間でありたい。だから五条悟は幼い子供として彼女に世話をやかれて、幼い主人として彼女の失敗を許してやる。素直にごめんなさいと謝る彼女に、気にしなくていいのだと、俺が許してあげるよと声をかけて甘やかしている。
「俺がいいって言ったらそれでいいんだよ。お前は何も考えなくていい」
此度の失態もまた当然のように許されるのだろうと彼女が思っていることを、五条は知っている。図々しい彼女も愚かで可愛らしくて愛おしいから、気にしてもいないが。
彼女が望む通りに言葉をかけてやることも、彼女がすがることのできるたったひとりであるための務めなのだと思えば、なんとも容易いことだ。
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