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短い話

青い眼が見開かれて、驚きを隠さない表情がまるで子供のようだと彼女は思った。三十路も近い大人で、まだ本当に子供である彼女よりずっと大きな体躯の男を相手にして、年下のような幼さを感じるなど失礼だろうか。などと思ったことを後悔したくなるほど、五条の幼げな表情はあっという間に消え去った。
「…はあ?」
地の底を這っているような低い声と剣呑な視線があまりにも高いところから降ってきて、おそろしい。やらかした、と彼女は瞬時に察して眼をそらしたが、降り注ぐ刺々しい視線の雨は止むことがない。当の彼女の隣でおろおろと手をあっちこっちへさ迷わせる伊地知はなにも悪くないのに、どうにかしてくれと八つ当たりしてしまいたくなる。
もとはといえば、マジビンタだのなんだのと言っては伊地知を弄る五条をいさめたせいであった。やめてくださいと半泣きでひいひい鳴いている伊地知を見かねた同情心から「五条先生、伊地知さんがかわいそうです。そういうことしちゃだめですよ」とやんわりと、彼女はただそう言っただけなのに。言葉にした瞬間に五条はぴたりと動きをとめて、油をさしそこねたブリキと見紛う動きで大きな体躯をかがめて彼女の顔をのぞきこんだ。青い眼がビー玉のようなまん丸できれいだったなどとは、口が裂けても言えない。彼女は言いかけたほめるための言葉をそっと飲み込んでなかったことにした。
「え?僕の聞き間違いかな?もしかして今の、僕に言ったの?」
「…は、あの…五条せんせ…」
「まさかね、お前がそんな事を言うわけないよね。ずっと僕の味方でいてくれるって言ったもんね」
「…そ、れは。いつの話ですか」
「悟お兄ちゃんのお嫁さんになりたいって言ってたころのお前の話だよ」
「やめてください、忘れてください…」
具体的に言えば、五条がまだ高専に通っていて、彼女は日がな一日をぼんやりと本家のほこりっぽい部屋で過ごしていた頃。その頃の彼女にとっての五条は、時折、手土産にと茶菓子を持って訪ねて来ては、狭い部屋から連れ出してくれる優しいお兄さんのようなものだった。暇をうち壊してくれる彼女だけの優しい五条悟だった。
ある日の五条の帰り際、寂しさのあまり我慢ができなくて、ずっと悟お兄ちゃんと一緒にいたいなと、幼かった彼女の口からぽろりとかわいらしい言葉がこぼれ落ちたことがあった。それを聞いてしゃがみこんだ五条が寂しい?と聞けば、涙のにじんだ眼のままうんと幼かった彼女は頷いた。まだ大人ではなくとも、彼女よりずっと大きかった五条はすすりなく幼かった彼女を見て「俺のお嫁さんになればずっと一緒にいられるよ」と頭を撫でながら言った。お嫁さんとは?よく分からないまま、しかし彼女はずっと一緒にいられるなどという甘言にくらんで頷いた。じゃあお前はずっと俺だけの味方でいてね、などと抱きしめられながら言われたことを、もう彼女は覚えていない。
「忘れるわけないでしょ。僕とずっと一緒にいたいって言ったのはお前だし、じゃあ結婚すればいいよって提案したのは僕。そういえばお前ももうすぐ16になるし、そろそろ指輪でも買いに行こうか」
「は?」
「婚約指輪だよ。まさかとは思うけど、冗談だと思ってた?」
肝心なところは覚えていなくとも、せっかく懐かしい記憶の懐古にふけってぼんやりとしていたのに、唐突に落とされた爆弾は彼女をしっかりと現実に引き戻した。婚約指輪。衝撃の余波はいまだに彼女の頭蓋骨のなかで反響して、五条の言葉の内容をだんだんと形作っていくようだった。婚約指輪。結婚。ようやくそのふたつの言葉の輪郭がはっきりしたころ、彼女はようやく顔をさあっと青ざめさせた。頭痛がするような心地がして、いたいけな少女の頭をめまいが襲った。
「次の休みには下見に行こうね。すぐ選ばなくてもいいから」
「は、あの…」
「未来の旦那の目の前で他の男を擁護するようなことをして、それで済むと思ったならおめでたい頭だね。僕はそんなに優しくないよ。本当は恵にも悠仁にも嫉妬してたのに、僕をさしおいて伊地知にまでそんなに優しくされたら我慢ならないから。もうお嫁さんになっちゃおうね」
「かなり強引では…」
「失礼な。これは愛だよ」
愛。愛とは?彼女は五条の隣で首をかしげた。少なくともこれは愛なんて呼ぶことができるほど純粋なものには見えないが、そっと気配を消して縮こまるかわいそうな伊地知に免じて彼女はそっと五条に寄り添って頷いた。
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