短い話
初めて彼女の死にそうなほど真っ青な顔を見たとき、背筋に氷水でも流されたのかと思うほどぞっとしたことを覚えている。閉じたままぴくりとも動かないまぶたや包帯が巻かれたたおやかな指先を、忘れられるわけもない。
彼女の些細な変化すら知っていないと気がすまないと思うようになったのも、それからだった。彼女の家におしかけてまで隠し事をあばくような理不尽の限りを尽くす所業には、家入すらそれ以上はやめておけと苦々しい顔をしていた。当の彼女はといえば「五条くんがそれで気がすむのなら」とのたまっていたのだが。
・
桜貝のような血色のいい爪をのせた指先に絆創膏を張り付ける。紙で切っただけの小さな傷すら、彼女の指の傷だと思えば痛々しく見えてくるから不思議だ。痛くないかと彼女に問えば、大丈夫だと返ってきてようやく安堵する。絆創膏の上から傷口をすりすりとなでると彼女はくすぐったいよと言って笑った。
「他は怪我してない?」
雑務処理を行うだけの彼女がたいした怪我をするわけもないとわかっている。それなのに、毎度こうして彼女の目をじっと見つめながら問うているのは、怪我以外の隠し事をあぶり出すためだ、ということを彼女は知らない。彼女は取り繕うことが苦手だから、怪我をして心配させたうえに隠し事をするような器用な真似は出来ない。
「ううん、平気だよ」
視線を絡めたまま返事をよこす彼女を見てから、ようやく机に散らかったままの絆創膏の包装シートや血を拭ったティッシュをごみ箱に投げ捨てた。
「じゃあ、今日はもう家で大人しくしててね」
たかが切り傷のために引っ張り出した救急箱を片付けながら、当の彼女の顔も見ずにその言葉を告げるのはいつものことだった。切り傷、擦り傷、火傷、果ては立ちくらみまで。彼女のどんな不調も許容できない心の狭さが、いちばん安心できる安全な場所へ彼女を閉じこめようと画策することをやめられない。その度に僕の家まで送るからと言い聞かせ続けると、最初の頃は「そこまで五条くんに迷惑かけられないよ」と拒んでいた彼女もいつしかうなずくことしかしなくなった。
・
「あの子、今日も家に帰したの?」
医務室と医務室の奥にあるキッチンスペースを隔てるアコーディオンカーテン開いて顔を出した家入は、コーヒーをすすりながら五条を苦々しい目線で睨みつけた。
怪我をした彼女を五条が無理やり引っ張って医務室に訪れる、何度も同じようなやり取りを彼女と五条が繰り返すたびに、家入は無言のままそっと医務室の奥にあるキッチンスペースに引っこんでいく。彼女はそれを知らないが、何事にも敏い五条にはそれを眺めていられない家入の気持ちが手に取るように理解出来た。
「うん、まあね。雑務処理なんて誰にでも出来るでしょ」
「書類仕事だけでもしてくれたら伊地知だって助かるだろうに」
「わざわざ怪我したあの子に労働を強いるなんて酷すぎない?」
「…呆れた。過保護ここに極まれりだな」
「過保護でもなんでもいいよ。本当はあの子がもう痛い思いをしなくていいならずっと家にいたっていいくらいなんだからね」
・
じゃあ、僕ももう帰るよ。そう言って医務室から出ていく背中を毎回のごとく眺めては、ため息をつくことを家入は繰り返している。したくてしているわけでもないが。
今は過保護を通り越して家にでも閉じ込めようとまでしている彼女のことを嫌いだった時期の五条悟を、家入は知っている。子猫を抱えているような腑抜けた心地が気持ち悪いのだと眉をひそめていた当時の五条や、彼女の薄っぺらい肩やたおやかな指先が触れるのを嫌がっては遠ざけていた場面を何度も見ていた。
それらを何度となく目撃して、五条の言い分を聞いていた家入は、実のところ、五条が彼女を嫌っていたわけではないことをなんとなく察していた。五条本人にはけっして言えたことではないが、五条は自分どころか同級生や後輩と比べても弱い生き物であると分類してしまった彼女に関わることを怖がっていただけなのだ。まだ大人にはなりきれないあの頃の五条には、弱い生き物に触れることで壊してしまうかもしれない恐怖感と、嫌いなものと接する嫌悪感の区別がはっきりとついていなかった。
大人になるにつれての余裕と自覚を得て、いつの間にか過保護を拗らせてしまった同級生を、もうどうすることもできないのだと家入はわかっている。昔はいさめていた出来事も、今はもう遠く離れたところで眺めていることしかしなくなった。いつの日か五条の過ぎた保護欲が、弱い彼女を押し潰してしまわないことを心のほんの片隅で祈っている。
彼女の些細な変化すら知っていないと気がすまないと思うようになったのも、それからだった。彼女の家におしかけてまで隠し事をあばくような理不尽の限りを尽くす所業には、家入すらそれ以上はやめておけと苦々しい顔をしていた。当の彼女はといえば「五条くんがそれで気がすむのなら」とのたまっていたのだが。
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桜貝のような血色のいい爪をのせた指先に絆創膏を張り付ける。紙で切っただけの小さな傷すら、彼女の指の傷だと思えば痛々しく見えてくるから不思議だ。痛くないかと彼女に問えば、大丈夫だと返ってきてようやく安堵する。絆創膏の上から傷口をすりすりとなでると彼女はくすぐったいよと言って笑った。
「他は怪我してない?」
雑務処理を行うだけの彼女がたいした怪我をするわけもないとわかっている。それなのに、毎度こうして彼女の目をじっと見つめながら問うているのは、怪我以外の隠し事をあぶり出すためだ、ということを彼女は知らない。彼女は取り繕うことが苦手だから、怪我をして心配させたうえに隠し事をするような器用な真似は出来ない。
「ううん、平気だよ」
視線を絡めたまま返事をよこす彼女を見てから、ようやく机に散らかったままの絆創膏の包装シートや血を拭ったティッシュをごみ箱に投げ捨てた。
「じゃあ、今日はもう家で大人しくしててね」
たかが切り傷のために引っ張り出した救急箱を片付けながら、当の彼女の顔も見ずにその言葉を告げるのはいつものことだった。切り傷、擦り傷、火傷、果ては立ちくらみまで。彼女のどんな不調も許容できない心の狭さが、いちばん安心できる安全な場所へ彼女を閉じこめようと画策することをやめられない。その度に僕の家まで送るからと言い聞かせ続けると、最初の頃は「そこまで五条くんに迷惑かけられないよ」と拒んでいた彼女もいつしかうなずくことしかしなくなった。
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「あの子、今日も家に帰したの?」
医務室と医務室の奥にあるキッチンスペースを隔てるアコーディオンカーテン開いて顔を出した家入は、コーヒーをすすりながら五条を苦々しい目線で睨みつけた。
怪我をした彼女を五条が無理やり引っ張って医務室に訪れる、何度も同じようなやり取りを彼女と五条が繰り返すたびに、家入は無言のままそっと医務室の奥にあるキッチンスペースに引っこんでいく。彼女はそれを知らないが、何事にも敏い五条にはそれを眺めていられない家入の気持ちが手に取るように理解出来た。
「うん、まあね。雑務処理なんて誰にでも出来るでしょ」
「書類仕事だけでもしてくれたら伊地知だって助かるだろうに」
「わざわざ怪我したあの子に労働を強いるなんて酷すぎない?」
「…呆れた。過保護ここに極まれりだな」
「過保護でもなんでもいいよ。本当はあの子がもう痛い思いをしなくていいならずっと家にいたっていいくらいなんだからね」
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じゃあ、僕ももう帰るよ。そう言って医務室から出ていく背中を毎回のごとく眺めては、ため息をつくことを家入は繰り返している。したくてしているわけでもないが。
今は過保護を通り越して家にでも閉じ込めようとまでしている彼女のことを嫌いだった時期の五条悟を、家入は知っている。子猫を抱えているような腑抜けた心地が気持ち悪いのだと眉をひそめていた当時の五条や、彼女の薄っぺらい肩やたおやかな指先が触れるのを嫌がっては遠ざけていた場面を何度も見ていた。
それらを何度となく目撃して、五条の言い分を聞いていた家入は、実のところ、五条が彼女を嫌っていたわけではないことをなんとなく察していた。五条本人にはけっして言えたことではないが、五条は自分どころか同級生や後輩と比べても弱い生き物であると分類してしまった彼女に関わることを怖がっていただけなのだ。まだ大人にはなりきれないあの頃の五条には、弱い生き物に触れることで壊してしまうかもしれない恐怖感と、嫌いなものと接する嫌悪感の区別がはっきりとついていなかった。
大人になるにつれての余裕と自覚を得て、いつの間にか過保護を拗らせてしまった同級生を、もうどうすることもできないのだと家入はわかっている。昔はいさめていた出来事も、今はもう遠く離れたところで眺めていることしかしなくなった。いつの日か五条の過ぎた保護欲が、弱い彼女を押し潰してしまわないことを心のほんの片隅で祈っている。
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