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短い話

休日の朝はパンケーキを焼くところからはじまる。起床して少しぼんやりとしてから着替えて、体格に合わせてあつらえた台所に立つまでの間は、夢の続きでも見ているように記憶がさだかでない。パンケーキの生地を混ぜ合わせている場面でようやく、彼女の口に入るものを焦がすことも、不格好な形にして見た目を損ねてしまうことも、許容できることではないと沈んでいた意識が騒ぎ立てる。本当は目覚まし時計なんてものに起こされたくはないのに、朝ごはんはパンケーキがいいの、などという彼女のかわいらしい些細なわがままのためだと気づけば、布団で惰眠をむさぼりたい欲なども吹き飛んでしまうから不思議だった。
両面を均一に、どこにも余分な焦げ目のないきつね色に焼いて、二段がさねのふわふわの山にする。粉砂糖は彼女の口の大きさに合わせて切った果物を飾りつけてから。常温に置いてやわらかくしたバターをそえて、そしてその上から蜂蜜をかけるのは彼女の仕事だった。そこまでの行程を終えてようやく、いつかの誕生日に贈られた黒のエプロンを外して、五条は彼女がまだ惰眠をむさぼる寝室へと足を向けた。
冬の早朝でも暖房の利いている室内はほどよく暖かくて、彼女の起床をひきとめるように邪魔をしている。布団をひっぺがしてまで、寝起きの悪い彼女に起きるようにと促すことはしないが、はやくその真っ黒な目の中に映されることを五条は望んでいた。だからこそ、おはよう、と彼女へかける声も自然とやわらかく、甘く甘くなっていた。先ほど焼いたパンケーキのようなふわふわの頬をつついて、粉砂糖や蜂蜜のように甘い匂いのする髪を撫でる。部屋のあわいライトを反射する髪を一束、長い指にからめてくるくると弄ぶ。そうすると少しだけ眉間をきゅうっとせまくして、んん、とぐずる彼女がかわいらしいから、五条は寝起きの彼女も好きだった。しばらく彼女の頬や髪を堪能したところで、せっかくきれいに焼き目のついたパンケーキを冷ましてはもったいないからと、五条は彼女の頼りないまでに細い肩を優しく揺らした。お嬢さん、パンケーキが冷めちゃうよ。そう言えば、彼女はいつも不機嫌そうな顔をあげてくれることを五条は知っている。
「おはよう、ねぼすけなお嬢さん。朝ごはん食べる?」
「…食べたい」
長い髪の向こうから、眉間をきゅうっと寄せて覗く不機嫌な表情がかわいらしくて、五条は少しだけ笑った。

五条の希望で、二人で朝を迎える休日において、彼女は寝巻きのまま朝食を食することが多かった。それもこれも、休日を飾りつける彼女の服をゆっくり選びたい、と言う五条のわがままであるらしかった。普段からたいして見目を気にすることのない彼女が、はたしてそれのどこがわがままなのだろう、ありがたい限りだなあ、と思っていることも五条は当然のように知っている。
「五条くん、蜂蜜とって」
「はい、どうぞ。好きなだけかけてね。いっぱい買ってあるから」
「うん、朝から蜂蜜いっぱいのパンケーキなんて、本当に幸せ。ありがとう五条くん」
五条が業務用で買った蜂蜜を小分けした、かわいらしい熊がプリントされたボトルを渡すと、ボトルを受け取った彼女はすぐさま蓋をひねり開けて、パンケーキへ向けて逆さまにし、ぎゅうっと力強く握りこむ。黄金色の蜜がパンケーキのきつね色と粉砂糖の白色ときらきらの果物へ広がっていくところを見ているのが好きなのだと彼女は言っていた。五条も蜂蜜をかける瞬間の、ぱっと喜色を浮かべる彼女の表情を見るのが好きだった。
ボトルから中身のほとんどが落ちきった頃、ようやく彼女はそれに蓋をして机に置いた。そうして、ボトルを置いたその手はカトラリーへ向かうことなく、まるで手錠を待ちかまえるように両手をそろえて五条に差し出される。蜂蜜で指先をべたべたにした両手を、だ。不器用が極まる彼女は、ボトルに容れようとそのまま渡そうときれいに使えたためしがなかった。五条は真新しい手拭きで彼女の指の一本一本を丁寧に拭った。まるで宝石でも磨くような手つきでゆっくりと時間をかける様子に、ふわふわのパンケーキを求めてやまない彼女は、もういいよ、ありがとう五条くん、と声を発した。そうすると待ちくたびれましたというような彼女の声に反応して、ようやく五条は手を止めて手拭きを置いた。そのまま、五条の大きな手はカトラリーケースへと向かう。
「何が食べたい?」
粉砂糖と蜂蜜がたっぷりとかかったパンケーキを切り分けながら、彼女へと問うた。五条の問いに、彼女はパンケーキに蜂蜜をかけている時のような喜色を浮かべながら、苺がいいな、と答えた。彼女のお願いを聞いて頷いた五条の手は、するするとパンケーキの上を行き来していく。期待に満ち満ちた眼差しを受けながら切り分けたパンケーキと粉砂糖と蜂蜜と苺が、重たい銀のフォークへと器用にひとつにまとめられると、それを持ち上げている五条の長い指が彼女の口元へと向けられる。ぱちりと視線が合うと、彼女の小さな口が雛鳥よろしくぱかりと開かれた。
「はい、あーん」
「ん!」
小さな口で、フォークに刺されて積み重なった大きな幸せを頬張る彼女の表情を眺めているのが休日に訪れる最初の幸せだ、と五条は思っている。情けなく顔が緩むのが表情筋の具合でわかった。甘い、美味しい、五条くん好き、とさえずる声すら心地いい。
雛鳥の次はハムスターを想像させられるような、パンケーキでふくらんだかわいらしい頬をつつきながら、粉砂糖と蜂蜜がところどころにくっついた唇をそっと拭った。彼女の身を浄めることもまた、五条だけに許された仕事なのであった。空が青いことが周知であるくらい当たり前に、他人が彼女に触れることはけっして許されず、彼女すらも自らの身を整えることはめったにさせてもらえなかった。それを不思議に思うことはある、名前も知らない他人なら断るが、自らでもだめだと言ってはばからない彼はいったい何を思ってそうしているのだろう、と深く悩んだことも。だからつい、五条がどれだけうれしそうに彼女の世話を焼いていても、不満のように言葉にでてしまうことも多くあったのだった。今日のように。
「それくらいいいのに…」
「ん?」
「五条くんがかまってくれるのはとっても嬉しいけど、申し訳ないなって思うこともあるよ。五条くん、いつもこんなにいっぱい私のためにお世話してくれて、めんどくさくない?」
五条は知っている。彼女の不満を表すような、けれどどこにもとげがない言葉や、いつもより暗く沈んだ曇り空のような目が、不安を表していることを誰より知っている。きっと、おそらくは彼女より彼女の気持ちを理解している。そのせいとは言わないが、五条たっての希望で庇護されている彼女の不安を、ひとかけらも残さないよう取り除くことすらも、課せられた使命のうちなのだろうと五条は思っている。蜂蜜の拭き取りきれない頬をするりと撫でながら、五条はゆっくりと口を開いた。
「そっか。不安にさせちゃったんだね、ごめん。めんどくさいなんてことは絶対にない、断言する。僕はただ、君と一緒にいて、なんでもしてあげたいと思ってるだけなんだよ」
できるだけ優しい声で、蠱惑的に、彼女のあまりにも隙だらけな心の間に入り込むように、五条は囁いた。大丈夫、愛しているから、好きだから、彼女の耳元で言い聞かせるようにして五条の心の内を言葉にした。本心からだとしてもこれこそが最も甘い砂糖かなにかの塊だとでもいうような言葉だった。
気持ちのこもった言葉は呪いだ、他人の心を意のままに、希望のとおりに操ってしまうことができる。大丈夫だと囁けば、彼女はいつもほっとしたように頬を桃色にして微笑んでくれる。それならいいの、ありがとう。彼女はそう言って、なだめるために差し出したフォークの先のパンケーキをついばんだ。
五条は今日もまたこうして、五条自身の幸せと安寧を守りきったのだった。
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