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短い話

 たすけて、どうしよう、たすけて。電話越しの声は震えていて小さくて、泣いているのだろうか、時折しゃくりあげるような呼吸のくぐもった音が聞こえた。ふと壁にかかっている時計を見上げると、もう日を跨ぐような時間だった。こんな夜中に彼女から電話がかかってきたのは知り合ってからはじめてのことで、白石はとてつもなく嫌な予感で胸がいっぱいになった。どうしたの、今からそっちに行こうか、と電話の向こうの彼女に問うと、先ほどよりも消え入りそうな音で、うん、と返事があった。
 白石は、すぐに彼女の家に向かう旨を伝えてから電話を切った。今もきっと泣いている彼女のことを思うと着替える時間も惜しくて、毛玉だらけのスウェットの上からジャンパーをてきとうに引っかけて、ぼろぼろのスニーカーを履いた。ジャンパーの前を閉じながら玄関の鍵を閉め、冷えきった車に乗り込む。急いでいる時に限って赤信号に待たされるのはどうしてなのだろう、白石は目の前の信号が黄色から赤色へ変わるのを眺めながら日頃の行いを思い返すも、友人知人や果ては年下の女の子からも借金をしたことを思い出して、自業自得なのかもしれないと思った。明日からは真面目になりたいと思った、そんなことが出来るとは誰も言っていないが。生粋のギャンブラーに借金は付き物なのだ、とハンドルを握る手に力がこもった。
 十数分ほど車を走らせると駅に近い住宅街にたどり着く。彼女の家は、その中の小綺麗なアパートの一室である。乗ってきた車はアパートの近くにあるコインパーキングに停めた、以前、はじめて彼女の家に遊びに来て路上に停めた際に違反切符をきられたことを思い出したからだった。あれは痛い出費だった、二週間ほどはもやしか春雨サラダでしのいだ記憶が残っている。築二年ほどのアパートの、まだどこにも錆びのない階段の手すりを掴んで、二階へ駆け上がった。ぼろぼろのスニーカーではどすどすと情けない音しか鳴らなくて、なんだか少しむなしい。二階の角部屋、彼女が住む部屋のインターホンを迷わず押した。真っ暗で静かな夜の闇の中に軽快な音が鳴って、インターホン越しから電話よりもくぐもった彼女の声が聞こえた。今にも溶けて無くなってしまいそうな「白石くん……?」という言葉に「そうだよ、遅くなってごめん」と白石は返した。ちょっと待ってて、とインターホンの通話が切られた後、解錠する音がして、そしてゆっくりと扉が開かれた。扉の隙間から見えた室内は真っ暗で、どうやら玄関の明かりは疎か、リビングの明かりも消されているようであった。それから、胸に重くのし掛かるような、淀んだ空気と嫌なにおいが漂っているような気がした。
「白石くん……こんな夜中に急に呼び出してごめんなさい」
「ぜんぜん大丈夫だよぉ、それよりも何か困ったことあったんだよね?どうしたの?俺に何とか出来ること?」
 少しだけ開かれていた玄関扉からするりと身体をねじ込ませながら、どうやら寒さのせい以外で震えているらしき彼女に問うた。その質問にびくりと肩を揺らしてさらに怯えた彼女の顔色は、血の気が失せて今にも崩れ落ちてしまいそうだと白石は思った。そうして、後ろ手で玄関の鍵を閉めてドアチェーンをかけてから、真っ暗な部屋の中に上がり込む。玄関は寒いしとりあえず部屋の中でゆっくり話そうよ、と白石は蒼白の彼女の肩を抱えた。時折、ふらりとよろけて転びそうになる彼女を支えながら長くない廊下をゆっくりと歩いた。リビングへ繋がる扉を開き、白石が電気をつけようと壁に手を伸ばすが、彼女の「明るいのはいや」という小さな声が聞こえて、真っ暗闇の中、手さぐりで彼女をソファに座らせることとなった。隣に白石も座った。ぎしりとソファが音をたてた。
 以前に来た時は、アパートにしては広いベランダが見えた窓はカーテンがしっかりと閉じられていた。外の街頭の灯りや月の光りも星もこの部屋の中からは何も見えなかった。広くは無い、よくある間取りの、リビングの奥にある浴室へ繋がる扉が、なぜか執拗にガムテープで目貼りされている様を見つけても、白石は何も言わないでいた。目をそらした。細い腕で自身の身体を抱えてただただ小さくなって震えている彼女の背をゆるゆると撫でながら、「大丈夫だよ、何でも言って」と優しい声で慰めるだけだった。
「白石くん、あのね……あのね……」
 しばらくそうして白石よりもずっと小さな背中を撫でていると、ようやっと呼吸の整った彼女は隣に座る白石のジャンパーをそっと握って、かすれた音を吐き出した。その様子が痛々しくて、「なあに、ゆっくりでいいよ。ちゃんと聞いてるから」と白石はできるだけ優しい声色で返した。
 ごくり、と彼女の喉から口に溜まった水分をのみこんだ音がした、暗くて静かな部屋にはその音がやたらと響いた。
「あのね。……あれ、」
 彼女の細い指先が、先ほど目をそらした、浴室ヘ繋がる扉を指差す。隙間という隙間が塞がれた扉があって、幾重にも重ねて貼られたガムテープの薄茶色が、暗闇の中に浮かんでいた。執拗に重ね貼りされたそれは、けしてその扉の向こうを覗かせまいとする、もしくは、扉の向こうから何者かが絶対にこちらを覗くことが出来ないようにしているようだった。彼女はもう一度、あれ、と言った。それ以上は口にしたくないというように、頑なに扉の向こうにあるであろう何かを、あれ、と彼女は呼んだ。しかし、それより先のことも詳細も彼女は何も語りたがらないので、白石はとうとう彼女の背を撫で続けていた手を離して立ち上がった。冷たい床を一歩、踏みしめる。以前ここに来たときにはフローリングに敷かれていたパステルカラーのカーペットが片付けられていることに気付いたが、今はそれはどうでもいいことだった。よく分からないけどちょっと見てくるよ、と言いながら白石が彼女を振り返る。言外に座って待っていていいと伝えたつもりであったが、先ほどまで座っていた彼女も白石の後ろでぼんやりと立ち上がっており、私も一緒に行く、と今にも泣き出しそうな声で返事をした。白石はいまだふらつく彼女に、わかった、でも暗いと危ないから、と言い訳をして手を繋いだ。
 蝶番の上まで念入りに何重にも貼られたガムテープを、白石と彼女の二人でばりばりと剥がした。一枚目を剥がしたとき白石はそれを近くのごみ箱に捨てようとしたが、この部屋の主である彼女が剥がしたそれをそのまま床に投げ捨てたので、白石も彼女に倣って床に放った。ガムテープを剥がす、幾枚か集めたそれを丸めて床に放る、またガムテープを剥がす。粘着質な塊が不快な音を鳴らして床に転がる。白石も彼女もそれを無言で続けた。時折、彼女がくすんと鼻をすするような音だけが聞こえてきた。
 最後の一枚は白石が剥がした。床と扉の隙間を塞いでいた最後のそれを剥がし終えると、彼女はそれを見て、白石の名前を呼んだ。「白石くん、あのね。嫌いにならないでね。助けてね」とドアノブにそっと手をのせる。その手はやっぱり震えていた。白石はドアノブを柔く掴んだままの彼女の手の上に自身の手を重ねて、「嫌いになんてならないから、俺に出来ることならなんでもしてあげるよ」と彼女の冷たい手ごとドアノブを握った。
 彼女の手が少し迷いながらも、ドアノブを下に押し下げた。がちゃりと音をたてて、それでも築二年の新しいアパートであるので、蝶番が軋むようなこともなく滑らかに扉は開かれたのだった。
 瞬間、白石は扉の向こうの景色を覗くことなく半歩後ろに下がった。鉄のにおいがする。傷口をなめたときよりももっと鼻につんとくるような、胸が焼きただれるような。胃液が喉元までせり上がってくるのをなんとか耐えた。ただよってくる鉄錆のにおいがよくないものを思い出させて、この先に進んではいけないと脳がしきりに警告を発していた。これは本当に見てもいいものだろうか、どうにか出来るようなものだろうか、そう思っても、じっとこちらを見つめている彼女の潤んだ瞳が逃げ出すことを許さなかった。白石くん、嫌いにならないでね。彼女の声が頭の奥で再生された、何度も、白石が諦めて足を進めるまで。
「これね……、私ね、これをどうしたらいいのかわからないの。どうしたらいいのかな、たすけて、白石くん」
「……、あ……ああ、うん、そういうことかぁ……。これを片付けるのを手伝ってほしいってことだよね。いや。でも、これは」
 それは、やっぱり思っていた通りのものだった。鉄錆のにおいは、乾ききっていない血のにおいだ。新鮮な赤さを失って赤黒くなった血液が、床の継ぎ目を辿って扉のすぐそこまで流れていた。床板に流れこんでいるそれを目で辿っていく。それは知り合いではない女だった。見開かれたままの濁った目が壁の色を写していた。指先はぴくりともせず、しかしネイルの装飾が派手派手しくて、振り乱したように広がった髪のインナーカラーの青色が血でぬれていた。蛍光カラーのワンピースが所々浅黒いのも、きっと血液が飛び散ったからだった。靴下は片方だけ脱げていて、脱げたひとつは足元に無造作に落ちていた。
 大人しい彼女がどこで知り合ったのかわからないような女が一人、床に転がされていた。
 よくよく見てみると、女のさらに奥にはリビングのフローリングに敷かれていたはずのパステルカラーのカーペットが、所々赤黒く変色した箇所を隠すように丸めて置かれており、もしかして犯行現場はここではなく先ほどまで彼女を慰めていたリビングのほうで、わざわざあの細い腕でここまでこれを運んだのかなあ、大変だっただろうなあ、と、白石はただそう思った。先ほどまで逃げたいとすら考えていたのに、好きな女の子のことを思うと、なんだか怖かったことすべてがどうでもよくなってしまった。
 もはや物と化している、人間だった女を白石はしばらくじっと見つめていたが、ふと我に返って後ろに居るはずの彼女のほうへ振り向いた。大丈夫かと声をかけようとして、やっぱり止めた。彼女のじっとこちらを見据える目と視線が合って、何も言えなくなった。さっきからずっと泣き出しそうな女の子に大丈夫かなんて聞いてどうするのだろう、大丈夫なわけがないのに、いや、この惨状は彼女が作り上げたものでもあるのだが。そうだとしても、黙りこんだ白石の代わりに彼女が再び、白石くん、たすけてくれないの、と首をかしげるので、何をしてでもこの泣き出しそうな女の子を助けてあげなければいけないのだ、と思った。

 スーツケース、持ってる?と白石は彼女へ聞いた。まるで今から旅行の準備でもしようというような明るい声だった。彼女は小さな声で、うん、と答えて、暗闇の向こうを指差した。未だ部屋は真っ暗だったが、暗闇になれた目はかろうじて家具や部屋の輪郭を捉えられるようになっていた。指を辿った先に、アパートにしては大きなクローゼットがあった。開けるよ、とひと言断ってから白石はクローゼットのスライド扉を開いて、服の中に埋もれて扉のすぐ側に横倒しになっていたクリーム色のスーツケースを引きずり出した。目立った傷もないそれはしばらく使われていなかったようで、立派なクローゼットの肥やしになっていたらしかった。ロックやチャックが壊れていないことを確認してから、床に捨てて転がしたままのガムテープの塊を避けてスーツケースを広げる。中には乾燥剤がひとつ入っているだけだった。きっと人ひとり入るだろう、と白石は考えた。そうして、それまでじっと立ったまま白石を見つめていた彼女は、開かれたクローゼットとスーツケースと後ろに転がる女に順番に目をやってから、ようやく口を開いた。「埋めるの?」と言った。
「埋めるよ」
「どこに?」
「うぅん……、山かな。尾形っていう知り合いが山を持っててさぁ、キャンプでも山登りでもキノコ狩りでも勝手に使えって。面倒だからいちいち許可取らなくていいって言ってたんだよ。だから、これ、その山に埋めちゃってもいいんじゃないかなって」
 どうかな、と白石は首を傾げた。私有地だから下手に知らない他人は立ち入らないよ、と続けると、彼女は口に手を当ててしばらく考え込んでから、わかった、と頷いた。「白石くんの言う通りにする」と、不安そうな瞳のままで、でも微笑んだ。
 万が一にでもスーツケースの外に何かが飛び出したり漏れだしたりしないように、白石は、口もきかない呼吸もしない物になった女のそれを、ごみ袋で二重に包んでしばった。スーツケースの内側にもごみ袋を張り付けた。解体するのかと思った、と後ろでガムテープやハサミを持った彼女がふと思いついたことを言うと白石は「こんな時間から道具買いに行くのも怪しいし、俺も君も体力あんまりないじゃん」と笑った。それもそうだね、と彼女は返した。ふらつきながら重たいそれをようやっと抱えて真っ赤になった白石の顔を見て、彼女も少し笑った。ぽよぽよの白石の腕と腹をつつきながら、体力ないもんね、と。白石は彼女の言葉にむっと頬を膨らませて拗ねた顔をしたが、好きな女の子の笑顔はどんな時だって可愛らしいので、こんな場面なのになんだか嬉しいような気がした。人をひとり仕舞いこむと、長旅の終わりのようにスーツケースは重たく窮屈になった。たくさんお土産を買ってぱんぱんになってしまったように、なかなか閉まらないスーツケースのチャックを無理やり、ようやく閉じて、そこにも予備で買い足していたと彼女が持ってきた透明のガムテープをぺたぺたと張り付けた。
 ごとり。重たい音を床に響かせてスーツケースを立たせた白石は、もうどんな柄が描かれていたのかもわからないストラップをつけた鍵をポケットから取り出して、「じゃあ、行こっか」と鍵を握る手とは反対の手で彼女の冷たい手をぎゅっと繋いだ。
「もう行くの?」
「こういうことは人目につかない時間帯にやったほうがいいと思うよ、素人の意見だけど。いや、こんなこと、素人じゃなかったらやばい奴だけどね」
 あ、スーツケースは俺が持ってくから君は鍵をお願いね。と白石は彼女の手に車の鍵を預けてスーツケースのキャリーバーを握った。暗闇の中、玄関で靴を履いて、大きな音を立てないように外に出る。部屋の鍵をかける。階段で危うく抱えたスーツケースを落としそうになった白石に、気をつけてね、と彼女は少し怒った。
 もうすっかり真夜中の時間帯のせいかコインパーキングに着くまで誰ひとりすれ違うことはなかった。こんな寂れた駐車場にある防犯カメラなんて本当に仕事しているのかもわからないが、万が一のことを考えて白石も彼女も目深にフードを被った。白石の大きくない軽の車には後部座席にしかこの大きなスーツケースを載せる場所はなかったが、後部座席にはペットボトルやティッシュの空き箱やビニール傘が散乱しており、「車のこと、大きなごみ箱だと思ってる?」と問われて「当たり!」とふざけたことを返した白石は彼女に白い目で見られて、くぅんと切なく迷い犬のように鳴いた。ついでに助手席のお菓子の空き袋を後部座席に投げてから彼女を空いた席に座らせ、白石は転がるごみを押し潰しながらスーツケースを車に載せた。その勢いで車体が揺れて、助手席に座った彼女が後ろを振り向く。「人ひとり入ってるもんね、重いよね」と言った彼女に白石は「うん、めちゃくちゃ重い」と頷いた。
 ようやく車に乗り込んだ白石はすっかり冷えきった車内の温度に震えながら暖房をつけた。
「ごめん、寒かったよね」
「平気。そんなこと気にならないくらい、動揺してるからかな」
「……俺が居ても?」
「うん、でも、ひとりより心強いよ。ありがとう、白石くん」
「君からだとしても、さすがに面と向かってお礼言われるとむず痒い!」
 きゃあ、と奇声をあげて寒さのせいではなく身体を震わせる白石に、彼女はくすりと笑った。車内が少し暖まった頃、車はコインパーキングを抜けて夜の道を走り出した。都会とは言えない、しかし田舎とも言いきることのできない夜の街は、信号と数台の車とときどき酔っぱらいとすれ違うのみであった。
 カーナビすらついていない中古の軽は少し前にカーオーディオすら壊れており、ラジオも流すことができないのだと白石は言った。直したほうがいいよ、と、ひと言だけ彼女は返した。静かであったかくて心地よく揺れる車の中はまるで睡眠の導入をするための機械のようで、先ほどまでは寒さも感じないくらい緊張していたのに、彼女は小さくあくびをして重くなった目蓋を擦った。「寝てもいいよ」と横から白石の声がする。「起きてたい」と彼女は言うが、ふやふやの柔らかい声色はすでに半分ほど睡眠へ傾いていて、白石はもう一度、「寝てもいいよ」と、「着いたら起こすからね」と言って彼女の指通りのいい髪をそっと撫でた。そうすると、心地のよい他人の体温に負けた彼女はようやく、うん、と頷いて目蓋を下ろしたのだった。

 ほとんど舗装もされていない、砂利だらけの駐車場のような空き地に車は停められた。鬱蒼とした山の中へ繋がる入り口だけがそれと分かる程度に整備されているだけで、看板や自販機や街頭など人工的なものはほとんど見受けられなかった。車のエンジンを止めて鍵を抜いた白石は、車内の助手席から周りの様子をきょろきょろと見回している彼女に「降りようか」と声をかけた。暗闇の中、たいして眩しくもない月や星の明るさだけが彼女の輪郭をぼんやりと視界へ映してくれる。彼女は何も言わずにただ頷いて、自分でドアを開き砂利が敷かれた地面へと足を着けた。ドアを閉めた。そうすると、個人の持ち物だというこの山からは虫や生き物が活動する音と、白石や彼女が砂利を踏む音が聞こえるだけで、灯りや他の人の気配などはまったく感じられないのだった。
 木々の隙間からのぞく黒と月や星の明るさをぼうと眺めている彼女の肩を白石の指先がつんつんとつついた。そうして、「ごめん、荷物出すから手伝ってほしいな」と言って、後部座席を指差した。埋めるためのものを出さなければならないことに彼女もはたと気がついて、わかったと首を縦に振る。「君にあんまり重いものを持たせるつもりはないけど」白石は後部座席のドアを開けて目的のそれが詰め込まれたスーツケースをほとんど落とすように下ろした。衝撃で砂利が削れていやな音が鳴った。「シャベルも持っていかないといけないからさ」と、白石は値札が貼られたままのシャベルを何処からか掘り出してきて彼女の手に預けた。彼女が「ずっと積んであったの」と首を傾げると「ちょっとね」と白石はスーツケースを抱えながら答えた。よくわからなくて彼女は、そっか、とだけ返した。
 車に鍵をかけてから、ふたりは荷物を抱えて登山道らしき入り口の前に立つ。静かだった。かろうじて道と分かる先は灯りのひとつもなくて、本当に進んでもいいのだろうかと彼女は思った。後戻りできないことがおそろしかった。
 砂利も敷かれていない道を、白石も彼女も何も話す余裕が無いまま歩みを進めた。ところどころに木の根っこが飛び出していたり枯れた葉っぱが積み重なって滑りやすくなっていたりしていたのを、白石が、気をつけてねと声をかけるだけだった。どこまで行くのか、どこへ埋めるのかも彼女には皆目検討もつかなかった。この山は白石の知り合いの持ち物だと言うが、彼女にとっては見知らぬ他人の、地理も通じない樹海に等しかった。
 白石のぼろぼろのスニーカーや彼女のもう買い替えを考えていた靴が泥で汚れきった頃に、拓けた場所に出た。焚き火の跡が残っているそこはキャンプ場として活用するために整えたのだろう、「夏にここでバーベキューやったんだよねぇ」と懐かしいと語る白石の目が焚き火の跡をじっと眺めていた。「暑いし蚊に刺されるし狸に噛まれるし、最悪だったけど」「狸がいるんだ……」「ねえねえ俺の心配してくれないの?狸好きなの?」、もう傷痕も残っていない頭を前屈みになって差し出されたので、彼女はシャベルを抱えながらぞんざいにその頭を撫でた。きれいに丸刈りにされた髪がしょりしょりしてなんだか気持ちがいい。白石が満足そうに体勢を戻してスーツケースを持ち直したのを見届けて、はやく行こうよ、と彼女は白石の背中を押した。
 月が森の木々に隠れるほどまで傾いた頃。明け方の時間はまだ遠く、深夜より遅い頃。先を歩いていた白石はようやく足を止めた。道と分かるほどに整備されていた通路を外れた、弱々しい月明かりなんかはまったく通ることの無い、太い木々と繁った葉ばかりで、登山道の入り口なんかよりもずっと湿っぽくて暗い場所だった。「ここに埋めようか」と言って、白石はスーツケースを乱暴に地面に投げた。もう文句も言わないような物であるし、これから埋めてしまうものなので、彼女にとってはその荷物がどれほど乱暴に扱われようが構わないのであるが。
「シャベル貸して」
「うん、……私も掘ったほうがいい?」
「いいよ、俺がやるよ。君は荷物見てて」
 白石は受け取ったシャベルをさっそく地面に差し込みながらスーツケースを指差した。彼女は、うん、と頷いて、こんなふたりしかいない山の中で誰がこのスーツケースを盗んでいくのだろうと思ったが、それは言わずに飲みこんで胃の中に納めておいた。

 ざくざくと音が響いている。白石が不休で掘り続けている穴はもう白石ひとりくらいなら収まるほどの深さと幅が掘られていて、穴の傍らには砂の山が積まれていた。彼女は地面に座りこんでひたすら荷物と白石の様子を眺めていたが、時折、虫や小さな動物が通っていくだけで、突然現れてスーツケースを盗んでいく者など誰も居なかった。当たり前だ。ここには白石と彼女以外の誰も居ない。一心不乱に穴を掘り続けている男と、スーツケースの番をする女のふたりしか居なかった。
 穴の傍らに積まれていた砂の山がほんの少し崩れたのを見て、彼女はようやく口を開いた。「まだ掘るの?」と聞いたのは、もう埋められる深さじゃないのかと思ったからだった。白石は彼女の小さな声に手を止めて「もう少しかな」と言った。「もう少し、深くないと。じゃないと、掘り返されちゃうからさ」「何に?」「鹿とか」「そうなんだ」、それだけの会話をした白石はまた穴掘りに戻った。シャベルを地面に差し込む音が響く。ぼろぼろのスニーカーがシャベルを蹴りながら土の中に押し込んで、スニーカーの表面についていた乾いた泥がぽろぽろと落ちる。シャベルが抉りとった土を持ち上げて、ぐしゃ、と音を立てて穴の傍らに山として積まれていく。時々、大きめの石に阻まれて、シャベルの先がカンと高い音を鳴らす。地面のそこかしこに張り巡らされた木の根っこをぶちぶちと引きちぎりながら、穴を大きくしていく。表面のさらさらだった砂はいつからか暗い湿った土になって、掘り進めるうちに、粘土のような重い固まりになっていた。穴は土の色の変化で地層のようだった。
 地面に座りこんで荷物の番をしていた彼女が眠さでこくりと頭をゆっくりと揺らし始めた時、白石はようやくシャベルを砂の山の向こうへ放った。がしゃりとシャベルが地面に落ちる音と、白石の深呼吸の音で、夢の中に飛びかけていた彼女の意識も一瞬のうちに戻ってきた。
「……穴掘り、おわった?」
「うん、これくらい掘れば、まあ」
「お疲れ様、白石くん。見てるだけでごめんね」
「いやいや、荷物番してくれてありがとね。どんな奴が泥棒していくかわからないからさ」
「こんな山の中で?」
「こんな山の中でも、だよ」
「白石くんのお友達の持ってる山なのに?」
「俺の持ってる山ってわけでは無いからね」
 ああ言えばこう言う。口がよく回るのが取り柄の男ではあるが、それっぽく反論されると、彼女は少しむっとして黙り込んでしまった。遠回しに居てくれるだけでいいのだと伝えたつもりの白石だったが、彼女には砂粒ほども伝わらなかったようで、ううんと唸って頭を掻くしかないのであった。「……埋めないの」、彼女の機嫌をどう直そうかと脳みそを動かしていたところに、彼女の声が降ってきた。その言葉に、そういえばそうだ、はやく埋めてしまおう、とスーツケースのキャリーバーを掴む。持ち運びするために上げていた持ち手は、スーツケースごと地面に埋めるために下げて収納した。「砂がかかるかもしれないから、ちょっと避けててね」と言いながら、白石はスーツケースを重力に任せて深く掘った穴の中へと落とした。どすん、と音がして、土埃が舞う。そして先ほど地面に放り投げたシャベルをもう一度手に取ると、穴の傍らに積み上げられた山を崩してスーツケースを埋めていく。クリーム色のそれは土の中に埋もれて、だんだんと見えなくなっていった。
 掘り返した土を不自然にならないようにまんべんなく被せて、シャベルで叩き、地面の表面をならす。最後にその上からてきとうに寄せ集めた枯れ葉を敷いて、ようやく白石はその手を止めた。シャベルを地面に放って、白石がスーツケースを埋める様子をずっとただひたすらに目を離すことなく眺めていた彼女の隣へ、どすんと音をたてて座りこんだ。疲れたの言葉も出ないほどに体力を使い果たした白石は、ふう、と無言のままゆっくり深呼吸をした。こめかみから顎にかけて、幾筋もの汗が流れては地面に落ちた。手もスニーカーもズボンの裾も泥だらけで、しかしそれを気にする余裕も無いようであった。いつも、冗談を言っては周りを怒らせるか、それともしらけさせるか、はたまた空気を緩和させてくれるのか、よく回る口先から生まれたような男が、こんな時に限ってはひとつも言葉を発してくれない。
 きっとよほど疲れているのだと内心で納得しつつ、彼女は白石の大粒の汗を服の袖でそっと拭った。そうするとつい今まで身動ぎひとつしないで黙って息を整えていた様が嘘のように、俊敏な動きで顔を彼女の側へ向けた白石は、目を真ん丸にして彼女の腕を掴んだ。ほんのり湿っぽくなった袖を見て「汗はちょっと止めよ、ね、でもありがとね」、と真っ赤な顔で言うので彼女も負けじと「照れてる?」と聞き返した。白石の泥だらけの指先を、きれいに透明のネイルが施された細い指が握った。「照れてますけど」と言って白石はそっぽを向いた。
「手、汚れちゃうよ、いいの?せっかく爪きれいにしてるのに」
「いいよ、そんなこと気にならないよ」
 爪の中や手のひらにも泥が散っていることなど少しも気にしてない態度で、彼女は握った指先を少しずつ絡ませて、まるで恋人同士がするように、彼女の手のひらと白石の手のひらとをぴったりとくっつけてぎゅうぎゅうと繋いだ。私有地とはいえ、こんなところで悠長に恋人の真似事などしていないで早く家に帰るべきなのに、白石も彼女も隣り合って座ったまま立ち上がることもしなかった。少しずつ空が白んで、夜がおわっていくのがわかる。朝焼けの光も、こんな森の中なら眩しくない。今はまだ、こんな場所だとしてもふたりで居たいのかもしれなかった。白石も彼女も、さっきまでの緊張がすっかり抜けてぼうっとしながら、明るくなる空を眺めていたいだけなのかもしれなかった。「お腹空いたね、白石くん」と彼女が言いながら、頭をこてんと白石の肩に乗せると、白石は「俺はシャワー浴びて寝たいかな……」とあくびをして、彼女の頭に頬をすり寄せた。彼女の手のひらも、シャンプーなのかコンディショナーなのかいい匂いのした髪も、すっかり冷えきっていた。朝焼けは眩しいばかりであったかくもなんともないし、白石の疲れきった身体も癒してはくれない。お互いの体温で少しだけあったまってきて、目蓋が落ちそうになる前に、白石は彼女の手をもう一度ぎゅうぎゅうと握り直して、そうして立ち上がった。森の中を抜けて車に乗るその時まで離さないように、彼女が迷子にならないように。
「はやく帰ろう、俺が食パンでも焼いてあげるね」
「白石くん、パンが熱いうちにマーガリン塗るからやだ、べしょべしょになっちゃう。自分でやるよ」
「クーン……」

 夜が明けても砂利だらけの駐車場は彼女が見える限りでは物が少なくて、やっぱり素っ気のない印象だった。明るくて、夜よりも隅々までその様子が分かるから余計にそう感じられるのかもしれなかった。森を抜けて車の鍵を開けるまでずっと繋いだままにしていた手をどちらともなく離す。ぴったりと合わさった手の間に隙間ができていくのを白石は寂しく感じたが、何も言わなかった。彼女も離れていく手をただ見ているだけだった。汗でしめった手のひらが少しだけ冷たく感じて、もう一度繋いだら今度はずっと離さないのに、という言葉を、白石はぐっと喉の奥に飲み込んだ。
 車の中は冷えきっていて、座席のシートもハンドルもドアも触るとひやりとして体温を奪っていく。ぼろぼろな中古の軽自動車では暖房もおまけのようなもので、なかなかすぐには車内をあったかくなどしてはくれないのだった。燃料の減りはひとまず気にしないようにして暖房を調節する白石の横で、シートベルトの金属部分を触った彼女が「冷たい……」と身を震わせたので、小動物のような仕草の可愛らしさに白石はちょっとだけ笑った。すぐに冷たい指先で頬を摘ままれて反撃されたので白石はか細い悲鳴をあげた。
 車がゆっくりと動き出す。でこぼこの砂利に乗り上げてぐらぐら揺れる道はすぐに終わって、たいして広くもないのに一方通行にはなっていない公道に出た。すっかり空は明るくなったが、まだ早朝の時間帯で、すれ違う対向車も見当たらなかった。冬の朝の空気は新鮮で心地よくて、なんだか昼間より眩しくて、太陽の光が眼球に刺さるようだった。ようやく足元があったまってきた頃、眠たげに目蓋をこすっている彼女に「家に着いたら起こすから寝ててもいいよ」と、「徹夜したから眠いよねえ」と睡眠を促すと、彼女は行きと同じように「起きてたい」と言いながら首をぶんぶんと横に振って、両頬をぱちんと叩いた。真っ赤になった頬を見て、白石は「帰ったら冷やしなね」と空いているほうの手で赤らんだそこをそっと撫でた。
「白石くん、今回のこと、お礼がしたいんだけど、何がいいかな。口止め料も込みだよ」
 見慣れた街並みの通りで信号に捕まって止まっていた時、まだ開店前でシャッターの降りたスーパーを眺めて、ふと思い出したように彼女が言った。白石には彼女がどんな表情をしているのかよく見えない。当の彼女は窓に反射した白石の横顔をじっと見ているようだった。少しの沈黙の後、白石が前を向いたまま「なんでもいいの?」と首を傾げると、彼女は「私があげられるものなら、なんでもいいよ」と頷いた。
 信号が青になる。アクセルを踏んで、車が再び動き出す。車内はいつの間にか顔が火照るほどあったかくなっていて、後部座席の硝子窓は曇って外の様子が見えづらくなっていた。助手席の窓も端のほうが少しだけ曇っていて、それに気づいた彼女が小さくハートマークの落書きをした。
「じゃあ、君がほしいって言ったら、俺に君のことくれる?」
「え?何?」
 ハートマークのとなりに猫の輪郭を描いたと同時に、白石はようやっと欲しいものを口に出した。彼女は、しかしそれをよく理解できなくて、目をぱちくりと瞬かせた。
「俺さあ、頑張ったよね。やっちゃいけないことだけど、頑張ったよ。ぜんぶ、君のためだもんね」
「白石くん、」
「君のことが好きだからだよ。好きな女の子が困ってたら助けてあげたいじゃん。そうしたら君が、君に用意できるものならなんでも俺にくれるって言うから」
 運転中なのに白石はちらりと余所見して、彼女を横目で睨むように見てくるから、彼女は今すぐ車から飛び降りたい気持ちになった。怖くなった。白石が何を言っているのか、彼女にはよく分からなかった。 なにも分かりたくなかった。早朝、車が多くても少なくても、通っても通らなくても、信号の色は変わる。黄色から赤へ、赤から青へ。ときどき、点滅している信号を通り過ぎる。次の交差点で信号が黄色から赤に変わって車が止まると、白石は「ねえ、」と彼女の顔の前で窓の外を指差して見せた。彼女は、まだ泥がついたままの指先を視線で辿って、窓の外を見た。
「俺はね、今からあの警察署に駆け込むこともできるよ。一緒に自首してあげようか」
 白石は笑っていた。いつも見せているような、目尻が下がる柔らかい笑顔が怖いと、彼女は初めて思った。冷や汗が背中をうっすら濡らして、暖房がよく効いたあったかい車内のはずなのに、やたらと寒く感じた。呼吸がだんだんと苦しくなる。息の吸いかたも吐きかたも、忘れてしまいそうだった。
「どうする?君のこと、俺にくれる?それとも捕まる?」
 どうするもこうするも無い。選択肢など何も無い。指先を辿ったままの視線を車内へ戻して、信号が青に変わっても車を止めたままの白石を見た。
「はやく選んで」
 白石の言葉に、もう何処にも逃げ道はないのだとようやく理解した彼女は、水の外でどうにかこうにか呼吸をしようとしている魚みたいに、はくりと口を開いて、そうして。
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