短い話
小エビちゃん、と背後からかかる声がやたらと嬉しそうな色を含んでいて背筋がぞっと冷えたような心地になった。振り向くと喜色満面に、いまにもステップを踏み出しそうな機嫌のよいフロイドが立っていて、あまりの近さに丸く見開かれた監督生の目はいまにもこぼれ落ちそうだった。
驚いて肩をびくりを震わせるだけでトンと双方の身体がぶつかる。半歩離れていこうとした監督生の薄っぺらな肩を大きな手のひらで抱いて、フロイドはにんまりと笑った。嘲笑の類いではなく、新しい玩具を買ってもらったばかりの子どものような笑みが無邪気でおそろしい、と監督生は思った。
小エビちゃん小さいね、と言うのはフロイドにとってはもうこんにちはと挨拶をかわすことと同じようなもので、監督生は今日も頬をつつかれながらそうですねと返す。小エビちゃんは小さいからすぐに絞められるよ。不穏な言葉を聞かなかったことにするにはあまりにも声の発生源が近すぎる。頬をつつきまわすフロイドの長い指をそっと押し返しながら、監督生は機嫌がよいうちに、と突然の来訪の理由を聞くことにする。
「そ、それで、あの。フロイド先輩はこんなに朝早く、しかも休日なのにどんなご用でしょうか」
上目遣いにそっと問うとフロイドは一瞬きょとりとして首を傾げた。
どうやらオンボロな寮に来訪すべき用事は本当にあったようで、監督生にちょっかいを出す手を止めて思案の表情を浮かべながらううんと唸っている。そうして、数秒の沈黙ののちにあっと声をあげた。
「小エビちゃんにピアスの穴あけてあげようと思って来たんだった。忘れないうちにって」
大事な用事だよ、と言いながら、フロイドは懐をごそりと探りだした。どこへどんな風に物をしまっているのか、内ポケットからはペンや菓子類、菓子の包み紙、はては手のひらに乗るほどのエビのぬいぐるみまでが転がり落ちてくるのである。あれでもない、これでもない、どこにいれたかなあ、と呟く目の前の先輩を監督生は唖然として眺めていた。ぽかりと開いた口が閉じないままにフロイドを凝視していたが、監督生は四次元空間と化している先輩の服の内ポケットに驚愕しているわけではない。手品の仕込みのようにあちこちにしまわれていたそれらを意識の外で知覚しながら、此度の厄介な先輩の気まぐれを憂いていたのであった。
どうして突然、いたいけな後輩の耳たぶに穴を開けてやろうと思ったのかなどと聞いたとして、なんとなくだのそんなこと小エビちゃんは知らなくていいよだの得られる答えはそんなところだろうと監督生は思っている。機嫌を損ねるかもしれない質問をするような、そんな無駄足は踏むまいと深いため息をつく。そうして、はあ、と肺から空気が抜け出ていく。と同時にフロイドからあったぁ、と声があがって監督生はまさしく小エビのようにぎくりと身体を跳ねさせた。
「あったよ、これこれ」
うつむいていた顔を上げてみると、フロイドの長い指は光に反射する何かを掲げていた。細長くてまるで針のようだ。いやこれは針だ、と監督生は思った。まるで針のようなものではなく針なのである。ずいぶんと高い位置で見せつけられるそれをよく見ようと目を凝らす。じっと見つめる。どの角度から、どこからどう見ても見覚えのあるような形のそれであった。
「安全ピン…? それあの、安全ピンですよね?」
「そうだけど、小エビちゃんにはそれ以外の何かに見えんの? 穴をあけるなら針がいるでしょ?」
あっけらかんと言うフロイドの表情は楽しげとも不満げとも表し難い。当然だろうと彼女に言い聞かせるような、もしくは当然のことをわざわざ聞くなと言いたげな、明るくも暗くも低くもない声色であった。
穴をあけるなら針がいるだろう、という言い分はわかる。そうであろうなと納得もできる。鋭利なそれならばいくらでもどこへでも、例えば薄っぺらな紙から段ボールの壁面から柔らかい人体の部位も、好きなように開通することができるのだ。なんとおそろしいことか。監督生の身体が、背筋を通り抜ける悪寒のせいでぶるりとふるえた。
まさかその安全ピンで耳たぶに穴をあけてくれるつもりではあるまいなと監督生はちらりとフロイドへ視線をやった。オンボロ寮にやって来たときと同じ笑顔で、フロイドは機嫌よさげに安全ピンを監督生へと向けていた。鋭利なものを人に向けてはいけません、などとは残念ながら説教できるはずもない。監督生は命が惜しいのだ。要らぬ一言は身を滅ぼすと知っている。
「針なんて穴が開けばなんでも同じだよ、ねえ、小エビちゃん」
ちょっと痛いけど我慢してね。後輩の身体に穴を開けようとしている輩が、まるで他人事のように言うのだなと監督生は思った。実際のところ、穴を開けられるのはフロイドではない。痛い思いをするのは今まさに耳たぶに風穴を開けられようかと仔犬のように震える監督生なのである。
フロイドのひんやりとして冷たい指先が耳たぶに触れる。心地よさと擽られるような感覚がぞわりと背筋を震わせるが、これはどうやら先ほどの悪寒とは違うように感じた。鋭利な針を向けられてこんなにおそろしい気持ちになっているのに、それを向ける輩の指先が心地いいなどとは。どこに穴を開けてやろうかと探るように耳たぶすりすりと撫でるフロイドの目がやたらと優しげなことも、度しがたい。気にくわない。
監督生よりも冷たい指先がようやく退けられる頃には、撫でられて温かくなるどころか冷えきった耳たぶは感覚を無くしていた。不思議だと彼女は思った。遊ばれるように何度も往復した指先の動きはどうにもこうにも恥ずかしくて顔はぽうっと火照っているのに、耳たぶだけが唯一、氷水に浸したように冷たかった。ぎゅうぎゅうに目を閉じているせいで鋭敏になった聴覚がフロイドの浅い呼吸の音すら余さずに拾うことも彼女は気にくわなかった。そうして、目を開こうとしたのと同時、フロイドは監督生の耳もとで小エビちゃん、と低くて甘ったるい声を落とすのである。
「小エビちゃん、耳たぶに穴開けるよ。ちゃんと息はしててねえ」
優しい、いつものように、機嫌が良い時のような、甘い声の音がしていた。ゆったりとして真綿かなにかのような声色に背を震わせる彼女は、たっぷりと息を吸いこんでから、呼吸を止めた。
ぶつり、薄い皮膚が他人の手によって破られる。冷たい針の温度が金属の固さと一緒になって、やわい耳たぶを侵略していく音がした。痛くはない。針の温度は氷よりも冷たくて、フロイドの指先よりも生ぬるい。いったいどこまで刺さったのかわからない針がずるずると抜け出ていく感覚は、あまり気持ちのいいものではなかった。
驚いて肩をびくりを震わせるだけでトンと双方の身体がぶつかる。半歩離れていこうとした監督生の薄っぺらな肩を大きな手のひらで抱いて、フロイドはにんまりと笑った。嘲笑の類いではなく、新しい玩具を買ってもらったばかりの子どものような笑みが無邪気でおそろしい、と監督生は思った。
小エビちゃん小さいね、と言うのはフロイドにとってはもうこんにちはと挨拶をかわすことと同じようなもので、監督生は今日も頬をつつかれながらそうですねと返す。小エビちゃんは小さいからすぐに絞められるよ。不穏な言葉を聞かなかったことにするにはあまりにも声の発生源が近すぎる。頬をつつきまわすフロイドの長い指をそっと押し返しながら、監督生は機嫌がよいうちに、と突然の来訪の理由を聞くことにする。
「そ、それで、あの。フロイド先輩はこんなに朝早く、しかも休日なのにどんなご用でしょうか」
上目遣いにそっと問うとフロイドは一瞬きょとりとして首を傾げた。
どうやらオンボロな寮に来訪すべき用事は本当にあったようで、監督生にちょっかいを出す手を止めて思案の表情を浮かべながらううんと唸っている。そうして、数秒の沈黙ののちにあっと声をあげた。
「小エビちゃんにピアスの穴あけてあげようと思って来たんだった。忘れないうちにって」
大事な用事だよ、と言いながら、フロイドは懐をごそりと探りだした。どこへどんな風に物をしまっているのか、内ポケットからはペンや菓子類、菓子の包み紙、はては手のひらに乗るほどのエビのぬいぐるみまでが転がり落ちてくるのである。あれでもない、これでもない、どこにいれたかなあ、と呟く目の前の先輩を監督生は唖然として眺めていた。ぽかりと開いた口が閉じないままにフロイドを凝視していたが、監督生は四次元空間と化している先輩の服の内ポケットに驚愕しているわけではない。手品の仕込みのようにあちこちにしまわれていたそれらを意識の外で知覚しながら、此度の厄介な先輩の気まぐれを憂いていたのであった。
どうして突然、いたいけな後輩の耳たぶに穴を開けてやろうと思ったのかなどと聞いたとして、なんとなくだのそんなこと小エビちゃんは知らなくていいよだの得られる答えはそんなところだろうと監督生は思っている。機嫌を損ねるかもしれない質問をするような、そんな無駄足は踏むまいと深いため息をつく。そうして、はあ、と肺から空気が抜け出ていく。と同時にフロイドからあったぁ、と声があがって監督生はまさしく小エビのようにぎくりと身体を跳ねさせた。
「あったよ、これこれ」
うつむいていた顔を上げてみると、フロイドの長い指は光に反射する何かを掲げていた。細長くてまるで針のようだ。いやこれは針だ、と監督生は思った。まるで針のようなものではなく針なのである。ずいぶんと高い位置で見せつけられるそれをよく見ようと目を凝らす。じっと見つめる。どの角度から、どこからどう見ても見覚えのあるような形のそれであった。
「安全ピン…? それあの、安全ピンですよね?」
「そうだけど、小エビちゃんにはそれ以外の何かに見えんの? 穴をあけるなら針がいるでしょ?」
あっけらかんと言うフロイドの表情は楽しげとも不満げとも表し難い。当然だろうと彼女に言い聞かせるような、もしくは当然のことをわざわざ聞くなと言いたげな、明るくも暗くも低くもない声色であった。
穴をあけるなら針がいるだろう、という言い分はわかる。そうであろうなと納得もできる。鋭利なそれならばいくらでもどこへでも、例えば薄っぺらな紙から段ボールの壁面から柔らかい人体の部位も、好きなように開通することができるのだ。なんとおそろしいことか。監督生の身体が、背筋を通り抜ける悪寒のせいでぶるりとふるえた。
まさかその安全ピンで耳たぶに穴をあけてくれるつもりではあるまいなと監督生はちらりとフロイドへ視線をやった。オンボロ寮にやって来たときと同じ笑顔で、フロイドは機嫌よさげに安全ピンを監督生へと向けていた。鋭利なものを人に向けてはいけません、などとは残念ながら説教できるはずもない。監督生は命が惜しいのだ。要らぬ一言は身を滅ぼすと知っている。
「針なんて穴が開けばなんでも同じだよ、ねえ、小エビちゃん」
ちょっと痛いけど我慢してね。後輩の身体に穴を開けようとしている輩が、まるで他人事のように言うのだなと監督生は思った。実際のところ、穴を開けられるのはフロイドではない。痛い思いをするのは今まさに耳たぶに風穴を開けられようかと仔犬のように震える監督生なのである。
フロイドのひんやりとして冷たい指先が耳たぶに触れる。心地よさと擽られるような感覚がぞわりと背筋を震わせるが、これはどうやら先ほどの悪寒とは違うように感じた。鋭利な針を向けられてこんなにおそろしい気持ちになっているのに、それを向ける輩の指先が心地いいなどとは。どこに穴を開けてやろうかと探るように耳たぶすりすりと撫でるフロイドの目がやたらと優しげなことも、度しがたい。気にくわない。
監督生よりも冷たい指先がようやく退けられる頃には、撫でられて温かくなるどころか冷えきった耳たぶは感覚を無くしていた。不思議だと彼女は思った。遊ばれるように何度も往復した指先の動きはどうにもこうにも恥ずかしくて顔はぽうっと火照っているのに、耳たぶだけが唯一、氷水に浸したように冷たかった。ぎゅうぎゅうに目を閉じているせいで鋭敏になった聴覚がフロイドの浅い呼吸の音すら余さずに拾うことも彼女は気にくわなかった。そうして、目を開こうとしたのと同時、フロイドは監督生の耳もとで小エビちゃん、と低くて甘ったるい声を落とすのである。
「小エビちゃん、耳たぶに穴開けるよ。ちゃんと息はしててねえ」
優しい、いつものように、機嫌が良い時のような、甘い声の音がしていた。ゆったりとして真綿かなにかのような声色に背を震わせる彼女は、たっぷりと息を吸いこんでから、呼吸を止めた。
ぶつり、薄い皮膚が他人の手によって破られる。冷たい針の温度が金属の固さと一緒になって、やわい耳たぶを侵略していく音がした。痛くはない。針の温度は氷よりも冷たくて、フロイドの指先よりも生ぬるい。いったいどこまで刺さったのかわからない針がずるずると抜け出ていく感覚は、あまり気持ちのいいものではなかった。
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