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短い話

先月に借りたハンカチはいまだに返していないし、風邪をひいたと連絡をしたときは真っ先にお見舞いに来るし、先週に借りた彼女のノートもまだ自室の机の上にある。それを彼女が返却するよう催促したり、怒ったり迷惑がったりしたことはいまのところ一度もない。彼女は優しいからだ。でもそれはきっと、彼女と接する機会のあるだいたいの人間が思うことだろう。
だから、彼女の優しい純粋な好意を受けとる方法を間違えた。彼女は優しいから、きっと否とは言わないはずだと思っていた。どうしてそんなに無償の優しさをふりまけるのか、聞いておけばよかったのだと今になって気づいた。
気持ちはうれしいです、ごめんなさい、でもありがとう。というのがこちらの告白に対しての彼女の答えだった。少し照れていて、うつむく顔がかわいらしくて、頬は桃色で、風にながれる髪がやわらかそうできれいだった。好きだと思った。それでもいつも通りの優しい声で謝罪の言葉を口にされると、好きになんてならなければよかったと思った。そっか、聞いてくれてありがとうね。と、のどからやっとのことで這い出た気丈な言葉は、たぶん震えていた。

五条くん、と呼ばれてふりかえるとやわらかい髪をゆらした彼女が、ぱたぱたと上履きをならしながら小走りで駆けよってくるところだった。待ってくださいと言われてしまえば、無視をして立ち去る理由もなくなる。廊下の真ん中で、身体ごと彼女と対面するように向きなおって立ち止まった。少しだけ息をはずませた彼女も、両足を揃えてすぐ目の前に立ち止まった。よかった、もう帰っちゃったのかと思いました。そう言った彼女はふうとひとつ息を吐いてから、申し訳ないと言いたげな顔をしてこちらを見上げた。
「五条くん、ごめんなさい。この前貸したノート、できるだけはやく返してもらってもいいですか?」
手を合わせて謝る彼女を見下ろしながら、彼女の下がりきった眉や少しぼさぼさになってしまった髪や折り目がずれてしまったスカートを眺めた。頭がぼうっとして、彼女の合わさった手がスクリーンの向こう側にあるように見えた。
彼女に借りたものを返却するようにと催促されたのは、たぶん初めてだ。彼女は傑や硝子にすら、もっと怒っていい、言いたいことは言わないとだめだ、なんて説教を受けるほど自己を主張しない性格だから、とうぜんながら、当たり前のように、貸したものの行方を問いただすことも今まで一度もしなかった。
「ああ…そのノート、俺の部屋にあるんだけど」
「今すぐじゃなくてもいいです、あの、明日にでも」
「いや、明日だと絶対に忘れるから取りに行く。一緒に来て」
連れていく必要もないのに、急いでないのでと繰り返す彼女を無視して、細い手首を無遠慮につかんだ。何も言わないまま引っ張って歩き出す。自己を主張しない彼女は、そうすれば口を閉じてだまってついてくることを知っていた。
男子寮は静まり返っていて、ふたり分の靴音が廊下の隅にまで反響してよく聞き取ることができた。ごつごつと乱暴な足音と、こつこつと少し小刻みで、小さな軽い音。歩調が合わなかったのかもしれない、心地いい音だと考えていると、彼女の少し荒い息が後ろから聞こえていることに気がついて、歩くの早かった?と問うた。大丈夫です、と彼女は笑って、返事をした。
角部屋がいいのだと入学当初に駄々をこねたおかげで、部屋は廊下の突き当たりにある。しかし入学から幾日も経たないうちに、日光がよくあたる窓の早朝の光をあまりにも眩しく感じて、遮光カーテンを取りつけてしまった。そして、それを見つけた傑にはそんなことをするなら部屋を交換してくれ、宝の持ち腐れ、無駄、などと散々に文句をつけられることとなった。
やがて双方がなにも話さないまま、廊下の突き当たりにある自室へとたどり着いた。昨日、一昨日、その前の日に帰宅したときと同じように、いつも通りに、制服のポケットからストラップもカバーもつけていない鍵を取り出して鍵穴に差し込む、くるりと鍵をまわすと、がちゃんと音が響いた。冬の季節は、屋内といえども廊下の温度は外と変わらないほどに冷え込んでいた。馴れない男子寮を見回して縮こまる彼女を見下ろしてドアを開きながら、寒いから入れよ、と入室を促した。
「風邪ひくと明日の任務で困るだろ」
「そう…ですよね。ありがとうございます」
思いのほか素直に部屋に足を踏み入れた彼女は、小さな声でぎこちなく、おじゃまします、と言った。先程よりももっと小さくなった背中が、あまりにも頼りなく感じた。脱いだ靴を隣に並べると、彼女の靴の小ささを目の当たりにすることとなり、それをこわいとすら思った。さっきつかんだ手首はあざになってやしないか、呼び止めるためにたたいた肩は、ちょっかいをかけたいがために摘まんだ頬は。今までの所業がひどいことのように思えて、おそろしかった。
探すから座って待ってろ、と、体格に合わせて購入した大きなベッドの端に座らせて、教科書やプリントや資料、報告書が山積みとなった机や棚を目的のものを探して漁る。あまりにも不要なものが多くて、そろそろ片付けなければならないだろう。ここでもない、そこでもないと山を崩しながらノートを探していると、彼女はまた眉を下げて、あの、と言葉を発した。
「五条くん、あの、無さそうならいいです。本当に急いでないので」
「何でだよ、復習かなんかに使うんだろ。返すからそこで待ってろよ」
「いえ、その、違います。夏油くんに貸してほしいって頼まれたんです。この間の授業を任務で休んだからって」
「……」
夏油くんに。気が合うのだか合わないのだかわからない、糸目の親友の名前を耳にしたとたんに、ノートを探す手は動くことをやめてしまった。知らぬうちに腕は下がっていて呼吸は深くなっていた、こんなに息を吸って吐いても肺が痛くて苦しいと、身体が訴えていた。そうして、震える手のひらを見てようやく、どうやら自分は怒っているらしいと気がついた。
彼女は優しい。底抜けに優しいから、今の今まで、この瞬間まで、なんでも許容してくれる彼女だった。それを壊されてしまったのだと思ってしまった。自分だけに向けられていると思っていた彼女の優しさが、他人に向けての優しさのせいで塗りつぶされてしまった。ひどい、あんまりだ、俺じゃない誰かを尊重するのか。心の奥底まで重く、痛々しく、黒々しく押し潰されてしまったせいで、言葉は何も出てこなかった。
数瞬そうして机や棚の崩した山を眺めていると、背後からおずおずとした声で、五条くん、と呼ばれてはっとした。心配もしているのだろうし、困惑しているようにも見える顔をしていた。彼女の目は泣きそうな色をしているわけではなくて、それだけに安堵して肺にたまった息を吐き出した。横目でちらりと彼女に視線を移すと、彼女は腰をおろしていたベッドから立ち上がるところだった。
「五条くん、ノートは明日の任務が終わってからでいいです、今日は」
「いや、返すから。はい」
早口でまくしたてて、部屋を飛び出していこうとする彼女に伸ばした手は、いつの間にか目的のノートをつかんでいた。彼女は差しだす手の勢いに驚いたように肩を跳ねさせて、けれど律儀に、ありがとう、と言ってノートを受け取った。お礼を言うべきはこちらの方であるべきなのに。

お願い、と言えば彼女が断れなくなることを知っていた。離反した末にどこかに行ってしまった糸目の親友も、硝子も、きっと知っていた。未提出の課題を写させてほしいと頼むことも、ひとりになりたくない夜に隣にいてほしいとせがむことも、同級生のなかではどいつもこいつもが彼女へ頼むことにしていた。懇願の言葉を吐くだけで、彼女はだれにでも束縛されてしまうのだった。
彼女の頼りないまでに細い、棒のような腕を拘束して、小さな肩をつかんで、腰を抱いて、そばにいてほしいとお願いをする。泣きそうなふりをして、細めた目をうっすらと開いて、それだけで彼女も私も悲しいとでもいうように眉をよせる。嬉しいときは一緒に笑って、悲しいときは一緒に泣いて、彼女はいつも、隣にいる人間の感情に簡単に左右されて表情を豊かに変えていた。五条くん、大丈夫ですから、泣かないで。彼女のちんまりとした身長に合わせて限界まで屈めた腰が苦しくても、小さな手で髪を撫でられながら耳元で優しくささやく声が、その空気が、はかなさが、どうしたって心地よく感じて好きだと思った。反面、彼女の無防備さを疎ましく思う気持ちも、わずかながらにあった。ずいぶんと前にした告白を忘れているのではないかと疑うほど、自然に、硝子や後輩と同じような枠組みに当てはめて、名前も知らないどこかの誰かと同列に並べて、彼女の偽善からの優しさを与えられているような気がした。そうして彼女はいつも、知らぬ輩にも、仲のいい同級生にも、ほとんど話したことのない後輩にも、分け隔てなく、とうぜんのことだと言うように、優しく接した。それが胸の奥よりもっともっと深いところを、痛々しく怪我をしたところをえぐりとっていくようで、苦しかった。そう思ったら最後、うすっぺらい彼女の背中を抱きしめる腕には痛いほどの力が入って、ぎゅうと音が聞こえそうなほどに力をこめていた。苦しさに息を止めた彼女をのぞきこんで、彼女の顔の真横で口を開いた。
「お前はいつも、どうして優しくしてくれるの。どうしてそんなに無償の優しさをふりまけるの」
「…それ、は、あの。どういうことですか」
「俺はお前のことが好きだから、接したいし優しくもできる、お前だけな。でもお前はそうじゃないだろ。お前の優しいはどれもこれも偽善だから、いつなんどきでも、誰にでもふりまけるの?」
抱きしめたまま、ねえ、とのぞきこんだ彼女の顔は痛々しく、そしておそろしいものでも見たかのようにひきつっていた。こわがられているのだと気がついた。それなのに、いつも微笑んでばかりの彼女だってそんな顔もするのだと思えば愛しくもなった。ひきつった顔でこちらを見上げる彼女の口が少しだけ震えて、小さな声に鼓膜を揺らされた。彼女の半分泣いているような声は、耳に心地よく音が残った。
「わ、私は、みんなのことが好きです。硝子ちゃんも後輩も先生も、分かり合えなくたって夏油くんも、五条くんのこともです。それは、いけないことですか」
偽善者の彼女らしい回答だ。模範解答をなぞるように、彼女はあまりにも偽善に生きてきた人間だった。いけないことではないだろう、きっと自分のように、どこかの誰かのように、それに救われる人間もいるはずだ。それなのに彼女の言葉を心底否定したいと思うのは、ずっと前にした告白の本当の返事のようだと感じて、少しだけ疎ましく思ったからだ。彼女の偽善から生まれる優しさを好きになったことを心底後悔した。嫌いにもなれないのに、好きにすらならなければよかったと思った。彼女を突き放してしまいたかった。彼女と同じ好きだったらこんなに苦しくならなかった。もしくは、彼女の好きが己と同じものなら。そんな事を思っていても、彼女が五条悟という個人をそういう意味で好きになることはきっとないのだと、なんとなく気づいていた。
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