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短い話

「三ちゃん、私、今日は友達と帰るわ」
放課後になっても騒がしく人の集まる教室。その隅で机に座っていた三橋の背後に声がかかる。「んあ、」と食べかけのパンをかじったまま振り向いて声をたどるといつも帰り際には「三ちゃん、はやく帰ろ。今日はどこに寄っていく?」などと言ってうろうろと人のまわりをついてくる女子生徒がすでに鞄を手にもって出入口の前に立っていた。
「なんだよ、用事か」
「友達と帰るのよ。たまには私だって女の子とかわいいカフェに寄り道したいの」
「じょしかいってやつか。理子には似合わねー響きしてる」
「まあ失礼ね」
ふん、とそっぽを向かれて、赤坂には内心「なんて女心のわからないひと」などと思われていることなど三橋には知りようもない。彼女はむすりとした顔のまま、パンをかじる三橋の横顔をじっとにらみつけるが、ふっとため息を吐き「もういいわ、三ちゃんなんて知らない。行こう山田さん」と赤坂の後ろをいつのまにかもじもじとおろおろとしていた背の低い女子生徒の腕をとった。とったところでしかし、後ろから懲りない「…そいつ友達?」という三橋の声がかかる。
「なによ。なんか文句でも?」
「べつにねーけど、そんな地味なやつクラスにいたっけと思って」
「……三ちゃん!失礼だわ!本当に失礼!さっきは我慢したけど三ちゃんってどうして女の子にそういうことが平気で言えるの!」
彼女の激昂はもっともであるが、怒鳴りつけたところではたしてそれが三橋の心に響くかはまた別の話。彼は食べ終わったパンの袋をねじねじとねじって手元で遊んで「そんなこと言っても知らんもんは知らん」などとまた反省のかけらもないことを平気な顔をして言う。「んで、なに。お前そいつと仲よかった?」しかし彼の疑問ももっともと言えばそう言えないこともなかった。
「今日仲良くなったの。私知らなかったけど山田さんてかわいいのよ。見たことある、山田さんの顔」
「ねえな。だいいち、その前髪じゃ見えるもんも見えん」
「そうね、それはそうだわ。ねえ山田さん、前髪あげてもいい?」
「…ぇ、ぇぇ…あの…それはちょっと…」
突然に話題を振られておろおろとうろたえる彼女、山田はこの話題には入れまいと自ら空気に徹していたのにとんだ仕打ちを受けて涙目で両手をふわふわと振る。残念ながらその抵抗の涙も彼女の前髪に隠れて見えないが。
「山田さん、三ちゃんなんかにこんな勝手に言われ放題でいいの?やり返しましょう!」
俄然やる気ですといわんばかりに拳を握りこむ赤坂に山田はさらにここから走って逃げ出したい気持ちでいっぱいになるのだった。「ご勘弁を…」なんてほんの小さな声で訴えてもいまの赤坂には到底聞こえるはずも気づいてもらえるはずもない。彼女の訴えはしかし、赤坂にも三橋にも響かなくとも普段は良心の彼には心底助けを求める声に聞こえたのかもしれない、所用で教室を離れていた伊藤がまさに慌てた様子で教室に駆け込んでくる。
「おいおいどうした、なんかもめてるのか?」
「伊藤ちゃん!いいところに!」
正しくはいいところに生け贄に来た、であるがこの伊藤という男はどういう理由であれ女子に助けを求められるととにかくどうにもこうにも首を突っ込まずにはいられない男だった。だから「なに?どうかしたか?」と聞かれれば赤坂も追い風といわんばかりに「ねえ伊藤ちゃんも山田さんの素顔みたいわよね!」と叫ばずにはいられない。
「えっと…ああ。山田さんか。たしかにいつも前髪で隠れてるから俺も気になってた」
「えっ…ええ~…」
山田の力の抜けきったええ~も当然のことである、彼の伊藤くんはたしかに良心の人ではあるが、しかし空気の読めない男であった。しかも流されやすいものだから、気になるだろうと言われれば気になりますと返す。「ひどい伊藤くん…味方になってくれると思ったのに」と山田は内心めそめそ泣きながらひどいひどいと繰り返すものの、これも当然ながら伊藤に届くことはない。そうして誰も、赤坂と伊藤と山田の目的を忘れた押し問答を横から眺めていることにいい加減飽きてきただけに収まらず、その短気を遺憾なく発揮してだんだんとイライラをつもらせる三橋に気づくこともない。彼は自分の存在を忘れられることがとにかく気に入らないのだからなおさら、つもるイライラは増すばかりである。
「…おい」
「ねえ山田さん!伊藤ちゃんがこう言うのよ、伊藤ちゃんが!大丈夫よ、山田さんかわいいもの!」
「そんな…お世辞を…」
「気になるわよね伊藤ちゃん!」
「お…おう…気になる…」
「おいお前ら」
加えて三橋の沸点はぬるま湯程度に低いものだからすぐに手なり足なり出るものが出る。しかしどんなものにも嵐の前の静けさという事象が存在するように彼もまたしずかに、しかし地を這うよりももっと低い、とてつもなく低い声で「いい加減にしろや」とぼそりと声を落とした。その地獄もかくやというような恐ろしい声は山田だけが拾ったのだが、それすらも後の祭りと言わんばかりに彼の相貌はまさに鬼神のようだと彼女は青い顔で思った。そうして彼女が顔色を変えたのと同時に、三橋はやんやとさわぐ赤坂とそれに押されてひきつる顔の伊藤を押し退けて、ぐわしと山田の肩を渾身の力で引っ付かんだのである。「ひえっ!ごめんなさい!」と彼女が脈絡なくとりあえず謝るのも当然のことだった。
「さ…三ちゃん?」
「三橋?」
「お前ら…いい加減にしろ。ごちゃごちゃうるせえ。顔を見せるとか見せんとか前髪あげろあげんとか、しらねー!そんなにかわいいもんなら勿体ぶらずにみせやがれ!」
三橋の我慢はとうに限界を超えていた、むしろ彼にしては待った方であると言っても大袈裟にはならないほど。その沸点をゆうに超えた怒りは当初の目的を忘れてさわぐ赤坂ではなく、騒ぎの原因とも根っことも言える彼女自身にむけられることになった。そして、「ひええやめてくださいい」となさけない声をあげる山田の前髪を怒りのわりには優しい手つきでぐっとあげるのだった。情けも容赦もなく。
「……」
沈黙。三橋は山田の前髪をあげたまま、目を点にしてじっとその相貌を目に焼き付けるようにして眺めた。静かだった、異様なほどに。その異変にはしばらくして赤坂も伊藤も気がつき、「三ちゃん?」「三橋?」と怒りに触れぬようにと気遣わしげに声をかけた。
「あの…?」
とうとう山田自身が到底おそろしくて我慢なりませんというように怯えながら三橋を呼ぶとようやく彼は「…あ」となさけない声で意識を取り戻す。その呆然とした顔のままゆっくりと山田の前髪から手を離して。
「…あの」
「…!?!?みみみみつはしくん!?」
「三ちゃん!?」
「三橋!?」
山田の両手を渾身の優しい力できゅっとにぎったのだった。あまりにも突然すぎるうえに予想の斜め上を駆け抜けていく展開に山田は狼狽えた。叫んだ。そしてぱっと三橋を見上げると先程の鬼神のような怒りはどこへ放ったのか問いたくなるほど、優しくて柔らかい笑みをうかべていたのであった。彼の機嫌の振り幅に山田はもちろん、赤坂も伊藤もついていくことができない。各々が情報をどうにかつなげて結論を出す前に、三橋はさらにうやうやしく山田の手をとったまま片ひざをつきしゃがみこんだ。
「えっえっ三橋くんなにして」
「あの~、山田さん?山田なにちゃんていうのかな? この三橋に教えてくれるととっても嬉しいんだけど~…」
頬を染めて恥ずかしげにそう言う彼は、いまだに握ったままの山田の白い柔らかい手をすりすりしている。そうして、赤坂も伊藤も悟った。分かりやすいにもほどがある三橋の態度も、顔も、声色もすべてがその答えであった。
「三ちゃん…そんなことしても今日は私と山田さん、二人でカフェに行くの。三ちゃんは連れていかないからね」
だがしかし、それはそれ。これはこれ。赤坂理子の決意は固いのである。
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