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短い話

耳元にそそがれる呼吸の重さと熱と荒らさを鮮明に感じた。それから「俺のこと裏切るのか」と吐きだされた声。ぼうっとした頭がそれらをゆっくりと処理していくと、ようやくすべての言葉の意味をかみ砕いて理解した末にはっと顔をあげた。彼は悲しげに眉を寄せていた、泣きそうに口の端をゆるめて「どうなんだよ、はやく答えろ」と震える声を落とした。
「銀八さん、ごめ…ごめんなさい。そんなことしません、うらぎるなんて」
整わない呼吸のまま彼の目すら見ることができずに言えば、首筋に触れた唇からは冷たい無言だけが返ってきた。そのままなにも言わない唇が私の肌に痛々しくあとを残す感覚こそ彼の返事であるような気がして、おそろしい気持ちになる。もういちど「ごめんなさい」と自然に言葉がのどの奥から苦しげに発せられる。かすれた小さな声がぎんぱちさん、ごめんなさい、と同じ音をくりかえした。そうすると、首元を這っていた唇がすこしずつ動きを鈍らせて、耳にたどり着くころにはとうとうぴたりと動かなくなった。視界をかすめるやわらかい髪がゆれると、耳にくっついた唇がゆるく開かれる。
「さっきから謝ってばっかりだな。他の男を受け入れておいてそれだけか」
「…え、そんな、ごめんなさい」
「ほら、またそうやって簡単に謝る」
開いた唇から私の非をせめる言葉が鼓膜に届いた。その言葉は重くて手におえない罪悪感をずしりと心に落として私を彼に謝ることしかできなくさせた。私の口からこぼれでるごめんなさいが良心をつついて涙をあふれさせている。天井の模様が歪んで見えた。にじんだままの景色にいつの間にかせまっていた唇が見えて目元へそっとくちづけると、彼は「お前が誰のものかちゃんと言って。どこにも行かないって言って」と感情の読みとれない声色で言った。
「わ、私、銀八さんのものです。どこにも、他のだれのところにもいかないから」
言葉と同時に、限界まであふれた涙がぼろりと落ちる。そうしてはっきりと見えた彼の口元はすこしだけ歪んでいるように見えた。
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