短い話
玄関前の灯りはもうずっと前から明滅を繰り返すようなさまで、じりじりと音をたてながら足元の影を照らしては消える。大家には何度となくあの蛍光灯はそろそろ寿命だと伝えてきたのに未だに取り替えられていないところを見ると、どうやら設備費用節約の憂き目にあったらしいのだと察せられた。けれども彼女がそれを察したからといって、不平不満を飲みこむようなことはしないのであるが。次にばったりと大家に出くわしたあかつきにはどう小言をくれてやろうかなどと考えて、ため息をはいた。
家に入るには、まず玄関扉の鍵を開けなければならない。点いたり消えたりするような灯りのもとでは、かばんの底にいい加減に突っ込んだ鍵を探すことも困難なことに思える。それから面倒くさい。
実用性を重視して購入した財布や飲みかけの紅茶が入ったままのペットボトルを押し退けながら、役にたたない灯りのせいで不可視になったかばんの底をあれでもないこれでもないとかき回す。ようやく鍵を探り当てた頃には、任務で酷使させられた足が鈍く痛みだしていた。
鍵穴にストラップのぶら下がった鍵を差しこんで、くるりと回した。そうするといつも通りの解錠の音がほの暗い廊下に響いて、音の大きさに少しだけ肩がびくりと揺れる。夜の静かな空気の中では解錠の音すらやたらと耳に付くような気がする。
「ただいま…」
誰もいない部屋にただいまと声をかけるのは半分、癖のようなものになっていた。もう半分は彼女がひとり暮らしを始めた当初に、防犯上そうするとよいと聞いたからである。家入がオートロックじゃない場所に住むならそうしろと言っていたと彼女の記憶のどこかが主張している。本当のところは十年も前のことだから定かではないが。
靴を脱いで床板を踏みしめる。ひんやりとして、足の疲労に心地がいい。暑さがだんだんと遠のいて真夏の気温を懐かしく感じるような季節になってからはこのまま床に寝ころんで朝まで眠りにつきたいと思うこともしばしばあるのだが、そんなことをしたことはまだ一度もなかった。これからあるのかもしれないなどとは考える。
ひとり暮らしだというのに、廊下とリビングを隔てる扉はいつも律儀に閉めている。開けっ放しのままだとなんだか落ち着かなくて、中途半端に開いているさまなどを見るとわざわざ閉めにいくこともあった。朝、家を出るときにきちんと閉めた扉を開けて肩にかけた荷物を放り出したところでようやくひと心地ついたような気がした。帰宅してからニ度めのため息がこぼれ落ちた。
「おかえり、遅かったね」
ため息をついたのと、聞き慣れた声が鼓膜の奥までを震わせたのはほとんど同時であった。どっと心臓が重く鳴って、吐いた息は肺にもどる。喉の奥からひゅうと音が漏れ出たような気がした。
グレーのソファの上に不遜なほど厚かましい態度で足を組んで、白い髪の男が座っている。嫉妬するほどに長い足。目隠しもサングラスもしていない青い瞳は真っ暗な部屋の中でぼんやりと浮いて、それだけがどこか現実からかけ離れたところにあるように見えた。いつもは隠されているそれが無防備にさらされていると、ついまじまじと眺めてしまう癖が彼女にはあった。
「少し手間取ってしまって。五条さんこそこんな時間に用事でも、」
用事でもありましたか。と聞こうとした彼女の言葉は、途中でぶつりと途切れた。家主が出ている間にいつの間にか勝手知ったる様子で部屋に上がりこんで、電気をつけるでもなくただ不遜な態度でソファを占領しながら彼女を待ち構えていた五条悟へと視線を向けた。五条はおかえりと言葉を発してから微動だにしていなかった。
なんだかとても重要なことを見逃しているような気がした。視線の先の五条は暗闇の中で彼女をじっと見つめている。
「どうかした?」
「え、いえ。あの…」
「疲れたならはやく座りなよ。そんなところに突っ立ってないで」
まるで仕留めようとしているかと思うほど重苦しい視線は息苦しさを感じさせるのに、口調だけはいつも通りの軽さのせいで違和感を拭えない。そうして、座れと言うわりにはふたりがけのソファの真ん中を陣どって動こうとしない五条に、じゃあ退いてくださいと言うと五条はにっこりといつもと同じ軽薄な笑みを浮かべるだけだった。どうしてこんな時間に仲のいい先輩後輩という間柄とはいえ、他人の家に無断で上がり込むような真似ができるのであろうか。疑問はやはりその一点に尽きる。まずはあるかもわからない用事を聞き出すしかないと思い、口を開きかけたところで彼女ははたと気づいた。
五条悟は家主の居ぬ間に勝手に部屋に上がり込んでいたのである。勝手に。外に出るために家主が鍵をかけて出ていった部屋に、どうやってか鍵を開けて、彼女のお気に入りのソファの上で待ち構えていた。どのような手段で鍵が開けられたのだか彼女にはこれっぽっちも、まったく、少しもわからない。そうなると、まさかあり得ないこととは思うが施錠を怠っていたのではないかなどと彼女は思った。
「五条さん、」
「ん?何?」
「私、玄関の施錠を忘れていたのでしょうか…あの、帰ってきたら五条さんが、居たので。もしかしてと思って」
「…いや?そんなことはないよ。鍵はちゃんと閉まっていたから安心して」
「そう…なんですか?」
ならばどうして、合鍵も持っていないような人間が部屋の中に入ることができたのか。五条悟だからなのか。彼女の疑問は何も解決しなかったし、それどころか謎を増やすだけにおわったのだった。しかしそれを追及する気力はない。任務帰りで疲労していること、これ以上に深読みしたり知り得ることは都合が悪いと叫ぶ本能が聞き出そうとする気力を根こそぎさらって奪っていく。
そういうことなら深くは知らないでおこうと身を引くような潔さは彼女のいいところだと、最強の呪術師も言っていたのだ。
・
好奇心は猫を殺す。強すぎる好奇心は時に身を滅ぼすこともある。最強たる五条には関係のない無縁の話だが、線引きをすることは子猫か子犬にも見える小動物じみた彼女に備わった大事な本能のうちのひとつである。知りすぎないこと。諦めること。踏み入れないこと。身を引くこと。自身を抑制できて初めて彼女のような小動物は、この善人ばかりでない人間が跳梁跋扈する呪術師界隈において生きていくことができる。大袈裟ではなく、五条はそう思っているのだ。
高専時代からのかわいい後輩はこの都会においてオートロックでもないセキュリティの欠落したマンションに居を構えていた。無防備だ、と五条は思った。最強たる所以は手先の器用さからきているわけではないが、当の最強にしてみればただ鍵のかかっただけの部屋に家主の居ぬ間に上がり込むことにたいした障壁も見あたらないのだった。
上がりこんで特別に何をするわけでも、したいわけでもなかった。ただ、かわいい後輩がどこぞの馬の骨にうつつを抜かしていないかと部屋のそこかしこを物色しただけである。やはり最強たる所以には関係ないのだが、やたらと勘のいい男であるので初めて入った彼女の部屋からさえも男の影を察知する程度のことはできないはずもなかった。
当の彼女は家主不在で五条が待機していたことに多大な疑問を浮かべていたようだが、大人しく身を引いたのはやはり誉めるべきだろう。彼女が線引きのできる人間でよかった。彼女の知りたかったであろう疑問がすべて解決したあかつきには、五条は彼女をどこかへ掻っ拐って、例えば五条の自宅の地下なんかに縛りつけていたかもしれないのである。まだそうしないのは彼女が五条の気持ちを知らないからであるので、今後のことはまだ五条にもわからないが。
いっそのこと、すべて教えてやってもいい。施錠した部屋に上がり込む方法も五条の重苦しい気持ちも。そうしたらかわいい後輩としてではなく好いた女の子として閉じ込めてやるのに。
家に入るには、まず玄関扉の鍵を開けなければならない。点いたり消えたりするような灯りのもとでは、かばんの底にいい加減に突っ込んだ鍵を探すことも困難なことに思える。それから面倒くさい。
実用性を重視して購入した財布や飲みかけの紅茶が入ったままのペットボトルを押し退けながら、役にたたない灯りのせいで不可視になったかばんの底をあれでもないこれでもないとかき回す。ようやく鍵を探り当てた頃には、任務で酷使させられた足が鈍く痛みだしていた。
鍵穴にストラップのぶら下がった鍵を差しこんで、くるりと回した。そうするといつも通りの解錠の音がほの暗い廊下に響いて、音の大きさに少しだけ肩がびくりと揺れる。夜の静かな空気の中では解錠の音すらやたらと耳に付くような気がする。
「ただいま…」
誰もいない部屋にただいまと声をかけるのは半分、癖のようなものになっていた。もう半分は彼女がひとり暮らしを始めた当初に、防犯上そうするとよいと聞いたからである。家入がオートロックじゃない場所に住むならそうしろと言っていたと彼女の記憶のどこかが主張している。本当のところは十年も前のことだから定かではないが。
靴を脱いで床板を踏みしめる。ひんやりとして、足の疲労に心地がいい。暑さがだんだんと遠のいて真夏の気温を懐かしく感じるような季節になってからはこのまま床に寝ころんで朝まで眠りにつきたいと思うこともしばしばあるのだが、そんなことをしたことはまだ一度もなかった。これからあるのかもしれないなどとは考える。
ひとり暮らしだというのに、廊下とリビングを隔てる扉はいつも律儀に閉めている。開けっ放しのままだとなんだか落ち着かなくて、中途半端に開いているさまなどを見るとわざわざ閉めにいくこともあった。朝、家を出るときにきちんと閉めた扉を開けて肩にかけた荷物を放り出したところでようやくひと心地ついたような気がした。帰宅してからニ度めのため息がこぼれ落ちた。
「おかえり、遅かったね」
ため息をついたのと、聞き慣れた声が鼓膜の奥までを震わせたのはほとんど同時であった。どっと心臓が重く鳴って、吐いた息は肺にもどる。喉の奥からひゅうと音が漏れ出たような気がした。
グレーのソファの上に不遜なほど厚かましい態度で足を組んで、白い髪の男が座っている。嫉妬するほどに長い足。目隠しもサングラスもしていない青い瞳は真っ暗な部屋の中でぼんやりと浮いて、それだけがどこか現実からかけ離れたところにあるように見えた。いつもは隠されているそれが無防備にさらされていると、ついまじまじと眺めてしまう癖が彼女にはあった。
「少し手間取ってしまって。五条さんこそこんな時間に用事でも、」
用事でもありましたか。と聞こうとした彼女の言葉は、途中でぶつりと途切れた。家主が出ている間にいつの間にか勝手知ったる様子で部屋に上がりこんで、電気をつけるでもなくただ不遜な態度でソファを占領しながら彼女を待ち構えていた五条悟へと視線を向けた。五条はおかえりと言葉を発してから微動だにしていなかった。
なんだかとても重要なことを見逃しているような気がした。視線の先の五条は暗闇の中で彼女をじっと見つめている。
「どうかした?」
「え、いえ。あの…」
「疲れたならはやく座りなよ。そんなところに突っ立ってないで」
まるで仕留めようとしているかと思うほど重苦しい視線は息苦しさを感じさせるのに、口調だけはいつも通りの軽さのせいで違和感を拭えない。そうして、座れと言うわりにはふたりがけのソファの真ん中を陣どって動こうとしない五条に、じゃあ退いてくださいと言うと五条はにっこりといつもと同じ軽薄な笑みを浮かべるだけだった。どうしてこんな時間に仲のいい先輩後輩という間柄とはいえ、他人の家に無断で上がり込むような真似ができるのであろうか。疑問はやはりその一点に尽きる。まずはあるかもわからない用事を聞き出すしかないと思い、口を開きかけたところで彼女ははたと気づいた。
五条悟は家主の居ぬ間に勝手に部屋に上がり込んでいたのである。勝手に。外に出るために家主が鍵をかけて出ていった部屋に、どうやってか鍵を開けて、彼女のお気に入りのソファの上で待ち構えていた。どのような手段で鍵が開けられたのだか彼女にはこれっぽっちも、まったく、少しもわからない。そうなると、まさかあり得ないこととは思うが施錠を怠っていたのではないかなどと彼女は思った。
「五条さん、」
「ん?何?」
「私、玄関の施錠を忘れていたのでしょうか…あの、帰ってきたら五条さんが、居たので。もしかしてと思って」
「…いや?そんなことはないよ。鍵はちゃんと閉まっていたから安心して」
「そう…なんですか?」
ならばどうして、合鍵も持っていないような人間が部屋の中に入ることができたのか。五条悟だからなのか。彼女の疑問は何も解決しなかったし、それどころか謎を増やすだけにおわったのだった。しかしそれを追及する気力はない。任務帰りで疲労していること、これ以上に深読みしたり知り得ることは都合が悪いと叫ぶ本能が聞き出そうとする気力を根こそぎさらって奪っていく。
そういうことなら深くは知らないでおこうと身を引くような潔さは彼女のいいところだと、最強の呪術師も言っていたのだ。
・
好奇心は猫を殺す。強すぎる好奇心は時に身を滅ぼすこともある。最強たる五条には関係のない無縁の話だが、線引きをすることは子猫か子犬にも見える小動物じみた彼女に備わった大事な本能のうちのひとつである。知りすぎないこと。諦めること。踏み入れないこと。身を引くこと。自身を抑制できて初めて彼女のような小動物は、この善人ばかりでない人間が跳梁跋扈する呪術師界隈において生きていくことができる。大袈裟ではなく、五条はそう思っているのだ。
高専時代からのかわいい後輩はこの都会においてオートロックでもないセキュリティの欠落したマンションに居を構えていた。無防備だ、と五条は思った。最強たる所以は手先の器用さからきているわけではないが、当の最強にしてみればただ鍵のかかっただけの部屋に家主の居ぬ間に上がり込むことにたいした障壁も見あたらないのだった。
上がりこんで特別に何をするわけでも、したいわけでもなかった。ただ、かわいい後輩がどこぞの馬の骨にうつつを抜かしていないかと部屋のそこかしこを物色しただけである。やはり最強たる所以には関係ないのだが、やたらと勘のいい男であるので初めて入った彼女の部屋からさえも男の影を察知する程度のことはできないはずもなかった。
当の彼女は家主不在で五条が待機していたことに多大な疑問を浮かべていたようだが、大人しく身を引いたのはやはり誉めるべきだろう。彼女が線引きのできる人間でよかった。彼女の知りたかったであろう疑問がすべて解決したあかつきには、五条は彼女をどこかへ掻っ拐って、例えば五条の自宅の地下なんかに縛りつけていたかもしれないのである。まだそうしないのは彼女が五条の気持ちを知らないからであるので、今後のことはまだ五条にもわからないが。
いっそのこと、すべて教えてやってもいい。施錠した部屋に上がり込む方法も五条の重苦しい気持ちも。そうしたらかわいい後輩としてではなく好いた女の子として閉じ込めてやるのに。
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