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短い話

知らなくてもいいことというのは、探さなくても世の中のどこかに常に転がっていて棒に出くわす犬のように不意に接触する時がある。伏黒はそういう理不尽があることを知っている。
不意打ちで遭遇した知らなくてもいいことがだれかのための嘘や隠し事であれば申し訳ないと思いながら墓の中まで持っていくのに、転がり落ちてきたのはかつて同級生だった女の子の骨だった。小指の骨だった。それを落とした張本人はサングラスの向こうの青い目を細めて、いったいどこに感情を落としてきたのかと思うほど冷たい声色で「ああ、ごめんね。うっかりしてた。入れっぱなしにしてたよ」と軽々しく言葉を発するから伏黒も「そうですか」としか返事をすることもできなかった。
廊下の硬い床の上に転がる小指の骨はあまりにも小さい。五条はその関節ひとつぶんの小指をそっと拾ってごみを払うように長い指先で撫でつけた。そうしてまた無造作にポケットにしまいこむのかと思ったが、どこからか三十路の男の所持品とは思えないかわいらしいレースのハンカチを取り出してきて小指の骨を丁寧にくるんでから懐に納めた。そのハンカチが同級生だった彼女のものであったことを伏黒は知らない。
伏黒は一連の流れをずっと身動きもしないで眺めていた。見ていたかったわけではない。恐ろしいものを見てしまったと眉を寄せて、今にも逃げ出したいと足が地面を蹴ろうとしている。知りたくもなかったことを脳内でどうにもこうにも処理しかねていた。
かつて同級生だった女の子が、いつから一回りも歳の離れた五条とふたりだけの時間を共有するような仲になっていたのかなど知らない。ノートを返すため部屋を尋ねた時に見た机へ置いたままのペアのマグカップも五条だけちがう電話の着信音も色違いのボールペンも、すべて五条のための特別だったと知ったのは彼女がいなくなった後のことである。恋人ともう会えないなんてさすがの僕でも泣くよ、と言葉通りに青い目からぼろぼろと落ちる水滴を拭うこともしなかった五条が自らの口で言わなければ知らないままであったのかもしれないと考える。伏黒は彼女が殉職するまで何も知らなかった。彼女も五条も関係のない他人には何も言わなかったからだ。
「五条先生、」
もうどこにも温度のない小指の骨を誰にも内緒で未練がましく持ち歩く担任の名前を呼んだ。呼んで、何を言おうとしたのだろうと悩む。何、と返事をする五条を見上げた。立ち去ろうとした五条を引き留めたくせに口を開くことも出来ずにいた。
こんなことをしても何にもならないのだと教えてやるべきだろうか。五条が丁寧に丁寧を重ねてしまいこんだ小指の骨には彼女の面影など紙一枚ほどの厚さもない。伏黒の知っているよく笑ってよく泣くような彼女はこんなに小さくて静かで冷えきった骨の残骸などではないのだ。
「五条先生、それ」
「うん、何?」
「それ…、」
死ぬというのは五条悟の隣にはいくらでも転がっている、これからもきっとあり続ける終わりの形のひとつである。懐に納めた骨に例えばかつて彼女が生きていた頃に手を繋いだ時の温度を感じても、もう意味などこれっぽっちもないことを五条だって知っているだろう。知っているはずだと伏黒は思っている。
それでも今すぐその未練がましい行いをやめてほしいなどとは到底言えるはずもなく、伏黒はふたたび閉口した。顔を伏せて廊下の隅にたまるほこりをじっと見つめて五条から目をそらした。
「恵、」
伏黒の持たらした沈黙を崩しにかかったのは伏黒本人ではなく五条のほうだった。いまだ廊下の隅を意味もなく凝視したままの伏黒へ、冷たくもなんともない温度の声がかかる。いつもと同じような温度だった。だというのに伏黒は一向に五条を見ることが出来なかった。あの小指の骨はもう伏黒の目の届かないところにあるのに恐ろしいと思う気持ちが何処へも消えてくれなかった。
恵、もうすぐ授業が始まるよ。教師らしくそう言った五条は今度こそ引き留める間もなく、くるりと伏黒へ背を向けて長い足を存分に踏みしめて階段へ続く廊下を進んでいく。伏黒の口から五条を呼び止める言葉は、欠片たりとも出てこなかった。

「五条が"あの子の小指の骨を落としたところを見られた"だのなんだのと言っていたが。大丈夫だったか」
家入から反転術式による治療を受けた腕の怪我は跡形もなく、あっけなく完治した。もともとかすり傷程度だったそれのために医務室へ呼ばれたことをたいそういぶかしんでいたので、伏黒は家入からその話題を提供されたことでとたんに腑に落ちた心地になった。
数日前に目撃した、未練がましくも死んだ恋人の小指の骨を持ち歩く担任の奇行は、伏黒の心臓の底をずっと冷々とさせている。今もまだサングラスの向こうにあった青い目と感情を落っことしてきたような声色を忘れることは出来ない。小指の骨の白さや小ささを、それを包み込んだレースのハンカチを忘れることも出来ない。
「あの…あれは、どうして。五条先生はどうしてあいつの指の骨なんか」
どうして骨なんか持っているのか。最後までを言葉にすることは今の伏黒には出来なかった。聞きたくないような気もしている。聞いてはいけないような気もしている。それでもこの場から逃げ出したいとは思えなかった。長話になりそうだからと手渡されたペットボトルのお茶を握りしめる手には力が籠っている。伏黒の目は家入を見据えていた。
家入は湯気のたつ真っ黒なコーヒーがなみなみ入ったマグカップを持ち上げる。一口だけ喉奥へと流して、ふうとため息をつくとマグカップはふたたび机へと置かれた。頬杖をついて、はたしてどこから話したものかと机に無造作に積まれた書類を意味もなく眺めているようだった。
「…五条はね、あの子が初恋だったんだよ」
「……、はあ」
「初恋で、きっと目が眩んでた。五条はあの子は死なないと思ってた。付き合うことになったって聞いた時に最強の隣は荷が重いぞっておどかしたら、守るから大丈夫って五条が言ったんだ。大丈夫なわけないだろ。呪術師やってたら、遅かれ早かれだいたいのやつは任務の中で死んでいくよ」
「三十路間近で初恋…」
「そう。笑えるよね」
言いながら本当にふっとかすかに笑った家入の指先が、マグカップの取っ手をするりと撫でる。指先は取っ手から少しずつマグカップの胴へと到達して、切り揃えられた爪がコツンと音を鳴らした。まだ湯気のたつコーヒーが振動で波紋を描く様を伏黒もじっと眺めていた。
「それが…どうして小指なんですか。あいつの骨を全部かき集めて隠し持っていたって五条先生ならおかしくない」
「…ここからは憶測になるけど。たぶん五条にとってあの子の小指じゃないといけなかったのは、指切りをしたからだと思う」
初めて彼女が任務をしくじった夜。誰か見知らぬ他人が己の過失で傷つくさまを見た彼女はあまりにも死を近く感じて泣き崩れた、らしい。わんわんと声をあげて泣きながらぼろぼろと落ちる涙を拭おうともしない彼女に約束をしようと言ったのは五条だった。
約束しよう、怖くなったら僕に言えばいい、危ないときも。僕が居れば何も怖くないよ、守ってあげるから、君は死なないよ。
彼女の怪我の手当てをしていた家入は、最強が放った一言一句を覚えている。あまりにも重苦しくて恐ろしいと家入は心の底から恐怖した。そうしてふたりが約束だと言いながら指切りをするのを、横から黙って見ていた。五条は彼女を守る約束をして、彼女は五条より先に死なない約束をした。
「約束って呪いみたいだよね、死んだのにまだ縛りつけられてる。怖いったらないよ。心当たりといえばこれくらい。違ったら悪いね」
「はあ…」
「知らなければよかったと思っただろう」
「まあ、そうですね」
「憶測として話したけど、五条の本当に思うところは私もよくわからない。他に理由があるのかもしれない。でも何にしても、五条からあの子の指を取り上げる日はきっと来ないよ」
もしも五条があの子の指の骨を手放す時が来るとしたら、それは世界が終わるかもしれない時で、五条が死んだあの子に会う時だ。
ほんの一口だけ飲まれたままとっくに湯気が消えさったぬるいコーヒーの入ったマグカップを両手で包み込んで、家入は伏黒を見ないままに言った。伏黒もそうかもしれないと思った。
いつか最強が終焉を迎えたとき、きっとあの小指の骨は最強にとって必要なものでは無くなるのかもしれない。けれども、それまでは何人たりともあの子に触れることは許されない。最強の終焉を誰も望まないことや、おそらくはそんなものが訪れないことを家入も伏黒も言わなくても知っていた。
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